2023年12月28日

主の御降誕 おめでとうございます

El Greco (1541-1614) : Adoración de los pastores

主の御降誕 おめでとうございます



皆さま,主の御降誕 おめでとうございます!

この一年をふりかえってみると,2023年は 何といっても Synod on Synodality の 第一回総会の年でした.そこに参加した 菊地 功 東京大司教さまが「参加報告」において 今回の総会において重要な方法論となった Spiritual conversation[皆が ともに 聖なる息吹のことばを聴き取るために 他者のことばに耳を傾けることによって 進行してゆく 会話,対話]について,とてもだいじなことを おっしゃっています:

丸テーブルでの Spiritual conversation に何度も参加して 気がついたのは,繰り返すうちに,想像もしなかった結論が その小グループから発表されていったことである.事前にはまったく想像もつかない内容が,小グループのコンセンサスとして発表されていくので,最終文書のドラフトは,最後の週が始まるまで 完成しなかった.

Spiritual conversation には,ほとんどすべての参加者が 実際に その場で 参加し,実際に[他者のことばと 聖なる息吹のことばに]耳を傾ける〈忍耐のうちに過ごした〉時間であった.さらには,その Spiritual conversation は,教会の一部の声[高位聖職者たちの声]だけではなく,[しかして]まだ十分ではないものの あらゆる人を[女性も 若者も 一般信徒も ヒラの司祭も]平等に招き入れた 小共同体で なされた.

シノドス的教会とは,どこに進むのか あらかじめ計画を定めることが難しい 教会である.

シノドス的教会とは,忍耐を必要とし,じっくりと時間をかける手間を惜しまない 教会である.

シノドス的教会とは,それを構成するすべての人が平等に発言し 識別に参加する〈ひとつのキリストの体としての〉教会である.

その意味で,今回のシノドスは,何かを決める会議ではなく,聖霊[聖なる息吹]による導きを共同識別する術[すべ]を身につける シノドスであった.何かが決まったり決まらなかったりすることに一喜一憂せず,このプロセスを具体的に生きることの重要性を 理解したい.


聖なる息吹のことばを聴き取るために 他者のことばに耳を傾けること — それが 今後のカトリック教会にとって ひとつの決定的な方法論です.たとえば,聖書の一節が 誰かを — たとえば gay の人々を — 傷つけるとしましょう.聖書が神のことばを伝えているならば,そのようなことが — 神が 誰かを救うのではなく,傷つけるというようなことが — あってよいでしょうか? もし そのようなことが起こるとするなら,それは,わたしたちが 聖書の読み方において 誤っている — または 不十分にしか 神のことばを聴き取れていない — ということです.そのようなときには,聖なる息吹のことばを改めて聴くために 聖なる息吹に祈りつつ かつ 他者(この場合は,聖書によって傷つけられた gay の人々をも含めて)のことばに耳を傾けつつ,聖書の文面を 読み直してみましょう.聖書の字面は絶対的なものではないのです.決定的なのは 聖なる息吹が我々に語りかけてくることです(勿論,それは「幻聴」ではありません;何らかの inspiration として わたしたちに与えられる ことばです).

聖書やカテキズムの字面が絶対的なものではなく,しかして,決定的なのは 聖なる息吹のことばである — それは,わたしたちの信仰生活にとって 根本的に重要なことです.

また,今年 最も心に残った言葉のひとつを 分かち合いたいと思います.12月17日の LGBTQ みんなのミサを司式してくださった Padre Vicente Bonet(イェズス会社会司牧センター)は,説教のなかで,2013年03月に教皇に着座してから まだ 5ヶ月ほどしかたっていない Papa Francesco に対して インタヴューをおこなった Civiltà Cattolica 誌の 編集長 Padre Antonio Spadaro SJ(当時)の 不意の問い « Chi è Jorge Mario Bergoglio ? »[Jorge Mario Bergoglio とは 誰か?]に対して こう答えました:「わたしは,主から〈慈しみを以て〉まなざされた 罪人である」.そのインタヴューのその一節を読んでみましょう:

わたし (Antonio Spadaro) は,質問を用意してあったが,あらかじめ定めてあったインタヴュー案に則らないことにした;そして,若干 藪から棒に 彼に こう問う:「Jorge Mario Bergoglio とは 誰か?」Papa は,沈黙のうちに わたしを見つめた.わたしは 彼に「それは あなたに問うてもよい問いですか?」と問う.彼は その問いを受けつけたことを示すために うなづき,わたしに こう言う:「何が最も適切な定義であるのか わたしは知らない… わたしは ひとりの罪人である.それが 最も適切な定義である.それは,文学のジャンルに属するような[比喩的な]言い回しではない.[文字どおりに]わたしは ひとりの罪人である」.Papa は 省察し続ける — 没頭して — そのような問いを予期していなかったのように,さらなる省察へ強制されたかのように.「いかにも,わたしは 多分 こう言うことができるだろう:わたしは 若干 ずる賢い;わたしは 行動することができる;しかし,わたしは また 若干 素朴でもある ということも 真である.いかにも.だが,最良の総合 — 最も内奥から浮かんでくる総合,最も真であると感ぜられる総合 — は,まさに これである:わたしは,主にまなざされた 罪人である」.そして,彼は 繰り返す:「わたしは 主にまなざされた者である.わたしの紋章の銘 « Miserando atque eligendo »[憐れみ,そして 選んだ]を わたしは いつも わたしにとって とても真なるものと 感じている」.

Papa Francesco の 紋章の銘は 聖 Beda Venerabilis (ca 673 – 735) の 説教から 取られている;彼は,マタイの召命に関する福音書のエピソード (Mt 9,09) をコメントしつつ,こう書いている : « Vidit ergo Jesus publicanum et quia miserando atque eligendo vidit, ait illi Sequere me »[かくして,イェスは,徴税人を 見た;そして,慈しみつつ[憐れみつつ]かつ 選びつつ 彼を見たので,彼に言った:『わたしに 付き従いなさい』」.そして,彼 (Papa Francesco) は 付け足す:「わたしには,ラテン語の gerundium « miserando » は イタリア語でも スペイン語でも 翻訳不可能であるように 思われる.わたしは それを もうひとつのほかの gerundium — ただし それは実際には存在しない — を以て 翻訳したくなる : misericordiando」.

Papa Francesco は,彼の省察を 続ける;そして わたしに 飛躍したことを 言う — その飛躍の意味は わたしには すぐには わらかない —:「わたしは ローマを よく識らない;わずかなことしか 識らない;わたしが識っているもののうちには Santa Maria Maggiore[大聖堂]が ある;わたしは いつも そこへ行っていた」.わたしは 笑って,彼に言う:「わたしたちは 皆 とてもよく わかります,Santo Padre !」「そうとも — と Papa は 続ける —,わたしは Santa Maria Maggiore を識っており,San Pietro[大聖堂]を識っている.だが[以前]わたしは,ローマに来ると,いつも via della Scrofa に宿をとっていた.そこから,わたしは しばしば San Luigi dei Francesi 教会を 訪れた;そして,そこにある Caravaggio の「聖マタイの召命」の絵を 見に行ったものだ」.何を Papa は わたしに言いたいのかを,わたしは わかり始める.

「イェスの指は こんなふうに向けられている — マタイへ.わたしも あのようである;わたしは 自分を あのように 感ずる — あのマタイのように」.そして,そのとき,Papa の口調は 決然となる — あたかも〈探し求めていた自己像を〉捕らえたかのように:「わたしを感動させるのは,あのマタイの所作である.彼は,彼の金[かね]を摑む — こう言うかのように:『いいえ,わたしではありません[わたしを選ばないでください;わたしを指ささないでください]! いいえ,この金[現世の利益と快楽]は わたしのものです!』それが わたしだ:主が彼のまなざしを向けたところの 罪人.そして,これが〈わたしが わたしの《教皇への》選出を 受けいれるかどうかを 問われたときに〉わたしが言ったことだ — そして 彼は こう つぶやく  : Peccator sum, sed super misericordia et infinita patientia Domini nostri Jesu Christi confisus et in spiritu penitentiae accepto[わたしは 罪人である;だが〈我らの主 イェス キリストの 慈しみ[憐れみ]と 無限の忍耐に 信頼して〉かつ〈悔悛の精神において〉わたしは 受けいれる]」.

主から〈慈しみ[憐れみ]を以て〉まなざされた 罪人 — とても感動的な表現ですね! そして,それは,Papa Francesco だけのことではなく,しかして,わたしたちは 誰もが そのような存在なのです.わたしたちは 誰もが 罪人ですが,しかし,そのような罪人として,イェスから 呼ばれたのです — 慈しみ[憐れみ]を以て まなざされ,そして,各人の召命のために 選ばれて.そのことを思い起こさせてくださった Papa Francesco と Padre Vicente Bonet に 感謝します.

では,主の御降誕のよろこびとともに,皆さま,幸多き新年を お迎えください.

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Nb 6,24-26 :

主が あなたを 祝福し,護ってくださるように.

主が 彼の顔を あなたへ向けて 輝かせ[主が あなたに 微笑み],あなたのために恵みぶかくありますように.

主が 彼の顔を あなたへ向けて 上げ[主が あなたに対して好意的であり],あなたのうえに平和を置いてくださるように[あなたに平和をもたらしてくださるように].

2023年12月14日

マタイ福音書 11,12 “ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν βιάζεται καὶ βιασταὶ ἁρπάζουσιν αὐτήν”[天の国は 暴力を被っている;そして,暴力的な者たちが それを摑み取ろうとしている]は どう読まれ得るか

Gustave Doré (1832-1883) : Le Triomphe du Christianisme sur le Paganisme

マタイ福音書 11,12 “ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν βιάζεται καὶ βιασταὶ ἁρπάζουσιν αὐτήν”[天の国は 暴力を被っている;そして,暴力的な者たちが それを摑み取ろうとしている]は どう読まれ得るか



本稿では,マタイ福音書 11,12 “ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν βιάζεται καὶ βιασταὶ ἁρπάζουσιν αὐτήν”[天の国は 暴力を被っている;そして,暴力的な者たちが それを摑み取ろうとしている]は どう読まれ得るか を 問う

待降節 2 木曜日の ミサでは,毎年,イザヤ預言書 41,13-20 とともに,マタイ福音書 11,11-15 朗読される:

そして,イェスは 群衆に さらに言った:

11 Amen, わたしは あなたたちに 言う:女から生まれた者たちのなかには 洗礼者ヨハネより偉大な者は 現れなかった;だが,天の王国のなかの最も小さき者すらも 彼より 偉大である.

12 ところで,洗礼者ヨハネの日々以来 今に至るまで,天の王国は 暴力を被っている;そして,暴力的な者たちが それ[天の王国]を 摑み取ろうとしている.

13 なぜなら このゆえに:預言者たちすべて および 律法[つまり 旧約聖書]は,ヨハネのことまでを 預言した.

14 そして,もし あなたたちが[このことを]受けいれたいと思うならば,彼こそが まさに来たらんとしている エリヤである.

15 耳を有する者は 聴け.


問題は v.12 である;その節について,Ignatius Catholic Study Bible  注釈で “notoriously obscure”[わかりにくいことで有名である]と述べている.つまり,我々は,上に提示された翻訳を読んで,わかったつもりになっていることは 実は できないのであり,その節の文が何を言わんとしているのかを より詳しく検討してみる必要がある.

vv.11-15 に先立つ vv.02-10 においては,まず,投獄されている洗礼者ヨハネが イェスに関する噂を 聞く;そして,彼は 彼の弟子たちを イェスのところへ遣わす こう問うために:

Σὺ εἶ ὁ ἐρχόμενος;

あなたは[世の終わりに]到来する者なのか?

その問いに対して,イェスは,明確に「然り」または「否」と答えることはせず,しかして,イザヤ預言書の言葉を引用しつつ,終末論的な救済が イェスによって 実現されようとしていることを 暗示する.そして,ヨハネの使者たちが立ち去ったあとで,聴衆に向かって 彼は その答えを 間接的なしかたで 言う:すなわち,彼は,まず v.10 において マラキ預言書 3,01 を引用しつつ,洗礼者ヨハネについて「彼は[聖書に]こう書かれてあるところの者である:見よ,わたし (YHWH) は おまえの面前に わが使者を 遣わす;彼は おまえのまえに おまえの道を整えるだろう」と言ったあと,v.14 において こう言う:

αὐτός ἐστιν Ἠλίας ὁ μέλλων ἔρχεσθαι

彼[洗礼者ヨハネ]こそは,まさに到来しようとしている エリヤである.

そのとき,イェスは マラキ預言書 3,23 準拠している:

見よ,わたし (YHWH) あなた[イスラエルの民]に 預言者エリヤを 遣わすだろう あの 大いなる かつ 恐ろしい יוֹם יְהוָהYom YHWH : YHWH 日,すなわち YHWH の終末論的到来の日]が 来るよりも まえに.

それゆえ,Mt 11,11-14 が位置づけられる文脈は,明瞭に終末論的なものである;そして,そこにおいては,二重の到来がかかわっている:ひとつは,最終的な YHWH の到来;もうひとつは,それに先だって遣わされる 預言者エリヤの到来.

そして,イェスは,洗礼者ヨハネを エリヤに重ね合わせている;ということは,そこにおいて明言されてはいないとしても,イェスは こう言っていることになる:わたしは YHWH である.

勿論,そう言うときも,彼は,言ってはならない YHWH の名を そのまま言うことはしないだろう;そうではなく,その代わりに אֶהְיֶהEhye : 我れは存在する,cf. Ex 3,14]と言うだろう.実際,その想い出を,我々は ヨハネ福音書において イェスが 七度 発する ἐγώ εἰμι [我れは存在する,わたしは である]に見出すことができる.

そこで,そのような終末論的文脈に留意しつつ Mt 11,11-14 改めて読んでみよう.

まず「天の王国」ないし「天の国」について:そのギリシャ語表現は βασιλεία τῶν οὐρανῶν であり,それは マタイ福音書においてのみ用いられている〈βασιλεία τοῦ θεοῦ[神の王国]の〉婉曲表現である(「天」[ οὐρανοί ] 複数形であるのは,ヘブライ語における「天」[ שָׁמַיִם ] 必ず複数形で用いられる単語であることによる).旧約においては,イスラエルの民を支配する王は 本来的には YHWH 自身である と考えられている;それゆえ,神の息子イェスが王として支配する王国は,本来的な神の王国の再建であり,その回復である.

また,ギリシャ語の βασιλεία ヘブライ語の מַלְכוּת (malkut) も,確かに ある空間的な領土を有する「王国」ではあるが,しかし,それだけでなく,むしろ「王であること」,「王として支配ないし君臨すること」を言う.したがって,「天の王国」は,通俗的な意味における「天国」ではなく,しかして「神の王権」,「神の[王としての]支配ないし君臨」を言う.たとえば,我々が「主の祈り」(Pater noster) において ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου (adveniat regnum tuum)[御国が来ますように]と祈るとき,我々は「あなた[父なる神]が王として君臨する終末論的状況が 到来しますように,成起しますように,顕現しますように」と祈っているのである.

ところで,イェスは,v.11 において「人間のなかでは 洗礼者ヨハネは 最も偉大だが,神の王国のなかの最も小さき者すらも 彼より偉大である」と述べている.そのことは,Mt 25,31 に描かれている この終末論的場面を 思い起こさせる:

Ben Adam[人の子]は 到来するだろう 彼の栄光において ;そして,天使たちも すべて 彼とともに[到来するだろう]; ついで,彼は 彼の栄光の玉座に 座るだろう.

つまり,この場合,神の王国を構成するのは 天使たちである;あるいは,神の王国を構成するのは,このような者たちである 「彼らは,死者たちのなかから復活するとき,もはや[人間のように]めとることも めとられることもなく,しかして,天にいる天使たちのようである」(Mc 12:25).

次いで v.12 : 先ほども言ったように,その節について Ignatius Catholic Study Bible 注釈で “notoriously obscure”[わかりにくいことで有名である]と述べている.その「わかりにくさ」の要因のひとつは〈“ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν βιάζεται 動詞 βιάζεται voice[態]それは 受動態でも中動態でもあり得る に〉存する.

その文は Vulgata では “regnum caelorum vim patitur”[天の王国は 暴力を被っている]と訳されている;つまり,聖ヒエロニムスは βιάζεται 受動態と解している;それにならって,既成の翻訳聖書では,どの言語においても,それは「暴力を被っている」という意味において 訳されている.

しかし,古代ギリシャ語の辞書によれば,動詞 βιάζω 中動態で用いられることが 多い;そして,実際,ルカ福音書における〈Mt 11,12-13 の〉平行箇所 (16,16) — そこにおいては 動詞 βιάζω 中動態で用いられている においては,こう言われている:

Ὁ νόμος καὶ οἱ προφῆται μέχρι Ἰωάννου· ἀπὸ τότε ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ εὐαγγελίζεται καὶ πᾶς εἰς αὐτὴν βιάζεται.

律法と預言者たちは ヨハネまで[旧約が有効であったのは 洗礼者ヨハネのときまでであった];それ以来,神の王国[イェスの教え,新たな契約]が[福音として,善き知らせとして]宣べ伝えられている;そして,あらゆる者が そのなかへ 暴力的に[力づくで,努力して]入ろうする.

それゆえ,Mt 11,12 においても βιάζεται 中動態と解するならば,その節の前半は こう訳され得る:

洗礼者ヨハネの日々以来 今に至るまで,天の王国は 暴力的に現れ出てこようとしている.

その翻訳は,まさに 終末論的な〈神の支配の〉到来の文脈に 合致している.洗礼者ヨハネは,旧約の満了と新約の成起(神の支配の到来)を告げ知らせる預言者として 位置づけられている.そして,実際,神の支配の到来は 暴力的である イェスが たとえば マタイ福音書 24 章において 語っているように.

では,v.12 の後半部分は 何を言おうとしているのか? 我々は,ここで,David Bivin (1939- ) 彼の Understanding the Difficult Words of Jesus – New Insights from a Hebraic Perspective において 紹介している David Flusser (1917-2000) 指摘に 準拠することができる.Flusser によれば,v.12 において イェスは ミカ預言書 2,13 を引用しつつ 語っている.そこで,その節 および それに先行する節を 読んでみよう:

12

אָסֹף אֶאֱסֹף יַעֲקֹב כֻּלָּךְ

קַבֵּץ אֲקַבֵּץ שְׁאֵרִית יִשְׂרָאֵל

יַחַד אֲשִׂימֶנּוּ כְּצֹאן בָּצְרָה

כְּעֵדֶר בְּתוֹךְ הַדָּֽבְרוֹ

תְּהִימֶנָה מֵאָדָֽם

13

עָלָה הַפֹּרֵץ לִפְנֵיהֶם

פָּֽרְצוּ

וַֽיַּעֲבֹרוּ שַׁעַר

וַיֵּצְאוּ בוֹ

וַיַּעֲבֹר מַלְכָּם לִפְנֵיהֶם

וַיהוָה בְּרֹאשָֽׁם


12 わたし (YHWH) 必ず 集める [ אָסַף ] だろう,ヤコブよ,おまえの全体を; 
わたしは 必ず 集める [ קָבַץ ] だろう,イスラエルの残りを; 
わたしは 彼らを いっしょにするだろう — Botzrah[エドム地方の地名]の 羊のように, 
彼らの牧草地の中心にいる[羊の]群のように; 
彼らは 不穏になるだろう 人間のゆえに.
 
13 突破口を開く者が 彼らの面前に やってきた; 
彼らは 突破した; 
そして,彼らは 門を通り抜けた;
そして,彼らは それによって 外へ出た; 
そして,彼らの王が 彼らの前を 行く; 
そして,YHWH 彼らの先頭を[行く].

そして,ミカ預言書のその部分との関係における マタイ福音書 11,11-14 に関する Flusser 説明を 読んでみよう:

イェスの観点においては,洗礼者ヨハネは 預言者 終末のときに 神の道を準備する 預言者,世に戻ってくるはずの エリヤ であった.ヨハネとともに,終末のときは 始まる;それは,世界史のなかへの決定的な突発である.すべての預言者たちは,洗礼者ヨハネのときまでのことを 預言した;しかし,今からは「天の王国が 突破してくる;そして,突破してくる者たちが それ[天の王国]を所有することになる」(Mt 11,12). それらの謎めいた言葉は,預言者ミカが言っていること (2,13) と関連している:「突破口を開く者が,彼らの前に 進み出る.彼らは 突破する;そして,門を通過し,それによって外へ出る.彼らの王が,彼らの前を 行く;主が 彼らの先頭を[行く]」.

中世のラビ,聖書注釈者 David Kimhi (1160-1235) は,この節に関して 次のような解釈を 提供している:「突破口を開く者は エリヤであり,彼らの王は ダヴィデの子孫である」.この解釈 その早期の形を イェスは 知っていたように 思われる によれば,エリヤは 突破口を開くために 最初に来たるべき者である;そして,突破する者たちが〈彼らの王 メシアとともに〉彼[エリヤ]に続く.イェスによれば,エリヤである洗礼者ヨハネは 既に到来した.そして,今や,[突破を]決心する勇気を持つ者たちが 天の王国を所有することになる.

洗礼者ヨハネの到来とともに,天の王国は 突破しようとする.ヨハネは「女から生まれた者たち」のなかでは 最も偉大であるが,天の王国で最も小さい者すらも 彼より偉大である.洗礼者ヨハネは,突破口 それを通って 神の王国は突破する を開いたが,彼自身は 神の王国の一員ではない.言い換えれば:イェスは,洗礼を受けたとき,天の声によって メシアの王国の開始に関して 天啓を受ける;ヨハネは 神の王国の到来のための さきがけであり,突破口を開いた者であるが,彼自身は 神の王国に属してはいない.彼は,言うなれば,それ以前の世代の一員である.この〈イェスによる〉逆接的な洞察は,これら ふたつのもの 洗礼者ヨハネとメシアの王国との間の区別 および イェスと洗礼者ヨハネとの間の歴史的な繋がり ともに 際立たせている.にもかかわらず,イェスが洗礼の際に経験したことは,彼に 新たな ほかの機能を 与える.イェスは 洗礼者ヨハネの弟子には成り得なかった.彼は,カリラや湖周辺の村々を巡って,天の王国を告げ知らせねばならなかった.
 
かくして,Mt 11,12 こう訳され得る:

ところで,洗礼者ヨハネの日々以来 今に至るまで,天の王国は 突破してこようとしている;そして,突破してくる者たちが それ[天の王国]を 所有することになる.

そのように読むなら,その文において イェスが語っているのは まさに 終末論的な〈神の支配の到来の〉状況であり,推定される終末論的文脈によく合致する と言えるだろう.

最後に補足しておくと,ミカ預言書 2,13 において「突破する」と訳される動詞は פָּרַץ (paratz) である.その語は「突破する,突発する,突入する,突然 現れる,突然 成起する」などの意味に加えて,「暴力を行使する」という意味をも有している.それゆえ,福音書のギリシャ語テクストにおける 中動態の βιάζεται[暴力を行使する]は そのヘブライ語動詞 פָּרַץ の訳語として用いられたのであろう と推測され得る βιάζω βιάζομαι Septuaginta のなかでは用いられていないので,Septuaginta における ヘブライ語とギリシャ語との対応に基づいて推定することはできないが.ちなみに,ミカ預言書 2,13 の פָּרַץ は,Septuaginta では διακόπτω[突破する]と訳されている.