2016年10月28日

2016年10月21日,東京ラカン塾精神分析セミネール「言説の構造」 第1回

Le séminaire XVII L'envers de la psychanalysechapitre I : Production des quatres discours

セミネール XVII 『精神分析の裏』,第 I 章 「四つの言説の提示」


精神分析の裏.奇妙な表現です.精神分析の舞台裏.隠されたところ.すなわち,主体の存在の真理の在処.

「精神分析の裏」という表題に関連して,Lacan は,Ecrits の出版の際に1966年に書かれた文章のなかの「Freud の計画を裏側から捉え直すこと」(Ecrits, p.68) という表現に言及しています.

「Freud の計画」 [ le projet freudien ] は,彼の1895年の草稿 Entwurf einer Psychologie – 英訳では Project for a Scientific Psychology – のことでしょう.

そこにおいて Freud は,生命体の根本原則として,das Prinzip der Trägheit [惰性原則]を公式化しています.それは,このことに存します:神経細胞(単細胞生物であれば,一個体を構成する単一のの細胞それ自体)は,自身に課された興奮量を放出しようと努める.つまり,それを可能な限り低い水準に保とうとする.

この惰性原則は,1900年に出版される彼の著作 Traumdeutung [夢解釈]においては Lustprinzip [快原則]と呼ばれることになります.興奮量の増大は不快であり,興奮量が最も低く保たれた安静状態が快である,と Freud は定義するからです.

不快な興奮量増大は,本能の不満足によって惹起されます.適切な行動によって本能が満足されれば,鬱積していた興奮量は放出されて低下し,快が実現します.

一見もっともらしく見えるこの快原則を裏側から捉え直すこと.それが我々の計画である,と Lacan は述べています.

快原則の裏とは何か?生命体一般の生存維持にかかわる根本原則であるかに見える快原則の裏に隠されているものは何か?それは,後に Freud が Todestrieb [死の本能]と呼ぶことになるものです.興奮量が最も低い安静状態とは,永遠の安らぎである死にほかならないのですから.

もし仮に快原則に則って本能満足が直接的に実現されれば,それは定義上,快ですが,しかし,そのとき実現されるであろうものは,死の本能の満足としての死です.

Freud が死の本能を公式化するのは,1920年の論文:『快原則の彼方』においてですが,その「彼方」は,実は,快原則の裏に最初から隠れていたのです.

かくして,主体の存在の真理の在処を,解脱実存的な [ ex-sistent, ek-sistent ] な「死の在処」としても思考せねばなりません.

そして,死の在処に解脱実存 [ ex-sister, ek-sistieren ] する「死せる父」 – 源初の父殺しにおいて息子たちに殺された父 – の問題も.

ただし,死について思考するときは,死からの復活としての永遠の命の可能性を視野に入れねばなりません.

さて,今年度,2016-2017年度の東京ラカン塾精神分析セミネールの表題は「言説の構造」です.

La structure de discours. この表現は,Seuil 版 p.15, Staferla 版Patrick Valas の website から入手可能なもの ; Staferla の site に上げられている版は,文字が小さくて,読みづらいです;ただし,Patrick Valas のところにある版は漢字 – Lacan はときどき漢字を黒板に書いて見せました  が文字バケしており,そこに関してはもともとの Staferla 版を参照する必要があります) の p.13 に見出されます : 

l'expérience analytique est structure de discours [精神分析の経験は,言説の構造である].

ここで Lacan が discours [言説]と呼ぶところのものにおいてかかわっているのは,言語 [ langage ] において可能となる或る種の relations fondamentales [根本的な関繋]です.

それは,この公式において規定されます : un signifiant S1 représente le sujet $ pour un autre signifiant S2 [ひとつの徴示素 S1 は,もうひとつのほかの徴示素 S2 に対して,主体 $ を代表する].



ところで,Lacan は,S1 に関してこう述べています : l'extériorité du signifiant S1 au cercle marqué ici du sigle du A, c'est-à-dire le champ de l'Autre : la batterie des signifiants qui sont déjà là, désignée par le signe S2 [A と標された円に対する S1 の外在性.A, すなわち,他 Autre の場.それは,既に存在する徴示素のひとそろいであり,S2 と標されている] (p.11 dans la version du Seuil, pp.7-8 dans la version de la Staferla).



この extériorité du signifiant S1 au signifiant S2 en tant que lieu de l'Autre [他の場処としての徴示素 S2 に対する徴示素 S1 の外在性]という表現が示唆している構造は,如何なるものでしょうか?

先取りして言うなら,それは,四つの言説のうちで「大学の言説」と呼ばれることになる構造です:



存在の真理の現象学的構造としての投射平面の topologie において見るなら,


大学の言説においては,agent [能動者,代理者]の座に位置する知 S2 が穴あき球面の曲面に相当し,それに対して,真理の座に位置する支配者徴示素 S1 は,解脱実存的 [ ex-sistent, ek-sistent ] である Möbius strip のエッジを成しています.

Lacan が extériorité と呼んでいるのは,大学の言説に相当する topologique な構造における S1 の S2 に対する ex-sistence, Ek-sistenz [解脱実存]のことにほかなりません.

Séminaire XVII において初めて提示される四つの言説は,支配者の言説,大学の言説,hysterica の言説,分析家の言説の四つから成ります.


 

それらを導入する際に Lacan が大学の言説の構造を前提しているということは,何を示唆しているでしょうか?

それは,Lacan が常にこの問いを自問し続けている,ということです: 精神分析は,ひとつの科学であるか? [ la psychanalyse est-elle une science ? ] (cf. Séminaire XI, p.12 de la version du Seuil).

Séminaire XI の初回において Lacan はもうひとつ,宗教との関係における精神分析についても問いを措定しています.その問いのゆえにこそ,彼は「父の名」について問い続けます.その問題は,Séminaire XVII においては,Freud の最後の著書:『モーゼと一神教』の再検討をとおして問われることになります.

科学へ戻ると,Lacan が問題にする科学は,その名称のもとに我々が現在,日常的に理解しているような科学 – 科学技術と,その基礎を成す科学研究  には限られません.

Lacan が science [科学,学知]と言うとき,第一に,それは,其の可能性の条件を Descartes の cogito に有するところのものとしての science です.

cogito の確実性は,dubito [我れは疑う]によって得られます.そのような方法的懐疑は,「あらゆる既存の知の棄却」 [ le rejet de tout savoir antérieur ] (Séminaire XI, p.37 de la version du Seuil) をもたらします.

証明されていない臆見や先入見にすぎないような「知」の棄却:先取りして言うと,それは,hysterica の言説における知 S2 の「生産の座」への閉出に相当します:



ですから Lacan は,1973年の終わりころに執筆された Télévision のテクストにおいて,「科学の言説と hysterica の言説とは,ほとんど同じ構造を有している」 (Autres écrits, p.523) と言っています.(この presque [ほとんど]をイタリック体で強調することによって Lacan が何を言わんとしているのかについては,なおも問い続けねばなりません).

第二に,Lacan が science と言うときに問題にするのは,1965年12月01日に行われた Séminaire XIII の初回講義で読み上げられ,Ecrits のなかに最後のテクストとして収録されている書 La science et la vérité [科学と真理]において「絶対的」と呼ばれている science [科学,学知]です.

すなわち,Descartes の cogito によってその可能性において誕生した科学の言説の構造に,その後の現代史のなかで,或る決定的な変化 [ mutation décisive ] が起こります : « cette mutation décisive [...] par la voie de la physique a fondé La science au sens moderne, sens qui se pose comme absolu » [その決定的な変化は,物理学の道によって,現代的な意味  「絶対的」として措定される意味  における La science を基礎づける] (Ecrits, p.855). 

Lacan がそこで science に付す定冠詞を大文字とイタリック体で二重に強調しているのは,現代的な意味における science が絶対的なものであることを示唆するためです.

La science absolue. この表現は,Hegel の Phänomenologie des Geistes の完成としての das absolute Wissen [絶対知]に準拠しています.周知のように,Hegel はその著作を System der Wissenschaft [学知の体系]の第一部として構想しました.

現代において絶対的なものと見なされる科学.それは,存在の真理の保証として機能しています.すなわち,科学的に分析され総合され得るものだけが真なる存在事象である.勿論,現実には科学的に未解明の存在事象も少なからずありますが,それは技術的な事情による制限のせいにすぎません.或るものが真なる存在事象であるのは,原理的に言って,それが科学的に分析され総合され得る限りにおいてです.

現代において絶対知としてふるまう科学.その構造を形式化するのが,大学の言説です.Hegel の Phänomenologie des Geistes は,まさに大学の言説の構造において展開されます.

そも,『科学と真理』において Lacan は,主体の分裂 [ la division du sujet ] を「知と真理との間の分裂」 [ la division entre le savoir et la vérité ] (Ecrits, p.856) と規定しますが,この「知と真理との間の分裂」は,明らかに,Phänomenologie des Geistes の Vorrede [序文]の一節において Hegel が用いている Trennung des Wissens und der Wahrheit [知と真理との分裂]という表現に準拠しています.

そこにおいて Hegel はこう言っています:「無媒介性という抽象的な要素と,知と真理との分裂は,超克される.それを以て精神の現象学は終結する」 [ das abstrakte Element der Unmittelbarkeit und der Trennung des Wissens und der Wahrheit ist überwunden. (...) Hiermit beschließt sich die Phänomenologie des Geistes ].

Lacan は,Séminaire XIII の第二回目と第三回目の講義において,この図を提示しています:




この図は,Séminaire XI で提示された aliénation [異状]の図の variation です.左の領域 V は vérité [真理], 右の領域 Sc. は science [科学,学知]ないし savoir [知], 中央の intersection の領域は,客体 a の領域です.


そして Lacan は,中央の intersection の領域について,こう言っています:「客体 a の欠如の穴」[ le trou du manque de l’objet a ].

そのような構造を存在の真理の topologie において見るなら,


客体 a の穴は S(Ⱥ) の穴であり,それは,四つの言説においては右上の「他者の座」に相当します.大学の言説においては,確かに,a が他者の座に位置しています:


四つの言説については誰もがこう思念しているでしょう:四つの言説の構造は,1960年の『主体のくつがえし』において提示されている命題:「ひとつの徴示素 S1 が,もうひとつのほかの徴示素 S2 に対して,主体 $ を代表する」から,支配者の言説が直接的に導かれることによって,着想されたに違いない.


ところが,以上に見たように,そうではありません.四つの言説は,むしろ,精神分析を科学との関係において問うことにおいて明らかとなってきた大学の言説の構造  学知としての科学が支配者の座に位置する大学の言説の構造  を経由して,公式化されるに至ったのです.

ところで,現代において支配的であるのは,科学だけではありません.資本主義が全世界に君臨しています.

現代社会の支配構造を成す科学の言説と資本の言説の複合体を,Heidegger は Ge-Stell [総召集体制]と名づけます.Ge-Stell は,このように規定される存在構造です:すなわち,そこにおいては,科学によって分析され総合され得,かつ,資本の増殖のために召集され得るもののみが,存在事象である.

Lacan は,Séminaire XVI において,Marx の剰余価値の概念にもとづいて,客体 a を plus-de-jouir [剰余悦]と規定し直します.そして,それによって,資本主義の本質について思考しようとします.

四つの言説によって,Lacan は,現代社会における科学の言説と資本の言説の支配を批判しつつ,精神分析の言説による Ge-Stell と nihilisme の超克の可能性を問うて行くことになります.

2016年10月18日

« Lituraterre » を読む – ラカン読解ワークショップ開催の辞として

« Lituraterre » を読む ラカン読解ワークショップ開催の辞として

東京ラカン塾主宰 小笠原晋也

I. Workshop の意義

今日は「ラカンへの回帰」と題して,ラカン読解ワークショップを行います.東京ラカン塾として初めての試みです.

今年の始めに或る人が,Lacan を学ぶ初心者向けに Lacan 読解の workshop を開いてほしい,と Facebook chat で要望してきました.C’est pas mal, 悪くない,とわたしは思いました.

1966年11月に Ecrits が出版されてからちょうど50年がたとうとしている今,フランスでも,難解な Lacan のテクストをみづから読もうと努力する者が少なくなったそうです.いわんや,日本においてをや.

1950年代に Lacan は,精神分析をその真理へ連れ戻すために,「フロィトへの回帰」のスローガンを掲げました.それから約60余年後の今,我々は,同じ目的のために,「ラカンへの回帰」を提唱しなければなりません.

それは,「フロィトへの回帰」が Freud のテクストをドイツ語原文で読むことから始まったように,当然ながら,Lacan のテクストをフランス語原文で読むことから始まります.

ラカン読解ワークショップを発案してくれた人は残念ながら今日ここに来れませんでしたが,そのような提案をしてくれたことを彼女に感謝しましょう.

さて,一般的に言って,workshop は学会とは異なります.

学会では,通常,発表者は,何か新たに得られた知見を発表します.何らかの意味で positive なものが得られた,あるいは,見つかった.それを,多かれ少なかれ誇らしげに,発表します.

今日の我々の workshop は,そのような集まりではありません.発表者は,何か新たに見つけたものを参加者の前で誇示するよう求められてはいません.

また,ちまたで「読書会」と呼ばれているものにおけるように,できるだけ正確な訳文を作り上げたり,手際よくまとめられたわかりやすい要約を提示することが求められているわけでもありません.

そうではなく,今日,かかわっているのは,Lacan を読むこと,Lacan が我々に残した言葉をテクストをとおして読むこと,そして,その読む作業を,この場に集まった人々と分かち合うことです.

今までにも再三強調してきたように,Lacan を「読む」ということは,「翻訳する」ことではありません.日本語に翻訳しようとすることは,むしろ,読む作業を妨げます.もし仮に無理やり日本語の訳文を作り上げたとしても,それをとおして Lacan を読むことはできません.

なぜか?それは,基本的に言って,翻訳は「意味の了解」に還元されるからです.

テクストにおいて翻訳し得るのは,意味として了解されたことだけです.意味了解不可能なところは,翻訳不可能です.

然るに,Lacan のような著者を読むときに,つまり,Heidegger Lacan のような偉大な哲人,ならびに,Hölderlin Valéry のような偉大な詩人を読むときに,かかわっているのは,意味の了解ではありません.

意味を了解する.comprendre le sens. この comprendre という動詞に,知が真理を強引につかみ取り,支配しようとする大学の言説の「力への意志」を読み取ってください.

偉大な哲人や偉大な詩人の言葉には,大学の言説の「力への意志」に逆らうものがあります.つかみ取ろうとする手の指の間からすり抜け去ってしまうものがあります.

そのようなものを,Lacan は,意味 (sens) に対して,ab-sens と呼んでいます.意味の外に存するもの,意味に対して解脱実存的 (ex-sistent) であるもの.

実は,そのようなものこそが,Lacan のテクストの主題 (sujet) です.それは,彼が問い続けてやまなかった精神分析の主体 (sujet) の真理です.

それは,大学の言説において支配する知が決してつかみ取ることのできないものです.勿論,翻訳することもできません.

主体の存在の真理は,我々の側から手を伸ばしてつかみ取り得るものではなく,而して,逆に,存在の真理の側からおのづと啓示されるものです.

我々の側において為すべきことは,存在の真理の自己啓示に対するあらゆる抵抗と防御を廃することです.そうすれば,存在の真理は,我々に,それが自身を示現しようとするがままに,自身を示現してくれます.

我々の側のあらゆる抵抗と防御を廃することによって,存在の真理に自身を示現させること.まさにそのことに精神分析は存します.その意味において,精神分析存在の真理の実践的現象学です.

今日,我々の workshop は,確かに,精神分析の実践の場所ではありません.Lacan を読む試みと努力の場です.しかし,かかわっているのは,同じことです.

知が支配者の座に位置する大学の言説において,存在の真理を強引につかみ取り,無理やり日本語に翻訳しようとしても,無駄です.

そうではなく,Lacan のテクストを通して我々に語りかけてくる存在の言葉 [ das Wort des Seyns ] へ耳を傾けましょう.存在の真理の座において,何かが語る (ça parle). その語る何かの言葉を聞き取ろうとしましょう.それが何を言わんとしているのかを問いつつ.かつ,問うても答えとしては沈黙しか返ってこない不安に耐えつつ.

耳を傾けつつ問い,問いつつ耳を傾ける.そのような作業と翻訳作業とは両立し得ません.翻訳は,無回答の沈黙の不安を覆い隠すごまかしです.翻訳すれば,ひと安心.もはや問う必要はありません.沈黙と向き合う不安におののかずに済む,というわけです.

ところで,存在の言葉へ耳を傾けるためには,まず,存在の真理へ思いを馳せる必要があります.

思いを馳せる.特に,今ここに現在してはいない何かへ思いを馳せる.そうすることを,Heidegger は,Hölderlin の表現を借りて,Andenken と呼びます.

ドイツ語で an etwas denken, フランス語で penser à quelque chose. それは,今ここに現在してはいない何かへ思いを向けることです.

今ここに現在してはいないもの.失われたもの.根本的に,源初的に,失われたもの.とともに,単に失われただけではなく,将来せんとしているもの.将に来たらんとしているもの.そして,その意味において,常にともに存在しているもの.

過去と現在と将来との ekstatische Einheit[解脱的な統一]としての存在.それを Heidegger Seyn と呼びます.あるいは,Sein という語を抹消して

 
と表記します(以下においては,Sein と表記).Lacan の言う manque-à-être[存在欠如]としての存在です.

そのような存在へ思いを馳せることを,Heidegger は,『存在と時間』においては,Sorge と呼んでもいます.存在を気にかけること,思いやること.

そのような Sorge において,Andenken において,存在の真理の座において語る何かの言葉へ耳を傾けましょう.それが何を言わんとしているのかを問いつつ.

そして,「読む」という作業は,まさにそのことに存します.だからこそ,Lacan は,1971421日,東京で,精神分析を経験することには無関心なまま Écrits を邦訳する虚しい作業に取り組んでいた四人の大学人の前で語りつつ,こう言ったのです : tout dépend de ceci : avec quelle oreille vous pouvez lire les choses. 如何なる耳を以て物事を読み得るか すべては,そのことにかかっている.

目で読むのではありません.耳で読むのです.つまり,音声を聞き取りつつ.

すなわち,「読む」という作業は,単純に「文字を読む」ことではありません.

勿論,我々の目の前には Lacan のテクストがあります.文字があります.書かれたものがあります.しかし,1973年元旦に書かれた Séminaire XI の後書きで,Lacan はこう言っています:「書かれたものは,読むためにできてはいない」.

また,Lacan が好んで取り上げた神聖文字,hiéroglyphe の譬えを想い起こしても良いでしょう.文字は,そのものとしては,砂漠に埋もれて忘却のうちに放置された石碑に刻み込まれた解読不可能な神聖文字のようなものです.そのような神聖文字は verdrängen[排斥]されたものの優れた譬えであることに,留意してください.

砂漠のなかで忘却のうちに永遠に眠る神聖文字.あるいは,巨大な図書館のなかで或る書棚のかたすみに誰にも読まれないまま打ち捨てられた書物.文字の墓場.そのような墓場に眠る文字は,そのものとしては,死んでいます.読むためには,我々は,まず,文字を死から復活させる必要があります.死せる文字に命を与える必要があります.

そして,命を与えられた文字は,signifiant になる.確かにそうですが,その前にもう一段階あります.命を与えられた文字は,lalangue になります.

lalangue  Séminaire の聴衆に 1971年秋に初めて披露されたこの lalangue という用語が差し徴しているのは,そのものとしては曖昧な音声質料のことです.その曖昧さには,あらゆる解釈可能性が重ね合わされている.そのような音声のことです.

「読む」とは,曖昧さにおいて耳に聞こえてきた lalangue の断片を読むことです.つまり,何らかの仮定された知にもとづいて「解釈」することです.それによって初めて,lalangue の断片は,狭義における signifiant になります.

しかし,既に強調したように,「読む」ことは,単純に「出来合いの意味を了解する」ことではありません.そうではなく,我々は,signifiant lalangue の断片の関数として読みます.精神分析的な解釈は,意味を流動化し,そこに無意味の裂け目を切り裂く効果を有します.

日本語は,実は,lalangue par excellence です.それは,音読みされる漢語が多数あるせいです.例えば,或る人が「セイショにはこう書かれてある」と言ったとき,それはいったい,聖書なのか,成書なのか,青書なのか?我々は,耳に聞こえてきた「セイショ」という lalangue の断片を,文脈という仮定知にもとづいて,読まねばなりません.lalangue としての日本語の問題には,ここでは立ち入らないでおきましょう.

ところで,「読む」ことに関連して,今までのところ,まず,文字から lalangue , そして,lalangue から signifiant , という方向を提示してきました.しかし,言語の歴史をふりかえってみるなら容易に察せられるように,まず最初に与えられるのは,文字ではなく,lalangue です.

およそ十万年前,我々の先祖たちが,悲痛な喪失を前にして発した嘆きの音声.それが,言語の起源となった lalangue の断片ではなかろうか?そう想像します.

文字を持たない民族の場合,lalangue と,そこから創出される signifiant しかありません.

文字は,lalangue から生ずる質料的な沈澱として,lalangue に対して二次的なものです.


II. Lituraterre を読む

さて,以上のように論じつつ,我々は既に Lituraterre の読解へ足を踏み入れています.

19715月上旬に書かれたこのテクストには,まだ lalangue という用語は登場しません.しかし,そこで Lacan が文字と signifiant とを混同してはならない,文字は signifiant に対して一次的ではない,と強調するとき,その signifiant という用語に lalangue を読み取ることができます.

とは言え,Lituraterre において Lacan が問うているのは,確かに,文字についてです.しかし Lacan は,文字一般について問うているわけではありません.その唯一性における或る文字です.すなわち,Edgar Allan Poe の小説 The Purloined Letter[盗まれた手紙]においてかかわっている文字,その nullibiété[無在性]における文字,言うなれば,純粋文字です.

Lacan Lituraterre の冒頭に,Le séminaire sur « La Lettre volée » においても引用されていた James Joyce(ないし,彼の取り巻きの誰か)の言葉遊び : a letter, a litter を再び挙げています.

我々は,それに,Lacan L’instance de la lettre dans l’inconscient のなかで提示しているもうひとつの言葉遊びを併置しておきましょう : lettre, l’être. 

かくして我々は,ex-sistence において,存在と廃棄されたものとを重ね合わせることができます.実際,Lacan « déchet de notre être »[我々の存在というゴミ]と言っています.

さて,lituraterre という奇妙な néologisme は,littérature[文学]に由来しています.そして,littérature は勿論,lettre に由来しています.

lituraterre という語に,Lacan は何を読み取らせようとしているのか?極めて自然に,我々は,ラテン語の litura とフランス語の terre とを読み取ります.

litura は,何か書かれたものを,その上に線などを引いて,抹消する,ということです.先ほども,Heidegger Sein という語をバツ印で抹消していることに言及しました : Sein. そのような抹消です.

terre は,土地です.この場合,ひとつの localité です.在処です.

Lituraterre : « Rature d’aucune trace qui soit d’avant, c’est ce qui fait terre du littoral. Litura pure, c’est le littéral »[以前に存在した跡を,如何なるものも,抹消すること.それが,境界で区切られた土地を成すものである.純粋抹消,それが文字的なものである](Autres écrits, p.16).

言い換えると,lituraterre とは,抹消された存在の Lichtung[朗場]です.

先ほど引用した文のなかの litura pure という表現に注目しましょう.特に,pur という形容詞に.その語は,この Lituraterre という随筆の最後のところでもう一回使われています : de pure logique.

そこでは logique は女性名詞ですから,「論理学」です.de pure logique, 純粋に論理学的に.翻訳すれば,「まったく当然に」とでも訳されてしまうでしょう.

しかし我々は,Écrits の裏表紙のこの命題を思い出します : l’inconscient relève du logique pur, autrement dit du signifiant. 無意識は le logique pur – 言い換えれば,徴示素 – の領域のものである.

男性形で用いられているこの logique は,「論理学」ではなく,Λόγος にかかわるものです.そして,「純粋」は,Kant が用いた rein と同様に,「如何なる経験的なものも混ざり込んでいない」ということです.

le logique pur, 純粋に Λόγος にかかわるもの.如何なる経験的なものよりも先立つ源初における Λόγος. すなわち,ヨハネ福音書の冒頭の Λόγος, 開闢する Λόγος, 開闢の切れ目そのものとしての Λόγος, der lichtende Logos.

Lacan の学素では,それは S(Ⱥ) と書かれます.それは,穴としての l’ordre du symbolique そのものです.Lacan がここで問うている文字は,この S(Ⱥ) のことにほかなりません.実際,Lacan はこう言っています : « le bord du trou dans le savoir, voilà-t-il pas ce quelle dessine »[知のなかの穴のエッジ,それこそ文字が描くものではないか](Autres écrits, p.14).

ところで,そこで Lacan savoir[知]と言っています.その少し前のところで,「わたしは,分析家たちに向けて,真理と知とを対置した」(Autres écrits, p.13) とも Lacan は言っています.

それは,Écrits の最後に収録されている La science et la vérité への言及です.そこにおいて Lacan は,こう言っています:「我々は,主体の分裂を,知と真理との間の分裂として公式化した」.

知と真理との間の分裂.division entre le savoir et la vérité. この表現は,Hegel に準拠しています : Trennung des Wissens und der Wahrheit.

Phänomenologie des Geistes Vorrede において,Hegel がこう言っている一節です:「知と真理との分裂の超克 (...). それを以て精神の現象学は終結する」[ das abstrakte Element der Unmittelbarkeit und der Trennung des Wissens und der Wahrheit ist überwunden. (...) Hiermit beschließt sich die Phänomenologie des Geistes ].

Hegel は当初,Phänomenologie des Geistes をどのように位置づけていたか? System der Wissenschaft の第一部としてです.

つまり,1965-1966年の Séminaire XIII Lobjet de la psychanalyse の初回講義である La science et la vérité において,Lacan は,そうとは明示しないまま,Hegel Phänomenologie des Geistes に準拠しています.つまり,そこにおいて問題になっている構造は,後に Lacan が「大学の言説」と名づけることになるものです:



実際,Lacan は,Séminaire XIII の第二回と第三回の講義において,このような図を提示しています:
  




この図は,Séminaire XI で提示された aliénation の図の variation です左の領域は vérité, 右の領域は science ないし savoir, 中央の intersection の領域は,客体 a の領域です.

そして Lacan は,中央の intersection の領域について,こう言っています:「客体 a の欠如の穴」[ le trou du manque de l’objet a ].




そして,実際,この cross-cap と四つの言説の四つの座との対応を示した図で確認してみると,大学の言説においては S(Ⱥ) の座に a が位置しています.

大学の言説においては,客体 a は,知 S2 のなかにうがたれた穴なのです.

Lituraterre において Lacan が「知のなかの穴のエッジ」と言うとき,その知は,大学の言説において支配者の座に就いている知 S2 のことである,ということが確認されます.

そして,大学の言説においてその穴のエッジを成している客体 a は,純粋文字 S(Ⱥ) の座に位置しています.

その純粋文字は,Heidegger の言う存在論的差異 [ die ontologische Differeiz ] を規定します.

Lacan littorale という語を単なる frontière ではないものとして用いるとき,それは,一方に存在事象,他方に存在というふたつの根本的に異なる領域を分ける境界線としてです.

また,Lacan が「常に悦を受容する準備のできた鉢ないし碗」 [ godet prêt toujours à faire accueil à la jouissance ] と言うとき (Autres écrits, p.19), 我々は,Heidegger Krug[壺ないし瓶]を想起します.それは,確かに,壺の外部の存在事象の領域と,壺の内部の存在の領域とを分ける littorale です.

そのような鉢ないし碗の凹みをうがつものは,écriture です.文字を書くことは,流体による浸食作用のように,えぐり取って,溝を造ります.

« L’écriture creuse le vide »[書記は,空をえぐる] (Autres écrits, p.19) ; « L’écriture est dans le réel le ravinement du signifié »[書記は,実在において,被徴示の浸食形成である] (Autres écrits, p.17) ; « l’écriture est ce ravinement même »[書記は,そのような浸食形成そのものである] (Autres écrits, p.18).

それに対して,意味を成すものとしての signifiant は,semblant[仮象]です.

意味に対しては,読む作業は,解釈として,lalangue への還元において意味を流動化し,無意味の裂け目を切り開き,純粋文字の穴が自身を示現し得るようにして行きます.

« Ce qui de jouissance s’évoque à ce que se rompe un semblant, voilà ce qui dans le réel se présente comme ravinement » [仮象が破れることにより喚起される悦なるもの,それは,えぐられた溝として実在において提示されるものである] (Autres écrits, p.17).

存在の真理の実践的現象学としての精神分析において,仮象が破れるたびに,それが覆い隠していた純粋文字の穴が姿を現します.

Lacan のような哲人のテクストには,そのような仮象の破れはあちらこちらにちりばめられています.我々は,翻訳によってそれを覆い隠そうとせず,裂け目を裂け目として認めればよいだけです.

そして,その穴をとおして自身を示現する存在の真理の言葉に耳を傾けましょう.ただし,何らかの答えが神託のように返ってくるわけではありません.返ってくるのは,沈黙だけかもしれません.そのとき,我々は,テクストを前にして,不安に襲われるかもしれません.

だからこそ,今日のように,workshop において複数の者が集まることに意義があります.ひとりでは耐え難い不安も,集いにおいては耐えられるかもしれませんから.

原始キリスト教において,教会という集いは,不安に耐えるためのものだったはずです.将に起こらんとするキリストの再臨を待つ不安に耐えることです.

我々の workshop もそのようなものとして有意義であるよう,祈りましょう.


20161016

2016年10月15日

ラカン読解ワークショップ - ラカンへの回帰

東京ラカン塾主催
ラカン読解ワークショップ - ラカンへの回帰
L'Atlier de l'Ecole lacanienne de Tokyo
Lire Lacan pour revenir à Lacan

2016年10月16日10時より,文京シビックセンター 3C 会議室
A partir de 10 hrs, le 16 octobre 2016, à la salle de conférence 3C du Centre civique de Bunkyo

小笠原 晋也 (Shinya Ogasawara)
En guise d'introduction : Déchiffrer la Lituraterre

鬼丸 康太郎 (Kotaro Onimaru)
"Réponse au commentaire de Jean Hyppolite sur la Verneinung de Freud"

福田 肇 (Hajime Fukuda)
"Démontage de la pulsion" et "La pulsion partielle et son circuit" dans le Séminaire XI

木村 智也 (Tomoya Kimura)
"Subversion du sujet et dialectique du désir dans l'inconscient freudien"

工藤 庄平 (Shohei Kudo)
"Analyse et vérité ou la fermeture de l'inconscient" dans le Séminaire XI

もうひとり,何時に会場に来れるか今のところ確約できない方が,Position de l'inconscient について発表します.
Une autre personne qui ne peut pas promettre pour le moment quand elle arrivera à notre atelier, fera son exposé sur la Position de l'inconscient.

参加申込はまだ可能です.小笠原 晋也 (Shinya Ogasawara) へ御連絡ください.

Pour y participer, contacter 小笠原 晋也 (Shinya Ogasawara)
e-mail : ogswrs@gmail.com

参加費1000円.当日現金で支払ってください.
Frais de participation : 1000 yen