フランス語原文と英訳の PDF ファイル,および動画ファイルふたつ(前半,後半)は,こちらから download することができます.
Séminaire XXI の開始の時期である1973年の最後の 2, 3 ヶ月間に執筆されたであろう Télévision は,Séminaire XVII の最中に執筆された Radiophonie (mars 1971), および,Séminaire XIX と XX との間に執筆された L'étourdit (juillet 1972) とともに,1970年代の Lacan の三大テクストを成しています.
我々は,昨年度,Radiophonie の読解を行いました.来年度にあの難解な書 L'étourdit の読解に取り組むかどうかは未定です.ともあれ,今期は Télévision を読みましょう.
1970年に Radiophonie の執筆を動機づけた国営ベルギーラジオ放送局による Lacan のインタヴュー番組の企画に続いて,1973年,当時の国営フランス・ラジオ・テレビ放送局 (ORTF) が,テレビ放送のために,Lacan のインタヴュー番組を企画しました.
Radiophonie のときと同様,Lacan は,散漫なインタヴューを避けるために,再び,七つの質問に対する七つの応えから成るテクストを,台本代わりに書き上げました.それが,今,我々が Télévision の表題のもとに読むことができる書のもとです.
Radiophonie においては問答の質問者はベルギーラジオ放送局に勤務していた知識人ジャーナリスト Robert Georgin でしたが,Télévision では Jacques-Alain Miller がその役を務めています.
Radiophonie では,当時 intelligentsia のなかで流行していた「構造主義」の観点から,おもに精神分析と科学ないし学知との連関について問われていたのに対して,1968年5月から5年半後の時点に位置する Télévision では,jouissance[悦]の不可能性の観点から,おもに精神分析の倫理について問われています.
Télévision のテクスト全体は,次のように構成されています:
I. 導入
II. 無意識とは何か?精神分析と心理療法との違いは?
III. 精神分析の目的は?
IV.「無意識はひとつの言語として構造化されている」に対して,「心的エネルギー」,「感情」,「本能」については?
V.「欲求不満」は性に対する抑圧のせいであるとすれば,その原因としての家族,社会,資本主義については?
VI. Kant が論ずる「純粋理性の関心全体を集約する三つの問い」‒ 何を我れは知り得るか?,何を我れは為すべきか?,何を我れは望んでよいか? ‒ への答えは?
VII.「良く思想されたものは,明晰に表言される」?
さて,最初の導入部分のテクストに入る前に,まずは,邦訳本の帯とカバーに書かれてあることを見てみましょう.それが訳者によるものか講談社の編集者によるものかは不明です.
ですから,「Télévision は唯一にして最良のラカン入門書である」が宣伝文句であるとすれば,それは不当広告である,と言わざるを得ません.
1965年12月01日の Séminaire XIII の初回講義において,Lacan は,彼としては珍しく,あらかじめ書いたものを読み上げました.それは,Écrits の最後に収録されている書 La science et la vérité[科学と真理]です.上の図が提示されたのは第二回と第三回の講義においてですが,「知と真理との間の主体の分裂」という公式は Écrits p.856 に見出されます.
最後に,第三の「真理」– それは,Télévision の冒頭で Lacan が「すべてならざる」(pas toute) と形容する真理です.
それに対して,Lacan が « Je dis toujours la vérité : pas toute » と言うとき,そこにおいてかかわっているのは,主体の 存在 の真理の現象学的構造 (la structure phénoménologique de la vérité de l'être du sujet) です.
「我れは真理を言う」は,1955年の書 La chose freudienne における « moi la vérité, je parle »[我れ – 真理 – は,語る](Écrits, p.409) を想起させます.そこにおいては,真理がみづから一人称で語ります.
Télévision の冒頭において Lacan が « Je dis toujours la vérité : pas toute » と言うときも,その一人称単数代名詞 « je » は,単純に Lacan 自身を指すだけではなく,むしろ,みづから「我れ – 真理 – は,語る」と言う 存在 の真理を指しています.
Édouard Debat-Ponsan (1847-1913) によるこの絵は,Nec mergitur[そして彼女は隠されない]または La Vérité sortant du puits[井戸から出る真理]と題されています.
この穴は,徴示素の場処 [ le lieu du signifiant ] (Écrits, p.813) としての他がはらむ欠如 [ le manque dans l'Autre ] (ibid., p.818) です.そして,その欠如は,「他の他は無い」[ il n'y a pas d'Autre de l'Autre ] (ibid.) の欠如であり,「如何なる言語も,真について真を言うことはできない」[ nul langage ne saurait dire le vrai sur le vrai ] (ibid., p.867) がゆえの「真についての真の欠如」[ manque du vrai sur le vrai ] (ibid., p.868) です.つまり,真理は語るとしても,「真理をすべて言い,真理のみを言う」[ dire toute la vérité, rien que la vérité ] と誓約することはありません :「真理の誓約無し」[ le Sans-Foi de la vérité ] (ibid., p.818).
主体の存在 の真理の現象学的構造は,大学の言説の右側の部分 a / $ を以て形式化され得ます:
そこにおいては,主体の存在 の真理 $ が客体 a によって代表されています.
トポロジーの図に示されているように,主体の存在 の真理の現象学的構造においては,客体 a は主体の 存在 の真理 $ をすべて代表しているわけではありません.あくまで,その部分的な代表(代理)にすぎません.Freud の言う「リビードの前性器的な固着」においては,客体 a は前性器的な部分客体です.
主体の存在 の真理の現象学的構造において,主体の 存在 の真理 $ を代表する客体 a こそが,pas toute[すべてならざる]としての真理です.
le symbolique の穴(黄色)の座は,「他の他は無い」の座ですから,大学の言説において S1 がそこに位置しているということは,S1 の不在を表しています.「全知全能たる神」の不在と言い換えてもよいでしょう.
逆に,もし仮に神 S1 が le symbolique の穴を塞ぎ,覆い隠す存在事象として機能するとすれば,どうなるか?その S1 は,ex-sistence の座(赤色)における主体の存在 の真理 $ を,客体 a のように部分的にではなく,すべて,完全に代表することになります.つまり,真理をすべて言う者となります.それは,別の言い方をすると,不可能な phallus φ に完全に取って代わる全能なる phallus – Freud が Libido の発達の最終的な成熟段階として想定した Primat des Phallus[ファロスの優位]における phallus –です.他方,他の場処(水色)の欠如を S1 は補完します.別の言い方をすると,全能なる phallus としての S1 は,母としての他の場処の去勢の穴を埋めます.かくして,全能なる phallus としての S1 によって,他 A と主体 $ との性関係(性器的な関係)が成立することになってしまいます.
「性関係は無い」とは,そのような S1 は現存しないということである,と言うことができます.
Heidegger の Geschichte des Seyns[存在 の史実]の観点から言うと,le symbolique の穴を塞ぎ,覆い隠す存在事象として機能するものとしての S1 は,形而上学の開始における Platon の ἰδέα から形而上学の満了における Nietzsche の Wert[価値]に至る一連の存在の諸形象の学素である,と言うことができます.形而上学とは,le symbolique の穴 – Heidegger の用語では Lichtung[朗場]– が,存在論的差異による存在事象からのその厳密な区別無しに措定された存在によって塞がれ,覆い隠されてしまうことに存する,と言うことができるでしょう.
では,如何にして,le symbolique の穴を塞ぎ,覆い隠してしまうひとつの存在事象として機能する S1 が措定され得るのか?それは,おそらく,a と S1 との混同によってです.存在 の真理の不完全な代理にすぎないものでありながら,「書かれることをやめない」ものの反復において必然として存続する a を,存在 の真理そのものに完全に取って代わる恒常的な存在と錯覚し,それを le symbolique の穴 (Lichtung) を塞ぎ,覆い隠す S1 と見なすことが,形而上学の可能性の条件である,と言うことができるでしょう.我々は,その事態を confusion métaphysique[形而上学的混同]と呼ぶことができるかもしれません.
形而上学において,Platon の ἰδέα に始まる存在の諸形象は,その恒常性,永遠性,不変性によって特徴づけられてきました.ところが,形而上学の満了において,Nietzsche は,「生成に存在の特徴を刻印する」ために「同じものの永遠なる回帰」を存在として措定しました.つまり,恒常的にして永劫不変と思われてきた存在が,実は,常により強力なものへ増強されることを欲する力への意志のもとで「書かれることをやめない」反復強迫にすぎないことが,あらわとなったのです.Nietzsche において a と S1 との形而上学的混同がとうとう暴露された,と言っても良いでしょう.かくして,Heidegger は Lichtung を,Lacan は le symbolique の穴を,そのものとして発見することになります.
さて,第一段落の最後の文 : « C'est même par cet impossible que la vérité tient au réel »[まさにその不可能によって,真理は実在につながっている].
そこにおいて「真理」は,pas toute としての真理です.主体の存在 の真理の現象学的構造における a です.そして,「実在」は,ex-sistence の在処に位置する $ です.
a は,主体の存在 の真理の完全な代表は不可能であるということにおいて,$ を不完全に代理しています.ボロメオ結びにおいても,両者は,繋がり合ってはいますが,ネックレスなどの鎖を為す輪のように相互にかみ合ってはおらず,而して,相互に ex-sistent です.
第一段落全体の訳文は:
I-1. 我れは,常に真理を言う:すべてならざる真理を.なぜなら,そのすべてを言うことはできないからだ.真理をすべて言うことは,不可能である – 物質的に:そのためには語が欠けている.まさにその不可能によって,真理は実在につながっている.
さて,第二段落以降へ進みましょう.
I-2. J'avouerai donc avoir tenté de répondre à la présente comédie et que c'était bon pour le panier.
I-2. したがって,わたしは,今演じられつつある喜劇に応じようと試みたが,その試みは屑かご行きがふさわしいものであった,と認めよう.
Séminaire, Radiophonie, Télévision, そのほかの講演などの録音や録画で Lacan の語りを彼の肉声で聴くと,彼は聴衆を前にしてかなり演戯的であったことが感ぜられます.つまり,彼は意図的に「道化」(fool) を演じています.
Séminaire VII『精神分析の倫理』の1960年03月23日の講義において,Lacan が fool と knave とを対置していたことが,想い出されます.knave は,Lacan 自身によって canaille と仏訳されています.日本語にはあまり適当な表現がありません.とりあえず「ゲス」(下司,下衆,下種)と訳しておきましょう.
そこにおいて Lacan は,左翼知識人を「道化」(fool), 右翼知識人を「ゲス」(knave) に対応させています.前者は,「狂気の沙汰」によって真理を言う者です.それに対して,後者は,真について真を言う (dire le vrai sur le vrai) ことによって誑かす者です.
学素で示すなら,道化の学素はこれです:
つまり,存在 の真理 $ を semblant[仮象]としての a によって代表することです.それは,fiction[虚構]の構造です.そして,虚構の構造においてこそ真理は真現する [ la vérité s'avère dans la structure de fiction ] (Écrits, p.742) と Lacan は再三指摘しています.
それに対して,ゲスの学素は,先ほども示したこれです:
ゲスは,存在の真理をすべて完全に言い得るとうそぶく S1 です.それは,当然,実際には嘘なのですが,ゲスは平然と「我れは,真理をすべて言っている」と主張し,聞く者を誑かします.
日本の現状に当てはめるなら,「平和憲法を遵守し,軍事力を放棄せよ」と言っている左翼知識人は,道化です.国際政治の常識から言えば,防衛力としての軍事力をまったく持たないことは「狂気の沙汰」です.しかし,左翼知識人は平和の真理を言っています.それに対して,「自衛隊を国防軍にすることが,平和の維持を可能にする.東アジアの国際政治情勢に鑑みるなら,わたしの言うことは正しく,真である」と言う右翼知識人は,ゲスです.
Lacan の語り口の演戯性は,彼が自身を道化として演出していたことを示唆しています.真理をすべて語ることはできないからであり,真理は真理ならざる仮象によってしか自身を示現しないからです.
Lacan の言葉は,それ自体としては,真理そのものではなく,単なる仮象にすぎないものですから,屑のようなものです.Lacan は明らかに,聖 Thomas Aquinas についての伝承 – 彼は,死のまぎわに,彼の大著 Summa Theologica[神学大全]について「屑のごとし」(sicut palea) と言った – を念頭に置いています.それにもとづいて,Lacan は,業績として自著を出版 (publication) することにこだわる大学人たちの態度を,poubellication という Witz で揶揄しています.poubelle は,公共のゴミ収集車に家庭ゴミを回収してもらうために用いられる大きなゴミ箱のことです.
I-3. Raté donc, mais par là même réussi au regard d'une erreur, ou pour mieux dire : d'un errement.
I-4. Celui-ci sans trop d'importance, d'être d'occasion. Mais d'abord, lequel ?
I-5. L'errement consiste en cette idée de parler pour que des idiots me comprennent.
I-6. Idée qui me touche si peu naturellement qu'elle n'a pu que m'être suggérée. Par l'amitié. Danger.
I-3. つまり,失敗.だが,失敗そのものにより,成功 – ひとつの誤りに対しては – あるいは,よりよく言うなら,ひとつの惑いに対しては.
I-4. さして重大な惑いではない.今回限りのことだから.しかし,まず,如何なることか?
I-5. その惑いとは,愚か者たちにわかるように語るという案に存する.
I-6. 当然ながら,わたしが思いつくような案ではほとんどないので,それはわたしに示唆され得ただけだった.友情によって.[ゲスとなりかねない]危険.
仮象 a による真理 $ の代理の構造においては,真理そのものの顕現は成起しません.その意味では,失敗です.しかし,真理そのものがそのまま顕現することは,不可能です.真理は,この虚構の構造においてしか自身を示現することはできません.それが起これば,それなりの成功です.
夢,し損ない,ど忘れ,症状,等々,一般的に formations de l'inconscient[無意識の造形]と呼ばれる現象は,いずれも,この虚構の構造を有しています.それらは,真理の自己示現としては,失敗であると同時に,失敗であることそのものにおいて,それなりの成功です.
「わたしの言うことは常にすべて正しい」と言うゲスの言葉は誑かしであり,偽りであるのに対して,狂気の沙汰を演ずる道化によってこそ,真理は自身を示現します.
Lacan が「愚か者」と呼んでいるのは,思考しない者のことです.つまり,「わたしの言うことは本当です」とうそぶく「専門家」の言葉を批判も判断もせずに信じ込む一般大衆です.そのような人々は,政治的な状況においては,ファシストに操られ,社会の全体主義化を許してしまいます.今,日本社会には,そのような「思考しない」人々が何と多いことか!
「愚か者たちにわかるように語る」ということは,一般大衆を誑かすゲスになりかねないことです.ですから,Lacan は「危険」と言っています.
I-7. Car il n'y a pas de différence entre la télévision et le public devant lequel je parle depuis longtemps, ce qu'on appelle mon séminaire. Un regard dans les deux cas : à qui je ne m'adresse dans aucun, mais au nom de quoi je parle.
I-7. そも,TV と,其の前でわたしが長年にわたり語ってきた – わたしのセミネールと呼ばれているもの – ところの公衆との間に,相違は無い.両方の場合において,ひとつのまなざし – それへ向けてわたしは語りかけるのではなく,而して,その名においてわたしは語る.
Lacan は,聴衆を前にして語るとき,大学の言説の右側を成す a / $ として語ります.通常,大学の言説においては,教える側が有する知の体系 S2 が,知の領域の辺縁に位置する教えられる側 a に向けて,既成の知を押しつけようとし,教えられる側を既成の知で支配しようとします.ところが,Lacan が教えるとき,彼は,逆に,存在の真理を代表する謎めいたまなざしとして,客体 a の座において語ります.そして,それによって,既成の知の体系 S2 は動揺し,解体を迫られます.
I-8. Qu'on ne croie pas pour autant que j'y parle à la cantonade. Je parle à ceux qui s'y connaissent, aux non-idiots, à des analystes supposés.
I-8. しかしながら,そこにおいてわたしは傍白している,とは思わぬように.わたしが語る相手は,能う者たち,「愚か者」ではない者たち,分析家と仮定される者たちである.
なぜ Lacan は,単に「分析家」と言わずに,敢えて「分析家と仮定される者」と言っているのか?それは,「精神分析家である」ことは,専門家集団が資格認定のために定める何らかの基準によって規定され得ないからです.
Lacan が精神分析を純粋に基礎づけることを目ざしたのも,精神分析家の資格認定の問題に動機づけられてです.
精神分析が単なる暗示や気やすめのようなまやかしに堕すことなく「本物」の精神分析であり得るためには,精神分析家が「本物」でなければなりません.そのためには,精神分析家になろうとする者があらかじめみづから精神分析を経験している必要がある,と既に Freud も考えていました.しかし,精神分析家になるために十分な分析経験はどのようなものであり得るか,または,あるべきかの問いについて,Freud は確たる答えを与えないままでした.
Freud の死後,国際精神分析学会は,精神分析家の資格認定に必要な分析経験を,経験的に,一回の面接の時間,一週間ないし一ヶ月間の面接の頻度,面接の持続年数などの形式的な基準によって,規定して行きます.そのようにして資格認定された精神分析家たちが精神分析を行うようになって,如何なる事態が生じたか? Lacan が1950年代に批判し始めた USA における精神分析の状況です.精神分析家はみづから強迫神経症的になり,治療目標は現実適応になり,治療そのものは転移と逆転移の泥沼に足を取られ,理論においては無意識も死の本能もないがしろにされるようになりました.精神分析家の資格認定の問題を根本的に問い直さねばならない – それが,Lacan が問い続けた問題です.
Lacan は,こう考えます:精神分析の資格認定の問題は,教育分析の必要条件を時間などの形式的な基準において定めることによっては解決され得ない;むしろ,「精神分析家である」ことの可能性の条件について根本的かつ本質的に思考せねばならない.そして,そのためには,精神分析を純粋に – 非経験論的に – 基礎づけねばならない.
精神分析家の資格認定に関して問い続ける Lacan の足跡を,我々は彼の教えのあちらこちらに見ることができます.それらのなかでも特に重要なのが,Proposition du 9 octobre 1967 sur le psychanalyste de l'École[École freudienne de Paris の精神分析家に関する1967年10月09日付の提案]です.そこにおいて Lacan は,こう言っています : « D'abord un principe : le psychanalyste ne s'autorise que de lui-même »[まず,原理:精神分析家は,自身によってのみ認定される](Autres écrits, p.243).
「精神分析家は自身によってのみ認定される」と言っても,誰もが自分勝手に精神分析家であると自認してよいということではまったくありません.そうではなく,その公式はこういうことです:精神分析家の資格認定は,他者によっては為され得ない.「他者」は,たとえば,精神分析家の職能団体のなかの分析家資格認定委員会のようなものです.そして,「自身によって」は,自身の精神分析の経験の終結において到達された主体の存在 の真理 $ そのものによって,ということです.
なぜ他者によっては認定され得ないか?それは,主体の存在 の真理は,其こにおいて認定基準が公式化され得るような他の場処に対して ex-sistent であるからです.つまり,主体の 存在 の真理は,他の場処のなかで定式化されるような命題によっては規定され得ないからです.
したがって,我々は,自身の精神分析を何年間か経験してきた或る者の前で,その者が「精神分析家である」か否かを判断するための公式化された基準を持ち合わせてはいません.その者が「我れは精神分析家である」と言うなら,とりあえずそう仮定するしかありません.
その仮定を「検証」するためには,その者が或るほかの者に対して精神分析家として機能し得たか否かを見る必要があります.勿論,そのことを判断するためにも,公式化された基準があるわけではありません.その者のもとで精神分析を経験した者(精神分析者,精神分析の患者)の証言を聴くしかありません.
Lacan がわざわざ「分析家と仮定される者」と言うとき,そこには以上の問題が包含されています.
I-9. L'expérience prouve, même à s'en tenir à l'attroupement, prouve que ce que je dis intéresse bien plus de gens que ceux qu'avec quelque raison je suppose analystes. Pourquoi dès lors parlerais-je d'un autre ton ici qu'à mon séminaire ?
分析家の言説においては,分析家 a は,症状の signifiant として,解釈を行います.つまり,症状 の ça parle[何かが語る]の謎めいたメッセージの秘められた意義を,症状自身が啓かします.それによって,反復強迫において書かれることをやめなかった症状の signifiant a は,もはやその必要がなくなり,書かれることをやめます.右上の S(Ⱥ) の座における $ は,死からの復活において新たに誕生する精神分析家の欲望です.それは,父の名 S1 の代理として,みづからボロメオ結合性 (nodalité borroméenne) の機能を果たすことになります.
Lacan は,精神分析の終結における「分析者の立場」から「分析家の立場」への移行 (passage) について思考し,その出来事を passe[パス]と名づけます.パスは,大学の言説における右下の座(分析家の側)から分析家の言説における右上の座(分析者の側)への $ の移行に存します.
この文の前半は,anacoluthe(破格構文)です.文法的に補正するなら,例えば « Heureux les cas où la passe s'avère fictive pour formation inachevée » となるでしょう.
I-14. 養成未完のためにパスが虚構的なものとして真現する場合は,幸い.彼らは,希望を放棄する.
なぜ Lacan はこの文の前半部分を anacoluthe としたのか,その理由は不明です.inachevé[未完]という語に合わせて,構文も未完成なままに残したのでしょうか?
後半部分 « ils laissent de l'espoir » は,Dante の Divina Commedia の Inferno の Canto III の冒頭で描かれる地獄の門に記された命令を想い起こさせます : « Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate »[汝れら,この門を入る者らよ,希望をすべて捨てよ].この « laisser » は,「残す」ではなく,「捨てる,放棄する」です.
地上的な希望,存在事象に依拠する希望は,すべて,放棄されねばなりません.さもなくば,Dante も我々も,天の御国の幸福に与ることはできません.いったん,地獄において絶望の底へ沈むこと,そして,その徹底的な絶望をみづから引き受けること – それ無しには,至福なる永遠の命へ到達することはできません.
Hegel が『精神の現象学』において das Selbstbewusstsein を reines Fürsichsein と規定するとき,かかわっているのは同じことです.それは,欲望の満足のために如何なる存在事象に依存してもならず,自由(自有)のために死を引き受けねばなりません.
翻って,文頭の « heureux » は,Jésus Christ によるあの祝福を思い起こさせます : « heureux les pauvres en esprit... »[霊気貧しき者らは幸い](Mt 5,3-12). そこにおいて,Jésus は,常識的な意味では(地上的な意味では)不幸でしかない者たち,絶望的な状況において苦しみ,泣いている者たちを「幸いなり」と呼んで,祝福しています.そのような者たちこそ,永遠の命の幸福へ到達することができるからです.
では,この Télévision の文脈において,徹底的な絶望を成すものは何か?それは,« formation inachevée » です.
この文において « formation » は「分析家の養成」です.パスの成起を以て精神分析は終結しますが,それは,文書の形に成文化された基準によって規定され得ることではありません.ですから,何らかの権威ある機関が分析家の養成に関して完結を「認定」することは,不可能です.分析家の養成はすべて,未完に終わります.「あなたを精神分析家と認定します」という権威ある御墨付をもらおうという希望は,決してかなえられないのです.
何たる絶望!– 強迫神経症者にとっては... むしろ,そのような希望は放棄されねばなりません – まさに,精神分析家として,自有 (Ereignis) において成起するためには.
パスの手続において,自身の分析経験を終えた者 (passant) は,ふたりの伝達者 (passeur) の前で,自身のパス経験を証言します.passeurs は,それぞれ,彼らが聴いた passant の証言を陪審へ伝えます.それにもとづいて,陪審は,passant のパス証言に信を置くことができるか否か,判断します.passeurs がふたりであるのは,ひとりの場合よりも証言の伝達をより確かにするためです.また,passeur は,自身,分析を経験しつつあり,かつ,その終結に近づいている者たちのなかから選ばれます.そのような状況にある者は,パス経験に関してより敏感な感受性を有している,と考えられるからです.また,ほかの者のパス経験の証言を聴くことによって,passeur 自身のパスの成起が促進される,と期待されもするからです.
パスの成起そのものは,実在的なものです.しかし,それに関する証言は,言語の構造のゆえに,虚構的です.その虚構の構造において真現する存在 の真理の自有 (Ereignis) を読み取ることが,パスの陪審に課せられます.
Télévision 第 I 章
I-1. 我れは,常に真理を言う:すべてならざる真理を.なぜなら,そのすべてを言うことはできないからだ.真理をすべて言うことは,不可能である – 物質的に:そのためには語が欠けている.まさにその不可能によって,真理は実在につながっている.
I-2. したがって,わたしは,今演じられつつある喜劇に応じようと試みたが,その試みは屑かご行きがふさわしいものであった,と認めよう.
I-3. つまり,失敗.だが,失敗そのものにより,成功 – ひとつの誤りに対しては – あるいは,よりよく言うなら,ひとつの惑いに対しては.
I-4. さして重大な惑いではない.今回限りのことだから.しかし,まず,如何なることか?
I-5. その惑いとは,愚か者たちにわかるように語るという案に存する.
I-6. 当然ながら,わたしが思いつくような案ではほとんどないので,それはわたしに示唆され得ただけだった.友情によって.[ゲスとなりかねない]危険.
I-7. そも,TV と,其の前でわたしが長年にわたり語ってきた – わたしのセミネールと呼ばれているもの – ところの公衆との間に,相違は無い.両方の場合において,ひとつのまなざし – それへ向けてわたしは語りかけるのではなく,而して,その名においてわたしは語る.
I-8. しかしながら,そこにおいてわたしは傍白している,とは思わぬように.わたしが語る相手は,能う者たち,「愚か者」ではない者たち,分析家と仮定される者たちである.
I-9. 経験は,このことを証明している:たとえ聴衆が単なる群衆にすぎない場合でも,わたしが言うことには,何らかの理由でわたしが分析家と仮定する者たちよりもより多くの人々が関心を持つ.であれば,なぜわたしはここで[テレビ番組収録の場で],わたしのセミネールにおけるのとは異なる調子で語るだろうか?
I-10. 加えて,テレビでわたしの言葉を聞く分析家がいるだろうと仮定することは,おかしなことではない.
I-11. もっと言おう:わたしが分析家と仮定される者たちから期待するのは,彼らがあの客体 [ a ] となることだけである.そうなれば,わたしが教えていることは自己分析ではなくなる.おそらく,この点については,わたしの言うことが聴き取られるのは,彼ら – わたしの言うことを聴いている彼ら – によってのみだろう.しかし,何も聴いていなくとも,分析家は,先ほどわたしが公式化したあの役割[客体 a であること]を果たす.して,されば,TV も,分析家と同様に,その役割を果たす.
I-12. 付け加えるなら,わたしは,分析家たち – 彼らが分析家であるのは,分析者[精神分析の患者]の客体であることによってのみである – に向けて話すことがある.わたしは,彼らに語るのではなく,而して,彼らについて語る.たとえ,彼らを動揺させるためにのみであろうとも.もしかして,それは暗示の効果を持つかもしれない.
I-13. 人々はそう[Lacan は人々を暗示にかけていると]思うだろうか?[だが,]暗示が無効である場合がある:すなわち,分析家が自身の欠陥をほかの分析家から得る場合.「ほかの分析家」とは,彼を「パス」にまで導いた分析家のことである.わたしの言う「パス」とは,自身を分析家として措定する「パス」である.
I-14. 養成未完のためにパスが虚構的なものとして真現する場合は,幸い.彼らは,希望を放棄する.
1970年に Radiophonie の執筆を動機づけた国営ベルギーラジオ放送局による Lacan のインタヴュー番組の企画に続いて,1973年,当時の国営フランス・ラジオ・テレビ放送局 (ORTF) が,テレビ放送のために,Lacan のインタヴュー番組を企画しました.
Radiophonie のときと同様,Lacan は,散漫なインタヴューを避けるために,再び,七つの質問に対する七つの応えから成るテクストを,台本代わりに書き上げました.それが,今,我々が Télévision の表題のもとに読むことができる書のもとです.
Radiophonie においては問答の質問者はベルギーラジオ放送局に勤務していた知識人ジャーナリスト Robert Georgin でしたが,Télévision では Jacques-Alain Miller がその役を務めています.
Radiophonie では,当時 intelligentsia のなかで流行していた「構造主義」の観点から,おもに精神分析と科学ないし学知との連関について問われていたのに対して,1968年5月から5年半後の時点に位置する Télévision では,jouissance[悦]の不可能性の観点から,おもに精神分析の倫理について問われています.
Télévision のテクスト全体は,次のように構成されています:
I. 導入
II. 無意識とは何か?精神分析と心理療法との違いは?
III. 精神分析の目的は?
IV.「無意識はひとつの言語として構造化されている」に対して,「心的エネルギー」,「感情」,「本能」については?
V.「欲求不満」は性に対する抑圧のせいであるとすれば,その原因としての家族,社会,資本主義については?
VI. Kant が論ずる「純粋理性の関心全体を集約する三つの問い」‒ 何を我れは知り得るか?,何を我れは為すべきか?,何を我れは望んでよいか? ‒ への答えは?
VII.「良く思想されたものは,明晰に表言される」?
さて,最初の導入部分のテクストに入る前に,まずは,邦訳本の帯とカバーに書かれてあることを見てみましょう.それが訳者によるものか講談社の編集者によるものかは不明です.
帯には,Lacan は「精神分析の中興の祖」である,と述べられています.何たる見当違い! Lacan が Société française de psychanalyse において精神分析家養成のために教育と臨床の活動を開始した1950年代,精神分析は欧米で「全盛期」にありました.特に USA では,有効な精神科薬物療法が登場する以前,精神科医の出世のためには精神分析家の資格の取得は必須でした.
問題は,Freud 以来,「精神分析家である」ことについて根本的かつ本質的な問いを問うことのないままに,慣習や因襲にのみもとづいて精神分析家の資格認定が行われてきた結果,精神分析家の大多数が悪い意味において「規則」に縛られた強迫神経症者になってしまった,ということです.それにともなって,精神分析治療そのものも,強迫神経症者を再生産する強迫神経症的な儀式に堕してしまっていました.そのような事態は,International Psychoanalytical Association (IPA) に属する精神分析家たちにおいては,いまだに続いています.
Lacan は,そのような事態を批判するために立ち上がりました.そして,精神分析の真理と「精神分析家である」ことの本質について根本的に問い続けました.
Jacques Lacan の教えは,精神分析を純粋に – 非経験論的に,すなわち,生物学や心理学や社会学などの経験科学に一切依拠することなく – 精神分析を基礎づけることに存します.
ですから,Lacan とは誰か?という問いに対する最も簡潔な答えは,「精神分析を基礎づけた者」です.
ただ,「基礎づける」(fonder) という動詞に由来する名詞 fondateur は「創始者」です.fondateur de la psychanalyse は,言うまでもなく,Sigmund Freud です.ですから,フランス語では « Lacan est le refondateur de la psychanalyse »[ラカンは,精神分析を基礎づけ直した者である]と言うのが適切でしょう.
Freud は,確かに,精神分析を創始しました.しかし,彼は,精神分析の基礎について根本的に問うことはせず,「いつの日か無意識は生物学的に解明されるだろう」と素朴に想定していました.そのことは,「精神分析は生物学主義的である」という批判を生むことにもなりました.
Freud が思考しないままに残したものについて改めて問い,精神分析をその真理と本質において純粋に基礎づけ直すこと,それが Lacan が彼の教えにおいて目指したことです.
そのことを踏まえなければ,Lacan を読むことはできません.従来,Lacan について見当違いの「解釈」 や「解説」や「批判」が為され続けてきたのも,彼の教えが「精神分析の純粋な基礎づけ」に存することを把握し得ていなかったからです.
我々は,Lacan が我々に教えている精神分析の純粋基礎を,否定存在論 (ontologie apophatique) と名づけます.否定存在論とそのトポロジーを明確に公式化し,展開することが,Lacan の教えを学ぶ我々に課せられた基本的な課題です.
次に,帯と裏表紙には Télévision は「唯一にして最良のラカン入門書」である,と述べられています.この規定にも賛同することはできません.
今までに「ラカン入門書」と銘打たれた本を Lacan 自身以外の幾人かの著者が書いてきましたが,それらはいづれもその名には値しません.むしろ,Lacan についてとんでもない無理解や誤解や曲解を広めているだけです.それは,先ほど述べたように,彼らが Lacan の教えの本質を把握していないからです.
では,Lacan 自身は,Freud が Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse[精神分析へ導入するための講義;その書の表題は従来『精神分析入門』と訳されている]を書いたのと同様に,「ラカン入門」を書いたか?否,一行たりとも!
彼の Écrits と Autres écrits に収録された書,および,彼の Séminaire は,すべて,精神分析の実践と臨床にかかわる者たち – 精神分析家たち,および,みづから精神分析を経験する者たち – に向けられたものです.一般読者や一般聴衆に向けられたものでは全然ありません.
では,初めて Lacan を読もうとする者に勧めることができるかもしれない Lacan 自身のテクストは何か?それは,やはり,Séminaire XI Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse[精神分析の四つの基礎概念]でしょう.なぜなら,Lacan は,初めて,精神分析家たちだけでなく,多くの「一般聴衆」を前にしてそのセミネールを行わねばならなかったからです.「一般聴衆」と言っても,Grandes écoles のひとつである École normale supérieure (ENS) の優秀な学生たちです.そのなかには,当時やっと20歳になろうとしていた Jacques-Alain Miller も含まれています.
その事情は,こういうことです.1963年11月,Lacan は International Psychoanalytical Association (IPA) から「教育分析家」の資格の停止を通告されました.英語圏で標準的であった教育分析のしかたに従っていない,という理由で.そのような教育分析は強迫神経症者の強迫神経症を強化することにしかならないのですから,Lacan が批判的な観点からそれを踏襲していなかったのは,当然のことです.しかし,フランスの精神分析家の団体は,IPA の命令に服従する道を選びました. Lacan は,Société française de psychanalyse のなかで精神分析家の養成とそのための教育活動を続けることができなくなりました.そこで,彼は,1964年01月,独自に,精神分析家の養成機関として École freudienne de Paris を創立しました.そして,Séminaire の場所として,ENS のなかの salle Dussane が Lacan に提供されました.Lacan は,従来どおり,精神分析家ではない者が Séminaire を聴講しにくることを拒みませんでした.そこで,好奇心旺盛な ENS の学生たちが多数,聴衆に参加するようになりました.Lacan の方も,優秀とはいえ精神分析についてさしたる予備知識を持っているわけでもない新たな聴衆を無視することなく,Freud の用語や概念を改めて取り上げ,論ずることになります.
以上の理由から,やはり,従来言われてきたように,Séminaire XI が「ラカン入門」としては最も勧めることのできる本です.
ただし,だからと言って,わかりやすいわけではありません.Lacan は,彼の教えを「体系的」に提示することはしません.むしろ,Freud の用語や概念を取り上げ直す分,かえって,Lacan 自身の考えが不明瞭になってしまっている,とも言えます.また,フランス語原書ではなく,翻訳を読む場合,当然ながら,誤訳の問題を無視することはできません.
さらに,Seuil 社から出版されている Séminaire のテクストは,より根本的な問題を含んでいます.それは,編纂者 Jacques-Alain Miller(著作権法上は,彼は,Lacan の Séminaire の共著者です)が作成した文章からは,Lacan 自身の語ったことを必ずしも正確に読み取ることができない,という問題です.
それは,次の事情によります:すなわち,Séminaire において Lacan は,予め準備されたテクストを読み上げるのではなく,多かれ少なかれ即興的に語ります.彼の言葉は,彼の脇に控える速記録者により書き取られます.速記録者は,言葉の意味を把握しようとはせず,聞こえてくる音を速記録記号によって書きとめて行くのですが,単純に聞き落とす可能性もありますし,また,精神分析についても哲学や数学などについても予備知識は持ち合わせていませんから,専門用語や人名などについて聞き間違う可能性もあります.そのように,原理的に言って脱落や過誤が排除され得ない速記録に記された音素の連なりを,Jacques-Alain Miller は,単語の連なりにし,それをさらに文章にして行くのですが,当然,その作業は,Jacques-Alain Miller が彼自身の解釈によって Lacan の言葉に読み取る「意味」にもとづいて行われます.しかし,Jacques-Alain Miller の解釈は必ずしも正しくはありません.明らかに間違っている場合もあります.また,Jacques-Alain Miller は,Lacan の言葉を,彼が言いよどんだり,ためらったりしつつ語ったままに再現するのではなく,読みやすく整頓された文章に仕立て直してしまいます.それによって,もとの語りからは読み取れたことがかえって読み取りにくくなってしまう場合もあります.
今,我々は,Lacan の Séminaire 全部について,Staferla 版と呼ばれる非公式版を参照することができます(Seuil 版では Séminaire IX, XII - XV, XXI, XXII, XXIV-XXVI の計10巻が未出版).おそらく Jacques-Alain Miller は速記録のみを材料にしており,原則的に録音データを参照していないのに対して,Staferla 版の制作者(その人物は,匿名のままでいることを選んでいます)は,録音データ – それが存在する場合には – にもとづいて,Lacan が語ったままに – 言いよどみや繰り返しなども含めて – テクストを作っています.勿論,その場合にも編纂者の解釈は介在してきますが,しかし,Staferla 版は,しばしば Seuil 版よりも Lacan の言葉をより正確に読み取ることを可能にしてくれます.それによって,Jacques-Alain Miller の誤りを検証することもできます.
Séminaire XI についても,Seuil 版よりも Staferla 版のテクストの方がより正確な読解を可能にする,と判断し得る箇所が,幾つかあります.
ついでながら紹介しておくと,Lacan の Séminaire のテクスト編纂に関して Jacques-Alain Miller の誤りが初めて多数指摘されたのは,1991年初版の Séminaire VIII に関してです.さすがに Miller も,Séminaire VIII については2001年に改訂版を出しています.
また,わたし自身が部分的に検証したところでは,Lacan の生前,1975年に出版された Séminaire XX Encore の Seuil 版には,テクスト作成上の誤りが多数見受けられます.Lacan が言っているのと逆のことを Lacan に言わせている箇所さえあります.おそらく,Lacan は Jacques-Alain Miller が作成したテクストが正確かどうか,まったく確かめていないのでしょう.Encore は,Staferla 版を参照することなしに読むことはできません.そのほかの Séminaire に関しても,Jacques-Alain Miller の看過し得ない誤りは,あちらこちらに散見されます.
「ラカン入門書」として勧めることのできる Séminaire XI についても,以上の留保を付けておきましょう.
邦訳の裏表紙には,もうひとつ,あまり適当ではない表現が見出されます.そこでは,Jacques-Alain Miller が Lacan の「高弟」と呼ばれていますが,もしその語が Lacan の生前,École freudienne de Paris (EFP) のなかでそう見なされていた人物たちのことを指すなら,Miller は Lacan の「高弟」ではありません.
EFP のなかで Lacan の「高弟」と見なされていたのは,Société française de psychanalyse の時代から Lacan と密接な関係 – Lacan に教育分析を受けていた,または,精神分析の実践に関する指導を受けていた,など – にあった者たちです.彼らは,EFP のなかで「大物」として幅を利かせていました.例えば,Moustapha Safouan (1921- ), Serge Leclaire (1924-1994), Maud Mannoni (1923-1998), Charles Melman (1931- ), etc.
他方,Jacques-Alain Miller (1944- ) は,彼らよりもずっと若い世代に属します.ENS で彼の指導教官であった Louis Althusser の勧めにより1963年から Lacan のテクストに取り組み始めた Miller は,優れた知的能力と或る種の哲学的直観によってすぐさま Lacan の教えの本質にかかわる何事かを,完全に把握し得たとまでは言えなくとも,少なくとも Lacan の「高弟」たちの大多数よりはより明確に感じ取りました.そして,1966年11月に出版される Écrits の編集作業に既に深く参与することになります.
彼は,Lacan の娘 Judith (1941- ) と1966年11月に結婚し,Lacan の家族の一員となります.
しかし,当初教育分析を受けておらず,分析家ではなかった Miller は,EFP のなかでは「知ったかぶりの若僧」としか見なされていませんでした.
その後,Miller は,Charles Melman に教育分析を受け,Lacan の死後,みづから分析家として臨床も行うようになります.多数の者が Miller に教育分析を受けました.わたしもそのひとりです.
Miller は,Lacan の知的遺産の法的な管理人であり,Lacan の Séminaire の編纂者かつ共著者です.
彼は,Lacan の死後,政治的指導力を発揮して,フランス国内の École de la Cause freudienne のみならず,スペイン,イタリア,南米諸国においてラカン派分析家の団体の組織化を主導し,IPA に対抗するラカン派の国際的な組織 Association mondiale de psychanalyse をまとめ上げました.ただし,彼の強引なやり方に同調せず,彼と袂を分かった人々も少なくありません.
Miller は,長らく Paris 第 VIII 大学の精神分析学部の学部長として Lacan の教えを解説する講義を続けました.わたし自身を含め,世界中で多数の者が,Lacan のテクストの読解のしかたの基本を Miller から学びました.
ですから,今,如何に Lacan の教えを理解するかに関して彼とは見解を異にするとしても,理論的にも実践的にも,わたしが Jacques-Alain Miller に負うところは多大です.わたしと同様に感じている者は,世界中に数多くいるでしょう.
概略的に言って,Jacques-Alain Miller とは以上のような人物です.ともあれ,彼を Lacan の「高弟」と呼ぶのは妥当ではありません.
ところで,今,École de la Cause freudienne においては,Jacques-Alain Miller を始め,Éric Laurent, Serge Cottet, Jacques-Alain の弟の Gérard Miller らが「大物」です.フランス語では baron[男爵]という語が使われます.皆,70歳前後か,既に70歳代です.Lacan に直接分析を受けた大物のことを éléphant[象]と呼ぶそうです.つまり,絶滅危惧種です.ECF のなかでは若い世代も育ってきているようですが,十年後までには起きているであろう大黒柱 Jacques-Alain Miller の死の後はどうなるでしょうか?求心力がなくなり,複数のグループへ分裂するかもしれません.そして,精神分析の実践と継承はどうなって行くでしょうか?日本では,精神分析の実践の広まりは?
さて,そろそろ Télévision の本文の読解に取りかかりましょう.いや,その前に,原書で Avertissement[告知]と題された「はしがき」の部分の翻訳に問題があります.ところで,今,École de la Cause freudienne においては,Jacques-Alain Miller を始め,Éric Laurent, Serge Cottet, Jacques-Alain の弟の Gérard Miller らが「大物」です.フランス語では baron[男爵]という語が使われます.皆,70歳前後か,既に70歳代です.Lacan に直接分析を受けた大物のことを éléphant[象]と呼ぶそうです.つまり,絶滅危惧種です.ECF のなかでは若い世代も育ってきているようですが,十年後までには起きているであろう大黒柱 Jacques-Alain Miller の死の後はどうなるでしょうか?求心力がなくなり,複数のグループへ分裂するかもしれません.そして,精神分析の実践と継承はどうなって行くでしょうか?日本では,精神分析の実践の広まりは?
原文 : « J'ai demandé à celui qui vous répondait de cribler ce que j'entendais de ce qu'il me disait. Le fin est recueilli dans la marge, en guise de manuductio » が,こう翻訳されています:「わたしは,質問の回答者に,彼がわたしに語ったことのうちから,わたしが理解したものを篩い落としてくれるようにお願いした.また,主要な論点は,欄外に手引きの形でまとめておいた」.
第一の文の動詞 « cribler » は,「篩い落とす」ではなく,「篩にかける」です.第二の文の « le fin » は,「粋」(すい)です.形容詞 « fin » は「細かい,繊細な,純粋な」です.ですから,このようなイメージが浮かびます:篩にかけられたことによって,粗大な塵や不純物は篩のなかに残り,純度の高い細かい粒は下へ落ちて,集められる.
したがって,こう訳すのがよいでしょう:「あなたたちに答える者 [ Lacan ] へ,わたし [ Jacques-Alain Miller ] は頼んだ:『あなたがわたしに言ったことからわたしが聞き取ったものを,篩にかけてください』と.粋(すい)は,欄外に,手引きとして集められてある」.
では,本文を読み始めましょう.Jacques-Alain Miller が発する問いも含めて,各段落に番号を付します.たとえば,"I-1" は「第 I 章第 1 段落」です.
I-1. Je dis toujours la vérité : pas toute, parce que toute la dire, on y arrive pas. La dire toute, c'est impossible, matériellement : les mots y manquent. C'est même par cet impossible que la vérité tient au réel.
I-1. Je dis toujours la vérité : pas toute, parce que toute la dire, on y arrive pas. La dire toute, c'est impossible, matériellement : les mots y manquent. C'est même par cet impossible que la vérité tient au réel.
まず,誤訳の指摘から.「真理は le réel に "由来する"」のではありません.
Lacan が « la vérité tient au réel par cet impossible » と言うとき,その « tenir à ... par ... » は「... によって ... につながる,付着する,接着する,接触する」です.文字どおりにも比喩的にも使われます.辞書の例文を引用すると : « de belles filles (...) avec de petites mules à talon pointu qui ne tiennent au pied que par l'ongle de l'orteil »[美しい娘たちの小さな,踵の尖ったミュールは,ほんのつま先でしか足にとまっていない]; « je tiens encore par mille liens au monde dans lequel j'ai vécu »[わたしは,其こにおいてわたしが生きてきたところの世界に,なおも数多くのつながりによってつなぎとめられている].
トポロジックに理解しましょう.Lacan が「真理」と言うとき,それは,まずひとつには,「知と真理との間の主体の分裂」(la division du sujet entre le savoir et la vérité) に存する aliénation[異状]の構造における「真理」です:
この aliénation の図は,1965-1966年の Séminaire XIII で提示されているものです.« Sc » は science[科学,学知],« V » は vérité[真理],« a » は l'objet a[客体 a]です.
aliénation の構造は,否定存在論とそのトポロジーにおいては,次のように把握され得ます:
投射平面 (projective plane) または cross cap と呼ばれる閉曲面 (closed surface) を穴開き球面(水色)と Möbius strip(赤色)とに切り分けることによって,我々は,穴(黄色)と,切れ目のエッジ(緑色)とを得ます.
穴開き球面は,「他の場処」(le lieu de l'Autre) に相当し,Möbius strip は「主体の解脱実存的な在処」(la localité ex-sistente du sujet) に相当します.
主体の在処(赤色)は,その解脱実存性 (l'ex-sistence) において,不可能としての実在 (le réel) に相当します.他の場処(水色)は,その定存生 (la consistance) において,影在 (l'imaginaire) に相当します.穴(黄色)は,徴在 (le symbolique) に相当します.存在論的切れ目のエッジ(緑色)は,四つ輪のボロメオ結びにおける第四の輪としてのボロメオ結合性 (la nodalité borroméenne) に相当します.
aliénation の構造は,我々の基本的な存在論的構造を成すものです.それは,四つの言説において「大学の言説」と呼ばれるものに相当しています.それは,其こにおいてあらゆる認識論 (Erkenntnistheorie, épistémologie) が展開されるところの基本的な構造でもあります.
そこにおいては,他の場処(水色)に S2 が「知,科学,学知」として位置づけられ,ex-sistence の在処(赤色)に $ が「主体の存在の真理」として位置づけられ,le symbolique の穴(黄色)には S1 が「神の不在」として位置づけられ,存在論的切れ目のエッジ(緑色)には客体 a が「科学の対象」として位置づけられます.
次に,「真理」(vérité, ἀλήθεια) という用語のふたつめの意味.特に,Heidegger において,「真理」は二重です.
上に説明してきたひとつめの意味における「真理」,ex-sistence の在処(赤色)における主体の 存在 の真理 (la vérité de l'être du sujet dans la localité ex-sistente) と言うときの「真理」は,Heidegger の言う Verborgenheit[秘匿性]における真理です.
それに対して,ふたつめの意味における「真理」は,四つの言説の構造において左下の座が「真理」の座と規定されるときの「真理」です.それは,トポロジックには le symbolique の穴(黄色)に相当します.その真理は,Heidegger の言う Unverborgenheit[非秘匿性]としての真理であり,Lichtung[朗場]としての真理です.
もっとも,Heidegger が Lichtung という用語を以て考えているものは,単純に le symbolique の穴だけではなく,それを支える存在論的切れ目のエッジ(緑色)もが含まれています.彼が Lichtung と言うときは,それは,既にエッジによって支えられた穴としての真理のことです.
他方,Heidegger は,存在論的切れ目を「存在論的差異」(die ontologische Differenz) と名づけ,さらにそれを Austrag[解和]の概念へ展開したことにおいて,確かに,存在論的切れ目のエッジのことを思考しています.後年,「天と地,および,神的なものと死すべきもの」から成る Geviert[四角形,四辺形]を論ずるとき,彼が Lichtung のエッジのことを思考しようとしていた,ということは,より明らかです.
Je dis toujours la vérité : pas toute.
この文は,法廷において証言しようとする証人に対して裁判官が公式に要請する宣誓のことばを想起させます : « Je jure de parler sans haine et sans crainte, de dire toute la vérité, rien que la vérité »[わたしは,憎しみも恐れも無く語り,真理をすべて言い,真理のみを言う,と誓います].
この文は,法廷において証言しようとする証人に対して裁判官が公式に要請する宣誓のことばを想起させます : « Je jure de parler sans haine et sans crainte, de dire toute la vérité, rien que la vérité »[わたしは,憎しみも恐れも無く語り,真理をすべて言い,真理のみを言う,と誓います].
当然ながら,「真理をすべて言い,真理のみを言う」とはいっても,そこには暗黙裡に制約が付されています:「言明可能な真理をすべて言い,言明可能な真理のみを言う」.
Je dis toujours la vérité : pas toute.
我れは,常に真理を言う:すべてならざる真理を.
あるいは,
我れは,常に真理を言う:ただし,そのすべてを言うわけではない.
しかし,「言う」(dire) にしても「語る」(parler) にしても,必ずしも何らかの言表 (énoncé) の形においてとは限りません.
主体の 存在 の真理の現象学的構造においてかかわっているのは,真理の ἀποφαίνεσθαι, sich zeigen[自身を示現する]であり,そして,それは σημαίνεσθαι, sich winken, se signifier[徴によって,徴を介して,自身を示現する]として成起します.
俗な諺には言います:「真理は,井戸の底に隠されている」.しかし,隠されていた真理は,不意に姿を現します.聖書にも言うとおり : « οὐ γάρ ἐστι κρυπτὸν ἐὰν μὴ ἵνα φανερωθῇ, οὐδὲ ἐγένετο ἀπόκρυφον, ἀλλ' ἵνα ἔλθῃ εἰς φανερόν »[そも,顕かされるためでなければ隠されてはおらず,また,単に秘められたのではなく,而して,明るみ (Lichtung) へ来たるためである](Mc 4,22).
「真理」(vérité, veritas) は,女性名詞ですから,寓意的には女性として描かれます.裸婦なら,「赤裸々な真実」です.彼女が持っている鏡は,imaginaire な鏡像を見せる鏡ではなく,隠された真理をあらわに映し出す鏡です.
隠されていた井戸の底からまさに出ようとする真理を,男がふたりがかりで押しとどめています.ですから,まだ真理の全体は現れ出てはいません.しかも,真理の裸体は,部分的に布で覆われています.まさに,pas toute[すべてならざる]です.
真理はみづから語りますが,しかし,真理をすべて言明することはできない (toute la dire, on n'y arrive pas). なぜなら:
La dire toute, c'est impossible, matériellement : les mots y manquent.
真理をすべて言うことは,不可能である – 物質的に:そのためには語が欠けている.
そこにおいて,真理は,主体の 存在 の真理です.つまり,ex-sistence の在処(赤色)における $ です.主体の 存在 の真理が自身をすべて,完全に示現することは不可能である.なぜなら,「そのためには語が欠けている」,つまり,徴示素の宝庫 (le trésor du signifiant) としての他の場処(水色)は欠如をはらんでいる,つまり,他の場処には穴が開いているからです.
この図示の方が,他の場処(水色)に穴(黄色)が開いていることが,よりわかりやすいでしょう.
我々の基本的な存在論的構造の形式化である「大学の言説」において,「他の他は無い」の穴の座には S1 が位置づけられています.この場合,S1 は,一人称において「我れは語る」と言う真理の真言性を保証するものとしての神です.S1 が「他の他は無い」の座に位置しているということは,科学の言説における神の不在を表している,と言うことができます.
他方,他の場処に対して ex-sistent である在処 – l'ordre du réel[実在の位]– において「書かれないことをやめない」ものは,性関係を可能にするかもしれない phallus です.その不可能な phallus を,我々は,抹消された φ を以て形式化します:
文章のなかでは,この抹消された φ の学素の代わりに,我々は,技術的により表記容易なφ を用います.
主体の存在 の真理の現象学的構造は,トポロジックには,メビウスの帯の曲面(赤色)とそのエッジ(緑色)との関係に存します.
それは,四つの言説の構造においては,右上の座 S(Ⱥ) と右下の座φ との関係です.
他方,他の場処に対して ex-sistent である在処 – l'ordre du réel[実在の位]– において「書かれないことをやめない」ものは,性関係を可能にするかもしれない phallus です.その不可能な phallus を,我々は,抹消された φ を以て形式化します:
文章のなかでは,この抹消された φ の学素の代わりに,我々は,技術的により表記容易な
主体の
それは,四つの言説の構造においては,右上の座 S(Ⱥ) と右下の座
主体の
そこにおいては,主体の
トポロジーの図に示されているように,主体の
主体の
le symbolique の穴(黄色)の座は,「他の他は無い」の座ですから,大学の言説において S1 がそこに位置しているということは,S1 の不在を表しています.「全知全能たる神」の不在と言い換えてもよいでしょう.
逆に,もし仮に神 S1 が le symbolique の穴を塞ぎ,覆い隠す存在事象として機能するとすれば,どうなるか?その S1 は,ex-sistence の座(赤色)における主体の
「性関係は無い」とは,そのような S1 は現存しないということである,と言うことができます.
Heidegger の Geschichte des Seyns[
では,如何にして,le symbolique の穴を塞ぎ,覆い隠してしまうひとつの存在事象として機能する S1 が措定され得るのか?それは,おそらく,a と S1 との混同によってです.
形而上学において,Platon の ἰδέα に始まる存在の諸形象は,その恒常性,永遠性,不変性によって特徴づけられてきました.ところが,形而上学の満了において,Nietzsche は,「生成に存在の特徴を刻印する」ために「同じものの永遠なる回帰」を存在として措定しました.つまり,恒常的にして永劫不変と思われてきた存在が,実は,常により強力なものへ増強されることを欲する力への意志のもとで「書かれることをやめない」反復強迫にすぎないことが,あらわとなったのです.Nietzsche において a と S1 との形而上学的混同がとうとう暴露された,と言っても良いでしょう.かくして,Heidegger は Lichtung を,Lacan は le symbolique の穴を,そのものとして発見することになります.
さて,第一段落の最後の文 : « C'est même par cet impossible que la vérité tient au réel »[まさにその不可能によって,真理は実在につながっている].
そこにおいて「真理」は,pas toute としての真理です.主体の
a は,主体の
第一段落全体の訳文は:
I-1. 我れは,常に真理を言う:すべてならざる真理を.なぜなら,そのすべてを言うことはできないからだ.真理をすべて言うことは,不可能である – 物質的に:そのためには語が欠けている.まさにその不可能によって,真理は実在につながっている.
さて,第二段落以降へ進みましょう.
I-2. J'avouerai donc avoir tenté de répondre à la présente comédie et que c'était bon pour le panier.
I-2. したがって,わたしは,今演じられつつある喜劇に応じようと試みたが,その試みは屑かご行きがふさわしいものであった,と認めよう.
Séminaire, Radiophonie, Télévision, そのほかの講演などの録音や録画で Lacan の語りを彼の肉声で聴くと,彼は聴衆を前にしてかなり演戯的であったことが感ぜられます.つまり,彼は意図的に「道化」(fool) を演じています.
Séminaire VII『精神分析の倫理』の1960年03月23日の講義において,Lacan が fool と knave とを対置していたことが,想い出されます.knave は,Lacan 自身によって canaille と仏訳されています.日本語にはあまり適当な表現がありません.とりあえず「ゲス」(下司,下衆,下種)と訳しておきましょう.
そこにおいて Lacan は,左翼知識人を「道化」(fool), 右翼知識人を「ゲス」(knave) に対応させています.前者は,「狂気の沙汰」によって真理を言う者です.それに対して,後者は,真について真を言う (dire le vrai sur le vrai) ことによって誑かす者です.
学素で示すなら,道化の学素はこれです:
それに対して,ゲスの学素は,先ほども示したこれです:
ゲスは,存在の真理をすべて完全に言い得るとうそぶく S1 です.それは,当然,実際には嘘なのですが,ゲスは平然と「我れは,真理をすべて言っている」と主張し,聞く者を誑かします.
日本の現状に当てはめるなら,「平和憲法を遵守し,軍事力を放棄せよ」と言っている左翼知識人は,道化です.国際政治の常識から言えば,防衛力としての軍事力をまったく持たないことは「狂気の沙汰」です.しかし,左翼知識人は平和の真理を言っています.それに対して,「自衛隊を国防軍にすることが,平和の維持を可能にする.東アジアの国際政治情勢に鑑みるなら,わたしの言うことは正しく,真である」と言う右翼知識人は,ゲスです.
Lacan の語り口の演戯性は,彼が自身を道化として演出していたことを示唆しています.真理をすべて語ることはできないからであり,真理は真理ならざる仮象によってしか自身を示現しないからです.
Lacan の言葉は,それ自体としては,真理そのものではなく,単なる仮象にすぎないものですから,屑のようなものです.Lacan は明らかに,聖 Thomas Aquinas についての伝承 – 彼は,死のまぎわに,彼の大著 Summa Theologica[神学大全]について「屑のごとし」(sicut palea) と言った – を念頭に置いています.それにもとづいて,Lacan は,業績として自著を出版 (publication) することにこだわる大学人たちの態度を,poubellication という Witz で揶揄しています.poubelle は,公共のゴミ収集車に家庭ゴミを回収してもらうために用いられる大きなゴミ箱のことです.
I-3. Raté donc, mais par là même réussi au regard d'une erreur, ou pour mieux dire : d'un errement.
I-4. Celui-ci sans trop d'importance, d'être d'occasion. Mais d'abord, lequel ?
I-5. L'errement consiste en cette idée de parler pour que des idiots me comprennent.
I-6. Idée qui me touche si peu naturellement qu'elle n'a pu que m'être suggérée. Par l'amitié. Danger.
I-3. つまり,失敗.だが,失敗そのものにより,成功 – ひとつの誤りに対しては – あるいは,よりよく言うなら,ひとつの惑いに対しては.
I-4. さして重大な惑いではない.今回限りのことだから.しかし,まず,如何なることか?
I-5. その惑いとは,愚か者たちにわかるように語るという案に存する.
I-6. 当然ながら,わたしが思いつくような案ではほとんどないので,それはわたしに示唆され得ただけだった.友情によって.[ゲスとなりかねない]危険.
仮象 a による真理 $ の代理の構造においては,真理そのものの顕現は成起しません.その意味では,失敗です.しかし,真理そのものがそのまま顕現することは,不可能です.真理は,この虚構の構造においてしか自身を示現することはできません.それが起これば,それなりの成功です.
夢,し損ない,ど忘れ,症状,等々,一般的に formations de l'inconscient[無意識の造形]と呼ばれる現象は,いずれも,この虚構の構造を有しています.それらは,真理の自己示現としては,失敗であると同時に,失敗であることそのものにおいて,それなりの成功です.
「わたしの言うことは常にすべて正しい」と言うゲスの言葉は誑かしであり,偽りであるのに対して,狂気の沙汰を演ずる道化によってこそ,真理は自身を示現します.
Lacan が「愚か者」と呼んでいるのは,思考しない者のことです.つまり,「わたしの言うことは本当です」とうそぶく「専門家」の言葉を批判も判断もせずに信じ込む一般大衆です.そのような人々は,政治的な状況においては,ファシストに操られ,社会の全体主義化を許してしまいます.今,日本社会には,そのような「思考しない」人々が何と多いことか!
「愚か者たちにわかるように語る」ということは,一般大衆を誑かすゲスになりかねないことです.ですから,Lacan は「危険」と言っています.
I-7. Car il n'y a pas de différence entre la télévision et le public devant lequel je parle depuis longtemps, ce qu'on appelle mon séminaire. Un regard dans les deux cas : à qui je ne m'adresse dans aucun, mais au nom de quoi je parle.
I-7. そも,TV と,其の前でわたしが長年にわたり語ってきた – わたしのセミネールと呼ばれているもの – ところの公衆との間に,相違は無い.両方の場合において,ひとつのまなざし – それへ向けてわたしは語りかけるのではなく,而して,その名においてわたしは語る.
Lacan は,聴衆を前にして語るとき,大学の言説の右側を成す a / $ として語ります.通常,大学の言説においては,教える側が有する知の体系 S2 が,知の領域の辺縁に位置する教えられる側 a に向けて,既成の知を押しつけようとし,教えられる側を既成の知で支配しようとします.ところが,Lacan が教えるとき,彼は,逆に,存在の真理を代表する謎めいたまなざしとして,客体 a の座において語ります.そして,それによって,既成の知の体系 S2 は動揺し,解体を迫られます.
I-8. Qu'on ne croie pas pour autant que j'y parle à la cantonade. Je parle à ceux qui s'y connaissent, aux non-idiots, à des analystes supposés.
I-8. しかしながら,そこにおいてわたしは傍白している,とは思わぬように.わたしが語る相手は,能う者たち,「愚か者」ではない者たち,分析家と仮定される者たちである.
なぜ Lacan は,単に「分析家」と言わずに,敢えて「分析家と仮定される者」と言っているのか?それは,「精神分析家である」ことは,専門家集団が資格認定のために定める何らかの基準によって規定され得ないからです.
Lacan が精神分析を純粋に基礎づけることを目ざしたのも,精神分析家の資格認定の問題に動機づけられてです.
精神分析が単なる暗示や気やすめのようなまやかしに堕すことなく「本物」の精神分析であり得るためには,精神分析家が「本物」でなければなりません.そのためには,精神分析家になろうとする者があらかじめみづから精神分析を経験している必要がある,と既に Freud も考えていました.しかし,精神分析家になるために十分な分析経験はどのようなものであり得るか,または,あるべきかの問いについて,Freud は確たる答えを与えないままでした.
Freud の死後,国際精神分析学会は,精神分析家の資格認定に必要な分析経験を,経験的に,一回の面接の時間,一週間ないし一ヶ月間の面接の頻度,面接の持続年数などの形式的な基準によって,規定して行きます.そのようにして資格認定された精神分析家たちが精神分析を行うようになって,如何なる事態が生じたか? Lacan が1950年代に批判し始めた USA における精神分析の状況です.精神分析家はみづから強迫神経症的になり,治療目標は現実適応になり,治療そのものは転移と逆転移の泥沼に足を取られ,理論においては無意識も死の本能もないがしろにされるようになりました.精神分析家の資格認定の問題を根本的に問い直さねばならない – それが,Lacan が問い続けた問題です.
Lacan は,こう考えます:精神分析の資格認定の問題は,教育分析の必要条件を時間などの形式的な基準において定めることによっては解決され得ない;むしろ,「精神分析家である」ことの可能性の条件について根本的かつ本質的に思考せねばならない.そして,そのためには,精神分析を純粋に – 非経験論的に – 基礎づけねばならない.
精神分析家の資格認定に関して問い続ける Lacan の足跡を,我々は彼の教えのあちらこちらに見ることができます.それらのなかでも特に重要なのが,Proposition du 9 octobre 1967 sur le psychanalyste de l'École[École freudienne de Paris の精神分析家に関する1967年10月09日付の提案]です.そこにおいて Lacan は,こう言っています : « D'abord un principe : le psychanalyste ne s'autorise que de lui-même »[まず,原理:精神分析家は,自身によってのみ認定される](Autres écrits, p.243).
「精神分析家は自身によってのみ認定される」と言っても,誰もが自分勝手に精神分析家であると自認してよいということではまったくありません.そうではなく,その公式はこういうことです:精神分析家の資格認定は,他者によっては為され得ない.「他者」は,たとえば,精神分析家の職能団体のなかの分析家資格認定委員会のようなものです.そして,「自身によって」は,自身の精神分析の経験の終結において到達された主体の
なぜ他者によっては認定され得ないか?それは,主体の
したがって,我々は,自身の精神分析を何年間か経験してきた或る者の前で,その者が「精神分析家である」か否かを判断するための公式化された基準を持ち合わせてはいません.その者が「我れは精神分析家である」と言うなら,とりあえずそう仮定するしかありません.
その仮定を「検証」するためには,その者が或るほかの者に対して精神分析家として機能し得たか否かを見る必要があります.勿論,そのことを判断するためにも,公式化された基準があるわけではありません.その者のもとで精神分析を経験した者(精神分析者,精神分析の患者)の証言を聴くしかありません.
Lacan がわざわざ「分析家と仮定される者」と言うとき,そこには以上の問題が包含されています.
I-9. L'expérience prouve, même à s'en tenir à l'attroupement, prouve que ce que je dis intéresse bien plus de gens que ceux qu'avec quelque raison je suppose analystes. Pourquoi dès lors parlerais-je d'un autre ton ici qu'à mon séminaire ?
I-10. Outre qu'il n'est pas invraisemblable que j'y suppose aussi des analystes à m'entendre.
I-9. 経験は,このことを証明している:たとえ聴衆が単なる群衆にすぎない場合でも,わたしが言うことには,何らかの理由でわたしが分析家と仮定する者たちよりもより多くの人々が関心を持つ.であれば,なぜわたしはここで[テレビ番組収録の場で],わたしのセミネールにおけるのとは異なる調子で語るだろうか?
I-10. 加えて,テレビでわたしの言葉を聞く分析家がいるだろうと仮定することは,おかしなことではない.
この「群衆」については,Lacan は,1969年12月03日,l'Université de Paris VIII の前身,le Centre universitaire expérimental de Vincennes において騒然たる雰囲気のなかで行われた講演のことを思いだしているのかもしれません.
Lacan の言うことが分析家ではない人々の関心をも引いたのは,勿論,そこにおいて,単なる精神分析理論が講ぜられていたのではなく,而して,否定存在論と 存在 の真理の現象学的構造とに関する問いが問われていたからです.
I-11. J'irais plus loin : je n'attends rien de plus des analystes supposés, que d'être cet objet grâce à quoi ce que j'enseigne n'est pas une auto-analyse. Sans doute sur ce point n'y a-t-il que d'eux, de ceux qui m'écoutent, que je serai entendu. Mais même à ne rien entendre, un analyste tient ce rôle que je viens de formuler, et la télévision le tient dès lors aussi bien que lui.
I-11. もっと言おう:わたしが分析家と仮定される者たちから期待するのは,彼らがあの客体 [ a ] となることだけである.そうなれば,わたしが教えていることは自己分析ではなくなる.おそらく,この点については,わたしの言うことが聴き取られるのは,彼ら – わたしの言うことを聴いている彼ら – によってのみだろう.しかし,何も聴いていなくとも,分析家は,先ほどわたしが公式化したあの役割[客体 a であること]を果たす.して,されば,TV も,分析家と同様に,その役割を果たす.
精神分析の面接においては,とりあえず,分析家は,大学の言説の右上の座に客体 a として位置づけられます.
転移においては,症状の signifiant が,右上の座における客体 a としての分析家へ転移されます.言い換えると,客体 a としての分析家が症状の signifiant となることを引き受けます.
転移の可能性の条件を,Lacan は le sujet supposé savoir[知っていると仮定される主体]と名づけます.それは,主体の 存在 の真理 $ の座に絶対知が仮定されることに存します.その絶対知は,左上の座の知 S2 のような相対的なものではなく,神的な全知です.
Lacan は,セミネールで彼の言葉を聴いている分析家たちが客体 a になることを期待している,と言っていますが,実際には,Lacan が le sujet supposé savoir にしているのは,神そのものでしょう.言うなれば,セミネールで語るとき,Lacan は神と精神分析を経験することを期待しているわけです.
I-12. J'ajoute que ces analystes qui ne le sont que d'être objet – objet de l'analysant –, il arrive que je m'adresse à eux, non que je leur parle, mais que je parle d'eux : ne serait-ce que pour les troubler. Qui sait ? Ça peut avoir des effets de suggestion.
I-12. 付け加えるなら,わたしは,分析家たち – 彼らが分析家であるのは,分析者[精神分析の患者]の客体であることによってのみである – に向けて話すことがある.わたしは,彼らに語るのではなく,而して,彼らについて語る.たとえ,彼らを動揺させるためにのみであろうとも.もしかして,それは暗示の効果を持つかもしれない.
Lacan の教えは,精神分析を純粋に基礎づけることに存します.ですから,それは,単なる伝統や慣習にもとづいてのみ精神分析家である者たちには,彼らの拠って立つところが掘り崩されてしまう不安を与えます.不安になった者たちのなかには,charismatique な Lacan に対して,過度に攻撃的になった者もいましたし,過度に依存的になった者もいました. Lacan の影響力は,彼の生前,絶大でした.
I-13. Le croira-t-on ? Il y a un cas où la suggestion ne peut rien : celui où l'analyste tient son défaut de l'autre, de celui qui l'a mené jusqu'à la « passe » comme je dis, celle de se poser en analyste.
I-13. 人々はそう[Lacan は人々を暗示にかけていると]思うだろうか?[だが,]暗示が無効である場合がある:すなわち,分析家が自身の欠陥をほかの分析家から得る場合.「ほかの分析家」とは,彼を「パス」にまで導いた分析家のことである.わたしの言う「パス」とは,自身を分析家として措定する「パス」である.
「欠陥」(défaut) は,Lacan の別の用語では「欠如」(manque) です.「存在欠如」(manque-à-être) です.存在欠如の学素 $ を,Lacan は,Heidegger の「抹消された Sein」の表記にもとづいて考案した,と推察されます.
filiation[父子関繋]においては,父から息子へ phallus が相続されて行く,と思念されます.精神分析においても,分析家と分析者(analysant : 精神分析の患者)との関繋について filiation という語を用いるなら,精神分析の filiation において「相続」されるのは,存在欠如 $ です.
精神分析の開始における大学の言説の構造において,$ は,右下の座 – ex-sistence の座 – に位置しています:
ex-sistence の座は,抹消された存在 Sein の座として,死の座でもあります.抹消された主体 $ は,死の闇のなかに横たわっています.
大学の言説において,a は分析家です.$ は,分析家の側に位置しています.
それに対して,分析家の言説においては,$ は右上の座に位置します:
分析家の言説においては,a の位置する左側が分析家の側であり,$ の位置する右側は分析者 (analysant) の側になります.
$ は,右下の死の座から右上の S(Ⱥ) の座へ移行します.それは,死から永遠の命への復活に相当します.
大学の言説における右下の座(分析家の側)から分析家の言説における右上の座(分析者の側)への $ の移行が,精神分析の filiation における存在欠如の相続を表しています.
暗示は,暗示の徴示素 S1 の作用によって可能となります.それに対して,存在欠如の相続においては,かかわっているのは,徴示素の場処の外である $ ですから,暗示はまったく無効です.
この出来事は,分析者(精神分析の患者)が精神分析家と成ることを目指しているか否かにかかわらず,精神分析の終結において成起します.つまり,分析者が必ずしも精神分析家に成ろうとはしていない場合と,分析者が精神分析家に成ろうとする教育分析の場合とを区別する理由は,パスの観点からはありません.あらゆる精神分析は教育分析であり得ます.精神分析の終結後に実際に精神分析家として活動するか否かは,副次的な問題にすぎません.
Lacan は,さらに,EFP における精神分析家の資格認定の手続をも「パス」と名づけます.しかし,より正確に言うと,それは単なる「資格認定」ではありません.パスの手続は,精神分析の経験を終えた者によるパスの成起の証言と,その証言に信を置くか否かの陪審の判断とから成ります.陪審がパスの成起の証言に信を置くことができると判断した場合,EFP は,その証人に analyste de l'École (AE) の称号を授与します.
おそらく,Lacan 自身の関心は,「資格認定」の手続そのものにではなく,むしろ,できるだけ多くの者からパスの成起の証言を聴くことの方にあっただろう,と思います.それは,精神分析の純粋基礎に関する彼の思考を深めるのに役立つはずであったからです.
しかし,1967年10月09日の提案において Lacan がパスの概念とパスの手続を提示したとき,EFP のメンバーたちの反応は必ずしも好意的ではありませんでした.彼らが求めていたのは,やはり,単純に「資格認定」に関する明瞭な実務的基準にすぎませんでした.Lacan がパスと名づけたものの意義を理解しようとする者,理解し得た者は,多くありませんでした.結局,残念ながら,EFP のなかでパスの手続はうまく機能することはなかった,と言われています.
I-14. Heureux les cas où passe fictive pour formation inachevée : ils laissent de l'espoir.
この文の前半は,anacoluthe(破格構文)です.文法的に補正するなら,例えば « Heureux les cas où la passe s'avère fictive pour formation inachevée » となるでしょう.
I-14. 養成未完のためにパスが虚構的なものとして真現する場合は,幸い.彼らは,希望を放棄する.
なぜ Lacan はこの文の前半部分を anacoluthe としたのか,その理由は不明です.inachevé[未完]という語に合わせて,構文も未完成なままに残したのでしょうか?
後半部分 « ils laissent de l'espoir » は,Dante の Divina Commedia の Inferno の Canto III の冒頭で描かれる地獄の門に記された命令を想い起こさせます : « Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate »[汝れら,この門を入る者らよ,希望をすべて捨てよ].この « laisser » は,「残す」ではなく,「捨てる,放棄する」です.
地上的な希望,存在事象に依拠する希望は,すべて,放棄されねばなりません.さもなくば,Dante も我々も,天の御国の幸福に与ることはできません.いったん,地獄において絶望の底へ沈むこと,そして,その徹底的な絶望をみづから引き受けること – それ無しには,至福なる永遠の命へ到達することはできません.
Hegel が『精神の現象学』において das Selbstbewusstsein を reines Fürsichsein と規定するとき,かかわっているのは同じことです.それは,欲望の満足のために如何なる存在事象に依存してもならず,自由(自有)のために死を引き受けねばなりません.
翻って,文頭の « heureux » は,Jésus Christ によるあの祝福を思い起こさせます : « heureux les pauvres en esprit... »[霊気貧しき者らは幸い](Mt 5,3-12). そこにおいて,Jésus は,常識的な意味では(地上的な意味では)不幸でしかない者たち,絶望的な状況において苦しみ,泣いている者たちを「幸いなり」と呼んで,祝福しています.そのような者たちこそ,永遠の命の幸福へ到達することができるからです.
では,この Télévision の文脈において,徹底的な絶望を成すものは何か?それは,« formation inachevée » です.
この文において « formation » は「分析家の養成」です.パスの成起を以て精神分析は終結しますが,それは,文書の形に成文化された基準によって規定され得ることではありません.ですから,何らかの権威ある機関が分析家の養成に関して完結を「認定」することは,不可能です.分析家の養成はすべて,未完に終わります.「あなたを精神分析家と認定します」という権威ある御墨付をもらおうという希望は,決してかなえられないのです.
何たる絶望!– 強迫神経症者にとっては... むしろ,そのような希望は放棄されねばなりません – まさに,精神分析家として,自有 (Ereignis) において成起するためには.
パスの手続において,自身の分析経験を終えた者 (passant) は,ふたりの伝達者 (passeur) の前で,自身のパス経験を証言します.passeurs は,それぞれ,彼らが聴いた passant の証言を陪審へ伝えます.それにもとづいて,陪審は,passant のパス証言に信を置くことができるか否か,判断します.passeurs がふたりであるのは,ひとりの場合よりも証言の伝達をより確かにするためです.また,passeur は,自身,分析を経験しつつあり,かつ,その終結に近づいている者たちのなかから選ばれます.そのような状況にある者は,パス経験に関してより敏感な感受性を有している,と考えられるからです.また,ほかの者のパス経験の証言を聴くことによって,passeur 自身のパスの成起が促進される,と期待されもするからです.
パスの成起そのものは,実在的なものです.しかし,それに関する証言は,言語の構造のゆえに,虚構的です.その虚構の構造において真現する
Télévision 第 I 章
I-1. 我れは,常に真理を言う:すべてならざる真理を.なぜなら,そのすべてを言うことはできないからだ.真理をすべて言うことは,不可能である – 物質的に:そのためには語が欠けている.まさにその不可能によって,真理は実在につながっている.
I-2. したがって,わたしは,今演じられつつある喜劇に応じようと試みたが,その試みは屑かご行きがふさわしいものであった,と認めよう.
I-3. つまり,失敗.だが,失敗そのものにより,成功 – ひとつの誤りに対しては – あるいは,よりよく言うなら,ひとつの惑いに対しては.
I-4. さして重大な惑いではない.今回限りのことだから.しかし,まず,如何なることか?
I-5. その惑いとは,愚か者たちにわかるように語るという案に存する.
I-6. 当然ながら,わたしが思いつくような案ではほとんどないので,それはわたしに示唆され得ただけだった.友情によって.[ゲスとなりかねない]危険.
I-7. そも,TV と,其の前でわたしが長年にわたり語ってきた – わたしのセミネールと呼ばれているもの – ところの公衆との間に,相違は無い.両方の場合において,ひとつのまなざし – それへ向けてわたしは語りかけるのではなく,而して,その名においてわたしは語る.
I-8. しかしながら,そこにおいてわたしは傍白している,とは思わぬように.わたしが語る相手は,能う者たち,「愚か者」ではない者たち,分析家と仮定される者たちである.
I-9. 経験は,このことを証明している:たとえ聴衆が単なる群衆にすぎない場合でも,わたしが言うことには,何らかの理由でわたしが分析家と仮定する者たちよりもより多くの人々が関心を持つ.であれば,なぜわたしはここで[テレビ番組収録の場で],わたしのセミネールにおけるのとは異なる調子で語るだろうか?
I-10. 加えて,テレビでわたしの言葉を聞く分析家がいるだろうと仮定することは,おかしなことではない.
I-11. もっと言おう:わたしが分析家と仮定される者たちから期待するのは,彼らがあの客体 [ a ] となることだけである.そうなれば,わたしが教えていることは自己分析ではなくなる.おそらく,この点については,わたしの言うことが聴き取られるのは,彼ら – わたしの言うことを聴いている彼ら – によってのみだろう.しかし,何も聴いていなくとも,分析家は,先ほどわたしが公式化したあの役割[客体 a であること]を果たす.して,されば,TV も,分析家と同様に,その役割を果たす.
I-12. 付け加えるなら,わたしは,分析家たち – 彼らが分析家であるのは,分析者[精神分析の患者]の客体であることによってのみである – に向けて話すことがある.わたしは,彼らに語るのではなく,而して,彼らについて語る.たとえ,彼らを動揺させるためにのみであろうとも.もしかして,それは暗示の効果を持つかもしれない.
I-13. 人々はそう[Lacan は人々を暗示にかけていると]思うだろうか?[だが,]暗示が無効である場合がある:すなわち,分析家が自身の欠陥をほかの分析家から得る場合.「ほかの分析家」とは,彼を「パス」にまで導いた分析家のことである.わたしの言う「パス」とは,自身を分析家として措定する「パス」である.
I-14. 養成未完のためにパスが虚構的なものとして真現する場合は,幸い.彼らは,希望を放棄する.