2014年7月14日

7月14日 twitter 補足 : 解脱と救済でなければ,精神分析に何の意義があるだろう?


「なぜ日本では精神分析が広まらないのか」と「なぜ日本ではカトリック(つまりキリスト教)が広まらないのか」のふたつの問いは,結局,同じひとつの問いに帰着するように思われます.それらの問いの答えは,「日本人は神を畏れないから」です.始めからそうだったわけではないでしょう.1867年の最初の開国のとき,ないし,1945年の敗戦による第二の開国のとき以後のことでしょう. 

日本で精神分析は精神医療の一手段と見なされてきました.フランスではそうではありません.日本の大学人は,Lacan を構造主義のひとりと見なし,構造主義の流行が過ぎれば,もう見向きもしなくなりました.しかし,フランスではそうではありません. 

フランスと日本と,何が根本的に違うのでしょうか? フランス人は,Lacan の spiritualité に対する感受性を持っていた(少なくとも過去には)と思います.日本で spiritualité を語ろうとすれば,哲学の用語ではなく,宗教の用語を用いざるをえません.

そして,実際,精神分析において,仏教の言う解脱,キリスト教の言う救済がかかわっていないとしたら,現代社会において,精神分析にいったい何の意義があるでしょう?


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