m3h876sag84 さんからの質問:精神分析家である小笠原晋也さんは2002年に人を殺しましたが、ヴィクトール・タウスクという分析家は自分を殺したそうです。タウスクの場合は、自分を殺してしまったため、それ以後は精神分析をしなかったようですね。タウスクについてどう思いますか?
Victor Tausk については,わたしは研修医のころ Schizophrenie における Beeinflussungsapparat 影響装置という彼の論文を読みましたが,そのほか彼については何も知りませんでした.先ほど Internet で少し調べてみましたが,彼が自殺したことも覚えていませんでした.彼は第一次世界大戦中,軍医として従軍しており,大戦終了まら間もない1919年に42歳で自殺しています.戦場での体験が何か影響していたのでしょうか?
精神医学であれ精神分析であれ,もともと何らかの精神病理をかかえている者が興味を持ちやすい分野です.わたし自身にも当然あてはまります.だからこそみづから精神分析を受けたいと思ったのです.
Paris ではこんな話も聞きました.つまり,小学校や中学校の教師のなかに小児性欲者がいることが避けがたいように,精神科医や分析家のなかに精神病者がいることも避けがたい.
当然,望ましいことではありませんが,完全に防止することは困難です.
話は若干脱線しますが,カトリック司祭のなかにも同性愛者,小児性欲者がいることは事実です.それがゆえの事件が起きており,教皇は被害者に謝罪しています.神学校では,神学生が同性愛者でないかどうか非常に厳しいチェックが行われているそうです.
Tausk の自殺の決定的な理由は不明です.唯一ではなく,複合的でしょう.Tausk 同様,わたしも首を吊りましたが,Tausk のように銃は手元にありませんでした.そして,神は,わたしが真実を知り,生きたまま罪を贖うよう,お定めになりました.神に感謝しています.
φ barré と Lacan の $ との関連に関する御質問ですが,わたしの推測では,$ という記号(学素)を作り出すきっかけを Lacan に与えたのは,Heidegger の「バツじるしで抹消された存在 Sein 」だったでしょう.時間的には2年ほどの間がありますが.
Heidegger の「抹消された存在」は,当然,le réel 実在の位のものです.そして,まだ完全に検証していませんが,1958年の書と1962年の書においては Lacan は $ を実在の位のもの,つまり,φ barré に相当するものとして用いています.
それに対して,1969年に発表された「四つの言説」においては,$ はそのものとしては ex-sistence としての主体を表す学素ではなくなりました.その切りかわりがいつ為されたのかは,まだつきとめていません.
ともあれ,四つの言説において
$ が ex-sistence そのものの学素ではなくなったので,Lacan のものではない φ barré という学素を新たに工夫する必要があったのです.
Lacan が「精神分析の主体」「無意識の主体」と言うとき,それは ex-sistence としての主体,抹消された存在としての主体,つまり,実在の位に位置づけられる主体です.
ただし,主体の分裂を Lacan は問題にします.主体の分裂は,a / φ barré の構造においては,a と φ barré との分裂と規定されます.つまり,己れを隠している主体としての φ barré と,それを代表する signifiant である
a との間の分裂です.
この問題は,aliénation とかかわっています.aliénation は「狂気」「精神病」と訳され得る単語ですが,マルクス主義の文脈では「疎外」と訳されます.そして,語源的には alienus に由来しており,「他の所有物になる」という意味をも持っています.
主体の存在論的構造であり,症状の構造である
a / φ barré は,主体の存在の真理である φ barré が,主体自身ではない仮象の signifiant a により代理・代表される,言い換えると, φ barré が
a に同一化するということにおいて「他化」の構造であり,aliénation の構造です.
精神分析は,当然,aliénation を解消することを目的にします.それは,構造から
a を分離し,滅却し,それによって,構造の能動者の座に位置づけられるものを穴にまで,つまり無にまで純化することによって為されます.
それは,神学用語では「贖罪」ないし「復活」と呼ばれる「救済」に相当することです.そこまで到達すれば,聖人です.それは,主体が単独で為し得ることではなく,他 A との関係のなかで成起することです.
父の名について少し考えてみましょう.昨日,父の名の概念は単一ではないと指摘しました.まず,S1 としての父の名のことを考えてみましょう.S1 が能動者の座に位置する支配者の言説の構造は,オィディプス複合を形式化していると解釈することができます.いわゆる前オィディプス期,前性器期において部分客体
a が位置していた座を,父の名 S1 が占領し,a は閉出の座である生産の座へ排斥されます.
a が再び能動者の座へ回帰すると,排斥されたものの回帰として,症状の言説としての分析家の言説が成立します.
しかし,支配者の言説がオィディプス複合の構造であるとすると,そこから大学の言説へ移ることが男の性別を決定し,hysterica の言説へ写ることが女の性別を決定する,と考えることができます.
分析家の言説において右上の他者の座に位置する
$ に関する御質問をいただきました.ありがとうございます.この
$ は,主体の存在の真理としての φ barré ではありません.φ barré は,S1, S2, $, a の四項とは異なり,四つの言説のいずれにおいても左下の真理の座に位置します.というより,真理の座そのものの学素です.それに対して
$ は,四つの言説においては,versagter Wunsch, 満足を断念した欲望を表します.
(2014年7月24日)
(2014年7月24日)
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