2014年8月26日

「精神分析トゥィーティング・セミナー: フロイト・ハイデガー・ラカン」 8月24日,25日



24 August 2014 : 精神分析は金持ちの道楽か?; 乞食も神に献金し得るなら,貧しい人も精神分析を経験し得る.

ギリシャ語には「生」や「命」を意義する単語として,ψυχή ζωή とに加えてもうひとつ,βίος があります.biologie(生物学)や biographie(伝記)などの語の構成要素です.しかしこの語は,聖書のなかにはあまり頻繁には登場しません.

ζωή ψυχή の区別は,多分,聖書とそれに関連するキリスト教の文書のなかでもっぱらかかわってくるのではないかと思います.zoologie においては ζωή は動物的生命ですし,Aristoteles による人間の定義 ζῷον λόγον ἔχον は「理性を有する動物」であって,ζωή はやはり動物的なものと考えられています.

ちなみに,この「理性を有する動物」というアリストテレス的人間定義は,Heidegger の批判の的です.Heidegger Dasein という人間定義は,非アリストテレス的なものです.

ところで,大変有意義な御質問をいただいています.それは,「精神分析に何千円も何万円も支払えないような低所得者や生活保護受給者にとって精神分析は何になるのか?」という疑問提起です.

この質問を読んですぐに想起したのは,マルコ福音書 12,41-44 の話です.

貧しい寡婦が二枚の少額貨幣を神殿の献金箱に入れた.それを見てイェスは言う:あの貧しい寡婦は,誰よりも多くを献金箱に入れた.なぜなら,他の者たちは余裕のあるなかから献金しているが,彼女は生きるために所有しているものすべてを献金箱に入れたからだ.

神へ献げものをするということは,Lacan の表現で言えば,「徴象的負債」 dette symbolique を支払うということです.神に対する負いめを清算することです.つまり,構造 a / φ において,存在事象としての a を捨て去ることです.

聖書のなかで「貧しい寡婦」や「貧しい者は幸い」における「貧しい」という語は,ギリシャ語原文においては「乞食」と同じ語です.どういうわけか,ラテン語聖書では「乞食」と文字どおりには翻訳されず,「貧しい」と訳され,その後,どの言語の翻訳においても「貧しい」を意義する語が用いられていますが,本来は「乞食」です.

乞食とは,単に貧しいのではなく,生きてゆくために他 A に絶対的に依存している者です.

フランチェスコ会は「托鉢修道会」と呼ばれますが,これも本来は「乞食修道会」と訳されるべき語です.

或るフランチェスコ会の神父様(日本人)の講演を聴いたことがありますが,彼は自分でギターを弾いて,自作の聖歌を歌います.彼は中学生か高校生のときに既に司祭養成のための学校に入っていました.全寮制です.以前に親に買ってもらった安いギターの音にあきたらなくなって,彼は,校長の神父様に,新しいギターが欲しいのですが,と願い出ました.すると校長に,「君はフランチェスコ会に属しているのに,何ということを言うのか」と厳しく叱られたそうです.その後,彼はローマに留学したのですが,ギターを持っていくわけには行かず,ローマではギター無しでした.あるとき,日本で知り合いの信者さんたちがローマに来て,彼に,「神父様,ギターはどうしました?」と訊くので,持っていない,と答えると,信者さんたちは皆でお金を出し合ってくれ,おかげで彼はローマでギターを買うことができました.「乞食修道会」に属すると,そんなふうです.

話がそれてしまいましたが,ともあれ,貧しい寡婦の献金の話が示しているのは,乞食でも「負いめ」を清算することができる,ということです.あらゆる人間に原罪があることとの関連において,あらゆる人間は贖いをすることが可能です.それは,経済的に余裕があるか否かを問いません.

もし仮に貧しい人が精神分析を経験しようとするなら,聖書の中の「貧しい寡婦」のように全財産を実際に支払うには及びませんが,その人なりの支払いは可能なはずです.


25 August 2014 : 「愛する」とは「持っていないものを贈与する」ことである; 祈りと精神分析; 言語存在である限り,どんな低年齢の小児にも精神分析は可能である.

精神分析家への支払いは,サービスに対する対価というよりは,不可能な贈与だ,という御指摘をいただきました.まったくそのとおりです.

Lacan は,« aimer, c'est donner ce qu'on n'a pas »(「愛する」とは「持っていないものを与える,贈与する」ことだ)と言いました.この公式は一義的に解釈され得ませんが,最も根本的に思考するなら,それは Lacan が分離 séparation と呼ぶ事態を言い表しています.

そもそも,「愛」も一義的には捉えられません.それは narcissique な愛でもありえます.しかし,聖書で「汝れらの神を愛せよ」,「汝れらの隣人を汝れら自身のように愛せよ」と言うとき,それは narcissique な愛ではあり得えません.

本当の愛は,Lacan が「欠如と欠如の交わり」と呼ぶもの,学素で書くなら Ⱥ φ との交わりとしての分離に存します.神秘経験も同じ事態です.もはやそこには仮象は介在しません.他と主体は,Ⱥ φ として,直接的に一致します.そして,そこから復活が成起します.

精神分析における支払いの金額は喪失を実感させる程度のものであるべきだ,と言いました.本質的なのは,金銭的支払いそのものではなく,それによって生ずる喪失と,それによって顕わになる欠如です.「欠如を引き渡す」こと,それが分析家への支払いの本質です.

経済的な問題だけでなく,多忙さの問題に関しても御質問をいただきました.仕事を休んで分析に来るほど暇ではない者はどうするか?確かに,日本の現状においては,そのような人が分析を経験するのは難しいかもしれません.

しかし,津々浦々に分析家がいて,行こうと思えばいつでもすぐに分析家に会いに行くことができる.分析家の数がコンビニのように多くなれば,そうなるでしょう.Paris ではほとんどそうなっていると思います.フランスでも地方都市ではそこまで行かないかもしれませんが.

また,もうひとつ異なる視点から考えると,忙しすぎて祈ることもできない,というのは,存在事象の次元のことに捕らわれすぎて,神を見失ってしまった人間の状態です.神を忘れていなければ,どんなに忙しくても,ごく短時間,気持ちを神へ向けることはできるはずです.それと同様に,もしすぐ身近に分析家がいれば,多忙のなかにも時間を作って分析に行くことができるでしょう.祈りのために何とか時間を割くのと同じことです.

祈りとは,Pater noster Ave Maria などの既定の文句を唱えることだけではありません.勿論,それも重要です.それらのように長い歴史のなかで定着した祈りの言葉は,神を喚起するために有効です.しかし,そのためにも,まずは気持ちを神へ向けねばなりません.分析においても同じです.まずは,注意を Ⱥ ないし φ という欠如,存在論的穴へ向けねばなりません.

いわゆる自由連想が分析の基本的方法だとはいっても,不安を惹起する存在論的穴へまなざしを向けないために,ひたすら存在事象の次元のどうでもよいようなことを語るならば,それは自由連想ではなく,単なる回避であり,精神分析に対する抵抗にすぎません.

祈りにおいて気持ちを神へ向けることと,分析において存在論的穴へ思考を集中することとは,同じです.

祈りの時間を持つことは,その気になればいつでもどこでもできます.分析の経験もそれと同様にできるような現実的,社会学的条件が整うと良いのですが.

あらゆる人間には原罪があることと関連して,あらゆる人間には贖いの可能性がある,と言いました.そして,精神分析もまたそうである,と.

以上,経済的,時間的余裕と精神分析可能性との関連について若干の考察をしました.

では,年齢と精神分析可能性との関連はどうか?

小児の精神分析というと,Melanie Klein が有名ですが,ラカン派でも小児の分析をもっぱらしている分析家がいます.最も有名なのは Lefort 夫妻(ともに故人)です.彼らは,いわゆる自閉症の子供たちの治療に携わっていました.

精神分析史上,最も有名な小児症例は,Hans 少年でしょう.5歳の恐怖症の症例です.

どんなに幼くても,人間は言葉に住まう存在,言語存在です.その限りで,精神分析の可能性はあります.

ただし,特に臨床的に問題のない子供にまで精神分析をする必要はありません.子供の成長過程は,むしろ,各自が各自なりに「異状」になってゆく過程です.それは,社会の中で生きてゆくために避けられないことです.

しかし,その過程でたとえば恐怖症のような問題が起き,日常生活に支障をきたすようであれば,分析も選択肢に入ってきます.

言葉に住まっていれば,分析は可能です.しかし,まだ言葉も話せないような低年齢の子供はどうか?もし仮にそのような子供に神経症的な問題が起きる場合は,親を精神分析すべきです.子供に起きている症状は,親の症状です.

まだしゃべれず,自分で祈ることのできない赤ん坊のためには,親が代わりに祈ります.それと同様,自分ではしゃべれないような子供に何か神経症的症状が起きたなら,親が精神分析を受けることになるでしょう.

2014年8月24日

「精神分析トゥィーティング・セミナー: フロイト・ハイデガー・ラカン」 8月23日



23 August 2014 : ひとくちに「生命」と言っても,ζωή ψυχή とが識別される;「死を生きる」ことの一例としての神秘経験.

聖書においては,死からの復活としての永遠の命と,地上的な生とは,用語の上で厳密に区別されています.英独仏語においては,両者はともに life, Leben, vie というひとつの単語で差し徴されますが,ギリシャ語においては,地上的な生は ψυχή, 永遠の命は ζωή です.異なるふたつの単語が用いられています.日本語ではかろうじて「生」と「命」とを使い分けることができるかもしれませんが,「生命」という表現もあるので,「生」と「命」とを完全に区別することは困難です.

ψυχή は見慣れたアルファベットで書けば psyche です.つまり,心理学 psychologie や精神分析 psychanalyse などの語に含まれている psyche です.

ψυχή は,ラテン語では anima です.anima はフランス語の âme の語源です.âme は「たましい」です.ところが,anima animal の語源でもあります.つまり,動物的な生命です.ψυχή anima は,いわゆる animisme(この語も anima から来ています)的な世界観において,ある物事の生命的な原理です.ある物事が動的であり,変化するとき,その運動,変化の動因,原理が ψυχή, anima と呼ばれます.Platon においては,ψυχή は不滅であり,何回もの転生を生き続ける生命原理としての魂です.

今ではもっぱら「霊魂的なもの」「心的なもの」を表す ψυχή ですが,新約聖書においては,むしろ,動物的・地上的な生命です.それは,永遠の命としての ζωή, zoe に対して,たとえば「ヨハネ福音書」12,25 において,このように区別されています:「ψυχή を愛する者は,それを失う.この世において ψυχή に愛着しなくなった者は,それを永遠なる ζωή へと保つ.」

ψυχή は,存在事象の次元に捕らわれた生です.存在事象に執着した生を棄てることによって初めて,永遠の命へと復活することができます.

ψυχή ζωή との連関は,存在の真理の現象学的構造 a / φ barré にならって,ψυχή / ζωή と形式化することができます.フランス語の vie を用いるなら,存在の真理の現象学的構造が être / être barré と書かれるように,vie / vie barrée と書くことになるでしょう.

存在事象の次元における生から見れば,抹消された生は死にほかなりません.しかし,その死は,単純に無であるのではなく,また,生理学的な死でもなく,而して,永遠の命への復活なのです.

「死を引き受ける」という表現がよく用いられます.しかし,生理学的な死ではないような「死の引き受け」とは,具体的にどのようなことでしょうか?「死を生きる」というようなことが可能なのでしょうか?

「死の引き受け」の一例(あくまで一例であって,すべてではありません)は,神秘経験,mystique です.

神秘経験の例として最も良く知られているのは,少なくとも Lacan に関心を持つ皆さんなら見たことがあるはずなのは,Séminaire XX Encore の表紙を飾っているアヴィラの聖テレサでしょう.その彫刻は Bernini の作ですが,天使が矢で聖テレサの体を貫いています.彼女は恍惚としています.

そのような恍惚状態において,彼女は神を直接的に経験し,神的なものと交わり,合一しています.神的なもの,神性を直接的に経験することが,mystique を特徴づけます.

そのような神秘経験こそ,「死を生きる」ことの一例です.聖テレサは,神秘経験において,文字どおり死んだようになっています.意識は失われ,身動きひとつしません.つまり,この世,存在事象とのつながりを一切失っています.

神秘経験は,ζωή の経験です.死と,死からの復活としての永遠の命の経験です.であればこそ,Lacan mystique に注目したのです.Lacan séparation 「分離」と呼ぶ契機は,mystique の死の経験です.