28 September 2014 : 無神論について; 神は,存在の真理の場処である; 存在の真理の場処への知の仮定; 転移について.
まずは時事ネタから.Lacan の息女 Judith Miller が Roudinesco を名誉毀損で訴えた裁判の二審判決が9月24日付で出たそうです.木村智也氏の Facebook への投稿で初めて知りました.Le
Monde にも Le Nouvel Observateur にも ECF の site にも報道されていなかったので,全く気づきませんでした.
問題になっていたのは,Roudinesco が Lacan を無神論者と決めつけたこと;無神論者であるにもかかわらず Lacan は盛大なカトリックの葬儀を望んでいた,と Roudinesco は断定したこと;そして,Lacan の遺族は
Lacan の意向を無視して密葬ですませた,と
Roudinesco はこれまた決めつけたこと.
フランスの精神分析の歴史に関する Roudinesco の記述が不正確であり,彼女の視点は偏向しているという評価は,先ごろ出版された Nathalie Jaudel による批判を待つまでもなく,Lacan を直接知る人々の間では定まっていました.
先ほど紹介した Roudinesco の記述も,いったい何を根拠や証拠にしているのか,全く不明です.
Lacan は,彼の Séminaire 等の公の場で「わたしは無神論者だ」と宣言したことは一度も無いと思います.
また,Roudinesco
は,Lacan が自分の葬儀をどうして欲しいと思っていたかを知り得る立場にはありませんでした.彼女の記述は全く無根拠であることは明白です.
ただし,Judith
Miller は名誉毀損で Roudinesco を訴えていたので,判決は,Roudinesco が Lacan の名誉を傷つけたとは言えない,というものでした.ばからしい話です.
Roudinesco は,そもそも,無神論とは何かを真剣に考えてみたことがあるのでしょうか?多分,無いでしょう.彼女はそのような繊細な思考ができる人物ではないと思われます.
Roudinesco は,たとえば Lacan が Encore p.45 でこう言っていることを知っているでしょうか?それについて考えてみたことがあるでしょうか?Lacan はこう言っています:
まことに無神論者である者があるとすれば,それは神学者たちしかあり得ない.つまり,神について語る者らである.
Lacan も神について語っています.ただし,神学者たちと同じようにではなく.
たとえば,先ほどの引用の直前,Encore p.44 の下部で
Lacan はこう言っています:
真理の場処としての他 A は,神という用語に与え得る唯一の座である.神は,本来的には,其こにおいて言 le dire が生ずるところの場処である.(…)何事かが言われる限りにおいて,神という仮定はあり続けるだろう.
この引用箇所においては明言されていませんが,Lacan は,真理の場処としての他 A の場処について,それは穴の開いた場処である,と言っています.
神はひとつの場処である,と Lacan は言っていますが,他 A の場処に穴をうがつ深淵の座こそが神の座,神の場処です.
Lacan が神について語るとき,彼は,その穴を決して覆い隠そうとはせず,むしろ,それを明示します.それこそが神の本有に属しているからです.それによって Lacan は,深淵としての神,φ としての神が己れを啓示し得るように,神について語ります.
それに対して,神学者たちは — といっても,さまざまな神学者たちを十把一絡げにはしないでおきましょう.たとえば Meister Eckhart のような否定神学の神学者たちは違うからです.
Meister Eckhart のようではない凡庸な神学者たちは,神について語ることによって,神という深淵を覆い隠してしまい,神が己れを啓わすことを妨げてしまいます.Lacan が「無神論者であるのは神学者たちだ」と言っているのは,そのような意味においてです.
他方,無神論に関する Lacan の命題のうち最も有名なものは,Séminaire
XI p.58 のこれでしょう:
無神論の本当の公式は「神は死んだ」ではない.無神論の本当の公式は « Dieu est inconscient » 「神は意識が無い」である.
とりあえず「神は意識が無い」と訳しましたが,« Dieu est inconscient » は,神と知との関繋について述べた命題です.つまり,神は何も知らない.
そもそも,神は何かを知っていたり知らないでいたりするひとつの存在事象ではありません.
では「神はすべてを知っている」とはどういうことか?そのことと「神は何も知らない」とは相互に矛盾しているではないか?
父なる神について,Cappella Sistina の天井に
Michelangelo が描いたような白髪と長いヒゲの長老の image は,捨てなければなりません.
先ほど
Lacan が言ったように,神とはひとつの場処に与えられた名なのです.つまり,神の本有は,主体の存在の真理の座 φ です.
そして,その真理の座には知 S2 が仮定されています.先ほど Lacan が「神という仮定」と呼んでいたものは,神の座への知の仮定のことです.
神への知の仮定,それが「神は全知である」という命題が差し徴していることです.
他方,神とは知が仮定されている場処にほかならない限りにおいて,神は意識が無い.意識という生理学的,心理学的機能を神に帰することはできない.そう Lacan は言っているのです.
その場合,「無神論者」 Lacan が否定しているのは,通俗的な神の観念ばかりでなく,分析家を神格化する可能性です.
新興宗教の教団においては,教祖の神格化が起こります.教祖には神的な知が「仮定」ではなく,実際に備わっている,と信ぜられています.
精神分析家がそのような神格化を被ることがあってはならないし,いわんや,分析家が自分を神格化することがあってはなりません.精神分析が無神論的であるとすれば,それはそのような意味においてです.
しかし,そのことは,精神分析において神の本有について真剣に問うこと,神の本有に適うように,神に忠実であるように問うことを妨げるものではありません.そして,そのような問いによってこそ,神は ex-sistence の座から己れを啓示し得るのです.
転移について御質問をいただいています.関連する問題ですので,Télévision の読解へ進む前に考えてみましょう.
転移について,Lacan はさまざまな公式を提起しています.転移とは何か?Séminaire
XI, p.137 において Lacan はこう定義しています:
Le transfert est la mise en acte de la réalité de l'inconscient. 転移は,無意識の実在性の現動化である.
そして,同書
p.138 の始めに付言しています:
無意識の実在性は,性的実在性 réalité sexuelle である.
以上の転移の定義は,構造 a / φ に準拠して読解され得ます.
「無意識の実在性」は φ です.その現動化とは,己れを隠す主体の存在の真理 φ が仮象 a によって代理・代表され,それによって現象することです.
主体の存在の真理 φ の座には,知
S2 が仮定されます : a
/ S2. これが,Lacan が「知の仮定的主体」le sujet supposé savoir と呼ぶものです.それは,分析家の言説の左側の構造を成しています.
知の仮定的主体は,其れにもとづいて「転移とは如何なるものか」の問い全体が措定されるところの基軸である,と Lacan は Autres écrits p.248 で規定しています.
以上のような転移についての Lacan の所論は,Freud の転移神経症の概念の検討に基づいています.転移神経症とは,神経症の精神分析的治療において,神経症症状 a / φ が分析家を客体 a として形成し直されることを指しています.
そのようにして症状の構造は現動化され,現在化されます.そして,そうなって初めて,つまり,分析家自身が症状の徴示素 a となって初めて,分析家の言動は解釈の効果を持ち得るのです.
ですから,「精神分析の始まりには転移がある」と Lacan は言っています.
転移は精神分析の必要条件です.言い換えると,分析家の言説の構造が成立していることが,精神分析治療の可能性の条件です.