2019年11月25日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (4)

La gravure de Gustave Doré pour les vers 1-3 du Chant XXXI du Paradis de la Divine comédie de Dante (1861-1868) : « En forme donc de rose blanche m'apparaissait la sainte milice que le Christ épousa dans son sang ».
Dante Alighieri の『神曲』の『天国』の 第 31 歌 の 1-3 行のために Gustave Doré が制作した版画 (1861-1868) :「そのとき,白い薔薇の形を成して,聖なる軍団 — 彼れらを キリストは 彼の血において 彼の妻とした — が,わたし[と Beatrice]の眼前に,現れてきた」.



2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール



フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (4)


日時 : 2019 年 11 月 29 日(金)19:30 - 21:00
場所:文京区民センター 2 階 C 会議室
参加費無料,事前申込不要

今回は,まず,Freud が Irma の注射の夢 の分析から引き出した命題 :「夢は 願望成就である」(der Traum ist eine Wunscherfüllung) の意義を再検討します.次いで,『夢解釈』第 IV 章(ドイツ語原文,英訳,邦訳のテクストを link 先から download することができます)で論ぜられている「願望が成就されない夢」のひとつ — smoked salmon の夢 — を取り上げます.その夢に,Lacan は,『治療の指針 と その力の原理[ La direction de la cure et les principes de son pouvoir ] (Ecrits, pp.585-645) のなかで 注目しています — hysterica における欲望不満足 (le désir insatisfait de l'hystérique) について論ずるために.それゆえ,その夢は,ラカン派分析家たちの間では有名な夢の一例です.

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Irma の注射の夢の最後に出現してくる trimethylamine の化学式の意義について

Freud が『夢解釈』の本論 — 第 I 章は先行研究の紹介と検討に当てられていおり,本論は第 II 章から始まる — の冒頭において提示した Irma の注射の夢 は,ある意味で,精神分析の alpha かつ omega です.その夢の中心 — それを Freud は「夢の臍」[ der Nabel der Traums ] と呼んでいます — を成すのは,大きく開かれた口の穴のイメージです.

その穴は,神による「無からの創造」(creatio ex nihilo)ἀρχή[源初]を成す穴 — そこから出発して創造が始まるところの無の穴 — です.その「無の穴」は,聖書 (Gen 01,02) においては「深淵」(תְּהוֹם [ tehom ], ἄβυσσος) と呼ばれています.それは,また,源初的な χάος [ chaos ] でもあり
ます  « χάος » ,「混沌」だけではなく,「口を開いた深淵」でもあります.

以上の意味において,大きく開いた Irma の口の穴は,精神分析の alpha です.

我々は,ἀρχή[源初]という語から,archéologique[源初論的]という形容詞を作ることができます.« archéologie » は,辞書においては「考古学」ですが,我々にとっては,それは「源初論」です.そこから出発して創造が始まるところの「無の穴」— 否定存在論的孔穴 — は,源初論的孔穴 [ le trou archéologique ] でもあります.それは,存在事象が位置づけられる時空間に対して「外」であり,解脱実存的 (ex-sistent) です.

« archéologique »[源初論的]の反意語は,« eschatologique »[終末論的]です.否定存在論的孔穴は,終末論的孔穴でもあります.

源初論的孔穴 — それが Platon の言う ἰδέα によって塞がれることによって,Heidegger の「存在の歴史」における「形而上学の歴史」の相 [ phase ] が始まります  は,今や,終末論的孔穴(それは,死の穴です)として,まさに来たらんとしている:源初論的なものの 終末論的なものとしての 到来の切迫 — それが,Heidegger の時間論です.

Irma の注射の夢において,大きく開いた口の穴として描かれている否定存在論的孔穴 — それは,源初論的孔穴としては「無の穴」であり,終末論的孔穴としては「死の穴」です.さらに,否定存在論的孔穴は「罪の穴」でもあります.

そのことは,実は,Irma の口のなかに見出される鼻甲介状の造形 — それは,しかも,膿の痂皮によって覆われています — によって示唆されています.というのも,明らかに,この「鼻甲介」は,Freud の当時の「親友」である耳鼻科医 Wilhelm Fließ (1858-1928) による Emma Eckstein (1865-1924) に対する医療過誤を表しているからです.

Wilhelm Fließ は,Berlin 在住の耳鼻咽喉科医でした.鼻粘膜と性機能との間に関連性があるという学説(今から見れば,まったく空想的ないし妄想的な説)を発表し,鼻粘膜に局所的にコカインを塗布したり,外科的処置を施すことによって,ヒステリー症状を治療し得る,と主張していました

Freud は,1887年に初めて Fließ に出会い,彼の nasale Reflexneurose[鼻反射神経症]説を信じ込んでしまいます.そのことは,Freud にとって Fließ が一種の催眠術的効果を有したことを,示唆しています.


無意識の発見と精神分析の創始の道を歩みつつあった Freud は,孤独でした.Josef Breuer (1842-1925) という有力な先輩医師の庇護を得ることはでき,『ヒステリー研究』(1895) は 彼との共著として出版できましたが,Freud にとって Breuer だけでは 十分に安心できなかったようです.そのような状況において,Freud は,Fließ に大きな「心の支え」を見出します.

Fließ の「鼻反射神経症」説を無批判的に信じ込んだ Freud は,ときおり Fließ を Berlin から Wien に招き,Freud 自身や 彼の患者の 耳鼻科的な処置を,Fließ に任せます.

Freud が hysterica として精神分析治療していた Emma Eckstein に対しても,Freud は Fließ に耳鼻科的治療をしてもらいます.

Freud が Irma という仮名で呼んでいる患者(その伝記的な事実については 何もわかっていないようです)と Emma とは,比較的若いこと,身体症状を伴う hysterica であること,Freud と家族ぐるみの社交的関係を有していること,など,少なからぬ共通点を有しています.Irma と Emma は同一人物ではなかろうか?と疑いたくなります.しかし,「Irma の姓 と Ananas[パイナップル]という単語は,語音のうえで非常に良く似ている」と Freud は言っているので,残念ながら,Irma の姓が Eckstein であるとは,まず考えられません(Ananas と類似の語音を有する ユダヤ人の姓としては,Ananias, Anania, Hananiah, Hanani などが挙げられるでしょう;ただし,Emma の母親の旧姓[不明]が Ananas と類似の語である可能性は排除しきれません;また,Freud は, Irma は「若い未亡人」である 言っており,それに対して,Emma は結婚歴がありませんが,「若い未亡人」は camouflage である可能性も排除しきれません).

Emma Eckstein は,1892年から Freud のところで治療を受け始めています.そして,1895年 2 月(Freud が Irma の注射の夢を見る 5ヶ月ほど前),Fließ から,鼻甲介の一部の切除を含む鼻腔内の手術を受けます.

Fließ は,ほかの患者たちに対しては,鼻粘膜に対して局所的な処置を施すにとどまっていましたが,何を思ったのか,Emma に対しては,かなり大がかりな外科手術を行います.そして,Fließ は,Emma の鼻腔内ないし副鼻腔内に置いた止血用のガーゼを手術終了時に取り去ることを,忘れてしまいます.手術後 数週間たって,患部が化膿したため,Emma は Wien 在住の或る耳鼻科医の診察を受けます.その医師は,Emma の鼻からガーゼを除去しますが,その際,大出血が起こります(Freud は,Emma の大出血の現場を目撃しています).そのような大出血が起きたのは,Fließ が除去し忘れたガーゼのせいで Emma の鼻腔内には細菌感染が起こり,鼻中隔の一部が壊死していたためです.Emma は,出血性ショックによる死を かろうじて免れます.しかし,彼女の顔面には変形が残ってしまいます.医療過誤を犯したのは Fließ ですが,Fließ による手術を Emma に勧めたのは Freud ですから,Freud 自身,重大な責任を感じないではいられなかったはずです.

以上の事実は,Irma の注射の夢の解釈が展開されている『夢解釈』第 II 章では,まったく触れられていません.が,Freud と Fließ との文通(そのうち,Freud が書いたものは,廃棄や破壊を免れて,1954年に不完全な形で,次いで,1986年に完全な形で,出版されました)によって,事件の全容は周知のものとなっています.

Fließ による Emma に対する重大な医療過誤事件によって,Freud の Fließ に対する催眠術的な信頼は,即座に解消されたわけではありません(Fließ が「Freud は,わたしの学説を剽窃した者たちに加担した」と妄想的に確信して Freud を非難したことによって,両者の関係が最終的に破綻するのは,1906年のこと)が,大きく揺らいだことは確かです.

Irma の注射の夢に,その信頼の揺らぎは,大きく関与していたはずです.というのも,Irma の口が大きく開き,恐ろしい否定存在論的孔穴 — 無の穴,死の穴,罪の穴 — が Freud の眼前に出現した ということは,まさに,Fließ の〈支配者徴示素 S1 としての〉穴塞ぎの機能が不全に陥った ということを示唆しているからです.



S1 による穴塞ぎが無効になって,口を開いた否定存在論的孔穴を前にして 不安に襲われた Freud は,穴塞ぎとして機能し得るかもしれない者たち — 先輩医師 M (Josef Breuer) および 同僚医師 Otto と Leopold — を動員しますが,しかし,彼らは頼りになりません.

そして,最後に,忽然と,trimethylamine の化学式が,太字で印刷された形において,現出してきます.



はたして,その機能は何なのか? Gérard Haddad は,彼の著書 Lacan et le judaïsme (1981) において,ヘブライ語とヘブライ文字にもとづく独創的な解釈を提示しています.彼は,trimethylamine の化学式を こう表記します:



そのとき,ヘブライ文字を知っている者に見えてくるのは,ש です.



その文字は,ヘブライ語とユダヤ教の伝統のなかでは,HaShem[名,すなわち,神の名]や El Shaddai[全能の神]を表し得ます.

すなわち,夢の最後に,神の名が,否定存在論的孔穴を支えるエッジとして — 穴を塞ぐものとしてではなく ,現出してきます(冒頭に掲げた Gustave Doré の版画を参照).その支えのおかげで,Freud は,Irma の注射の夢を 悪夢のような不安夢として経験せずに 済んでいる,と 我々は推察することができます.しかも,Freud が Irma の注射の夢を 非常に重要な(「夢の神秘」を啓かしてくれた)夢と見なしているということは,Freud は この夢において 昇華の悦を得ることができた,ということを示唆しています.



つまり,神の名 ש がエッジとして否定存在論的孔穴の開口を支えてくれたことによって,異状から分離へ(大学の言説から分析家の言説へ)の 構造転換が生じ得たのです.そして,それによって,否定存在論的孔穴は,終末論的孔穴として,現出してきます.それゆえ,Irma の注射の夢は,精神分析の omega でもある,と言うことができます.

我々は,Freud 自身による解釈を超えて,Irma の注射の夢に,以上のように,否定存在論的孔穴の現象学を読み取ることができます.

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smoked salmon の夢(『夢解釈』第 IV 章 より)

神経症者を精神分析で治療するとき,夢は,かならず 話題になる.その際,わたし [ Freud ] は,患者に,心理学的な説明 — その助けによって,わたし自身が,患者の症状の理解へ至り得たところの説明 — をすべて与える.だが,そうすると,患者から 容赦のない批判を 浴びせられることになる — そのように辛辣な批判は,同じ専門領域の医師たちからは予期し得ないほどである.まったく例外なく,患者たちの反論は,「夢はすべて願望成就である」という命題に対して 向けられる.わたしに対して反証として提起された夢の材料の例を,いくつか,以下に示す.

あなたは「夢は,成就された願望である」といつも言いますが — と,ある機知に富む女性患者 [ eine witzige Patientin ] は切り出す — では,ひとつの夢のことをお話ししましょう.その夢の内容は,まったく逆に,わたしにとって ある願望が成就されない,という方向へ至ります.そのことを,あなたは,あなたの理論と どう一致させるのですか?その夢は,次のようです:

わたしは,晩餐会をしようと思うが,手元には 若干の smoked salmon 以外に 何もない.そこで,買い物に行こうと思うが,しかし,今は日曜日の午後 — 店はすべて閉まっている — であることを,思い出す.そこで,配達業者に電話しようと思うが,電話はつながらない.かくして,わたしは,晩餐会をする願望を 断念せねばならない.

[自由連想 と]分析

患者の夫は,実直で有能な食肉卸売業者である.

数日前,夫は「太りすぎたから,体脂肪を落とす治療を始めようと思う」と わたし[患者]に 宣言しました.朝 早く起きて,運動をして,厳しいダイエットをして,そして,何よりも,晩餐会への招待をもう受けないでおこう,と言うのです.

彼女は,夫について,さらに,笑いながら 語る:

彼は,[酒場で]常連たちと飲んでいる席で,ひとりの画家と知りあいになりました.その人は,是非,彼の肖像を描きたい,なぜなら,これほど印象的な頭部は今まで見たことがないから,と言うのです.しかし,夫は,ぶしつけに こう答えたそうです:ありがたいことだが,しかし,絶対,あなたも,若くて美しい娘の尻の方が,わたしの顔なんかより,好きでしょう.

[彼女は,さらに語り続ける:]

わたしは,夫のことをとても愛しており,彼とふざけあいます.また,わたしは,彼に請います,わたしに caviar をくれないように,と.

それは,いったい,どういうことなのか?

わたしは,以前から,こう願っていました,毎朝,caviar を載せたパンを食べることができるようになりたい,と.しかし,caviar を載せたパンを与えられることを,自身に許しません.勿論,夫に請えば,わたしは,彼から,すぐに,caviar を得ることができるでしょう.しかし,わたしは,逆に,わたしに caviar をくれないよう,請うています — それによって,今後もずっと 彼をからかうことができるように.

この理由づけは本当のものではないだろう,と わたしには思えた.そのような不十分な回答の背後には,それと認められていない動機が隠れているものである.Hippolyte Bernheim のところで見た催眠術の被験者たちのことが思い出される — 彼れらは,催眠状態の最中に与えられたある課題を 催眠状態から醒めた後に 遂行するのだが,なぜそうしたのか と質問されると,「なぜそうしたのか,自分でもわかりません」とは答えず,しかして,かならず,明らかに不十分な理由づけをでっちあげる.わたしの患者の caviar に関しても,事態は同様だろう.彼女は,実生活において,成就されない願望を自身のために作り上げる必要があるのだ,と わたしは気づく.彼女の夢は,願望拒否 [ Wunschverweigerung ] を,実現されたものとして,彼女に示している.だが,いったい,何のために,彼女は 成就されない願望 を必要としているのか?

2019年11月18日

母の欲望に関する Lacan の説明



Séminaire XVII「精神分析の裏」(1969-1970) の 1970年03月11日の講義における「母の欲望」(le désir de la mère) に関する Lacan の説明


母の役割 — それは,母の欲望* である.

それは,非常に重大なものだ.母の欲望* は,どうでもよいことであるかのように耐え得るようなものではないからだ.それは,常に災いをもたらす.

大きなワニ — その口のなかに,あなたはいる —,それが母だ.どんなことがワニを 突然 口を再び閉じる気にさせるのか,わからない.それが,母の欲望 [ le désir de la mère ] だ.

しかるに,安心させてくれる何かがある,ということを,わたしは[あるとき]説明しようと試みた.つまり,ここに骨がある,こんなふうに... わたしが言っているのは,簡単なことだ... 安心させてくれる何かがある... わたしは,若干,即興的に語っているのだが... こんなふうに太い棒がある — 結構 硬い棒だ,石でできているから.それは,ここに,ワニの口のところに,可能態において,ある.それは,ワニが口を閉めようとしても,それを抑え,動かなくする.それが phallus と呼ばれるものだ.それは,ワニの口が 突然 閉まろうとするとき,あなたをかばってくれる棒だ.

当時,わたしは,そんなふうに説明した.その当時,わたしは,気をつかわなくてはならない者たち  精神分析家たち — に向かって語っていたからだ.彼らが理解し得るためには,そのように おおざっぱなことを言わねばならなかった.とはいえ,彼らが皆,理解し得たわけではない.

当時,わたしは,「母の欲望」との関連において,「父のメタフォール」(la métaphore paternelle) について語った.わたしは,「父のメタフォール」という形においてしか,オィディプス複合について語ったことはない.


* を付した二箇所で,Lacan は,« le désir de la mère » ではなく,« le béguin de la mère » と言っている.« béguin » は,この場合,「気まぐれのような一過性の熱情」を表す俗語表現である.


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Lacan's explanation of "the mother's desire" in the session of the 11th March 1970 of his Seminar XVII The Other Side of Psychoanalysis

The role of the mother is the mother's desire. 

This is absolutely capital, because the mother's desire is not something that can be tolerated just like that — as if that were indifferent to you. It always causes damage. 

A huge crocodile between whose jaws you are — that is the mother. You never know what may suddenly come over her and make her shut her trap. That is the mother's desire. 

One time, I tried to explain that there was something reassuring. I am telling you simple things, I am improvising, I have to say. There is a cylinder (rouleau), a stone one of course, which is there, potentially, at the level of her trap, and it acts as a restraint, a wedge. It is what is called the phallus. The cylinder protects you, if, all of a sudden, it snaps shut. 

These are things that I have presented at one time, at a time when I was talking to people who had to be handled with kid gloves : I mean psychoanalysts. They had to be told things crudely, like that, so that they could understand them. What is more, they did not understand any better. 

I spoke therefore in relation to the mother's desire about the paternal metaphor. I have never spoken of the Oedipus complex except in that form.


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Remarques de Lacan sur « le désir de la mère » dans la séance du 11 mars 1970 de son Séminaire XVII L'envers de la psychanalyse

Le rôle de la mère, c’est le « béguin » de la mère. 

C’est absolument capital, parce que le « béguin » de la mère c’est pas quelque chose qu’on peut supporter comme ça, enfin, et que ça vous soit indifférent. Ça entraîne toujours des dégâts. 

Un grand crocodile comme ça, dans la bouche duquel vous êtes, c’est ça la mère. On sait pas ce qui peut lui prendre, tout d’un coup comme ça, de le refermer son clapet. C’est ça, le désir de la mère.

Alors, j’ai essayé d’expliquer que ce qu’il y avait rassurant, c’est qu’il y avait un os, comme ça... je vous dis des choses simples... il y avait quelque chose qui était rassurant... j’improvise un peu... un rouleau comme ça, bien dur, en pierre, qui est là en puissance, au niveau du clapet, ça retient, ça coince : c’est ce qu’on appelle le phallus, le rouleau qui vous met à l’abri, si tout d’un coup ça se referme.

Ça c’est des choses que j’ai exposées dans son temps, comme ça, parce que c’était un temps où je parlais à des gens qu’il fallait ménager : c’était des psychanalystes. Il fallait leur dire des choses grosses comme ça pour qu’ils les comprennent. D'ailleurs, ils ne comprenaient pas tous.

Alors j’ai parlé à ce niveau là de la métaphore paternelle. Je n’ai jamais parlé du complexe d’Œdipe que sous cette forme.

2019年11月10日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (3)

René Magritte (1898-1967), Le viol (1945), au Musée national d'art moderne à Paris 


2019-2020年度 東京ラカン塾 精神分析 セミネール



フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (3)


日時 : 2019年 11月 15日(金曜日)19:30 開始
場所:文京シビックセンター 5 階 D 会議室(普段 使用している 文京区民センター とは異なる建物です)

参加費無料,事前申込不要

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我々の否定存在論の観点から見るなら,Freud の Irma の注射の夢 の中心を成しているのは,大きく開く〈彼女の口の〉穴が「死の穴」(le trou thanatique) として 現れ出でてくる場面です:

by Mimi Choi (makeup artist)

Irma は,口を開く直前に,義歯 (Gebiss) を装着している女性のように,口を開くことに対して抵抗する,と Freud は述べています.その「抵抗」は,実際には,恐ろしい〈死と無の〉穴である「源初論的孔穴」(le trou archéologique) の開口に対する Freud 自身の抵抗です.

Gebiss という語は,「義歯」を表すだけでなく,本来は,人間や動物の口のなかにある「歯」(Zahn) 全体を表す集合名詞です.Gebiss の語源は,beißen[噛む]です.我々は,Hans 少年の恐怖症の対象である「馬の口に噛まれる」こと(今年度のセミネールのなかで取り上げます)を想起することもできますが,しかして また,vagina dentata を連想することもできます:


恐ろしい〈源初論的孔穴の〉開口を表す「次いで,Irma の口は 大きく開く」は,Irma の注射の夢の中心的な image なのですが,しかし,Freud は,それについて十分に解釈することができません.そして,脚注でこう付け加えています :「あらゆる夢は,解明され得ない (unergründlich) 箇所を,少なくともひとつ,有している.その箇所は,言うなれば,ひとつの臍[へそ]であり,そこをとおして,夢は,認識されざるもの (das Unerkannte) と 繋がっている」.

この unergründlich[解明され得ない]という語に,我々は,Jakob Böhme による神の名称 : Ungrund[無底]— 基礎づける (gründen) ことのできないもの — を見出し,さらに,Heidegger の言う Ab-grund[深淵のように口を開いた穴としての基礎,基礎になり得ない深淵の穴]を見出すことができます.そして,夢の臍をとおして繋がっている彼方の在所に位置づけられる das Unerkannte[認識されざるもの]は,書かれないことをやめない 存在 (l'être qui ne cesse pas de ne pas s'écrire) そのものです.

『夢解釈』において Freud が der Nabel des Traumes[夢の臍]と呼んでいるものは,我々にとっては,口を開いた源初論的孔穴 を指ししるしています.そして,Freud がそれを「臍」と呼んでいることは,まさに,Freud がそれを「口を開いた穴」として捉え得なかった,ということを示唆しています  臍は,母胎との〈開いていた〉繋がりの〈閉じてしまった〉痕跡にすぎませんから.

Irma の注射の夢の最後に,trimethylamine の化学式が,太字で印刷された形において,登場してきます:


開かれた Irma の口の image と同等に最も印象的な trimethylamine の化学式は,源初論的孔穴を縁取る文字です.その文字は,何を表しているでしょうか?15日のセミネールにおいて,Gérard Haddad の解釈を紹介しましょう.


2019年11月3日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (2)



2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール


フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (2)


日時 : 2019年11月08日(金曜日)19:30 - 21:00
場所:文京区民センター 2 階 C 会議室

参加費無料.事前登録不要.


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11月08日は,否定存在論的トポロジーと四つの言説に関する説明を補足した後,Freud が『夢解釈』の第 II 章で論じている「イルマの注射」の夢を再解釈して行きます.それは,Freud 自身が見た夢であり,『夢解釈』のなかで最初に詳細に分析されている夢です.そこから出発して,Freud は「夢は願望の成就である」[ der Traum ist eine Wunscherfüllung ] という公式を導き出します.

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イルマの注射の夢(『夢解釈』第 II 章 より)

予備的な情報

1895年の夏[つまり,Freud が『夢解釈』を書いている時点(1899年)の4年前]に,わたし [ Freud ] は,若い婦人 [ Irma ] を精神分析的に治療した.彼女は,わたしとわたしの家族にとって,とても近しい交友関係にある人だった.そのように医師患者関係と一般的な社交の関係が混ざり合った場合,その事態は,治療者 — 特に,精神療法家 — にとっては,多様な感情を惹起する元[もと]になり得る,ということは,誰にでも理解可能だろう.医師自身の治療的関心はより大きくなるが,彼の医師としての権威はより小さくなる.治療に失敗すれば,患者の家族や親族との長年にわたる親交を疎遠なものにしてしまうことになりかねない.精神分析治療は,部分的な成功を以て終わった.患者は,ヒステリー的な不安を感じなくはなったが,彼女の身体的な症状がすべてなくなったわけではなかった.当時,わたしは,ヒステリーの病歴に最終的に決着がついたということを表す指標に関して,まだあまり確信がなかったので,患者に,ある解決策 [ Lösung ] を取るよう,求めていた.しかし,それは,彼女にとっては,受け容れ難いと思われることだった.彼女がわたしの提案を受け容れないという不一致の状況において,我々は,夏のヴァカンスのゆえに,治療を中断した.ヴァカンスの滞在先で,ある日,年下の同僚 [ Otto ] — 彼は,わたしの親友でもある — が,わたしを訪ねてきた.彼は,わたしの患者 — Irma — と彼女の家族を,彼れらのヴァカンス滞在先に訪ねてきたところだった.わたしは彼に,彼女はどんな様子だったかを問い,この答えを得た:以前よりは良いが,完全に良いわけではない.友人 Otto の言葉 — ないし,それが述べられた調子 — に,わたしは怒りを覚えた,ということを,わたしは自覚している.つまり,わたしは,彼の言葉からひとつの非難が聴き取れる,と思った — たとえば,わたしは患者に[必ず治ると言って]多くを約束しすぎた,というような非難.そして,どうやらわたしのみかたになっていないらしい Otto の態度を,患者の家族 — 彼れらは,わたしの治療を好意的には見ていない,とわたしは推察していた — からの影響のせいにした — その推測が正しいか否かは不明であるが.ともあれ,そのとき,わたしは,わたしの苦痛な感覚を明確には感じ取ってはおらず,それをそのものとして表現することはなかった.その晩のうちに,わたしは,Irma の病歴報告を書きあげた — それを,いわばわたしを正当化する目的で,Dr M[Joseph Breuer :『ヒステリー研究』の共著者]— 彼は,Otto とわたしの共通の友人であり,当時,我々の仲間内で主導的な立場の人物だった — に提出するために.その夜(むしろ,翌日の朝方),わたしは,次の夢を見た.わたしは,それを,覚醒後すぐに書きとめた.

1895年07月23-24日に見た夢

広い広間.多くの客を,我々は迎えている.そのなかに,Irma がいる.わたしは,彼女を,すぐさま脇へ連れて行く — いわば,彼女の手紙に答えるために,つまり,彼女がわたしの「解決策」(Lösung) をまだ受け容れないことを非難するために.わたしは彼女に言う:「あなたがまだ疼痛を有しているなら,それは,まったく,ひたすら,あなた自身のせいだ[es ist wirklich nur deine Schuld : あなたの責任だ,あなたに罪がある]」.彼女は答える:「わたしが今,喉や胃[上腹部]や下腹部にどんな疼痛を有しているかを,知っていただけたら... それは,わたしを締めつけます」.わたしは驚いて,彼女を見やる.彼女は,青白く,むくんでいるように見える.わたしは考える:結局,わたしは,やはり,何か器質的なものを見逃していたのだ.わたしは,彼女を,窓のところへ連れて行き,咽頭を視診する.その際,彼女は,若干,抵抗のしぐさを見せる — 義歯を装着している婦人のように.そんな必要はないのに,とわたしは考える.次いで,口は大きく開く.右に,大きな白い斑が見える.ほかには,奇妙な〈皺のよった〉造形 — それは,明らかに,鼻甲介を模して形づくられている — のところに,灰白色の痂皮が広がっているのが,見える.わたしは,急いで,Dr M を呼び寄せる.彼は,改めて診察し,所見を確認する.Dr M は,普段とはまったく異なる外見をしている.彼は,青白く,跛行しており,顎にヒゲがない.今や,わたしの友人 Otto も,彼女のかたわらに立っている.友人 Leopold は,彼女[の胸部]を,胴着のうえから打診して,言う:彼女は,左下部に濁音を有している.そして,彼は,彼女の左肩の皮膚部分の浸潤を指さす(それを,わたしは,彼女が着衣のままであるにもかかわらず,彼と同じく,感じ取っている).M は言う:疑いなく感染症だが,何でもない;さらに赤痢が合併してきて,毒素は排出されるだろう.我々は,また,感染が何に起因しているのかを,直接に知っている.友人 Otto が,最近,彼女の気分が悪いときに,彼女に Propyl 製剤を注射したのだ — Propylen, Propionsäure[プロピオン酸],Trimethylamin(その化学式を,わたしは,太字で印刷された形において,眼前に見る).そのような注射は,そのように軽率にするものではない.おそらく,注射器も清潔ではなかったのだろう.
 


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今年度の日程については,東京ラカン塾の web site を参照してください.

小笠原 晋也