2014年7月30日

二階堂奥歯の自殺; Aimée の自罰; 境界例の自傷; ギャンブラーの自己去勢; 結合の機能としての父の名について



二階堂奥歯というペンネームの女性について教えていただきました.ありがとうございます.



彼女は26歳で投身自殺しました.出版社で編集者として活躍していました.みづから命を断つ前の約二年間,彼女は日記を blog に発表していました.それは,彼女の友人たちによって一冊の本にまとめられました:『八本脚の蝶』.絶版にはなっていないので,注文しました.読んでみます.

Aimée について引き続き御質問をいただいています.彼女が妄想症状のただなかにいたとき,その妄想について誰かに語る機会は無かったと思います.1930年前後のことですから,フランスでも今のように分析家がどこにでもいたわけではありません.自分の家族にも知人にも話してはいません.

彼女は,迫害妄想についてではなく,érotomanie と呼ばれ得る妄想の内容を文章にして書きつけてはいました.その対象は,Prince of Wales, 英国の皇太子です.「彼はわたしを愛している」という妄想的確信を Aimée は持っていました.

Aimée においては迫害妄想と érotomanie とが言うなれば二本立てで,表裏のように対になって現れていることが特徴的です.これは,臨床的には珍しいことですが,構造としては,症状の言説としての分析家の言説によって形式化されます.迫害する他者も愛する他者も a / φ barré として形式化されます.迫害の攻撃も,愛の命令も,同じ本能請求の現象です.それは Freud の用語では超自我の現象であり,したがって Lacan Aimée を超自我精神病の一例として提示しています.

Aimée における「自罰」の「罰」は,司法権力の処罰や身近な誰かの非難によって起こるものではありません.それは,自我理想 a が死の本能 φ barré により攻撃され,破壊された,という事態です.それによって症状の構造の解体が起こり,妄想症状は治療的介入無しに消退します.

いわゆる境界例において起こるような自傷行動は,存在の真理のことばが分析家の言説において文字どおりにことばとして聴き取られることが起き得ないときに,実存構造がみづからに無理やり signifiant をきざみつけようとする行動です.

純粋徴示素としての a は,切れめ,裂口です.自傷行動における切創は,まさにそのような切れめです.そのようなことばにならないことばを,分析家の言説において本当にことばとして語ることができるようにする必要があります.

それに対して,投身のような決定的な自殺行為においては,実存構造は端的に消滅してしまい,存在の真理が仮象によって代理されるという構造そのものが無くなってしまいます.

ここに,ですから,Lacan が分離や主体滅却と呼ぶ事態,分析の終わりを規定する事態は,如何にして実存構造そのものの消滅無しに成起し得るのかという問いが措定されます.a / φ barré の構造そのものは,a が純化され,無化され,切れめ,穴そのものに還元されても,保たれていなければなりません.さもなくば,復活も成起し得ません.a / φ barré の構造そのものを保つものとしての「父の名」の機能が想定され得ます.

そして,そのような構造の支えとしての父の名が閉出されてしまっているときには,投身のような決定的な自殺行為が起こり得る,と考えられます.

男の存在論的構造 Φ / φ barré において、死の本能が Φ を直接に分離・破壊することはないのかという御質問をいただきました.難しい問題です.

Φ / φ barré の構造が脅かされそうになると,いわゆる去勢不安が生じます.それは危険信号の役をし,危険から遠ざけさせます.それは言うなれば狭義の去勢不安です.

広義においては,不安はすべて去勢不安です.それは,a との遭遇において男女を問わず起こり得ます.そして,女性においては a がより分離しやすいので,不安は起こりやすくなります.

男性において Φ / φ barré の構造が直接に破壊される事態として,どのようなものが考えられるでしょう?もしかしたら,それは賭博かもしれません.

かつて話を聞いたことのある或る病的賭博の男性は,会社で責任ある地位についていました.当時その会社では給料を現金で支給していました.彼は全従業員の給料を銀行からひとりで運んでくる役をまかされていました.あるとき彼は1000万円弱の金を銀行から引き出し,すぐに会社に戻らねばならないのに,彼の足はフラフラと競輪場に向かいました.彼は,あり金すべてをひとりの選手に賭けました.ゴールはその選手ともうひとりとどちらが一着か,微妙な写真判定になりました.その結果が出るまでの数分間は,彼自身の言葉によると,彼の人生のうちで最も充実した瞬間だったそうです.負ければすべてを失うというあの緊張感,あの不安感,それが最高の悦なのです.結果は,残念ながら彼の負けでした.彼は,自分の妻に電話し,もう家に戻れないと告げましたが,彼のギャンブルの性癖を知っている妻は彼を必死に説得して何とか帰宅させました.さもなければ彼は自殺していたでしょう.

男たちの大部分は神に従順であろうとはしませんが,男が自分の身を他 A の手に委ねることがあります.ギャンブルはその一例だと思います.負ければすべてを失うというような大博打に女性が手を出すという話はあまり聞いたことがありません.男でも珍しいことでしょうが,ときどき見かけます.男の存在論的構造において Φ が直接に破壊される例として,ふとそのような病的賭博の例が思い浮かびました.

今日はこのへんにしておきましょう.「八本脚の蝶」については後日お話したいと思います.

父の名の機能について御質問をいただきました.ありがとうございます.御指摘のとおり,今日言及した父の名の機能は「徴象機能の支え」と Lacan が呼んだものです.Ex-sistence としての実在を仮象 a が代理するという存在論的構造をそのようなものとして可能にするもの,それを Lacan は「父の名」という用語によって差し徴しています.そのような機能は,1950年代に Lacan point de capiton と呼んだものから,1970年代のボロメオ結びの RSI の三つの輪を結ぶ第四の輪としての父の名に至るまで,たどることができます.そのような結合の機能としての「父の名」が閉出されていると,自殺が起こり得ますし,あるいは,実存構造の急激な解体が急性精神病症状によって代補されることも起こり得ます.






2014年7月29日

律法と超自我について; 割礼について; 分析の言説とカトリックとの親和性について; 症例 Aimée について.



いくつか御質問,御意見をいただきました.ありがとうございます.

S1 の概念についてですが,重要なことを言うのを忘れていました.それは,Lacan 自身が S1 という用語を必ずしも一義的には使っていない,ということです.四つの言説において S1 signifiant maître 支配者徴示素と定義され,四つの座のいずれかに位置する項として提示されています.ところが,Lacan 自身が,左上の agent 能動者の座のことを S1 と呼ぶこともあるのです.ですから文脈を良く読まねばなりません

律法 loi の概念は,ユダヤ教的な律法と Kant 的な道徳律とを包摂します.その本質は,いずれにせよ,定言命令 impératif catégorique です.定言命令とは,「...の場合は...せよ」という条件付きの命令ではなく,全く無条件的に「...せよ」と命ずるものです.

そのような定言命令を Freud は超自我に帰しました.1923年に公式化された第二トピックにおいて超自我と呼ばれるものは,症状の言説としての分析家の言説における a です.それは定言命令の声としての a です.その声は「悦せよ!」 Jouis ! と命令します.

昨日の「父の名」の話と関連を持たせるなら,「悦せよ!」という命令の声 a は,存在の真理の座に位置する不可能な名 YHWH としての父の名を代理するものです.律法の定言命令は,神の意志そのものです.

割礼という徴(しるし)も,不可能な名 YHWH を代理する signifiant a と解釈されます.割礼は,神への従順の徴です.つまり,ギリシャ語大文字で書かれる signifiant phallique Φ, 男の性別を規定する signifiant Φ の閉出の象徴です.

割礼を受けたユダヤ人男性がすべて実際に神に本当に従順なわけでは勿論ありませんが,割礼の宗教的な意義は,神との関係を妨げる signifiant Φ の棄却です.それによって,症状の言説としての分析家の言説が可能になります.そこにおいて剰余悦 a も症状として実現されます.

キリスト教圏におけるユダヤ人に対する差別は,男が女を差別する構造と同じものに根ざしています.そのような差別を動機づけているものは,去勢不安です.別の表現で言えば,「男性的抗議」です.

問題は,キリスト教圏において排除されたユダヤ人たちがイスラエルという国家を,民主主義国家を作ると,そこにおいて支配的である構造は,大学の言説の構造であり,そこにおいてはユダヤ人たちがアラブ人たちを排除してしまう,ということです.

この三週間で千人以上のパレスチナのアラブ人たちが殺され,そのうち子供の犠牲者は二百数十人にのぼっています.あらためて彼らのために祈りましょう.ユダヤ人もアラブ人もキリスト教徒も,あらゆる者が原点に立ち返り,神への従順を取り戻すことができますように.

同じキリスト教圏でも,カトリック圏とプロテスタント圏では分析家の言説の優勢さが異なる,というのは「社会学的」な事実です.

1950年代までは,有効な精神医学的薬物療法が無かったので,USA においても精神分析は優勢でした.しかしそれは,当時の USA において精神医学界のなかで精神科医が出世しようと思うと精神分析家の資格認定を受けねばならない,というやはり「社会学的」な動機に基づいていました.精神医学的薬物療法が発達すると,USA では精神分析はすみやかに過去の遺物になりました.USA は基本的にプロテスタントの国です.カトリックは少数派です.

それに対して今,分析家の言説が優勢である国々,要するに Lacan の教えに準拠する精神分析が栄えている国々は,フランス語,スペイン語,イタリア語の国々であり,基本的にカトリック諸国です.

この「社会学的」な事実を説明することはできるでしょうか?誰も明確な答えを出してはいません.わたしの推測では,それは,神を畏れる度合いの差によるのではないかと思われます.

プロテスタントは非常に多様で,一概には言えません.Luther Calvin は同じではありません.Heidegger Luther を熱心に研究しました.わたしはプロテスタント神学をまだよく知りません.ですから,こう言っておきましょう:少なくともプロテスタントの一部は,神中心ではなく人間中心の宗教になっている.近代の人間中心主義に則ってキリスト教を「改革」したのがプロテスタントです.

それに対して,あいかわらず神中心を堅持しているのがカトリックです.あるいは,中世に堕落したカトリックですが,近世以降,プロテスタントに対抗するために,人間中心ではなく神中心の精神を復活させました.

人間中心か神中心かによって神を畏れる畏れ方に違いが出てくると思います.

プロテスタントの教義が厳しくないわけではありません.むしろ,カトリックより非常に厳格であるかもしれません.しかし,それは或る意味でユダヤ教的な律法主義への逆戻りでしかありません.ユダヤ教の律法主義は,イェスの時代,堕落して,神を畏れる気持ちを失い,形骸化していました.だからこそ,父なる神はイェスを世に使わしたのです.プロテスタントは,或る意味でイェスの時代のユダヤ教と同じ過ちに陥っています.戒律,律法を厳格に遵守しますが,神を畏れることを忘れています.

それに対してカトリックは,律法よりも神の愛を強調します.神は愛です.そして,神を愛することが重要です.そこには,神をうやまい,神を畏れる気持ちが伴います.

以上のような違いが,プロテスタント諸国では大学の言説の優位,カトリック諸国では分析家の言説の優位という違いを生んでいるのではないかと,わたしは推測しています.

神を畏れるところでは,律法を遵守することよりは,神の意志を直接知ろうとします.何を神は人間に請求しているのかを知るために神の声を聴き取ろうとします.それは,分析家の言説と同じ構造です.

さて,1932年の医学博士論文で Lacan が取り上げた症例 Aimée についてですが,Lacan は彼女を paranoïa と診断しています.つまり,妄想症状はあったが,Schizophrenie ではなかったのです.

Aimée は,妄想において彼女の迫害者である幾人かの人物のうち或る女優をナイフで襲撃しました.Aimée が自分の攻撃行為の意義を自罰と了悟したとき,彼女の妄想症状は消え去りました.その後の経過において,症状の再発はありませんでした.伝えられているエピソードによると,Sainte Anne 病院から退院した後,或る時期,Aimée Lacan の両親の家で住み込みの家政婦をしていたそうです.そこで Aimée とはちあわせた Lacan は非常にびっくりしたそうです.ともあれ,彼女は再び妄想症状を持つことはありませんでした.

Schizophrenie に比べると,純粋な paranoïa の症例ははるかに少ないです.しかし,Freud の症例「狼男」は,大人になってから,一時的に paranoïa 症状を呈したことがあります.このことについては別の機会に紹介しましょう.

「父の名の閉出」の概念も多義的です.或る意味で,症状の言説である分析家の言説においては父の名は閉出されています.父の名が閉出されていないと症状は出現しません.

症例 Aimée においても「父の名」は閉出されていました.だからこそ症状が出現しました.

そして,彼女の症状は,自我理想 Ich-Ideal を攻撃し破壊するという行為において,解体されました.そこが Lacan の注目したところです.

自我理想も,signifiant a の一形態です.死の本能,攻撃本能が仮象 a を破壊することによって aliénation の構造が解体され得る.このことが,後の Lacan の主体滅却 destitution subjective の概念の種となりました.

2014年7月28日

支配者徴示素 S1 としての父の名について; 存在の真理としての父の名について.



「父の名」について続けましょう.

前オィディプス期における前性器的部分本能の部分客体における満足を妨げるために介入するものとしての父の機能は,支配者の言説における支配者徴示素 signifiant maître S1 により形式化されます.それまで部分客体 a が占めていた能動者の座に「父の名」である S1 が支配者として即位します.

そして,S1 と如何なる関繋を持つかにより,男女の性別が決定されます.

男は,Freud が「トーテムとタブー」で提示した Urvater 原父の神話のとおり,父 S1 を支配者・能動者の座から退位させ,左下の真理の座,秘匿性としての真理の座,死である ex-sistence の座へ追いやります.そして,男たちは,ひとつの「すべて」,全体性 universitas としての S2 として,みづから支配者・能動者の座につきます.それが大学の言説と Lacan が呼ぶ構造です.

大学の言説における S2 は,男の性別の公式における「すべての x について Φ(x) である」に対応します.

では,存在の真理の座に置かれた「父の名」は?この父の名は,ユダヤ教の神 YHWH にまさに対応します.男の性別の公式における「Φ(x) ではない x ex-sister する」が,存在の真理の座に置かれた S1 に対応します.

しかし,存在の真理の座に置かれる父の名を,Lacan は,実在 le réel, ex-sistence, 抹消された存在そのものとも考えます.その場合,存在の真理そのものと見なされる「父の名」は,S1 という項により表されるのではなく,真理の座そのものであると言えます.

話がややもつれてしまいました.

ユダヤ教の神も,キリスト教の父なる神も,イスラム教の Allah も,実は同じひとつの神です.なぜなら,キリスト教もイスラム教もユダヤ教を母胎として誕生したものであり,三つの宗教はいずれも Abraham を信仰上の先祖としています.

神は,ユダヤ教において YHWH と表記される神ただひとりです.

ヒンズー教や日本神話の神々のことはひとまずおいておきましょう.

興味深いことに,ユダヤ教では紀元前二世紀ころまでには,神の名 YHWH をそのものとして口に出して呼ぶことが不可能になってしまいました.神を畏れるあまり,その名を直接呼ぶことがはばかられるようになり,ついには,YHWH と表記される神の名をどう読むのかもわからなくなってしまったのです.(ヘブライ語やアラブ語などのセム系の言語では,おもに子音で語を表記します.それをどう発音するかは,日本語において漢字をどう読むかが慣習的に決められているのと同様,多かれ少なかれ恣意的です).

しかし,YHWH という語が「存在」という語に関連していたらしいことは推測されています.旧約聖書「出エジプト記」で,YHWH はモーゼに「我れは『我れは存在する』である」と啓示します.

したがって,YHWH の名がもはや表言不可能になったということ,もはや不可能な名となっているということは,「存在という語は抹消されてしか書かれない」と Heidegger が言っていることと重なり合うのです.

このことは,むしろ分析家の言説において考える方が良いかもしれません.分析家の言説においては,父の名 S1 は右下の生産の座へ閉出されています.

ところで,Lacan によれば,閉出されたものは実在へ回帰します.

この命題も多義的に解釈されます.

ひとつには,「a は実在の位のものである」という Lacan の命題にしたがって,閉出された父の名は症状 a として能動者の座へ回帰する,と考えることができます.

しかし,他方,閉出された父の名は,ex-sistence として存在の真理の座へ回帰する,と考えることもできます.

話がこみいってしまいました.また明日,整理してみましょう.