2014年7月25日

人生の目的について; ニヒリスムとその克服について; 自由について; 転移の構造について; 聖人について



Facebook で Slavoj Zizek について語るグループのメンバになっているのですが,そこで或る人が「Lacan 的な観点から言うと,人生の目的は何か?」という問いを立てていました.多くの人が答えて,議論していました.とてもひとくちで答えられるような問いではありません.



或る人は「自由こそが生きる目的だ」と答えていました.しかし,自由とは何でしょうか?



わたしは Lacan の言葉をふまえて,こう答えてみました: John Coltrane は「わたしは聖人になりたい」と言った.そして Lacan は「聖人があらたに実存するように,わたしは懸命に努力している」と言っている,と.



その後,或る人は Zizek を引用しました: life is a stupid, meaningless thing that has nothing to teach you.「人生は,ばかげた,無意味なもので,何も教えてはくれない」.



この手の発言は,文脈から切り離してしまうと誤解を招きます.もとの文脈がどういうものであるかは,わたしは知りませんが,Zizek が単なる nihiliste であるはずはありません.しかし,「人生は無意味だ」という言葉はニヒリスムの言説の典型例です.もしそれが単純な悲観的ニヒリスムであるなら,克服しなければなりません.



前にニヒリスムについてちょっと触れましたが,Heidegger はニヒリスムの克服について真剣に考えました.であるがゆえに,Hitler Nazis がニヒリスムの克服を実現し得るかもしれない,という幻想に一瞬とらわれてしまったのかもしれません.しかし,それは1932年前後の一時的なことでした.Hitler がいくら威勢の良いことを言っても,ニヒリスムは克服できるはずがありません.



現在,ヨーロッパでもアジアでも nationalism の高揚が起きていますが,それも或る意味でニヒリスムに対する無効な悪あがきです.何か理想を振りかざしても,ニヒリスムは克服できません.三島由紀夫のように美を顕揚しても,ニヒリスムは克服できません.



では,ニヒリスムを克服するためにはどうすべきか?



Heidegger は,存在と無の本質を見定めることから始めました.



存在事象を存在事象たらしめているものが存在ですが,しかし,存在は,実は,ex-sistence として解脱的場処に位置づけられるものであり,存在事象から見れば,存在事象ではないものとして,無にほかならない.存在を存在事象と同様に論ずることはできず,存在は抹消されてしか書かれ得ない.そして,抹消された存在,無としての存在は,世に生きている存在事象から見れば,死にほかなりません.



Freud が死の本能と呼んだものは,存在事象の存在が無であること,そして,その無の深淵は存在事象を呑み込み,破壊しようとしているという事態に対応しています.抹消された存在は φ barré であり,他 A の場のなかの欠如としては Ⱥ です.



分析家の言説の構造を図示した aliénation の図においては,a をはさんで,Ⱥ $ とが対置されています.Lacan の公式:「ひとつの徴示素は,主体を,もうひとつのほかなる徴示素に対して代表する」において,「ひとつの徴示素」は a であり,「主体」は主体の存在の真理 φ barré すなわち Ⱥ であり,「もうひとつのほかなる徴示素」は $ です.「ひとつの徴示素は主体をもうひとつの徴示素に対して代表する」という命題は,分析家の言説の構造にあてはまるものです.そこにおいて Lacan は,$ は「聴く主体」であると規定しています.何を聴くのかというと,他 A の言説である無意識を聴くのです.主体自身の存在の真理の場処において「何かが語る」 ça parle, その声を聴くのです.その声は,主体の存在の真理を代表する徴示素 a です.



ニヒリスムから話がそれてしまいましたが,存在事象の次元でどうにかしようとしている限り,ニヒリスムは克服できません.今の日本ほど,存在事象が無意味,無価値であることが明白である歴史的状況はほかに少ないでしょう.存在事象の次元で,つまり,徴示素の次元で,何か目新しいものや,意味のありそうなもの,高邁な理想などを持ち出しても,それらの仮象性,欺瞞性はごまかしようがありません.



ではどうするか?存在事象を切り捨てるしかありません.主体の存在の真理が同一化している徴示素を切り離して分離するしかありません.そうして,無と死の深淵に一旦身を浸すのです.



それは,言うなれば,ニヒリスムを徹底的に突き詰めることだ,とも言えます.恐らく,先ほど紹介した Zizek の言葉も,そのような文脈において語られたものではないかと推測されます.



Heidegger が「自由」Freiheit と言うとき,ドイツ語でも英語でもフランス語でも frei, free, libre は「あいている」を意味しますが,そして,その場合漢字は「開,空,明」のいずれでも書けるわけですが,とにかく,Freiheit, freedom, liberté とは,あらゆる存在事象,あらゆる徴示素を切り捨てた「空き地」のことなのです.



あらゆる存在事象,あらゆる徴示素への執着を断ち,同一化を解消したことによって到達される「空き地」が自由の本質です.それは,存在論的穴と呼んできたもの,つまり,純粋徴示素としての a と同じものです.



追加の御質問をいただきました.ありがとうございます.分析家の言説の構造において,左側の a / φ barré , これは a / Ⱥ とも表記できるわけですが,この左側の構造と,右上の座の $ とのどちらが分析家でどちらが分析者 analysant (患者)か,ということは固定されたものではありません.



実際の分析の面接において解釈するのは分析家だけでなく,当然,分析者自身も自分の「無意識の成形」に耳を傾け,そして解釈します.「無意識の成形」について語ることが,既に解釈を含んでいます.



また,転移の構造としては,左側の部分は分析家を表すと言えます.主体の存在の真理の座に仮定された S2 は,「知の仮定的主体」 sujet supposé savoir と Lacan が呼ぶところのものです.「知の仮定的主体」が転移の必要条件であり,それが分析家に位置づけられることが臨床的な意味での転移を生じさせます.



聖人について追加の御質問をいただきました.ありがとうございます.おっしゃるとおり,聖人は,存在の真理の証人です.しかし,その場合の「証人」は,具体的に何か言葉に言いあらわして証言するとは限りません.例えば,殉教者は,おのが身を以て,処刑されたキリストにならうことによって,「証言」します.つまり,身をもって「存在の真理」を代表する徴示素 a と成っています.そこには通常の意味での言葉はありませんが,しかし,彼の行為自体が雄弁な証言なのです.



実際に言葉を以て証言したり,芸術作品を生み出すことによって証言することは,それなりの特別な才能がないとできません.しかし,そのような才能が無い者でも,まさに無言のまま,無為のまま,その者が実存することそれだけで存在の真理の証人であり得ます.むしろ,それこそが聖人の典型かもしれません.Mother Teresa を見てください.


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