2024年4月8日

そして 彼は見た;そして 彼は信じた — 何を見たのか ? 何を信じたのか ?

Caravaggio (1571-1610) : Incredulità di san Tommaso

そして 彼は見た;そして 彼は信じた 何を見たのか ? 何を信じたのか ?



聖イグナチオ教会における 復活の主日(20240331日)の 10:00 のミサの説教で,主任司祭 高祖敏明神父は,その日の福音朗読 (Jn 20,01-09) に関して,こう述べている:

何回 読んでみても よくわからないことが あります.ペトロとヨハネは[イェスの]墓に入り,「見て,信じた」と書かれてあります.彼らは 何を見て,何を信じたのでしょうか ? 今日の福音の最後 (v.09) には「イェスは 必ず 死者のなかから復活することになっている という 聖書の言葉を,二人は まだ 理解していなかったのである」と書かれてあります.ということは,彼らは まだ 主の復活を信じたわけではない.では,彼らは 何を信じたのか?

Jn 20,01-09 は,復活の主日の日中のミサで 毎年 朗読される箇所である.今年 喜寿を迎えようとしている 司祭が,その一節を 数え切れない回数 読んできたであろうにもかかわらず,そこには「よくわからないことがある」と問う しかも,復活の主日のミサ説教において,多数の会衆のまえで ;そのような彼の誠実さと真摯さに わたしは脱帽する.

問いを 特に,適切な問いを 措定することは,それに答えることよりも,はるかに難しい;あるいは,適切な問いを措定することは,まだ自覚されていない答えの予感なしには,不可能である.

わたし自身は,その箇所を やはり 幾度となく 読んできたが,彼のように疑問を感じたことは 今まで 一度も なかった.注意深く読む者と そうでない者との 差である.

高祖敏明神父の問いのおかげで,我々は,いくつかの気づきを得ることができる.以下に説明しよう.


見た そして 信じた


周知のように,Jn 20,01-09 においては こう物語られている:イェスが葬られた日から三日め,マリア マグダレーナは 彼の墓のところに来る;そして,墓の入口の石が除けられてあり,イェスの遺体がなくなっていることを 見る;そのことを 彼女は ペトロとヨハネに 知らせる.彼らは 墓に 駆けつける;ヨハネが先に到着するが,彼はペトロの到着を待つ;そして,まず ペトロが 空[から]の墓のなかへ入り,遺体を包んでいた布が残されてあるのを 見る;次いで,ヨハネも 墓のなかへ 入る.

問題は,最後のふたつの節 (vv.08-09) である.「聖書と典礼」に掲載されている邦訳(新共同訳)では,こう訳されてある:

8 それから,先に墓に着いたもう一人の弟子[ヨハネ]も 入って来て,見て,信じた.
9 イェスは 必ず 死者の中から復活することになっている という 聖書の言葉を,二人は まだ 理解していなかったのである.

その邦訳に欠陥があることに気づくために,我々は ギリシャ語の原文を見てみよう:

8 τότε οὖν εἰσῆλθεν καὶ ὁ ἄλλος μαθητὴς ὁ ἐλθὼν πρῶτος εἰς τὸ μνημεῖον καὶ εἶδεν καὶ ἐπίστευσεν·
9 οὐδέπω γὰρ ᾔδεισαν τὴν γραφὴν ὅτι δεῖ αὐτὸν ἐκ νεκρῶν ἀναστῆναι.

わたしは,より逐語的に こう翻訳する:

8 次いで,そのとき,もうひとりの弟子 彼は 最初に到着していた も,墓のなかへ 入った;そして,彼は 見た;そして,彼は 信じた.
9 なぜなら このゆえに:彼らは 聖書を[聖書にこう書かれてあることを]まだ知らなかった:すなわち,彼が死者たちのなかから立ちあがる[復活する]のは 必然的である.

ギリシャ語原文と新共同訳のテクストとを見比べるとき,我々は このことに気づく : v.09 原文の ふたつめの単語 γάρ[なぜなら ...のゆえに]が 新共同訳では 訳し落とされている;そして,新共同訳 (1987) だけでなく,新しい聖書協会共同訳 (2018) でも 古いバルバロ訳やフランシスコ会訳でも その語は 無視されている.2023年に岩波書店から出版された邦訳新約聖書の改訂版においては,それは「つまり」と訳されてはいるが,理由や原因を表現する接続詞として訳されてはいない.

しかるに,その γάρ の意味を考慮しつつ 読み直すなら,我々は このことに気づくことができる:ヨハネが「見た;そして 信じた」のは,イェスの復活は必然的であるということを まだ知らなかったからである;つまり,もし仮に ヨハネが イェスの復活の必然性を 聖書(勿論,旧約の諸テクストのことである)にもとづいて あらかじめ 知っていたならば,彼は「見た,そして 信じた」のではなく,しかして,見なくとも,聖書にもとづいて 信ずることができていたであろう.

「見ずに 信ずる」 それは,同じ 20 章の 少しあとの箇所 (v.29) それは 復活節 2 主日のミサにおいて 朗読される 想起させる;そこにおいて,トマス 彼は「わたしは 見なければ 信じない」(v.25) と主張していた に向かって,復活したイェスは こう言う:

Ὅτι ἑώρακάς με πεπίστευκας; μακάριοι οἱ μὴ ἰδόντες καὶ πιστεύσαντες.

あなたは,わたしを見たがゆえに,信じたのか ? 幸福だ 見ずして信ずる者たちは!

かくして,我々は このことに気づく : v.09 における ヨハネの「見た,そして 信じた」は,v.29 における トマスの「見たがゆえに 信じた」と 同じことである(「彼は,見たがゆえに,信じた」と言うために,単純に等位接続詞で文を繋いで「彼は見た,そして 彼は信じた」と言うのは,ヘブライ語的な構文である).

「見て 信ずる」 勿論,それは それでよい;「信じない」よりは はるかに よい.しかし,それよりもっとよいのは「見ずして信ずる」ことの方である:

見ずして信ずる者たちは 幸福だ!

そのイェスの祝福は,我々に向けられている じかに 空[から]の墓を見たのでも,復活した主の姿を見たのでもなく,しかして「主 イェス キリストは 死者たちのなかから 復活した」という福音を聴いたことによって 信ずる 我々に.


聖書の成就の必然性


さらに,復活の主日の週の水曜日の福音朗読「エマオの弟子たちへの イェスの出現」(Lc 24,13-35) を読むとき,我々は この箇所を見出す:

25 καὶ αὐτὸς εἶπεν πρὸς αὐτούς, Ὦ ἀνόητοι καὶ βραδεῖς τῇ καρδίᾳ τοῦ πιστεύειν ἐπὶ πᾶσιν οἷς ἐλάλησαν οἱ προφῆται·
26 οὐχὶ ταῦτα ἔδει παθεῖν τὸν Χριστὸν καὶ εἰσελθεῖν εἰς τὴν δόξαν αὐτοῦ;
27 καὶ ἀρξάμενος ἀπὸ Μωσέως καὶ ἀπὸ πάντων τῶν προφητῶν διερμήνευσεν αὐτοῖς ἐν πάσαις ταῖς γραφαῖς τὰ περὶ ἑαυτοῦ.

25 そして,彼[イェス]は 彼ら[エマオの弟子たち]に向かって 言った:

おお,あなたたちは 何と 知性を欠いていることか!心が遅すぎることか 預言者たちが語ったことすべてを信ずるためには!
26 メシアが そのように受難し そして 彼の栄光へ入ることは,必然的ではなかったのか?

27 そして,彼は,モーセと預言者たちすべてから始めて,聖書全体において 彼自身について書かれてあることを 彼らに 解釈した.

そこに 我々は Jn 20,09 δεῖ すなわち イェスの復活の必然性を 再び見出す : Tanakh תָּנָ״ךְ : モーセの律法と 大小の預言者たちと 詩篇をはじめとする諸書,すなわち ヘブライ語聖書全体)は こう預言している:メシア イェス (Χριστς Ἰησοῦς) 死者たちのなかから復活することは 必然的である.

実際,同じ ルカ福音書 24章の vv.44-46 において,イェスは 再度 こう言っている:

44 Εἶπεν δὲ αὐτοῖς, Οὗτοι οἱ λόγοι μου οὓς ἐλάλησα πρὸς ὑμᾶς ἔτι ὢν σὺν ὑμῖν, ὅτι δεῖ πληρωθῆναι πάντα τὰ γεγραμμένα ἐν τῷ νόμῳ Μωσέως καὶ τοῖς προφήταις καὶ ψαλμοῖς περὶ ἐμοῦ.
45 τότε διήνοιξεν αὐτῶν τὸν νοῦν τοῦ συνιέναι τὰς γραφάς·
46 καὶ εἶπεν αὐτοῖς ὅτι Οὕτως γέγραπται παθεῖν τὸν Χριστὸν καὶ ἀναστῆναι ἐκ νεκρῶν τῇ τρίτῃ ἡμέρᾳ,

44 そして,彼は 彼らに言った:

これらは,わたしが まだあなたたちとともにいたときに あなたたちに向けて言ったことばである:モーセの律法と預言者たちと詩篇[つまり Tanakh]のなかでわたしについて書かれてあることがすべて成就されることは,必然的である.

45 次いで,彼は 彼らの知性を開いた 聖書を理解させるために.
46 そして,彼は 彼らに 言った:

このように書かれてある:メシアは 苦しみ,そして 三日めに 死者たちのなかから 立ちあがる [1].

その v.44 の「モーセの律法と預言者たちと詩篇 (Tanakh) のなかでわたしについて書かれてあることがすべて成就される」は,ヨハネ福音書におけるイェスの臨終の場面 (Jn 19,28-30) の「聖書が成就される」をも 想起させる.

28 Μετὰ τοῦτο εἰδὼς ὁ Ἰησοῦς ὅτι ἤδη πάντα τετέλεσται, ἵνα τελειωθῇ ἡ γραφή, λέγει, Διψῶ.
29 σκεῦος ἔκειτο ὄξους μεστόν· σπόγγον οὖν μεστόν τοῦ ὄξους ὑσσώπῳ περιθέντες προσήνεγκαν αὐτοῦ τῷ στόματι.
30 ὅτε οὖν ἔλαβεν τὸ ὄξος ὁ Ἰησοῦς εἶπεν, Τετέλεσται, καὶ κλίνας τὴν κεφαλὴν παρέδωκεν τὸ πνεῦμα.

28 そのあと,イェスは,聖書が成就されるために すべてが既に成し遂げられたことを知って,言う:「わたしは 渇く」.
29 酢で満たされた器が そこにあった.そこで,彼らは,酢で満たしたスポンジをヒュソポス[の枝]に付けて,[それを]彼の口のところへ 差し出した.
30 そこで,イェスは 酢を 口にした;[そして]そのとき 彼は 言った:「成し遂げられた」;そして,彼は,頭を垂れて,息吹を引き渡した.

聖書の成就 (πληρωθῆναι, τελειωθῆναι) 必然的である この限りにおいて:聖書をとおして 神は 人間たちに 彼の意志 (τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ) 伝えている;そして,神の意志の実現は 必然的である.

では,その「神の意志」とは 何か? その答えは『カトリック教会のカテキズム』の「主の祈り」の説明 (#2822) 明確に 提示されている:

我らの父の意志は これである:「すべての人間たちが 救われること;そして,真理を識るに至ること」(1 Tm 2,03-04).

その場合,「真理を識ること」(ἐπίγνωσις ἀληθείας) は「神との交わり」と言い換えてよいだろう;なぜなら このゆえに:イェスは「わたしは かつ 真理 かつ いのち である」(Jn 14,06) と言っている;かつ,聖書において「識る」[ יָדַע , γιγνώσκω ] は「親密な関係にある」を意義し得る.そして,その「親密な関係」とは,そこにおて 我々が 神を Abba[おとうさん,パパ]と呼ぶところの 関係 つまり,そこにおいて 我々が神の子であるところの関係 である 神が 我々に πνεῦμα υἱοθεσίας[我々を神の子とする息吹]を授けてくださったことにより.

では,そのような神の意志 あらゆる人間の救済の意志 は,如何にして 実現されたのか 必然的に? 然り,それは 既に実現されている 必然的に.

それは,勿論,終末論的な Ben Adam[神の〈人間である〉息子]かつ 終末論的なメシアとしてのイェスの受難と復活によって 「わたしは 神の息子であり,メシアである」と自覚した イェスが みづから進んで 贖罪のいけにえとして 自身を献げ,そして,死者たちのなかから 永遠のいのちへ立ちあがったことによって である.

ナザレのイェスは如何なる人物であったかについて,わたしは こう推測する:

ガリラヤ地方(当時のガリラヤ地方は,イェルサレムよりも より都市的であり,ヘレニズムやローマの文化に対して より開かれており,教育水準も より高かった)で育ち,地元のシナゴーグの付属学校で教育を受け,さらに,優れたラビのもとで修練を経験し,そして,慣例どおりに 30 歳ころに みづからも ラビとして 公的な活動を開始することになる Yeshua ben Yosef[ヨセフの息子 イェス]は,あるとき,祈りにおいて,息吹の洗礼によって「神の息子」と成り,メシアと成ったことを 自覚する.その「あるとき」は ひとつの劇的な瞬間であったかもしれないし,あるいは,彼は,ラビとなるための厳しい修行の年々をとおして「神の息子」であることに目覚めていったのかもしれない.いずれにせよ,特に 詩篇 2,07 の「おまえは わが息子である;わたしは 今日 おまえを生んだ」は 彼に 決定的な inspiration[息吹の吹入]を与えただろう.

しかも,彼にとって「神の息子」である ということは,単に〈栄光に満ちた〉メシアであることを意義するだけではなく,しかして,第 2 イザヤ書 (Is 52,13 53,12) で提示されている「主のしもべ」— 彼は,神の意志にしたがって〈人間すべての代わりに 彼らの罪を引き受け,自身を 子羊のように 贖いのいけにえとして献げることによって〉人間すべてに救済をもたらし,そして,彼自身 高められ,永遠のいのちを生きることになる であることをも 意義する.

かくして,彼は,救済論 人間は如何に救済され得るか に,終末論との連関において,このコペルニクス的な転回を もたらす:すなわち,救済は〈個々人が ことこまかな律法の規定に忠実に従って 生活し,律法が定めるとおりに 家畜や穀物の いけにえを 神に 定期的に捧げ続けることによって〉個別的に得られるのではない;そうではなく,神が〈神の 人間に対する 愛のゆえに〉神自身の意志によって 人間すべてに 終末論的な救済を 与える しかも,人間にとっては 無償で なぜなら 神が みづから その代価を 人間のために 支払ってくれるから:すなわち,人間を贖うために,神が 神自身の〈人間である〉息子[בֶן־אָדָם , Ben Adam, 人の子]を 贖いのいけにえとして 神自身に 捧げるしかも,繰り返してではなく,一回限りなぜなら このゆえに:それで十分である全人類の終末論的な救済の完成ために.そして,彼[イェス]自身は〈死から 永遠のいのちへ 復活することを〉報いとして 父から与えられる.

そのような救済論は,民衆からは熱烈に支持されるであろうが,イェルサレムでは神殿祭司(サドカイ人)たちからも律法学者(ファリサイ人)たちからも激しい反発を惹起するだろう,ということを,イェスは 当然 始めから 計算に入れている.しかも,自身をいけにえとして捧げるために十字架上で処刑されるためには,それだけでは足りない;ローマ帝国に対する反逆者と見なされねばならない;そこで,イェスは,彼の周りに形成される弟子たちの集団を わざと「神の王国」ないし「天の王国」と呼ぶ それが あたかも ユダヤ民族国家の独立を目ざす政治的な動きであるかのように 見せるために;そして,実際,ローマ帝国に対する反乱をもくろむ勢力は 彼を「ユダヤ人たちの王」として担ぎ上げようとする.かくして,神の意志にしたがうイェスの意図どおりに,彼の救済論は 実現された 彼が 十字架上で 全人類の贖いのために 神に献げられる いけにえとして 屠られたことによって 必然的に.


彼は何を見たのか?


最後に,「そして,彼は 見た;そして,彼は 信じた」に関する もうひとつの問い「彼は何を見たのか?」について 手短に考えてみよう.

ペトロとヨハネが イェスの墓のところで 見たものは,復活したイェスの姿ではなく,しかして,そこに存在するはずの彼の遺体の不在である:空[から]の洞穴という 空虚の穴,ひとつの欠如 ラカンの用語で言うなら「存在欠如」(le manque à être) — 穴である.我々は それを「否定存在論的孔穴」(le trou apophatico-ontologique) と呼ぶ.その穴との遭遇が 彼らを イェスの復活の信仰へ 導いた.

トマスの場合も同様である.彼が見たのは,イェスの身体に打ち込まれた釘の跡の穴であり,彼の身体に突き刺された槍の傷の穴である.それらも,否定存在論的孔穴の形象である.そして,それらを見て,トマスは 叫ぶ : “Ὁ κύριός μου καὶ ὁ θεός μου”[あなたは わが主 かつ わが神!]

否定存在論的孔穴との遭遇は,強い不安を惹起する 無の不安,死の不安,罪の不安.上に引用した福音の箇所においては そのような不安は物語られてはいない.だが,我々の大多数は,我々自身の経験から 強い不安が経験される 最も日常的な状況は,たとえば,睡眠中に見る夢である 否定存在論的孔穴をまえにしての不安を 識っている.

では,如何にして その不安から 復活の喜びへ 至ることができるのか? ここでは こう言うにとどめておこう:それは 信仰の神秘である.そして,それにならって,こうも言っておこう:それは 無意識の神秘であり,精神分析の神秘である.


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[1] Lc 24,46 の「メシアは 苦しみ,そして 三日めに 死者たちのなかから 立ちあがる」に関して,The Ignatius Catholic Study Bible (2010) 注において こう述べている:

それは,旧約のなかで予告されている神秘である.イェスに対する侮辱と拒絶は 詩篇 31, 69, 118 および イザヤ 50,06 想起させる.

彼の苦しみと十字架刑は,詩篇 22 および イザヤ 53 において 描かれている.

「三日め」については,イェス自身の説教のなかで[幾度も]強調されている.旧約の背景は さまざまである :

(1) イサク:彼は,神が 三日めに 彼をアブラハムに無事に返すために 介入するまで,三日間 死の宣告のもとにあった (Gn 22:04). それは,死に至るまで父に従順であったあとに新たないのちへ起きあがった[復活した]イェスの歴史的予告である.

(2) 預言者ヨナの経験:彼は,クジラの胃のなかに 三日間 いたあと,そこから出てきたことにおいて,三日ののちに墓から現れ出てきたキリストを 予示している (Jon 1,17).

(3) 預言者ホセアは,イスラエルの〈バビロン捕囚からの〉再建を,三日めの復活として 描いている (Hos 6,02). メシアは 十全な意味において イスラエルを表す その召命と運命とを体現することにおいて がゆえに,キリスト自身の復活は イスラエルの〈息吹を失った死の状態からの〉復活を 開始させる.

(4) より一般的に,「三日」というモチーフは,神による解放への前奏と関連しており (Ex 10,21-23), また,主との出会いに先立つ準備の期間と関連している (Ex 19,10-11).

寓意的には,キリストは,墓のなかに 二夜 横たわっていた 二重の〈罪による〉死から 人間を救うために なぜなら このゆえに:魂は 罪のゆえに 精神的に 死に,そして,身体は 罪に対する罰として 物理的に 死ぬ.三日めに,キリストは,死に打ち勝って,今や,我々の魂を 恵みにおける新たないのちへ立ちあがらせる;そして,のちに 我々の身体を 栄光において 立ちあがらせるだろう.

ただし,The Jewish Annotated New Testament (2017) は「Tanakh のなかには メシアの受難と復活が明記されている箇所は ない」と断言している.つまり,メシアの受難と復活は 解釈である.実際,Lc 24,27 διερμήνευσεν[彼は 解釈した]と言われている.この ἑρμηνευτική は,紀元 1 世紀以降 rabbinic Judaism(神殿祭儀が不可能となったあと もっぱら聖書のテクストとその解釈に準拠する ユダヤ教の信仰形態)において さらに発展してゆく Midrash と呼ばれる 聖書解釈学である.