2019年12月26日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 : 2019年12月13日の講義にもとづいて

André Brouillet (1857-1914), Une leçon clinique à la Salpêtrière (1887)*
 
* L'Hôpital de la Salpêtrière における Jean-Martin Charcot (1825-1893) の症例提示講義の一光景.Charcot のかたわらで,Joseph Babinski(« le réflexe de Babinski »[バビンスキー反射] にその名を残す神経科医)に支えられて,ぐったりしている女性は,Charcot の有名患者 Marie "Blanche" Wittmann (1859-1913). 彼女は,1877年,18歳のときから,癲癇の診断のもとに,Salpêtrière の入院患者となったが,« la reine des hystériques »[ヒステリカの女王]と呼ばれるほどに,Charcot の前で 多彩な古典的ヒステリー症状を 呈した.絵のなかで,彼女は,Charcot によって誘発された催眠状態に陥っており,我々から見える彼女の左手は,ヒステリー発作の際に観察され得るような拘縮を起こしている.また,画面の左上のすみには,やはりヒステリー発作のさいに起こり得る opisthotonos[反弓緊張]を呈している患者が描かれた絵が壁に掛けられているのを,我々は見ることができる.


フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 : 2019年12月13日の講義にもとづいて

小笠原 晋也

否定存在論的孔穴の源初的な閉塞 と 源初排斥


精神分析の純粋基礎としての否定存在論において,最も重要なことは,穴(le trou apophatico-ontologique : 否定存在論的孔穴)は源初論的である(le trou archéologique : 源初論的孔穴)— すなわち,穴は,存在の歴史が形而上学の歴史として展開され始める以前に,本来的に,あいていたのだ — ということです.つまり,「最初は 穴は あいておらず,完璧であったのだが,何かが失われた — あるいは,欠けた — ことによって,穴があいてしまったのだ」というわけではありません.穴があいているという構造が本来的であって,穴が塞がれた形而上学的な構造は むしろ 非本来的です.言い換えると,穴があいているという事態は,その「埋め合わせ」が要請されるような 欠陥的な事態ではないのです.

なぜ そのことを強調する必要が あるのか?それは,我々は,どうしても,知らず知らずのうちに,こう想定してしまっているからです:穴が開いているからには,何かが欠けたにちがいない,あるいは,何かが失われたに違いない;したがって,その欠けている何か,失われた何かを,どこかで見つけ出し,あるいは,改めて作り出して,それを穴のところにあてがえば,それによって穴を塞ぐことができるはずだ;そして,それこそが,我々が目標とすべき終結 — 完結,完了,完全,完成 — である.

しかし,それは,形而上学的な — 目的論的 (téléologique) な — 思い込みにすぎません.しかも,そのような目的論的想定は,単なる人畜無害な空想ではなく,逆に,とんでもなく有害な効果を有しています.今,我々が生きている時代の混乱は,Platon 以来の目的論的想定が無効となったにもかかわらず,なおもそれに執着しようとする動きが続いていることに起因しているからです.

我々は,形而上学的な — 目的論的 (téléologique) な — 完成や達成を断念して,源初論的孔穴の 終末論的 (eschatologique) な 到来[再臨](παρουσία) を覚悟するよう,促されています.

Heidegger の言う「存在の歴史」(die Geschichte des Seins) は,基本的には,次の三つの位相 (phase) に 還元されます  それら三つの位相をとおして,否定存在論的孔穴は,自身を 終末論的な非秘匿性へ 示現して行きます:

1) la phase archéologique[源初論的位相]: この位相は,存在の歴史の経験の外に位置づけられており,その経験の可能性の条件を成しています.源初論的位相においては,否定存在論的孔穴は口を開いていました.が,ただし,源初論的位相を 哲学や宗教の歴史の「源初」に そのものとして確認することは,できません.Heidegger も,Vorsokratiker[ソクラテス以前の哲人たち]のテクスト断片のなかに否定存在論的孔穴の開口を そのものとして 見出そうとしましたが,結局,そのような試みを放棄せざるを得なかったようです;

2) la phase métaphysique[形而上学的位相]:  否定存在論的孔穴が τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]によって塞がれることを以て,存在の歴史の経験は,形而上学の歴史の経験として,始まります(哲学や宗教の歴史のなかで 経験的に 確認され得る限りでは,否定存在論的孔穴は,源初において,既に塞がれています).τὸ ὄντως ὄν のうちで最も代表的なものが Platon の ἰδέα であり,我々は,Platon を以て形而上学は始まる,と見なすことができます.Aristoteles が 形而上学を τὸ ὂν ᾗ ὄν[存在事象としての存在事象]を考察する学 [ ἐπιστήμη τις ἣ θεωρεῖ τὸ ὂν ᾗ ὄν ] と規定する限りにおいて,形而上学は 根本的に 存在論であり,その限りにおいて,否定存在論的孔穴を閉塞するものは「存在」(das Sein) である — あるいは,我々は,「存在」を「否定存在論的孔穴を閉塞するもの」と定義することができます;

3) la phase eschatologique[終末論的位相]: Heidegger によれば,形而上学は,Umdrehung des Platonismus[プラトニズムの覆し]を果たそうとした Nietzsche において満了 (Vollendung) し,Nihilismus[ニヒリズム]に行き着きます.そこにおいては,イデア的なものによる否定存在論的孔穴の閉塞はもはや無効となり,イデア的なものはその価値をもはや失ったが,しかし,イデア的なものの代わりに 否定存在論的孔穴を塞ぎ得るかもしれないものが,なおも探し求められています — Nietzsche においては,それは,Wille zur Macht[力への意志]と,それを体現する Übermensch[超人]です.我々は,現在,この〈存在の歴史の〉終末論的位相のただなかにおり,そこにおいては,否定存在論的孔穴は「否認 (verleugnen) される」という様態において 経験されつつあります.「否認されつつ 経験されている」ということは,否定存在論的孔穴の開口は,そのものとして認められ,受け容れられるには,まだ至っておらず,而して,それに対する抵抗と防御という形においてのみ,経験されている,ということです.しかし,今や,我々は,終末論的到来 (la venue eschatologique, παρουσία) — そこにおいては,源初論的孔穴が自身を非秘匿的に示現してきます — を覚悟するよう,促されています.


我々は,存在の歴史の源初論的位相を,そのものとして,形而上学の歴史の「源初」に見出すことは できません.ですから,「否定存在論的孔穴」(le trou apophatico-ontologique) という名称そのものも,その穴が「存在」によって塞がれていたことを前提しています.Heidegger が「存在」をバツ印で抹消することができたのも,存在の歴史が終末論的位相に至り,否定存在論的孔穴の存在による閉塞が無効となったことによってです.否定存在論的孔穴は,終末論的孔穴として 初めて見出され得,そして,源初論的孔穴は,「否定存在論的孔穴の源初論的開口」としてのみ,措定され得ます.

以上のような 存在の歴史の観点から見るなら,Freud は,「無意識」という名称のもとに 否定存在論的孔穴を「発見」しながらも,如何に形而上学に捕われ続けていたか,ということが見えてきます.というのも,Freud は,否定存在論的孔穴を,phallus の欠如の穴 — すなわち「去勢」の穴 — として捉えるからです.


精神分析において問題となる「去勢」(castration) は,「母の身体に phallus が欠けていること」( − φ ) です.その欠如の穴は「母の欲望」(le désir de la mère) の穴です.そして,父の phallus — より正確に言えば,家父長ファロス (le phallus patriarchal) Φ — は,母の欲望の穴 ( − φ ) を埋め塞ぎ,母の欲望を満足させ得る,と想定されています.

以上のような Freud の思考 — すなわち Ödipuskomplex[オィディプス複合] は,否定存在論的孔穴を閉塞し得る家父長ファロス Φ(性本能の発達論において Genitalorganisation[性器体制]と名づけられた性的成熟の段階)を 目的論的に 措定しています.そして,そこから出発して,否定存在論的孔穴に「phallus の欠如の穴」という「性的」な意義を付与しています.

しかし,Freud による家父長ファロス Φ の措定は,Platon による ἰδέα の措定と同じく,形而上学的なものです.そして,そのようなイデア的なものの措定は,今や,存在の歴史の終末論的位相においては,無効です.

であればこそ,Lacan は,1962-1963 年の Séminaire X『不安』において,la femme ne manque de rien[女には何も欠けていない]と言っています.それは,家父長ファロスの措定から出発して,女には phallus が欠けている,と見なす Freud の形而上学的な思考の完全な否定です.女には何も欠けてはいない.否定存在論的孔穴は源初論的なものである.むしろ,その穴を埋め塞ぎ得ると見なされる家父長ファロスの方が,単なる形而上学的な虚構なのだ — Lacan の「女には何も欠けていない」は,そのことを示唆しています.

そして,家父長ファロス Φ の虚構性を公式化する命題として,1962-1963 年の Séminaire X において一度きり述べられただけの「女には何も欠けていない」と,1968-1969 年の Séminaire XVI において初めて提示され,1970年代の Lacan の教えの中心的な命題となり,ついには 精神分析の基礎を成す公式として位置づけられることになる「性関係は無い」(il n'y a pas de rapport sexuel) とは,等価である,ということがわかります.「女には何も欠けていない」という命題は,Lacan 自身はそれを活用しなかったとはいえ,今,改めて振り返ってみると,それなりに印象的です.

ともあれ,我々は,家父長ファロス Φ を前提的なものとして措定しません.そのとき,否定存在論的孔穴は,ファロスの欠如の穴 ( − φ ) という性的な意義を持つこともありません.否定存在論的孔穴は,本来は,性的 (sexual, érotique) なものではなく,むしろ,死的 (thanatique) なものです.

否定存在論的孔穴は,臨床においては,死の不安,無の不安,そして,罪の不安によって 差ししるされます — そのことを,我々は,Freud の「Irma の注射の夢」の再分析(2019年11月01日08日15日29日)において 確認しました.

さて,Freud が Urverdrängung[源初排斥]と名づけたものを,源初論的孔穴の閉塞として 捉えなおしてみましょう.

源初論的孔穴を,先ほどは,Heidegger の「抹消された存在」Sein を中心に有する円によって表しましたが,今度は,Sein の代わりに,Lacan の「抹消された主体」$ を置きましょう:


源初において,主体 $ の穴(あるいは,穴としての主体 $, 穴である主体 $)は,le signifiant maître[支配者徴示素]S1 — 形而上学の歴史における その最初のものが,Platon の ἰδέα です — によって閉塞 (obturation) されます.それによって,$ は,S1 の「背後」へ verdrängen[排斥]されてしまい,我々からは見えないところへ隠されてしまいます.それが,源初排斥 (Urverdrängung, archi-refoulement) です.

源初排斥された $ が位置している場所を,我々は,Heidegger の用語を以て,Ortschaft des Seins存在 の在所]と呼びます.

主体 $ が位置する 存在 の在所は,穴を閉塞した S1 の座(それは,四つの言説の構造においては「真理の座」[ la place de la vérité ] と呼ばれます)に対しては,ex-sistent[解脱実存的]です.その解脱実存的な 存在 の在所は,四つの言説の構造においては「生産の座」(la place de la production) と呼ばれます.

主体 $ の穴は S1 によって塞がれますが,穴のエッジの痕跡は残ります.それは,四つの言説の構造においては「他者の座」(la place de l'autre) に相当します.

そして,そこに位置する客体 a はの機能は,三重です : 1) 主体 $ の穴を代理する signifiant[徴示素]としては symbolique[徴示的]; 2) 主体 $ の穴を隠蔽 (dissimulation) するものとしては imaginaire[事象的]; 3) 書かれることをやめない必然的なもの  反復強迫 (Wiederholungszwang)  としては réel[実在的].

穴のエッジにおける(あるいは,穴のエッジを成す)客体 a の機能を 身近なものに譬えるなら,広い公園などの空き地をぐるりと取り囲む高い塀を 思い浮かべることができるでしょう.高さが 2 m もあれば,塀は,それが囲む空き地を隠してしまいます(事象性).しかし,何かが塀に囲まれ,隠されている,ということを,塀は 示唆します(徴示性).そして,塀は,広い空き地のエッジを成すよう,延々と続いており,途切れることがありません(書かれることをやめないこととしての実在性).

穴のエッジ(他者の座)に位置する客体 a の そのような三重の機能は,Lacan が Séminaire XXII R.S.I. (1974-1975) において 客体 a を三つ輪のボロメオ結びの中央の三重の重なり合い (la triple intersection) の領域に位置づけていることにおいても,示唆されています:


最後に,そこにおいて源初論的孔穴が口を開いていたところの surface[曲面]は,四つの言説の構造においては「能動者の座」(la place de l'agent) です.そこには,知 S2 が位置づけられます.

改めて図示すると:

  


以上のような「源初排斥」のメカニズムによって,我々は,大学の言説の構造を得ます.それは,形而上学の構造の形式化です.そこにおいては,源初論的孔穴(抹消された存在 Sein の穴,すなわち,抹消された主体 $ の穴)は,支配者徴示素 S1(Platon の ἰδέα に代表されτὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]としての「存在」— そのなかには,Pascal が「哲学者たちと神学者たちの神」[ le Dieu des philosophes et des savants ] と呼んだ形而上学的偶像神や,その閉出が精神病発症の必要条件であると Lacan が 当初 考えた「父の名」[ le Nom-du-Père ] も含まれます)によって閉塞されます.その S1 が位置する座は,形而上学的な「真理」の座となります.主体 $ の穴(あるいは,穴としての主体 $)は,解脱実存的な 存在 の在所(生産の座)へ排斥され(源初排斥),そこに隠されます(秘匿性 : Verborgenheit).穴のエッジの痕跡(他者の座)に位置づけられる 客体 a は,主体 $ の穴を代理する徴示素として機能します(客体 a の三重の機能については,上述参照).S1 が位置する「真理の座」を代理する座(能動者の座)には,知 S2 が位置づけられます.

Platon (428/427 - 348/347 BCE) 以来,二千年以上 続いてきた形而上学の構造は,しかし,19世紀に破綻を呈するようになるに至ります.それは,科学と資本主義が支配的となった状況において,支配者徴示素 S1 が,まことには τὸ ὄντως ὄν ではなく,而して,単なる仮象にすぎず,実際には穴塞ぎの機能も果たし得ていない,ということが顕わになってくるからです.

形而上学的秩序の破綻は,政治の領域においては,フランス革命とナポレオン帝国による〈17-18 世紀のヨーロッパの秩序の〉破壊として現れ,経済の領域においては,〈Marx が「資本家の絶対的な富裕化本能」(der absolute Bereicherungstrieb des Kapitalisten) と呼んだ〉際限無き欲望と,それによって惹起される経済恐慌として現れ,言語の領域においては,真理の座に a priori に措定された S1 の la signifiance maîtresse[支配者意義]としての機能の無効化にともなって,言語の構造を条件づける〈signifiant[徴示素]と signifié[被徴示]との間の〉切れ目が顕在化することして現れ,そして,形而上学そのものの領域においては,Nietzsche の Umdrehung des Platonismus[プラトニズムの覆し]として 現れます.Freud による「無意識の発見」も,この〈現代史における〉形而上学の破綻によって条件づけられています.


大学の言説の構造において支配者徴示素 S1 による穴塞ぎが無効になると,否定存在論的孔穴が 穴として 現れ出でてきます.それは,大学の言説から分析家の言説への構造転換として 成起してきます.そこにおいては,それまで解脱実存的在所に秘匿されていた 主体 $ の穴 が,他者の座へ移り,それとともに,否定存在論的孔穴を縁取るエッジとして,現れ出でてきます.

しかし,恐ろしい穴(穴としての主体 $ の現出は,無と死と罪の不安を惹起します)の現出を阻止しようとする 激しい抵抗と防御も起こります.それが,精神分析において病理学的と見なされる諸現象です.社会学において「社会病理」として記述される諸現象も,同じメカニズムによって生じています.

精神分析において,精神分析家の機能は,穴の現出の不安に耐えることを可能にすることに存します.社会学的な次元において,不安に耐えることを可能にするものは,キリスト教的な「神の愛」です.

今の日本社会が病理学的な現象に満ちあふれているのも,日本社会が精神分析をもキリスト教をも受け容れ得ないでいるからにほかなりません.そして,日本社会が精神分析をもキリスト教をも受け容れ得ないのは,日本語という言語の特殊性 — つまり,日本語は思考不能の言語である,ということ — に条件づけられています.


smoked salmon の夢 と ヒステリー的同一化


Freud は,『夢解釈』の第 II 章の最後で,Irma の注射の夢の分析にもとづいて,「夢は 願望成就である」(der Traum ist eine Wunscherfüllung) と公式化します.次いで,第 IV 章において,「夢は願望成就である」という命題に矛盾しているかのように見える夢 — つまり,何らかの願望が成就されないことを内容とする夢 — の例を幾つか提示し,そこにおいても やはり 願望成就がかかわっていることを,証明します.

Freud が「機知に富む hysterica」(die witzige Hysterika, l'hystérique spirituelle) と呼ぶ女性患者の「smoked salmon の夢」も,願望不成就の夢の例のひとつとして,提示されています.そして,Freud は,その夢の分析との関連において,さらに,「ヒステリー的同一化」(die hysterische Identifizierung, l'identification hystérique) のメカニズムについても論じています.

この smoked salmon の夢は,Lacan によって,彼の 1958 年のテクスト La direction de la cure et les principes de son pouvoir[精神分析治療の方針 と その可能の原理]において取り上げられています.そこにおける Lacan の議論も含めて,読み直してみましょう. 

Freud は,『夢解釈』の第 IV 章の最後で,「夢は願望成就である」という公式に若干の補足を付け加えて,「夢は,排斥された願望の 偽装された成就 である」(der Traum ist die verkleidete Erfüllung eines verdrängten Wunsches) と公式化しなおします.

この公式は,夢だけでなく,Lacan が formations de l'inconscient[無意識の成形]と呼ぶもの — 夢,幻想,言い損ない,し損ない,症状,等々 — すべてに妥当します.

排斥された「願望」— 我々は,Lacan にならって,「願望」ではなく,「欲望」と言いましょう:排斥された欲望とは,大学の言説の構造における主体 $ のことです.

もし仮に欲望 $ は満足可能であるとするなら,その満足を可能にするものは,「性関係」だけです — すなわち,Freud の言う「性器体制」だけです.しかるに,性器体制の可能性の条件である phallus は,実は,不可能であり,書かれないことをやめません — すなわち,性関係は無い.それゆえ,欲望 $ は満足不可能です.如何なる存在事象も,欲望 $ を満足させることはできません.

では,そのような欲望の「成就」(Erfüllung) とは,如何なる事態であり得るのか?それは,欲望の「昇華」(Sublimierung, sublimation) 以外にはありえません.つまり,大学の言説から分析家の言説への構造転換です.


欲望の弁証法(欲望としての主体 $ の弁証法)は,ヒステリカの言説 (DH) の構造において〈無媒介的に措定された〉不満足な欲望から出発して,満足を目指して,進んで行きます — ヒステリカの言説 (DH) から 支配者の言説 (DM) へ,そして,支配者の言説 (DM) から 大学の言説 (DU) へ.

欲望 $ は,大学の言説の構造において,真理の座に措定された支配者徴示素 S1 の媒介によって,満足が達成されるだろう,と期待していました.ところが,大学の言説の構造において実際に経験されるのは,そのような期待とはまったく逆の事態です:すなわち,性器体制を条件づける家父長ファロスは仮象にすぎず,したがって,「性関係は無い」こと,そして,「性関係は無い」がゆえに,欲望の満足は不可能であること.

そのとき,選択肢はふたつあります:ひとつは,分析家の言説の構造における「欲望の昇華」へ「前進」すること;もうひとつは,「性関係は無い」ことを否認しつつ,剰余悦 a の反復強迫によって,分析家の言説の構造への「前進」に対して抵抗し,大学の言説の構造にとどまり続けること.

さらに,分析家の言説の構造  そこにおいては,主体 $ の穴が 穴そのものとして 現出してきます — へ「前進」した場合にも,やはり,ふたつの道があります:ひとつは,主体 $ の穴が,愛の支えによって「書かれることをやめない」ものと成る場合 — すなわち,「必然的」(nécessaire) としての「実在的」(réel) なものに成る場合;もうひとつは,主体 $ の穴は「書かれることをやめない」ものとはならない場合.

前者の場合(主体 $ の穴が 愛の支えによって「書かれることをやめない」ものと成る場合)は,欲望の昇華が達成されることになります.そこには,昇華の悦 (la jouissance de sublimation, la jouissance sublimatoire) があります.

それに対して,後者の場合(主体 $ の穴は「書かれることをやめない」ものとはならない場合)は,分析家の言説の構造から大学の言説の構造への「退行」(régression) が生じます.そして,大学の言説の構造と分析家の言説の構造との間で「前進」と「退行」が繰り返されて行きます — その事態を,Lacan は,1964年の Séminaire XI と Position de l'inconscient において,「無意識の閉じと開きとの間の時間的拍動」(la pulsation temporelle entre la fermeture et l'ouverture de l'inconscient) と呼んでいます.

ともあれ,「夢は,排斥された欲望の 偽装された成就である」と言うとき,その「欲望の成就」は「欲望の昇華」にほかなりません.しかし,昇華の悦 (la jouissance de sublimation, la jouissance sublimatoire) は,精神分析の経験において「分析家の欲望」(つまり,昇華された欲望としての愛)に支えられている場合 以外の状況において経験されるとき,耐えがたい不安をともないます — なぜなら,そのとき,否定存在論的孔穴が(死の穴,無の穴,罪の穴 として)口を開いて 現れ出でてくる からです.

欲望の弁証法の過程は,分析家の言説の構造における 昇華の悦(その悦は,耐えがたい不安を伴っている)へ 行き着こうとする(不安にもかかわらず)— その事態を,Freud は,『夢解釈』の第 VII 章において,「一次過程」(der Primärvorgang) と呼んでいます.それに対して,「二次過程」(der Sekundärvorgang) の作用は,分析家の言説の構造への転換に対して抵抗し,大学の言説の構造にとどまろうとすることに存します.

Freud は,『夢解釈』(1900) の 11 年後に発表する Formulierungen über die zwei Prinzipien des psychischen Geschehens[心的な出来事の ふたつの原則に関する公式化]において,「二次過程」を「現実原則」(das Realitätsprinzip) と呼びなおし,「一次過程」を「快原則」(das Lustprinzip) と呼びなおすことになります.その限りにおいて,「快原則」は,実は,le principe de plaisir ではなく,而して,le principe de jouissance[悦原則]です.それは,欲望の弁証法の過程が 不安に満ちた 昇華の悦(不安をともなうことにおいて,その悦は,「快」ではなく,むしろ「不快」をともなう)へ向かうことに,存します.

ところが,Freud は,Lust[快]を Unlust[不快]との対立において捉えることにおいて,Lust の概念を いわば 心理学化してしまいます.そして,それにともなって,Lustprinzip は〈昇華の悦の不安(不快)へ行き着こうとする〉一次過程に存していることを,見失ってしまいます — そのことを,我々は,たとえば,1915年に書かれた一連の Metapsychologie 論文のひとつ Die Verdrängung[排斥]における命題 :「本能の満足は,常に快に満ちている」(eine Triebbefriedigung ist immer lustvoll) に読み取ることができます.そして,それがゆえに,Freud は,1920年に至って,改めて,Jenseits der Lust[快 (plaisir) の彼方]としての Lust[悦, jouissance]について問わねばならなくなります.

「夢は 欲望の成就である」と言うときの「欲望の成就」は,一次過程にのっとる「欲望の昇華」のことである,と 我々は考えることができます.「欲望の昇華」としての「欲望の成就」には,そのままでは耐えがたい不安 — 否定存在論的孔穴の開口を前にしての不安 — がともないます.かくして,夢(および,そのほかの「無意識の成形」)においては,「欲望の成就」は,そのままの形で描き出されるのではなく,しかして,不安を 防御 ないし 回避 するために さまざまに 偽装 (Verkleidung) ないし 歪曲 (Entstellung) された形において,表現されることになります.

「偽装」と邦訳し得るドイツ語 Verkleidung は,動詞 kleiden[服を着せる]に由来しています.名詞 Kleid は「衣類」です.したがって,verkleiden は,「裸であるもの(赤裸々な真理)を,布(ヴェール)で覆って,隠し,偽る」ことです.

Edouard Debat-Ponsan (1847-1913), Nec mergitur ou La Vérité sortant du puits (1898)
à l'Hôtel de ville d’Amboise

上の絵は,Vorsokratiker のひとり Demokritos の ἐν βυθῷ γὰρ ἡ ἀλήθεια[そも,真理は 深きところに ある]にもとづく諺 :「真理は 井戸の底に ある」(la vérité est au fond d'un puits) を踏まえたうえで,その逆に,真理が井戸の底から現れ出てきたところを描いたものです.そこにおいて,真理 — 直視し得ない真理 — は,一糸まとわぬ裸婦として描かれています(この motif は一般的です).彼女は,それまで隠れていた井戸の底から,真理を映し出す鏡を右手に掲げて,姿を現したところです.不都合な真理があらわになることを恐れる 男たちは,必死に 彼女を 布で 覆い隠そうとしています.

「欲望の昇華」に存する「欲望の成就」は,その真理においては,それまで塞がれ,あるいは,隠されていた 否定存在論的孔穴の 現出です.Freud の言う「一次過程」の行き着く先は強い不安の出現ですが,その不安は,否定存在論的孔穴の開口を前にしての不安です.

夢  より一般的に言って,無意識の成形 (les formations de l'inconscient) : すなわち,夢,幻想,症状,言い損ない,し損ない,機知,等々  は,事象的 (imaginaire) なものとして,さまざまな images や さまざまな歪曲 により,否定存在論的孔穴の現出という真理を,夢の顕在内容へ「偽装」します.偽装が多かれ少なかれ成功すれば,不安は抑えられます.逆に,偽装が失敗すれば,我々は 悪夢(強い不安を伴う夢)を見ることになります.


Lacan が「欲望のグラフ」において提示している「幻想」の学素 ( $a ) は,分析家の言説の構造の上半分 « a$ » と同じ要素 — 主体 $ と 客体 a — から成っています.我々は,この学素 $ ◊ a ) を「無意識の成形」(les formations de l'inconscient) の学素として 一般化することができます.すなわち,我々は,こう言うことができます :「無意識の成形は,分析家の言説の構造の事象的な代理である」(les formations de l'inconscient sont des substitutions imaginaires de la structure du discours de l'analyste).

無意識の成形 ( $a ) においては,穴としての主体 $ と,それを隠すと同時に表す客体 a とが,多かれ少なかれ 偽装 ないし 歪曲 された形において,事象的に描き出されています.

さらに,「事象的」(imaginaire) と言うとき,それは,必ずしも,夢や幻想などの image の次元だけでなく,しかして,身体の次元をも指しています.無意識の成形の身体的な表現は,古典的には hystérie においてしばしば見うけられますが,それだけでなく,より現代的な eating disorders や wrist cutting などの〈身体を巻き込む〉病理学的諸現象においても かかわっています.

さて,smoked salmon の夢の再解釈に取り組んでみましょう.まず,Freud のテクストを改めて提示しておきましょう.

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smoked salmon の夢(『夢解釈』第 IV 章 より)

神経症者を精神分析で治療するとき,夢は,かならず 話題になる.その際,わたし [ Freud ] は,患者に,心理学的な説明 — その助けによって,わたし自身が,患者の症状の理解へ至り得たところの説明 — をすべて与える.だが,そうすると,患者から 容赦のない批判を 浴びせられることになる — そのように辛辣な批判は,同じ専門領域の医師たちからは予期し得ないほどである.まったく例外なく,患者たちの反論は,「夢はすべて願望成就である」という命題に対して 向けられる.わたしに対して反証として提起された夢の材料の例を,いくつか,以下に示す.

あなたは「夢は,成就された願望である」といつも言いますが — と,ある 機知に富む 女性患者 [ eine witzige Patientin ] は切り出す — では,ひとつの夢のことをお話ししましょう.その夢の内容は,まったく逆に,わたしにとって ある願望が成就されない,という方向へ至ります.そのことを,あなたは,あなたの理論と どう一致させるのですか?その夢は,次のとおりです:

わたしは,晩餐会をしようと思うが,手元には 若干の smoked salmon 以外に 何もない.そこで,買い物に行こうと思うが,しかし,今は日曜日の午後 — 店はすべて閉まっている — であることを,思い出す.そこで,配達業者に電話しようと思うが,電話はつながらない.かくして,わたしは,晩餐会をする願望を 断念せねばならない.

自由連想 と 分析

患者の夫は,実直で有能な食肉卸売業者である.

数日前,夫は「太りすぎたから,体脂肪を落とす治療を始めようと思う」と わたし[患者]に 宣言しました.朝 早く起きて,運動をして,厳しいダイエットをして,そして,何よりも,晩餐会への招待をもう受けないでおこう,と言うのです.

彼女は,夫について,さらに,笑いながら 語る:

彼は,[酒場で]常連たちと飲んでいる席で,ひとりの画家と知りあいになりました.その人は,是非,彼の肖像を描きたい,なぜなら,これほど印象的な頭部は今まで見たことがないから,と言うのです.しかし,夫は,ぶしつけに こう答えたそうです:ありがたいことだが,しかし,絶対,あなたも,若くて美しい娘の尻の方が,わたしの顔なんかより,好きでしょう.

[彼女は,さらに語り続ける:]

わたしは,夫のことをとても愛しており,彼とふざけあいます.また,わたしは,彼に請います,わたしに caviar をくれないように,と.

それは,いったい,どういうことですか?

わたしは,以前から,こう願っていました,毎朝,caviar を載せたパンを食べることができるようになりたい,と.しかし,caviar を載せたパンを与えられることを,自身に許しません.勿論,夫に請えば,わたしは,彼から,すぐに,caviar を得ることができるでしょう.しかし,わたしは,逆に,わたしに caviar をくれないよう,請うています — それによって,今後もずっと 彼をからかうことができるように.

この理由づけは本当のものではないだろう,と わたし [ Freud ] には思えた.そのような不十分な回答の背後には,それと認められていない動機が隠れているものである.Hippolyte Bernheim のところで見た催眠術の被験者たちのことが思い出される — 彼れらは,催眠状態の最中に与えられたある課題を 催眠状態から醒めた後に 遂行するのだが,なぜそうしたのか と質問されると,「なぜそうしたのか,自分でもわかりません」とは答えず,しかして,かならず,明らかに不十分な理由づけをでっちあげる.わたしの患者の caviar に関しても,事態は同様だろう.彼女は,実生活において,成就されない願望 [ ein unerfüllter Wunsch ] を自身のために作り上げる必要があるのだ,と わたしは気づく.彼女の夢は,願望拒否 [ Wunschverweigerung ] を,実現されたものとして,彼女に示している.だが,いったい,何のために,彼女は 成就されない願望 を必要としているのか?

[ Freud ] : 今までにあなたの頭に浮かんできたことは,夢の解釈のために十分ではありません.もっと続けてください.

短い中断 — それは,まさに抵抗の克服に対応しているようだ — の後,彼女はさらに語る:

わたしは,昨日,あるお友だちを訪問しました.わたしは,彼女にちょっと嫉妬しているのです.なぜなら,わたしの夫は,彼女のことを いつも とても ほめるからです.でも,幸い,彼女は とても痩せており,[それに対して]わたしの夫が好むのは 豊満な体型の女です.

その痩せたお友だちは,何のことを話したのですか?

勿論,もう少し太りたい という願望についてです.そして,彼女は,わたしに,こうたずねました :「いつ また[晩餐会に] 招いてくださいますか?あなたのところでは[お料理がおいしい — つまり,家政婦が料理じょうずである — ので]いつも 食がとても進みます」.

今や,夢の意味は明らかである.わたしは,患者に こう言うことができる:

晩餐会にまた招いて欲しいと彼女から求められたとき,あなたは,まさにこう考えたかのようですね :「勿論,また招いてあげます — あなたが,わたしのところで,たくさん食べて,太って,もっと わたしの夫のお気に入りになるために... そんなことになるなら,今後は決して晩餐会はしません」.つまり,夢は,「晩餐会をすることができない」と あなたに言って,あなたの願望 — あなたの友だちの体型が丸くなることには決して貢献したくない という願望 — を成就しています.社交的な場で提供されるごちそうを食べて太るということを あなたに教えたのは,あなたの夫の「体脂肪を落とすために もう晩餐会の招待を受けないようにしよう」という決心です.

ところで,夢解釈[の課題]が解決を見たことを確認するための連関が,まだ何か欠けている.夢内容のうち,smoked salmon がまだ導き出されていない.

夢で言及されている salmon に,あなたは どのように 思い至ったのでしょうか?

患者は答える :「smoked salmon は,彼女[患者の友だち]の好物なのです」.

たまたま,その婦人は わたし [ Freud ] の知人でもあり,わたしは,このことを確認することができる:すなわち,わたしの患者が caviar を食べることを自身に許さないのと同様に,彼女も smoked salmon を食べることを自身に許さないでいる,ということを.

******
この smoked salmon の夢において,「友人が 夫の気を惹く〈豊満な体型の〉女になることが ないように」という願望がかかわっている,という解釈は,我々の否定存在論的観点からは,単なる心理学的な「解釈」にすぎないようにも見えます.しかし,Freud は,それだけで終わってはいません.上に訳した部分に続けて,「ヒステリー的同一化」(die hysterische Identifizierung, l'identification hystérique) に関する議論を展開し始めます.

identité (identity) が一般的な語彙に属する語であるのに対して,identification[同一化]を精神分析以外の文脈において見かけることは,希です — 動詞 identifier (identify) が「...を ...として 同定する」という意味において用いられる場合を除いて.しかし,identification[同一化]は,精神分析の最も重要な概念のひとつです — Freud が identification (Identifizierung) 全般について ある程度 詳しく論ずることになるのは,『夢解釈』(1900) の 21 年後,Massenpsychologie und Ich-Analyse[大衆心理 と 自我分析](1921) においてであるとはいえ.

先に『大衆心理 と 自我分析』における議論を見ておくと,そこにおいて Freud は 同一化の三類型を挙げています.

第一のものは,男児の〈父との〉同一化です.ただし,この同一化は,単純に「男児」(男の子として生まれてきた子)が自身の父親と同一化するということではなく,しかして,原則的に性染色体によって規定される生物学的性別 (les sexes biologiques) とは異なる次元の性別 — 否定存在論的性別 (la sexuation apophatico-ontologique) — を条件づける同一化です(「否定存在論的性別」は 一般的には あまりに なじみにくい用語ですから,「実存的性別」(la sexuation existentielle) と言い換えてもよいかもしれません).


否定存在論的に「男である」は,男の自我理想 (Ichideal) としての le phallus patriarchal[家父長ファロス]Φ との同一化によって規定されます.それは,大学の言説の構造において,phallus Φ が「真理の座」に S1 として措定されることに存します.その構造は,自我 S2 の〈男の自我理想としての家父長ファロス Φ との〉同一化の構造であり,それによって,自我 S2 は「男である」と規定されることになります.

それに対して,否定存在論的に「女である」ことを規定し得る「女の自我理想」は,ありません.「女である」ことは,「男ではない」(男の自我理想としての家父長ファロス Φ と同一化していない)ことによって条件づけられます.が,ただし,「男ではない」は,原則的に性染色体 XX によって規定される〈生物学的な意味における〉女性に限られたことではなく,しかして,たとえば transgender woman や queer(男であるか女であるかが定め難かったり,流動的であったりする場合,または,男でも女でもない場合)も「男ではない」の側に 位置づけられます.

ともあれ,Freud が「同一化の第一類型」として挙げているものは,自我理想 (Ichideal) としての支配者徴示素 S1 によって規定される同一化であり,ひとつの identification symbolique[徴示的同一化]です.

次いで Freud が「同一化の第二類型」として挙げているのは,ein einziger Zug[ひとつの単一特徴]を媒介とする同一化です(この einziger Zug という表現を,Lacan は,trait unaire[一元特徴]と仏訳します).Freud が挙げている例は,Dora の神経症性咳嗽の例です(Freud のヒステリー症例 Dora のことは,2019-2020 年度中に より詳しく取り上げます).Dora の父親は肺結核患者であり,そのため,咳嗽は彼の慢性的な身体症状のひとつでした.あるとき,Dora は,呼吸器系の身体疾患なしに,咳嗽の症状を呈します.その神経症的症状の形成のメカニズムが,咳嗽という単一特徴 (der einzige Zug) を介しての(あるいは,その単一特徴における)同一化です.

Lacan は,trait unaire から S1 へ論を進めて行くことになりますが,しかし,我々は,Freud が「同一化の第二類型」を規定するものとして論じている einziger Zug を,大学の言説の構造における〈症状の徴示素としての〉客体 a として捉えることができます.実際,Freud も「同一化の第二類型」を 神経症の症状形成のメカニズムとして 論じています.

つまり,同一化の第二類型は,症状の徴示素としての客体 a を共有することにおける ひとつの identification imaginaire[事象的同一化]です.この類型の同一化の事例は,社会的にも多種類,観察され得ます.


たとえば,英語版 Freud 全集 (Standard Edition) の作成のために Freud の著作の大多数を英訳した James Strachey (1887-1967) は,明らかに,ヒゲと眼鏡において,晩年の Freud と同一化しています.


また,1950-1960年代,Lacan は好んで蝶ネクタイを着用していました.その「蝶ネクタイ」という単一特徴における同一化の効果として,当時,彼の弟子たちの間で蝶ネクタイ着用が「流行」したそうです.

同様に,女性たちの間での 特定の服装や化粧の「流行」も,単一特徴としての客体 a における identification imaginaire の現象として 捉えることができます.

最後に,『大衆心理 と 自我分析』において Freud が「同一化の第三類型」として挙げているものは,やはり,大学の言説の構造における症状の徴示素としての客体 a による もう一種類の identification imaginaire なのですが,ただし,この場合,客体 a は,einziger Zug[単一特徴]のような positiv なもの(たとえば,咳嗽症状)ではなく,しかして,いわば negativ なもの — つまり,欠如の穴 — です.

Freud が挙げている例は,病院の同じ病室に入院しているヒステリー患者たちのなかで「ヒステリー発作」(どのような「発作」なのかを Freud は明示していませんが,おそらく,Charcot が癲癇の「大発作」[ le grand mal ] との対比において研究したような 劇的な発作症状のことでしょう)が「伝染」する現象です.

Freud は,まさに同じ「ヒステリー発作の伝染」の現象に『夢解釈』第 IV 章においても言及していますから,ここで,我々は,smoked salmon の夢の分析に関連して論ぜられている「ヒステリー的同一化」に戻りましょう.

Freud が展開する「ヒステリー的同一化」に関する議論を,Lacan は,1958年の書 La direction de la cure et les principes de son pouvoir の第 V 章 Il faut prendre le désir à la lettre[この文は 両義的です:欲望を 文字どおりに 取らねばならない;欲望を 文字において 捉えねばならない](Ecrits, pp.620-642) の始めの数ページにおいて,取り上げなおしています.

その最初のページ (Ecrits, p.620) で,Lacan は,le retour à Freud[フロィトへの回帰]という標語を持ち出してはいませんが,それが何に存するのかを こう説明しています:

フロィトのテクストを読もう;フロィトの思考を追おう — 彼の思考が我々に課す いくつもの回り道において.その際,このことを忘れないでおこう:彼は,科学の言説の理想の観点から そのような回り道[を取らざるを得ないこと]を 彼自身 嘆きつつ,こう断言している:彼は,彼の[思考の]客体によって,回り道をするよう 強いられたのだ.我々は,そのとき,「その客体は,それらの回り道と同一である」ということに気づく.

つまり,Freud への回帰は,Freud の思考の歩みを その紆余曲折において たどりなおすことに存します.そのとき,教科書において提示されているような「精神分析理論」においては無視されてしまっているものに,我々は気づくことができます.それは,その回りを Freud の思考が「回り道」するところの穴です.その穴こそ,Lacan が objet a[客体 a]と呼ぶところのものです.


より正確に言えば,こういうことです:客体 a は,大学の言説の構造において,否定存在論的孔穴のエッジを成しており,そのような構造において,否定存在論的孔穴について問おうとすれば,我々は,まず,そのエッジを成す客体 a(あるいは,穴として現れてくる客体 a)について問うことから始める必要がある.


ところで,Freud の患者 — Freud は,彼女のことを eine witzige Patientin[機知に富む患者]と呼んでいます — は,食肉卸売業を営む男 [ Großfleischhauer ] の妻です.Lacan は,彼女のことを,わざと bouchère と呼んでいます — しかも,形容詞 belle[美しい,美人の]を付して,la belle bouchère と呼んでいます(Freud は そのような呼び方をしていませんが)

bouchère という名詞は,boucher(「食肉販売業を営む男」という意味での「肉屋」)という名詞の女性形です.ですから,bouchère は「肉屋を営む女性」ですが,しかし,それだけでなく,「肉屋を営む男 の 妻」のことでもあり得ます(今は,とりあえず,同性婚のカップルのことを考慮に入れる必要はないでしょう).

Lacan が Freud の患者のことを la belle bouchère と呼んでいるのは,19世紀に作られた vaudeville や歌の表題 La belle bouchère[美人肉屋](「美人の肉」や「美しい人肉」を売っているわけではなく,美人が肉を売っているのです)にちなんでのことのようです(上図参照).

ついでながら,上の La belle bouchère表紙絵(彼女はナイフを手に持ち,彼女のかたわらには豚の頭が置かれている:つまり,去勢する女)は,我々に,旧約聖書の Judith を想い起こさせます — アッシリアの将軍 Holofernes の首を切り取ったユダヤの女性英雄 Judith を(ちなみに,Lacan の末娘の名は Judith です).

Caravaggio, Giuditta et Oloferne (ca 1597)
nella Gallerie nazionali d'arte antica, Palazzo Barberini, Roma

また,Lacan は,Freud の witzige Patientin[機知に富む患者]のことを,la spirituelle bouchère とも呼んでいます.この場合,spirituel という語は,Freud が彼女を形容するために用いた witzig[機知に富む]のフランス語訳なのですが,しかし,spirituel は「精神的な,神の息吹に関する」でもあります(一般的に,spirituel という語を聞けば,「精神的な」の方が「機知に富む」より先に念頭に浮かんできます).そして,「精神的な,神の息吹に関する」という意味における spirituel の対立語は,charnel[肉体の]です(聖書を始めとする宗教的なテクストにおいて,両語は 相互に対立するものとして 用いられています).ですから,la spirituelle bouchère[精神的な,神の息吹に満たされた 女性肉屋]という表現は,「精神的」と「肉体的」とを結合する矛盾表現 (oxymoron) とも取ることができ,非常に滑稽な印象を 我々に与えます(だからこそ,Lacan は,わざわざ la spirituelle bouchère と言ったのでしょう).

さて,Freud は,smoked salmon の夢において,このことを見て取ります:患者 (la spirituelle bouchère) は,彼女の 痩せた友人と 同一化している  断念された願望 (der versagte Wunsch) ないし 願望断念 (die Wunschversagung) という症状において.ただし,Freud は「願望(欲望)を断念する」と言っていますが,それは,欲望そのものを放棄してしまうことではなく,しかして,より正確には,「欲望を満足させることを断念する」ことです.我々が欲望満足を断念するとしても,欲望そのものは 満たされないままに 存続します.

la spirituelle bouchère は caviar を欲する欲望の満足を断念し,彼女の友人は smoked salmon を欲する欲望の満足を断念しています.そのような「欲望の満足の断念」を症状とすることにおいて,la spirituelle bouchère は,友人との同一化を果たしている,と Freud は論じています.

また,Lacan は こうも指摘しています : la spirituelle bouchère は,同様に,彼女の夫への同一化をも果たしている  というのも,彼は,肥満に対する食事療法の一環として,「晩餐会に招かれて,そこで ごちそうをたくさん食べたい」という欲望の満足を断念しているから.

そして,Lacan は,la spirituelle bouchère におけるヒステリー的同一化の構造を,こう分析しています :「phallus であること — 若干 痩せた phallus であるとしても.それが,欲望の徴示素への究極的な同一化ではなかろうか?」(Ecrits, p.627). 


この一節を読解するためには,否定存在論的孔穴に la signification du phallus ( − φ ) が位置づけられている構造の図に準拠するのがよいでしょう.

ただし,Lacan が la signification du phallus[ファロスの意義]と呼んでいるものは,より正確に言えば,「欠如せるファロス(すなわち,去勢)の意義」です.否定存在論的孔穴に「ファロスの欠如の穴」( − φ ) という性的な意義を与えるのは,la métaphore paternelle[父のメタフォール]です:


上の図では隠されてしまっている〈源初排斥された〉主体 $ の在所をも表しているのが,この図(異状 [ aliénation ] の構造の図 — 異状の構造は 大学の言説の構造に対応している)です:


Lacan の関心は,中心的な穴(否定存在論的孔穴:黄)と,そのエッジ(緑)に向けられています.


否定存在論的孔穴は,大学の言説の構造においては,支配者徴示素 S1(すなわち,父の名;すなわち,家父長ファロス Φ)によって塞がれています.それとともに,父の名(家父長ファロス Φ)は,否定存在論的孔穴に「ファロスの欠如の穴( − φ ) という性的な意義を与えます.

また,穴のエッジには,穴を 隠し かつ 代理する 客体 a が位置づけられています.

穴(黄)と そのエッジ(緑),そして,大学の言説の構造(異状の構造)における 支配者徴示素 S1 と 客体 a — 穴を塞ぐ機能における S1 と 穴を隠し かつ 代理する機能における a — それら四つの要素(ふたつの座 と ふたつの項)が,Lacan の教えにおいて中心的なものとなっています.

『精神分析治療の方針 と その可能の原理』と同じく 1958 年に書かれたテクスト La signification du phallus[ファロスの意義]において,Lacan は,phallus について,こう定義しています :「ファロス,すなわち,他 A の欲望の徴示素][ le phallus, c'est-à-dire le signifiant du désir de l'Autre ] (Ecrits, p.694). 

その定義を含む一節をもう少し読むなら :「ファロス — すなわち,他 A の欲望の徴示素 — で在るために,女は,女性性に本質的と見なされるものの一部 — 特に,仮面舞踏会におけるその属性すべて — を捨てることになる」[ c'est pour être le phallus, c'est-à-dire le signifiant du désir de l'Autre, que la femme va rejeter une part essentielle de la féminité, nommément tous ses attributs dans la mascarade ].

そこから,1958 年のふたつのテクストにおける phallus — le signifiant du désir de l'Autre[他 A の欲望の徴示素]としての phallus — は,1960 年の書『主体のくつがえし』において言われているような le signifiant de la jouissance[悦の徴示素](Ecrits, p.823) としての phallus Φ ではなく,しかして,la fonction imaginaire de la castration[去勢の事象的な関数](ibid., p.825) としての phallus ( − φ ) そのもの — もしくは,「他 A の欲望」としての「ファロスの欠如」( − φ ) の穴の徴示素である〈穴としての〉客体 a — のことである,ということが わかります(le phallus ( − φ ) なのか l'objet a なのかの区別は,この際,さして重要ではありません:要するに 事象的な「穴」です).そも,女性(性染色体 XX を有する人間としての女性)は,transgender man である場合を除けば,家父長ファロス Φ とは同一化しません(家父長ファロス Φ との同一化は「男である」ことを規定します).

ただし,「他の欲望」(le désir de l'Autre) という表現も,一義的ではありません.ひとつには,ファロスの欠如 ( − φ ) の穴としての「他の欲望」があります.しかし,もうひとつには,その穴のところに位置づけられる支配者徴示素 S1 の機能のひとつとしての「超自我」(das Über-Ich) の「悦せよ」という命令  より正確にいえば,「際限なく,もっと,より多く,より大きく,より強く 悦せよ」という命令 — としての「他の欲望」があります.どちらの「他の欲望」について Lacan が論じているのかを,我々は,文脈によって見分けて行かねばなりません.

さて,la belle bouchère の smoked salmon の夢そのものについて検討するなら,そこにおいて中心的である穴は,晩餐会をするために必要な食材の不足ないし欠如の穴であり,かつ,それがゆえに晩餐会をしたいという欲望の満足を断念することの穴です.そして,夢に現れてきているそれらの穴は,彼女の実生活における欲望満足の断念 — caviar を載せたパンを毎朝食べたいという欲望の満足の断念 — による欲望不満足の穴と関連しています.さらに,Freud は,彼女の夢のなかで 欲望満足の断念が smoked salmon の不足ないし欠如に条件づけられていることにおいて,彼女が 彼女の痩せた友人(後者は,smoked salmon が好物であるが,その好物による満足をみづからに許さないでいる)と 欲望不満足の穴において 同一化していることを,見て取ります.


欲望の満足の断念は,確かに,欲望の昇華に包含されています.しかし,昇華においては(分析家の言説の構造を参照),欲望の客体(客体 a)は,もはや無用になったもの(ゴミ,廃棄物)として,能動者の座(左上の座:青)へ棄却されます  客体 a は欲望を本当には満足させ得ないことが明らかになったがゆえに.また,それとともに,支配者徴示素 S1 は,書かれないことをやめないもの(不可能)であることが証明されて,生産の座(右下の座:赤)へ閉出されます —「性関係は無い」がゆえに.さらに,それとともに,否定存在論的孔穴は,「ファロスの欠如」( − φ ) の穴という性的な意義を失って,純粋な存在欠如としての主体 $ の穴として,我々の Dasein において 現出してきます.

それに対して,la belle bouchère が caviar の欲望の満足を断念するとしても,それは,その客体 a (caviar) がもはや欲望の客体ではなくなったからではありません — caviar は,彼女にとって,欲望の客体であり続けています.また,彼女は,なおも,「性関係は可能であるはずだ」と信じ続けており,したがって,否定存在論的孔穴も「ファロスの欠如」( − φ ) の穴という性的な意義を保ったままです.

ここで,上に引用した〈1958年のふたつのテクスト — La direction de la cure と la signification du phallus  からの〉一節を並べてみましょう:

ファロスであること [ être le phallus ] — 若干 痩せたファロスであるとしても.それが,[ヒステリカの]〈欲望の徴示素への〉究極的な同一化 [ l'identification dernière (de l'hystérique) au signifiant du désir ] ではなかろうか ? (Ecrits, p.627) ; 
ファロス — すなわち,他 A の欲望の徴示素 — である [ être le phallus, c'est-à-dire le signifiant du désir de l'Autre ] ために,女は,女性性に本質的と見なされるものの一部 — 特に,仮面舞踏会におけるその属性すべて — を捨てることになる」(ibid., p.694).

hysterica(すなわち,女性)は,他 A の欲望の徴示素としての phallus に成る(に同一化する)— 欲望を満足させ得るかに見える positif な客体 a (caviar, saumon fumé [ smoked salmon ] ) を断念ないし棄却することによって.


しかし,その欲望不満足の穴は,分析家の言説の構造において 書かれることをやめなくなった 主体 $ の穴 そのもの ではなく,しかして,その事象的な代理表現です.すなわち,hysterica の言説において 左上の座(能動者の座)に位置する 主体 $(不満足な欲望としての $)です.

こうして,hysterica における欲望の弁証法は,分析家の言説の構造における終末論的な終結(欲望の昇華)に行き着くことなく,開始の地点(不満足な欲望,欲望不満足)へ戻って行くことになります.

つまり,hysterica は,愛の支えが無いがゆえに 欲望の昇華へ到達することができない〈事象的 [ imaginaire ] な〉欲望不満足の穴です  昇華においては,主体 $ の穴は,「書かれることをやめないもの」(必然的なもの)という意味にける「実在的」(réel) なもの に成るのに対して.Freud が「ヒステリー的同一化」と呼ぶ事態は,そのような欲望不満足の事象的な穴であることに存します.

Freud が「ヒステリー発作の伝染」と呼んでいる事態を動機づけているのも,欲望不満足の穴における同一化です.ただ,それは,物質的に満たされた生活をおくっている la spirituelle bouchère におけるように「好物による満足を敢えて断念する」ことによって あまり目立たない形で 表現されるのではなく,しかして,精神および身体における理性的な自律性の全面的な放棄によって より劇的に 表現されます.

hysterica における全面的な〈理性的な自律性の〉放棄の現象のなかに,Bernini に代表される baroque 芸術におる l'extase mystique[神秘的解脱]の表現が 幾分かでも 見てとれるとすれば,それは,後者における昇華の悦が hysterica の身体においても事象的に表現されているからです.

Gian Lorenzo Bernini (1598-1680), Beata Ludovica Albertoni (1675)
nella Chiesa di San Francesco a Ripa, Roma