James Tissot (1836-1902) : The Pharisee and the Publican (Le pharisien et le publicain)
ふたつの「あわれむ」— ἐλεέω と ἱλάσκομαι — について
2022年10月23日(C 年,年間 第 30 主日)の ミサ説教のなかで,幸田 和生
司教さまが,この待降節 第 1 主日(11月27日)から使われるようになる 新たなミサ式文のなかの文言について論じています — 特に,「主よ,あわれみたまえ」(Κύριε, ἐλέησον) が「主よ,いつくしみを」になることについて.それは,10月09日の「パパさまとともに読む聖書」でも話題にしたことです.幸田 司教さまも,やはり,このことを強調している と思われます:信仰において,神のまえで 身を低めて,神のあわれみを請う 態度が わたしたちには 必要である.
しかし,幸田 司教さまの その説教は,「あわれむ」について,わたしが今まで気づいていなかったことをも 教えてくださいました.それは,このことです:その日の福音「ファリサイ人と徴税人の譬え」(Lc 18,09-14) のなかで 徴税人が言う「神よ,罪人なる我れを あわれみたまえ」(聖書協会共同訳:「神様,罪人の私を憐れんでください」)[ Ὁ θεός, ἱλάσθητί μοι τῷ
ἁμαρτωλῷ ] における「あわれむ」は ἱλάσκομαι (hilaskomai) である.
それに対して,10月09日(年間 第 28 主日)の 福音「イェスは 10 人の レプラ患者を 癒す」(Lc 17,11-19) のなかで,彼らが イェスに向かって「イェス様,先生,私たちを憐れんでください」[ Ἰησοῦ ἐπιστάτα, ἐλέησον ἡμᾶς ] と叫ぶとき,その「あわれむ」は,「主よ,あわれみたまえ」におけるのと同じく,ἐλεέω (eleeo) です.
邦訳では 同じ「あわれむ」ですが,ギリシャ語原文では 異なる語が用いられています.それぞれの語は,Liddell & Scott では こう説明されています:
ἐλεέω : have pity on[…に対して あわれみの気持ちを持つ],show mercy to[...に対して あわれみを 示す].
ἱλάσκομαι :
1) appease[(怒っている神を)なだめる,鎮める],conciliate[(怒っている人間を)なだめる,慰撫する,懐柔する],expiate[(罪を)贖う,償う];
2) to be merciful, gracious[あわれみ深い,なさけ深い,恵み豊かな].
それぞれの語の ヘブライ語との関連を見てみると,Septuaginta において ἐλεέω と訳されている ヘブライ語の動詞は,最も しばしば,חָנַן (hanan) です.その意味は「…に対して 好意的である,恵み豊かである」および「あわれむ」です.
また,動詞 ἐλεέω の 語源である 名詞 ἔλεος (eleos)[あわれみ]は,Septuaginta において,名詞 חֶסֶד (hesed) の訳語として 用いられています;そのヘブライ語の意味は「好意,善意,親切,あわれみ,いつくしみ」であり,特に,そこには「契約にもとづく〈神と人間との間の,あるいは,神の人間に対する〉誠実な愛,あるいは,愛の誠実さ」が 含意されています.
他方,Septuaginta において ἱλάσκομαι
と訳されている ヘブライ語の動詞は,ふたつ あります: 1) כָּפַר (kapar) :[罪を]覆う(断罪せず,赦す);贖う;[被害者を,あるいは,人間が犯した罪に怒っている神を]なだめる,慰める,鎮める.
2) סָלַח (salah) :[罪を,罪人を]赦す.
以上から,このことに気づくことができます:日本語では ともに「あわれむ」と訳されていても,
ἐλεέω は,確かに「あわれむ,あわれみ深い,なさけ深い,恵み豊かである,いつくしみ深い,愛する」である;しかし,他方,
ἱλάσκομαι は,単に「あわれみ深い」だけでなく,「罪を赦す」をも含意している.
そして,実際,Lc 18,13 において,徴税人は,「神よ,罪人なる我れを あわれみたまえ」と言って,祈っています.もし ギリシャ語 Ὁ θεός, ἱλάσθητί μοι τῷ ἁμαρτωλῷ を ヘブライ語に逆翻訳して,そこから あらためて翻訳するなら,こうなるでしょう:「神よ,罪人なる我れを 赦したまえ」.
ですから,それは,まさに,和解の秘跡を授けていただく際に唱えるに 最もふさわしい 祈りです.