2014年7月28日

我々が言語に住まう者である限りにおいて,精神分析は我々各人各自にかかわっている.



日本における精神分析,特に Lacan 派精神分析の現状,ないし,その受容状況に関する御意見をいただきました.ありがとうございます.

精神分析も Freud Lacan も,誰かが独占することはできません.Lacan に関してはまだ著作権は切れていませんが,精神分析も Freud Lacan も,語の字義どおりの意味において public domain です.なぜなら,精神分析はあらゆる人間に,あらゆる言語存在にかかわることだからです.つまり,我々が言語に住まう者である限りにおいて,我々各人各自に精神分析はかかわっています.

ですから,精神分析に関して,Freud に関して,Lacan に関しては,誰もが発言する権利を持っています.そして,その際,誰もが真理を言っています.ただし,すべてではなく,かつ,仮象を通して.つまり,真理そのものを言っているわけではないですから,或る意味で,誰もが嘘を言い,まちがったことを言っています.

したがって,誰かが精神分析,Freud, Lacan に関して何かを言っており,それが的外れなことであったとしても,咎めることはできませんし,その必要もありません.

以前にも引用した福音書の箇所を再度引用するなら:

ヨハネはイェスに言った:先生,あなたの名において悪霊を追い払っている者を見たので,やめさせようとしました,彼は我々に従っていませんから.だが,イェスは言った:彼を妨げるな.そも,わたしの名において奇跡を行いながら,その直後にわたしを悪く言う者は無い.我々に反対していない者は,我々の味方である.

以上のようなイェスの言葉にさらに付け加えても良いでしょう:たとえ精神分析,Freud, Lacan について悪しざまに言うものがいたとしても,言わせておきなさい.それによって彼らは,彼ら自身の存在の真理の言葉に耳をふさごうとしていることをみづから証言しているだけであるから.

精神分析について言われたこと,書かれたことを通して精神分析を学ぶことと,みづから精神分析を経験することとの間には,確かにひとつのギャップがあります.要するに,精神分析を単なる一般論として捉えるか,それとも,まさに自分自身に,わたし自身にかかわることとして捉えるかの差です.

そして,精神分析について真剣に学ぶならば,単なる一般論として済ますわけにはいかないはずです.あるいは,自分自身にかかわる問いを真剣に問おうとしている人だけが,本当に精神分析に関心を向ける,とも言うことができると思います.

Heidegger を読むことは容易なことではありませんが,『存在と時間』を是非読んでみてください.

Heidegger は確かに大学の哲学教授でしたが,「ただの」大学教授ではありませんでした.Heidegger の著作はどれを取っても,彼が存在に関する問いをまさに彼自身,自分自身に関わる問いとして捉えていたことを示しています.だからこそ,Heidegger のテクストは感動的なのです.

Heidegger の教えは,昔,実存主義とか実存哲学と呼ばれていました.それらの表現は今やほとんど死語になっており,あるいは軽蔑的なニュアンスをこめてしか使われないかもしれません.

しかし,今や「実存」という語はひとつの本質的 key word として復活させられるべきです.Heidegger の為したことは,まさに実存分析です.そして,実存分析においても精神分析においても,かかわっているのは我々ひとりひとりの自分自身,自己自身の存在です.そのことを忘れないでください.

(7月27日)
 

0 件のコメント:

コメントを投稿