2024年2月27日

救済に関する神の意志と必然性 そして 無償の救済に対して如何に感謝するか

William Brassey Hole (1846-1917) : Jesus and Zacchaeus

救済に関する神の意志と必然性 そして 無償の救済に対して如何に感謝するか



223 金曜日の「今日のイェスのことば」の説教で,Raniero Cantalamessa 枢機卿は,ルカ福音書で物語られている 徴税人の長 ザアカイの エピソード (19,01-10) から,v.05 イェスのことばを取り上げ,それを イタリア語で こう表言していた:

Voglio venire a casa tua.

わたしは あなたの家に 来たい.

つまり,そこには イェスの意志が 表現されている.それは,Cantalamessa 枢機卿の 解釈 のちほど見るように,まったく正当な 解釈 である.

しかし,原文では,そこにおいて表現されているのは,イェスの意志ではなく,ひとつの必然性である:

Ζακχαῖε, σπεύσας κατάβηθι, σήμερον γὰρ ἐν τῷ οἴκῳ σου δεῖ με μεῖναι.

ザアカイよ,急いで降りてきなさい;なぜなら このゆえに:今日 わたしがあなたの家に滞在することは,必然的である.

その文におけるギリシャ語の δεῖ の意義は,フランス語の il fautでなければならない, 必要である,必然的である]の意義と ぴったり 重なりあう.

では,なぜ その日にイェスがザアカイの家に滞在することは 必然的であるのか? それは,父なる神がそう欲するからである;それが 神の意志 (θέλημα, voluntas) だからである

そして,イェスの意志は 父の意志であるから,父の意志による必然性は イェスの意志による必然性でもある.その限りにおいて,イェスが「わたしがあなたの家に滞在することは 必然的である」と言うとき,それは「わたしは あなたの家に 滞在したい」にもとづいている.そして,それゆえ,Cantalamessa 枢機卿の解釈は まったく正当なものである.

ところで,既成の邦訳聖書では,そのイェスのことばは どう訳されているだろうか?

今日 わたしは あなたのところに泊まるつもりだ(フランシスコ会訳).

今日は,ぜひ あなたの家に泊まりたい(新共同訳).

今日は,あなたの家に泊まることにしている(聖書協会共同訳).

わたしは 今日 あなたの家に留まらねばならない(新約聖書翻訳委員会訳,岩波書店版).

残念ながら,その節に関して注を付してくれている邦訳聖書は 皆無である 本当は,このような訳注が欲しいところであるが:

原文における必然性は 神の意志を表しており,そして,神の意志は イェスの意志である.

もし そのような訳注が付されていたならば,新共同訳の「是非 あなたの家に泊まりたい」は,Cantalamessa 枢機卿の解釈とも一致する たいへん よい訳だ と言えるだろう.

そして,もし イェスが 罪人であるザアカイに「わたしは 是非 あなたの家に 泊まりたい」と言ったのであれば,彼は 罪人である我々にも「わたしは 是非 あなたのうちに 入ってきたい」と 欲している eucharistia のかたちにおいて.それゆえ,我々も,「喜んで彼を迎えた」ザアカイ (cf. Lc 19,06) のように,キリストのからだを喜んで受け取り,彼に 我々のうちに 入ってもらう.

ところで,何のために イェスは ザアカイの家に そして 我々のうちに 入りたい 欲しているのだろうか? 神の意志は 根本的に言って 何に存するのか?

残念ながら,日本人クリスチャンたちの大多数は このことに気づき得ないだろう:我々が「主の祈り」において「みこころ[あるいは みむね]が 天に行われるとおり 地にも 行われますように」と 祈るとき,我々は 実は「神の意志の〈地上における〉実現」を願っているのである.そのことを日本語訳の「主の祈り」から読み取ることは ほぼ不可能であるが,原文のギリシャ語 (γενηθήτω τὸ θέλημά σου ὡς ἐν οὐρανῷ καὶ ἐπὶ γῆς) ラテン語訳 (fiat voluntas tua sicut in caelo et in terra) 英訳 (thy will be done on earth as it is in heaven) においては,そのことは まったく明瞭である

あなたの意志 (θέλημά σου, voluntas tua, thy will) 成起しますように 天におけるごとく,地においても.

では,そのとき かかわっている 神の意志は 如何なるものか?

その答えは『カトリック教会のカテキズム』の「主の祈り」の説明 (#2822) 明確に 提示されている:

我らの父の意志は これである:「すべての人間たちが 救われること;そして,真理を識るに至ること」(1 Tm 2,03-04).

そして,実際,イェスの「わたしは あなたの家に 来たい」という意志によって,ザアカイにおいて,彼自身がまったく予期していなかったことが 成起する:すなわち,彼は,不意に 回心し (cf. v.08), 救済される イェスがこう宣言しているように (v.09) :

今日,救済が この家に 成起した なぜなら,彼[ザアカイ]も また アブラハムの息子であるから.

主の意志にしたがって キリストを我々のうちに迎え入れることによって,我々は,回心し,そして 救済される それは まさに eucharistia 秘跡の 意義の ひとつである.

そして,その前提条件は,キリストの 十字架上での死と 死者たちのなかからの復活である.神の意志 それは すべての人間たちの救済に 存する は,十字架上で 成就されている.実際,ヨハネ福音書 (19,28-30) において こう述べられている:

[十字架上で]イェスは〈書 (Tanakh) が成就されるために すべてが既に成し遂げられた (ἤδη πάντα τετέλεσται) ということを〉知って […], こう言った:成し遂げられた (τετέλεσται).

そして,『カテキズム』(#2824) は,こう述べている:

キリストにおいて,そして,彼の人間的意志によって,父の意志は 完璧に かつ 決定的に[取り消し不可能な様態において]成就された.

つまり,そこに父の意志が存するところの〈すべての人間たちの〉救済は,イェスの受難と復活によって 既に 実現している(それゆえ,我々は その善き知らせ — 福音 — を 宣べ伝えたい と思う).

しかし,如何にして そのようなことが 実現し得たのか ? このことによって:救済は,新約においては,旧約におけるように 我々が律法を完璧に実行することによって 得られるのではなく,しかして,神が 無償で(たとえ 人間が何もしなくても)すべての人間を 我々すべてを 救済してくれたのだ 神が 神自身の息子を 神自身に いけにえとして 献げたことにより.それが,イェスがもたらした 救済論の革命である.

神に献げるいけにえを神自身が用意する そのことは〈アブラハムが 神の命令に応じて 彼のひとり息子イサクを いけにえとして 神に献げようとする 創世記 22 章において〉予告されている そこにおいて,アブラハムは そうと知らずに こう預言する (cf. v.08) :

神は,彼自身のために,焼尽のための羊を 用意するだろう.

そして,実際,神は,アブラハムが彼の息子イサクを屠るのを 中止させつつ,一頭の雄羊を 彼に 提供する それを焼尽として献げさせるために (cf. v.13).

神が みづから 彼のひとり息子 イェスを いけにえとして 彼自身に 献げた;そして,それによって 我々は 無償で 救済された そのことを知ったとき,我々は どうするか? 勿論,神に感謝しないではいられない.では,どのように感謝するか? 彼にいけにえを献げるか? それは もはや無用である.しかも,神は こう言っている (Hs 6,06 ; Mt 913 ; 12,07) :

わたしは [ חֶסֶד , ἔλεος, caritas, misericordia ] 欲する いけにえではなく.

それゆえ,我々は 愛を以て 神に感謝する それが 感謝の祭儀である.そして,それだけでなく,隣人愛によっても 神に感謝する;なぜなら,我々は,隣人に対して愛のおこないを成すとき,実は 神に対して愛のおこないを成しているのだから:

Amen, わたしは あなたたちに言う:あなたたちは,わが最も小さき兄弟たちのひとりに[隣人愛のおこないを]成したとき,そのつど,わたしにそれを成したのだ (Mt 25,40).