2014年7月14日

7月13日の twitter : Hysterica, borderline について補足.大学の言説について.

7月13日の twitter が Facebook に自動転送されなかったので,ここでまとめて表示します:
 

Hysterica の言説について一点付け加えると,分析家の言説において真理の座に置かれた知 S2 は,hysterica の言説においては,右下の生産の座に置かれます.分析家の言説における S2 は,主体の存在の真理の座に仮定された知,Lacan の用語で sujet supposé savoir 知の仮定的主体を表しています.主体の存在の真理の座において語る何かの知,つまり,無意識の知,それが分析家の言説における S2 です.それに対して hysterica の言説ではこの無意識の知は,生産の座に置かれています.生産の座は,実は,閉出 forclusion の座でもあります.つまり,hysterica の言説においては,無意識の知は言説の構造から閉出されてしまっており,無意識の知として機能できません.

それが,borderline の本質です.いわゆる境界例においては,症状は形成されず,それとともに,無意識も機能し得ないのです.いわゆる境界例を治療するためには,分析家の言説 への導入が必要不可欠です.ところが,いわゆる境界例となると尻込みしてしまう者が少なくありません.自分が分析の経験をみずからしたことがなければ,いたしかたないことですが.

さて,Hysterica の言説から,大学の言説へ話題を移しましょう.Lacan は,支配者の言説は古代奴隷制社会における支配構造を表しており,現代社会の支配構造を表しているのは大学の言説だと言っています.また別のところで,旧ソ連(Lacan の時代にはまだ現存していました)の支配構造は大学の言説だとも Lacan は言っています.

大学の言説は男の言説だ,と予備的に言いました.

大学 université という語は,ラテン語の universitas に由来します.そしてこの語は「全体」「すべて」 totalité を意義します.ソ連は全体主義でした.今の中国もその典型例です.それらの国は非民主的と言われています.では民主主義は?

民主主義は démocratie です.démo- はギリシャ語の δῆμος に由来します.δῆμος は貴族に対して平民であり,本来は被支配者です.つまり,支配者の言説の右上の座,奴隷の座に位置する S2 です.民主主義とは,この被支配者たる平民 S2 が支配者となっていることであり,ですから,実は,民主主義も全体主義と同じく,大学の言説,全体性の言説なのです.

議会制民主主義は,多数派を形成することによって運営されます.多数は「皆」です.そこから排除される者を必ず伴います.誰もが子供時代に学校などでこう言われた経験がある だろうと思います:「皆」はこうしているのだから,「皆」はこう考えているのだから,あなたもそうしなさい.これが民主主義の暴力です.民主主義は「皆」を形成するために必ず排除される者を作り上げます.それは,ユダヤ人であったり,黒人であったり,歴史上さまざまです.そして,男は 「皆」を形成するために女性を排除します.そのように排除された者を表すのが,大学の言説における右上の他者の座に位置する a です.

男の性別公式における「すべての x について Φ(x) である」は,男がひとつの集合,ひとつの「すべて」,ひとつの「皆」を形成することを意義しています.それが,大学の言説において支配者の座に位置する S2, universitas です.

真理の座に隠れている S1 は,Freud の『トーテムとタブー』の神話における殺された Urvater 原父であり,フランス革命で言えば,Louis XVI です.男の性別公式における「Φ(x) ではない x が解脱実存する」は,そのような父を意義しています.

今や,資本の言説と科学の言説の破綻が明らかになり,あらたな時代への再生がまさに始まろうとしています.そして,今まで少なくともそれよりましな政治体制は無いと言われてきた民主主義も,実は排除の言説で あることが明らかになりました.移民,外国人,少数者などを排除することは,「皆」を形成する民主主義の本質に属していることなのです.民主主義とも決別するときが近づいています.

ではどのような政治体制を選ぶべきか?政治学者でも社会学者でもないわたしには答えることはできません.しかし,理論的には,それは分析家の言説により形式化されるものになるのではないか,と考えることができます.自有 Ereignis として実存する a / φ barré が支配者の座につく政治体制.それは,nationalisme も差別も無く,ひとりひとりが己れの自有・自由において生きて行くことのできる社会であるはずです.それは démocratie ではなく,言うなれば idiocratie です.どのようにすればそのような politeia が作り出されるのか,わたしにはわかりません.しかし,皆さんも考えてみてください.あるいは,John Lenon と共に imagine してみてください.

大学の言説における右下の座の $ はどう解釈されるのかという御質問をいただきました.この $ は,hysterica の言説において能動者の座にあった désir insatisfait 不満足な欲望としての hysterica の欲望と解釈されると思います.

Lacan は強迫神経症者においては,欲望は désir impossible 不可能な欲望だ,と言っています.大学の言説において閉出の座にある $ が,この不可能な欲望に相当すると思います.

社会主義体制では,欲望を持つことはできないとされていました.物質的配分は「皆」が決めたのだから,「誰にも不満は無い」わけです.

勿論,実際にはそうは行かず,ソ連と東欧諸国は崩壊しました.中国もいずれその道をたどるでしょうが,その崩壊の際の影響ははるかに大きいでしょう.世界経済にとって壊滅的かもしれません.

isonomia という概念について貴重な御示唆をいただきました.Wiki でちょっと調べてみましたが,古代ギリシャで既に唱えられていた「法のもとの平等」だそうです.はたして,真なる平等を実現し得るのは如何なる politeia か?それが問題です.

資本の言説 discours du capital について御質問をいただきました.Lacan もさほど詳しく論じてはいない主題ですから,lacaniens の間でもさまざまな解釈が為されています.わたしは,discours du capitaliste 資本家の言説は支配者の言説,それに対して,discours du capital 資本の言説は,症状の言説,超自我の言説としての分析家の言説の構造のものだと解釈しています.資本の言説において能動者・支配者の座に位置する a は,資本家の言説において生産の座に蓄積された剰余価値です.剰余価値は,排斥されたものの回帰としての分析家の言説の構造において,資本として能動者の座に出現します.そして,資本は,資本の自己増殖として現象す る事態が実現されるよう,奴隷の座に位置する $ へ命令します:増やせ,増殖させよ,と.$ は,悦することを断念した資本家の欲望です.資本の言説は,残酷無慈悲な超自我としての a が「悦せよ」と命令する症状の言説としての分析家の言説です.

今や,超自我としての資本の命令は,それに従うことが事実上不可能であることが明らかになっ てきています.利子率がほとんどゼロであることがその証拠です.これについては,水野和夫氏の『資本主義の終焉と歴史の危機』が非常に示唆に富んでいます.一読をお勧めします.このような著作がマルクス主義者によって書かれなかったのが残念ですが.



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