Lacan は「無意識は前存在論的なものである」と言っている,との御指摘をいただきましたが,わたしには思い当たる箇所がありません.代わりに,わたしの頭に思い浮かんでくるのは,Séminaire XI (p.35) のこの命題です:「無意識の地位は,倫理的であり,存在事象的ではない」« le statut de l’inconscient est éthique, non point ontique ».
ここで Lacan が「無意識」と呼んでいるのは,抹消された存在 φ barré そのもののことです.φ barré は,抹消された存在そのものとして,当然,ひとつの存在事象ではありません.
倫理に関しては,Lacan は「精神分析の倫理は l'éthique du bien-dire である」と公式化しています.
bien-dire という表現をどう翻訳するかはさておき,とにかく,「言う」という行為がかかわっています.どのような「言う」か?それは,抹消された存在 φ barré を覆い隠すことなく,そのものとして ex-sister させ得るような「言う」です.この「言う」は,抹消された存在が己れを示すことができるようにする言うです.
つまり,精神分析の終わりにおいて達成されるであろう我々自身の実存構造においては,a は純粋徴示素へと純化されており,つまり,穴そのものになっており,φ barré をそのものとして実存構造において守り保つことが可能になっています.
そして,実存構造は言語の構造です.言語は存在の住まいです.
抹消された存在がそのものとして住まうことができる言語の構造としての実存構造において自有することの義務,それが bien-dire の倫理であり,精神分析の倫理です.
無意識の地位は倫理的で或ると Lacan が言うときの「倫理」は,そのようなものです.
御教示ありがとうございます.確かに,Séminaire XI p.31 に la béance de l’inconscient, nous pourrions la dire pré-ontologique とありますね.そして,p.32
の 1-2 行に ce n’est ni
être, ni non-être, c'est du non-réalisé とあります.それらの文章は,さきほどわたしが引用した le statut de l’inconscient est éthique, non point ontique と合わせて考えてみる必要があります.
Lacan がこの1964年1月29日の séminaire の冒頭で「存在論」を問題にしているのは,その一週間前の séminaire の最後に Jacques-Alain Miller が,当時まだ19歳だった Miller が「あなたの存在論はいかなるものですか」 Quelle est votre ontologie ? と質問したからです.その質問とそれに対する Lacan の答えの記録は残っていないようですが.
ここで「存在論」という用語にはこだわらないでおきましょう.重要なのは,むしろ「倫理」です.さきほど説明した意味での「精神分析の倫理」です.
「無意識」 l’inconscient という用語も,存在の真理の現象学的構造,つまり症状の構造
a / φ barré における
a のことである場合と,φ barré のことである場合があり,Lacan を読むときにはその都度,どちらを指しているのか注意深く識別しなくてはなりません.
さきほどの Lacan の表現のなかで現象学的に有意義なのは non-réalisé という語です.
現象学とは,「抹消された存在,そのものとしては常に己れを隠している存在が,にもかかわらず如何にして己れを顕すのか」を問うことです.ですから Heidegger は,「存在論は現象学としてしか可能ではない」と言っています.
この non-réalisé は,抹消された存在のことです.その存在が如何にして存在として己れを顕すか,それを問うのが Heidegger 的な意味での「存在論」です.
Lacan は Séminaire XI
p.31 で Miller に向かって,君が「存在論」という語をどういう意味で使っているのか知らないが,というような前置きをしています.そして,Lacan は,Miller がその時点で Heidegger を理解しているとは思っていないでしょう.
ですから,この pré-ontologique という表現には「存在論というような用語を振りかざす前に,よく思考しなくてはならないことがある.それをわたしは béance 裂口という用語で言おうとしているのだ」というような Lacan の考えが読み取れると思います.
わたしは Foucault は学生時代に『狂気の歴史』と『語と物』しか読んだことがないので,彼が parrhesia について思考していたということは初めて教えていただきました.ありがとうございます.
parrhesia は語源的には πᾶν と ῥῆσις から成るそうです.つまり,「すべてを言う」です.すなわち,Lacan が「真理をすべて言うことは不可能である」と言うときの「すべてを言う」です.この不可能を敢えて行おうとすることは,確かに,精神分析の倫理に適うことです.御指摘のとおり,parrhesia と bien-dire は関連しています.
いわゆる客体
a としての a は現象します.たとえば,乳房,糞便,まなざし,声という部分客体として.
それに対して,「そのものとしては決して実現されないもの」は,自己秘匿における存在,抹消された存在,ex-sistence としての
φ barré です.
RSI のボロメオ結びにおいて a が三つの輪の intersection を成す中央部に置かれているのは,a が R, S, I の三つに参与していること,つまり,影像でもあり,徴示素でもあり,物質でもある,ということを差し徴しています.a は「症状の構造」である「存在の真理の現象学的構造」
a / φ barré における現象の要素です.
Bonsoir à tous
! 今日は,大変ためになる御質問をいただき,それに答えているうちに時間がたつのも忘れてしまいました.また,御質問に答えるために,改めて「存在論的穴について」と題した短い文章を書きました.東京ラカン塾の site から download することができます.
続きはまた明日の晩にしましょう.御質問,御意見,メッセージ等,御遠慮なくお送りください.我々自身にかかわる真剣な問いは,いくら繰り返し問うても「くどい」とか「しつこい」ということはありません.徹底的に問うことが重要です.
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