2023年9月25日

Lacan の 教えにおける「欲望」について


四つの言説 (Les Quatre Discours)

Lacan の 教えにおける「欲望」について



Lacan 命題「人間の欲望は 他の欲望である」(le désir de l’homme est le désir de l’Autre) 説明するよう,最近,ある人から 求められた;そこで,ここで それに答えよう.

Lacan 教えにおける「欲望」(désir) の概念は,ふたつの根を有している ひとつは Freud, もうひとつは Hegel. それぞれについて 見てゆこう.


I. Freud における 欲望


Freud の著作のなかで,欲望の概念との関連において,Lacan 特に 我々の注意を向けさせるのは,『夢解釈』の VII 章の セクション E「一次過程と二次過程 排斥」における この文である:

(…) bleibt der Kern unseres Wesens, aus unbewußten Wunschregungen bestehend, unfaßbar und unhemmbar (…)

無意識的な欲望活動から成る〈我々の存在の〉中核は,把握不可能かつ制止不可能なままである.

その文のすぐあとに,Freud は「欲望活動」(Wunschregungen) 第三の形容詞 unzerstörbar[破壊不可能]を付加している.そして,「破壊不可能な欲望」(der unzerstörbare Wunsch) という表現は『夢解釈』全体の最後の文のなかに 見出される その表現にも注目するよう,Lacan 我々を促している.

いかにも,Wunsch という単語の翻訳は,英語では wish, フランス語では souhait または vœu, 日本語では「願望」である;それは,のちほど見るように,Hegel が用いた Begierde[欲望]とは異なる語であり,両者の意味あいも相異なる(両者の差異は,日本語の「願望」と「欲望」との差異と ほぼ 重なる すなわち,我々は,たいてい,我々の「願望」を 誰か他者に言うことはできるが,しかるに,我々の「欲望」については 必ずしも そうではない).

しかし,Lacan は,Freud Wunsch désir と翻訳し続ける.そもそも,Freud フランスに紹介された当初から,Wunsch désir と翻訳されてきたし,今も そう翻訳され続けている.Freud をフランス語訳で読む者たちに souhait という訳語を押しつけたのは,Freud から「ラカン臭」を一掃しようとした Jean Laplanche が監修した フランス語版「フロィト全集」(PUF) である.

ところで,なぜ Freud Begierde を用いなかったのか? それは,おそらく,当時,ヴィクトリア時代の保守的な性道徳が 欧州全体において なおも支配的であったからだろう.それゆえ,Freud は「欲望」を libido というラテン語の衣装を着せてしか 用いなかった(言い換えれば,その形においてであれば Freud も「欲望」について論じている).

また,Lacan は,Freud Trieb[本能] 特に Todestrieb[死の本能] 非生物学的なものとして論ずるためにも,désir を用いる.特に そのことが見て取れるのは,Lacan が「昇華」(sublimation) について論ずるときである;なぜなら,Freud においては 昇華は「本能の昇華」(Triebsublimierung) であるが,それに対して Lacan は「欲望の昇華」(la sublimation du désir) について問うているから.

それにしても,「無意識的な欲望」とは 何であろうか それが「把握不可能,制止不可能,破壊不可能」であるとするなら? それは「無意識的」であるから,そのものとしては「把握不可能」である なるほど.そして,それは 何らかの 抑えがたい(制止不可能な)Zwang[強制,強迫]として 自身を押しつけてくる 確かに.しかし,それが「破壊不可能」である とは,いったい 如何なることであり得るのか?

その問いの答えは,Freud の「我々の存在の中核は,無意識的な欲望から成っている」という命題のなかに 見出され得る というのも,それは このことを示唆しているから :「欲望」は「生物学的」なものでも「心理学的」なものでもなく,しかして,「存在論的」なものである 我々の用語で言うなら「否定存在論的」(apophatico-ontologique) なものである.

そして,それがゆえにも,Lacan は,精神分析における「欲望」について問うために,Hegel の『精神の現象学』(Phänomenologie des Geistes) の「自己意識」(Selbstbewußtsein) の章(第 IV 章)に 準拠する;なぜなら そこにおいて Hegel は「自己意識」 欲望 (Begierde) として 措定しているから.


II. Hegel における 欲望


Hegel は Phänomenologie des Geistes  IV 章において,自己意識を 欲望として 措定している.

「意識」や「自己意識」という語を聞くと,誰しも すぐさま「認識」(Erkennen) を連想する.いかにも,Kant だけでなく,Hegel も「認識」について論じてはいる.しかし,ドイツ語の「意識」(Be-Wußt-Sein) という語に〈「意識」においてかかわっているのは「知」(Wissen) と「存在」(Sein) との関係である〉ということが 明瞭に見て取れるように,Hegel においては「意識」は gnoséologique なものというよりは,むしろ épistémologique なものである.

さて,Hegel が「自己意識」を 欲望として 措定するときその欲望はまずは 不満足の状態にある なぜなら このゆえに当初自己意識において,彼自身の存在の真理と 知とは 分裂しているTrennung des Wissens und der Wahrheit : 知と真理との分離 — Phänomenologie des Geistes の Vorrede において用いられている表現 ; Lacan そこから « division entre le savoir et la vérité »[知と真理との間の裂けめ]という表現を 作りだしている [cf. Écrits, p.856]).

次いで,Hegel は,如何に 欲望が,不満足の状態(知と真理との分裂)から出発して,das absolute Wissen[絶対知:知が真理と完全に等合的となる状態]において 満足 (Befriedigung) に達することになるかを 論じてゆくのだが,その過程は 単純に「知が ひとりで 学習する」というようなものではなく,しかして dialektisch[弁証法的]である.そのことを,彼は「自己意識」の章において こう公式化している:

Das Selbstbewußtsein erreicht seine Befriedigung nur in einem anderen Selbstbewußtsein.

自己意識が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識においてのみである.

その Hegel の命題についてコメントしつつ,Alexandre Kojève 彼の Introduction à la lecture de Hegel[ヘーゲル読解入門]において,こう言っている

Le Désir humain doit porter sur un autre Désir.

人間の欲望は,[満足に到達するためには]もうひとつのほかの欲望に かかわらねばならない.

そこにおいて,Kojève は「自己意識」を「欲望」と 言い換えている それは まったく正当なことである;なぜなら Hegel 自身が そうしているのだから.

Kojève にならうなら,我々は,Hegel の命題を こう言い換えることができる:

Le désir humain n’atteint sa satisfaction que dans un autre désir.

人間の欲望が 満足を達成するのは,もうひとつのほかの欲望においてのみである.

その命題を 我々は さらに こう言い換えよう:

Le désir de l’homme n’atteint la jouissance que dans le désir de l’Autre.

人間の欲望が 悦を達成するのは,他の欲望においてのみである.

見よ,いかにもラカン的な命題 ! 実際,彼の 1953年の ローマ講演のなかに この命題が 見出される (Écrits, p.268) :

Le désir de l’homme trouve son sens dans le désir de l’autre.

人間の欲望は 自身の意味を 他の欲望のなかに 見出す.

その命題のなかの sens[意味]という語は,我々に〈Lacan 彼の 1973年の Télévision において 言及している この曖昧表現 jouissance[悦]と jouis-sens[悦-意味] を〉思い起こさせる.それに従うなら:

Le désir de l’homme trouve la jouissance dans le désir de l’Autre.

人間の欲望は,他の欲望のなかに 悦を 見出す.

ともあれ,以上から 我々は,Lacan の「人間の欲望は 他の欲望である」は Hegel 「自己意識が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識においてのみである」 その命題に Lacan Kojève 1933年から 1939年まで École pratique des Hautes Études でおこなった Phänomenologie des Geistes の読解の講義において 出会ったはずである 出発点としている,と 推察することができる.そして,Lacan が「無意識的な欲望は 他の欲望である」(le désir inconscient est le désir de l’Autre) とも言っていることから,我々は こう推論することができる:我々の存在の中核を成すものとしての欲望は,他の欲望にほかならない.

さて,では,この Hegel の「自己意識が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識においてのみである」という命題は 如何に解釈され得るであろうか? とりわけ,そこで言及されている「満足」(Befriedigung) とは 如何なるものであるのか?

それらの問いに答えるための鍵は,これらのことに見出され得る : 1) Hegel は,Phänomenologie des Geistes において,「絶対知」にかかわる最終章の ひとつ前の章(第 VII 章)において,宗教について 論じている ; 2) Kojève は Phänomenologie des Geistes の読解の講義を「ヘーゲルの宗教哲学」(La Philosophie Religieuse de Hegel) という表題のもとに おこなっている.

それらのことが示唆しているのは,このことである : Phänomenologie des Geistes  のみならず,Hegel 哲学 全体は 彼の宗教哲学の観点から 読み返されるべきである.

そして,実際,Hegel は,彼の Vorlesungen über die Philosophie der Religion宗教哲学講義 彼はその講義を,ベルリン大学の哲学教授への就任の 3 年後の 1821 秋から 1831 11月に 61歳で 病死(当時 ベルリンで流行していたコレラに感染して,または,何らかの消化器疾患[胃癌?]によって)するまでの 間に,ほぼ 3 年毎に,4 学期 または 4 学年にわたって (1821, 1824, 1827, 1831) おこなっている]の 1824年の講義において,こう言っている:

In der Philosophie, welche Theologie ist, ist es einzig nur darum zu tun, die Vernunft der Religion zu zeigen.

哲学 それは 神学である においては,唯一 このことのみが かかわっている:宗教の理性を示すこと.

また,1827年の講義においては こう言っている:

Der Gegenstand der Religion wie der Philosophie ist die ewige Wahrheit in ihrer Objektivität, Gott und nichts als Gott und die Explikation Gottes. (…) So fallen Religion und Philosophie in eins zusammen. Die Philosophie ist in der Tat selbst Gottesdienst, wie die Religion.

宗教の対象も 哲学の対象も,それそのものにおける 永遠なる真理である;つまり,神であり,神以外の何ものでもない;そして,神を明示することである.(…) それゆえ,宗教と哲学とは ひとつのものへ 一致する.哲学は,実は,それ自体,神への奉仕[礼拝]である 宗教と同様に.

以上のような Hegel の言葉を聞くと,あなたは驚くかもしれない.しかし,そのこと 哲学と宗教(ないし 神学)との一致 は,Heidegger においても うかがえることである(Heidegger 自身は Hegel のように 明言してはいないとしても,彼が「存在」について問うとき,彼は「神」について問うているに ほかならない).そして,Hegel における 哲学と宗教との一致は,実は,既に,Phänomenologie des Geistes の 書題において 示唆されている — Geist という語によって.

ただし,あなたが Geist を「精神」と邦訳してしまうと,あなたは その語の宗教的な意義を まったく見失ってしまう.しかるに,Geist は,唯一神の宗教(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教)においては,der Heilige Geist (τὸ ἅγιον πνεῦμα, Sanctus Spiritus) である(それを「聖霊」と邦訳することが如何に不適切であるかについては,このブログ記事を参照)— つまり,神の息吹である.そして,聖書においては,神の「息吹」( רוּחַ , πνεῦμα, Spiritus ) と「ことば」( דָּבָר , λόγος, Verbum ) と「知恵」( חָכְמָה , σοφία, Sapientia ) とは,相互に等価なものである(このブログ記事を参照).

「ことば」や「知恵」の代わりに,我々は「知」(Wissen) と言ってもよいだろう;そして,実際,Hegel そうしている であればこそ,Hegel は,Phänomenologie des Geistes を,弁証法的な〈知の〉歩み 最も単純で直接的な知から出発して,弁証法的な過程を経て,次第に自身を豊かにしてゆき,ついには 神を完全に知る絶対知へ至る 知の歩み として 展開しているのである.

さて,以上のことを踏まえるなら,Hegel 命題:「自己意識が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識においてのみである」は,如何に解釈され得るだろうか? 我々は こう読む:ひとつめの「自己意識」は 人間,「もうひとりのほかの自己意識」は 神,そして,そこにおいてかかわっている満足は,何らかの地上的な満足でも 性的な満足でも あり得ず,しかして,「神を識る」こと (γνῶσις ἢ ἐπίγνωσις τοῦ θεοῦ) の満足である.

また,自己意識は欲望であれば,ひとつめの「自己意識」は「人間の〈神を識ることの〉欲望」,「もうひとりのほかの自己意識」は「神の〈人間を識ることの〉欲望」と解釈され得る.

その場合,「識る」( יָדַע , γιγνώσκειν ) は,単に「かかわっている対象に関する情報を得る」ということではない;そうではなく,〈それが「そして,Adam 彼の妻 Eva 識った;そして,彼女は妊娠した」(Gn 4,01) という文において用いられていることが 示唆しているように〉それは,「かかわっている対象と とても親密な関係(交わり : κοινωνία — 場合によって 性的な交わり)を 持つ その対象のことを とてもよく識り得るほどに」ということである.

では,なぜ「識りたい」のか? それは,愛しているからである.そして,「愛は 神に由来する」(1 Jn 4,07)  なぜなら このゆえに :「神は愛である」(ibid., v.08). それゆえ,「[まず]我々が神を愛したのではない;しかして[まず]神が我々を愛したのだ」(ibid., v.10) ;「我々は[神を]愛する なぜなら このゆえに:最初に 神が 我々を 愛した」(ibid., v.19).

それゆえ,人間が神を愛するのは,まず神が人間を愛しているからである;人間が神を識りたいのは,まず神が人間を識りたいからである.そして,人間の〈神を識りたいという〉欲望は,神の〈人間を識りたい〉という欲望において,満足 — γνῶσις の満足,κοινωνία の満足,愛の満足 を達成する;そして,Lacan は「愛は 欲望の昇華である」(l’amour est la sublimation du désir) と公式化しているのであれば,その満足は,まさに「昇華の悦」(la jouissance de sublimation) である.そこにこそ,欲望の弁証法の終結は 存する.


III. 欲望の 否定存在論的トポロジー


Hegel 自己意識 (Selbst-bewußt-Sein) を「欲望」と 規定したことが示唆しているように,精神分析においてかかわっている「欲望」— Freud が「無意識的な欲望」と呼んだもの は,Seyn[抹消された存在]としての 主体 $ そのもの 主体 $ 穴,すなわち,否定存在論的孔穴 である.

それは,存在の歴史(主体 $ 穴の 弁証法的-現象学的 過程)の 源初論的位相(支配者の言説の構造)においては,中心的な場所 — Freud 言う「我々の存在の中核」 口を開いている(支配者の言説の構造を参照).それが「破壊不可能」であるのは,その穴は,源初論的であるので,なかったことにすることはできない 閉塞不可能 かつ 隠蔽不可能である ということである.

次いで,その穴は,形而上学的な支配者徴示素 S1(まずは,Platon ἰδέα, 次いで,その さまざまな後継概念)によって 閉塞される(もっとも,本当に閉塞されるわけではなく,しかして,あたかも閉塞されたかのように見えるだけだが); そして,それとともに,主体 $ は,支配者徴示素 S1 によって,「書かれないことをやめないもの」の在所へ 排斥される(源初排斥 : Urverdrängung; そして,それによって,存在の歴史の形而上学的位相(大学の言説の構造)が 成立する.つまり,大学の言説の構造における 主体 $ は,源初排斥された欲望である.

そこにおいては,主体-欲望 $ は,自我 S2 から見て,他の側に位置する.つまり,主体-欲望 $ 異化 [ aliénation ] されている(異状 [ aliénation ] 構造).そして,それがゆえに,それは「他の欲望」(le désir de l’Autre) となっている.

形而上学的位相の構造は,歴史学において「古典主義時代」と呼ばれる時期が過ぎ去るとともに,不安定になる なぜなら このゆえに:科学の言説と資本主義の言説が支配的となってくるにともなって,従来の 形而上学的な支配者徴示素 S1 による 否定存在論的孔穴の閉塞の 有効性が 失われ,穴は開出してこようとする.それに対して,さまざまな 新たな形而上学的支配者徴示素 S1 の措定によって,形而上学的位相は 何とか維持されてゆく(最終的に Nietzsche に至るまで).しかし,存在の歴史は,必然的に,形而上学的位相(大学の言説の構造)から 終末論的位相(分析家の言説の構造)へ 進もうとする.それに対しては〈その動きを防御 (Abwehr) しようとする〉強い抵抗 (Widerstand) が働く なぜなら,その動きは 強い不安 死の不安,無の不安,罪の不安 惹起するから.

精神分析家は,分析者(精神分析の患者)が〈そのような防御と抵抗にもかかわらず さまざまな形で伝わってくる「存在 $ ことば」(das Word des Seyns) を〉聴き取ることを 助け,そして,それによって 終末論的位相への構造転換を促そうとする.

そして,分析家の言説の構造(分離の構造)において,昇華の悦 すなわち,Hegel が「自己意識[欲望]が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識[他の欲望]においてのみである」と言うときに かかわっている「満足」 達成される.

昇華の構造は,分析家の言説の構造の右半分の部分 $ / S1 によって 表されている.そこにおいて,S1 は「書かれないことをやめないもの」の座へ 閉出された 父の名(神の名)である.それは 神の〈人間を識りたい という〉欲望を表している.それに対して,開出してきた 主体-欲望 $ 穴は,人間の〈神を識りたい という〉欲望である.$ / S1 の構造において,$ S1 代理しており,そのことにおいて,$ S1 と交わっている.そこに,昇華の悦 人間の欲望が〈神の欲望と 交わり,一致することによって〉神の欲望において 達成する 存する.

Hegel は,大学の言説の構造における $ の座(書かれないことをやめないものの座)に 絶対知を 仮定していた (le sujet supposé savoir) ; そして,その限りにおいて,Phänomenologie des Geistes の終結を,絶対知の実現 絶対知が 分析家の言説の構造における $ の座(書かれることをやめないものの座)へ 現れ出てくること に見ていた.しかし,それは,彼の形而上学的な思いこみである.実際には,絶対知は 不可能である.大学の言説から 分析家の言説への 構造転換において,書かれることをやめないものの座へ開出してくるのは,穴 — 主体-欲望 $ 穴 — である(ただし,その穴のエッジは 単純なな輪を成すのではなく,しかして,三つ葉結び [nœud de trèfle ] を成すのだが).そして,それを Lacan は「分析家の欲望」(le désir de lanalyste) と呼ぶ.それは,精神分析の終結において成起する 昇華された欲望 (le désir sublimé) である.

ところで,先ほどは,神の欲望を「人間を識りたい」という欲望として 提示したが,それは,つまるところ,人間たちを すべて 救済したい という 欲望である.開出してきた 主体-欲望 $ 穴は,神の欲望 人間たちすべてを救済したいという欲望 を代理する 人間の欲望である.神による人間の救済は,そのように 神の欲望を代理する人間 神の代理人となる人間 によって,実行される.神の代理人は,聖職者に限らない.唯一神の宗教(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教)の 信者たちは すべて 神の代理人であり得る.我々の希望は そこに存する.

2023年9月12日

ヨハネの Logos を よりよく理解するために — 旧約聖書における「主の ことば」と「知恵」の 概観

Luca Giordano (1634-1705) : Il Sogno di Salomone (cf. 1 R 3,04-15)

神は,眠るソロモンに 彼の夢のなかで 現れ,彼に言う :「求めよ — 何を わたしは おまえに 与えようか?」そして,ソロモンは 統治者に必要な 知恵(賢明な心)を 求める.この絵では,知恵は,画面の右上に,ギリシャ神話の女神 アテナ(戦争の女神,知恵の女神)として 描かれている.そして,彼女は,武装しているが,イェス キリストの象徴 子羊を 彼女の左腕に 抱いている.

ヨハネの Logos を よりよく理解するために — 旧約聖書における「主の ことば」と「知恵」の 概観



ヨハネ福音書の序章 (1,01-18) を精読するためには,そこにおいて 提示されている Λόγος (Logos) が 如何なるものであるのかを 理解しておかねばならない.そして,ヨハネの Logos は 旧約聖書における「主の ことば」( דְּבַר־יְהוָה : Dbar YHWH, ὁ λόγος τοῦ κυρίου, verbum Domini ) [1] [2] と「知恵」( חָכְמָה : chokhmah, σοφία, sapientia ) [3] とに準拠している,と言われている.そこで,本稿においては,それらについて 概観してみよう. 

[1] דָּבָר の訳語として,ギリシャ語では λόγος のほかに ῥῆμα も用いられる;また,ラテン語では verbum のほかに sermo も用いられる.


[3] 参考 : Traduction œcuménique de la Bible の Jn 1,01 への 脚注


I. 旧約聖書における「主の ことば」について


I-1. 神は ことばによって 創造する


創世記 1,03-31 は,如何に 神が ことばによって 宇宙を創造したかを 物語っている.そして,そのことは,たとえば Ps 33,06 において このように歌われている:
 
בִּדְבַר יְהוָה שָׁמַיִם נַעֲשׂו
וּבְרוּחַ פִּיו כָּל־צְבָאָֽם

biḏḇar Adonai šāmayim naʿăśû
ûḇrûaḥ pîv kāl ṣᵊḇā'ām

τῷ λόγῳ τοῦ κυρίου οἱ οὐρανοὶ ἐστερεώθησαν
καὶ τῷ πνεύματι τοῦ στόματος αὐτοῦ πᾶσα ἡ δύναμις αὐτῶν

Verbo Domini caeli facti sunt,
et spiritu oris eius omnis virtus eorum.

By the word of the Lord the heavens were made,
And by the breath of His mouth all their array.

主の ことばによって 天は造られた;
そして,彼の口の息吹 [4] によって 天の軍すべては[造られた]


[4]  רוּחַ , πνεῦμα, spiritus は,既成の聖書邦訳においては「霊」と訳されているが,それが如何に不適切であるかについては,わたしの このブログ記事を参照;わたしは それらの単語を「息吹」と訳すことを 好む.


そこにおいて,「主の ことば」( דְבַר יְהוָה ) と「彼の口の息吹」( רוּחַ פִּיו ) とが 平行関係に置かれていることに 注目しよう.

その平行関係は,ヘブライ語において 詩的な効果を生むものである.David Bivin は,彼の Understanding the Difficult Words of Jesus — New Insights From a Hebraic Perspective (p.89) において,こう説明している:

ヘブライ語の詩は,英語の詩のようではない.それは,詩節の終わりにおいて韻を踏むことをしない;同じ音を繰り返すことを しない;そうではなく,同じ考えを 反復させる — あるいは,こだまさせる.つまり,同じことを 二度 言う — ただし,それぞれ 相異なるしかたによって,等価ではあるが相異なる言葉遣いにおいて.ヘブライ語の詩の この特徴は parallelism と呼ばれる.この parallelism — ふたつの同義文を〈ふたつの 相互に隣接する 詩節として〉並べること — は,ヘブライ語の詩の本質である.

したがって,「主の ことば」と「彼の口の息吹」は,同一のこと — 神の創造力 — を言うための 同義表現である.

そのことは,神の「ことば」(λόγος) と「息吹」(πνεῦμα) とが 相互に等価なものであることを気づかせてくれる 重要な手がかりとなる.

そして,そのこと 神の「ことば」(λόγος) と「息吹」(πνεῦμα) とが 相互に等価なものである ということ によって,我々は,創世記の冒頭と ヨハネ福音書の冒頭との 対応関係にも 気づくことができる(創世記の Septuaginta 版と ヨハネ福音書とが ともに « Ἐν ἀρχῇ »[源初において]で始まることから,福音記者ヨハネは 序章を執筆する際に 創世記の創造神話を踏まえたはずだ ということは,通説になっている)

実際,創世記において 神のことばによる〈無からの〉創造が始まるまえに まず登場するのは רוּחַ אֱלֹהִיםRuah Elohim : 神の息吹)である;他方,ヨハネ福音書の冒頭 (1,01) 最初に登場するのは λόγος であり,そして,次いで (1,03) 創造に関して こう言われる : πάντα δι᾽ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὃ γέγονεν[すべては,それ (λόγος) によって 成った;そして,成ったものにして それ無しに成ったものは,ひとつもなかった].

いかにも,創世記において 神が「...であれ」という命令のことばによって創造してゆくことと Jn 1,03 との対応は 一目瞭然である;しかし,我々は,神の「ロゴス」と「息吹」とが相互に等価なものであることによって,「源初の空無を 神の息吹が 覆っていた」と「源初にロゴスがあった」との対応にも 気づくことができる.

また,神の「ロゴス」と「息吹」との等価性にもとづいて,我々は,おそらく聖書研究者たちによって指摘されたことのない〈創世記の創造神話と ヨハネ福音書の序章との〉対応関係を もうひとつ 指摘することができるだろう.すなわち,あの ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο”[ロゴスは 肉となった](Jn 1,14) は,創世記 (2,07) における この〈人間の〉創造に 対応している:

そして,YHWH Elohim は,Adam ( אָדָם ) ( אֲדָמָה : adamah) 塵から 作った;そして,彼の鼻へ いのちの息( נִשְׁמַת חַיִּים : nishmath hayyim — 神の いのち[永遠の いのち]を与える 息)を 吹き入れた;そして,Adam  いきている いのち( נֶפֶשׁ חַיָּֽה : nephesh hayya — 神に与えられた いのち[神の いのち,永遠の いのち]をいきている 地上的な いのち)に成った.

いかにも,そこで使われている単語は רוּחַ (ruach) ではなく,しかして נְשָׁמָה (neshamah) である;しかし,この場合,両者は 同義語(息,息吹)である.

創世記 1,27 の「そして,神は Adam を 創造した — 彼の似姿に;神の似姿に 彼[神]は 彼 [ Adam ] を 創造した;男と女 — 彼[神]は 彼らを 創造した」においては述べられていない 息吹(ロゴス)の役割を,2,07 は 明示している:神の息吹(ロゴス)は 神のいのち(永遠のいのち)そのものであり,神は それを 人間に与える;そして,それによって「いのちある身」( נֶפֶשׁ חַיָּֽה ) が生成する —「ロゴスは肉となった」は そのことを言っている と解釈され得るだろう.


I-2. 神は 彼のことばを ある使命のために 世へ 遣わす [ שָׁלַח : shalah, ἀποστέλλω, emitto ] ; そして,神のことばは,その使命を果たしたあと,神のところへ帰ってゆく


Jesus Christus が 彼の父によって 人間のところへ 遣わされ,そして,全人類の救済という使命が「成し遂げられた」(τετέλεσται : cf. Jn 19,30) あと,父のもとへ帰ってゆくように,神のことばも 世へ遣わされて,使命を果たしたあと,神のもとへ帰ってゆく.たとえば,Is 55,10-11 において こう述べられている:

なぜなら このゆえに:雨は 降る;
雪も[降る]天から;
そして,そこへ[天へ]帰らない;
しかして,地を潤す;
そして,成長するものを生えさせる;
そして,与える — 撒くべき種と 食べるべきパンを;

そのように,わが ことば [ דְבָרִי : debari, τὸ ῥῆμά μου, verbum meum ] は,わが口から出ると,
むなしく わたしのところへ帰らない;
しかして,わたしが欲することを 為す;
そして,それがためにわたしがそれ[わがことば]を遣わしたところのものを 成功させる.

さらに,神が彼のことばを人間たちのところへ遣わすことが歌われている 詩篇の例を ふたつ挙げると:

Ps 107,19-20 :

そして,彼らは 叫んだ — 主へ — 彼らの苦境において;
彼らの苦悩から 彼[主]は 彼らを 救った.

彼は 遣わした — 彼のことば [ דְּבָרוֹ : dbaro, ὁ λόγος αὐτοῦ, verbum suum ] を — そして,彼らを癒した;
そして,彼らを 解放した — 彼らの穴[彼らが陥っていた穴,罠]から.


Ps 147,15-18

[YHWH は]彼のことば [ אִמְרָתוֹ : imratho, τὸ λόγιον αὐτοῦ, eloquium suum ] を地へ遣わす方;
彼のことば [ דְּבָרוֹ : dbaro, ὁ λόγος αὐτοῦ, verbum ejus ] は すばやく 走る [5].

[彼は]羊毛のような雪を与える方;
彼は 霜を 灰のように 散らす.

[彼は]彼の氷を パン屑のように 投げる;
彼の寒さに対して 誰が耐え得ようか?

彼は,彼のことば [ דְּבָרוֹ : dbaro, ὁ λόγος αὐτοῦ, verbum suum ] を 遣わし,それら[雪,霜,氷]を 溶かす;
彼が 彼の息吹 [ רוּחוֹ : ruho, τὸ πνεῦμα αὐτοῦ, spiritus eius ] を 吹かせると,水が流れる [6].


[5] Ps 147,15 においては,「主のことば」に ふたつの用語が当てられている:ひとつは( חָכְמָה :(dabar), そして,もうひとつは אִמְרָה (imrah). 後者は,名詞 אֵמֶר (emer)[ことば]の派生語である;そして,名詞 אֵמֶר (emer) は 動詞 אָמַר (amar)[言う]に由来している.

名詞 דָּבָר (dabar) の語源である 動詞 דָּבַר (dabar)[言う]の 元来の意義は「一列に並べる,順番に並べる」であった;そこから,「単語を順序よく並べる」という意味において,דָּבַר は「言う,語る」となった.

それに対して,動詞 אָמַר (amar)[言う]の 元来の意義は「運び出す」であった;そこから,「明るみに出す」という意味において,אָמַר は「言い表す,言う」となった.

דָּבַר と אָמַר の 用例を見てみると:

Gn 1,03 :

וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אוֹר וַֽיְהִי־אֽוֹר

vayyō'mer 'ĕlōhîm yᵊhî 'ôr vayhî 'ôr

そして,神は言った:「光が存在するように!」 そして,光が存在した.

Gn 8,15 :

וַיְדַבֵּר אֱלֹהִים אֶל־נֹחַ לֵאמֹֽר

vayḏabēr 'ĕlōhîm 'el nōaḥ lē'mōr

そして,神は 言った — ノアへ —[箱船から出よ と]言うために.


[6] Ps 147,18 においても,Ps 33,06 におけるのと同様に,Dabar[ことば]と Ruach[息吹]とが 詩的平行関係に置かれてあることに 注目.


I-3. 神のことばは 讃美の対象である


神のことばは,神自身と同様,讃美の対象として 歌われている.その例を 詩篇 56 から ふたつ 示す:

Ps 56,05
 
בֵּאלֹהִים אֲהַלֵּל דְּבָרוֹ
בֵּאלֹהִים בָּטַחְתִּי לֹא אִירָא
מַה־יַּעֲשֶׂה בָשָׂר לִֽי

bē'lōhîm 'ăhallēl dᵊḇārô
bē'lōhîm bāṭaḥtî lō' îrā'
mah yaʿăśê ḇāśār lî

神に — 彼のことば [ דְּבָרוֹ : dbaro, λόγος, sermo ] を わたしは 讃える [ הָלַל : halal, ἐπαινέω, laudo ] —
神に わたしは信頼する;わたしは恐れない;
何を 肉[人間]は わたしに 為し得るか?


Ps 56,11-12
 
בֵּֽאלֹהִים אֲהַלֵּל דָּבָר
בַּיהוָה אֲהַלֵּל דָּבָֽר
בֵּֽאלֹהִים בָּטַחְתִּי לֹא אִירָא
מַה־יַּעֲשֶׂה אָדָם לִֽי

bē'lōhîm 'ăhallēl dāḇār
bayhvâ 'ăhallēl dāḇār
bē'lōhîm bāṭaḥtî lō' 'îrā'
mah yaʿăśê 'āḏām lî

神に —[彼の]ことば [ דָּבָר : dabar, ῥῆμα, sermo ] を わたしは 讃える [ הָלַל : halal, αἰνέω, laudo ] —
YHWH に —[彼の]ことば [ דָּבָר : dabar, λόγος, sermo ] を わたしは 讃える —
神に わたしは信頼する;わたしは恐れない;
何を 人間は わたしに 為し得るか?


以上に見たように,神のことばは,神の創造力を表すものとして,神の息吹(聖なる息吹)と 等価的である;そして,神のことばは,創造の medium[手段]ないし agent[能動者,作用者]として 神から創造界へ遣わされることにおいて,息吹と同様に,神と創造界とを繋ぐ medium[媒介]である;さらに,神のことばは,三位一体のうちの ひとつの ὑπόστασις である 聖なる息吹 (Sanctus Spiritus) と等価的なものとして,息吹と同様に 讃美の対象である.


II. 旧約聖書における「知恵」について


ヨハネ福音書の序章(ロゴスの讃歌)は,旧約聖書の知恵文学(詩篇の一部,箴言,ヨブ記,雅歌,コヘレト,知恵の書,ベン シラの 書)[それらのうち「知恵の書」および「ベン シラの書」は 第二正典]における「知恵の讃歌」を 踏まえている と 言われている.そこで,「知恵の讃歌」の例を 三つ 読んでみよう.


II-1. 箴言


まず,箴言 8,22-36 :

22 YHWH は,わたし[知恵]を 得た[生んだ]— 彼の道の始まり —
いにしえの彼の仕事に先だって.
23 わたしは着座した[油を注がれた,聖別された]— 永遠以前に,
源初以来,地の始まり以来.
24 わたしは生まれた — 深淵 [7] が[まだ]無いときに,
水の〈豊かな〉源が[まだ]無いときに.
25 わたしは生まれた — 山たちが据えられる前に,
丘たちよりも前に,
26 地をも 空間をも 土ぼこりの全体をも
彼 (YHWH) が まだ 造っていないときに.
27 わたしは そのとき[存在していた]— 彼 (YHWH) が 天を確立したときに,
[彼 (YHWH) が]深淵に対して その[穴の]円周を描き込んだときに,
28[彼 (YHWH) が]上に 雲を固めたときに,
[彼 (YHWH) が]深淵の目を強めたときに,
29[彼 (YHWH) が]海に その境界を 定めたときに —
水が その口を 越えないように —
[彼 (YHWH) が]地の基礎を画したときに;
30[そのとき]わたしは 彼 (YHWH) の傍らで 親密な協働者であった;
そして,わたしは,日々,彼の喜びであった —
彼の面前で いつも 遊びつつ;
31 彼の地[彼が創造した地]の世界で 遊びつつ;
そして,わが喜びは アダムの息子たち[人間たち]とともにあった.
 
32 そして,今,息子たちよ,わたし[の ことば]を 聴きなさい;
幸福だ,わたしの道を守る者たちは!
33 聴きなさい —[あなたたちを]叱る[わたしの ことば]を;そして,賢くありなさい;
そして,[わたしの ことばを]無視してはならない.
34 幸福だ,わたし[の ことば]を聴く者は —
日々 わたしの扉のところに 待機しつつ,
わたしの門の柱を守りつつ[守衛をしつつ].
35 なぜなら このゆえに:わたしを見出す者は,いのち [ חַיִּים , ζωή ] を 見出したのだ;
そして,YHWH から 好意を 得たのだ.
36 だが,わたしに反する者は,自分自身に害をなしている;
わたしを憎む者たちは 皆[いのちではなく]死を愛しているのだ.


[7] この「深淵」( תְּהוֹם :tehom, ἄβυσσος ) という語は,Gn 1,02 における 最も源初的な深淵を 指している (Gn 1,01-03) :

1 はじめに 神は 創造した — 天と 地を.
2 地は 空無であった;そして,闇が 深淵のおもてのうえに[あった];そして,神の息吹が 水のおもてを 覆っていた.
3 そして,神は 言った:

光が 存在せよ!

そして,光が 存在した.


気づくことを 幾つか 挙げるなら,1) 上に引用した箇所以外でも,箴言 8 章 全体において,知恵は みづから 一人称で 語っている.つまり,神の知恵は,神のことばよりも,よりいっそう「ペルソナ化」(personification) されている(神のことばも 神から創造界へ遣わされはするが).箴言 9,01-06 においては,知恵は 家を建て,そこで宴会を催す — その家の女主人として 人間たちを宴会に招くために.そのようなペルソナ化は,当然,三位一体における 神の息吹のペルソナ化 および ヨハネ福音書の序章における 神のことばのペルソナ化へ 展開されてゆくことになる.

2) v.22 の 動詞 קָנָה の 元来の意味は「得る,有する」であるが,「創造する,生む」とも訳され得る.その節を「YHWH は わたしを 生んだ」と読むなら,知恵は 神の娘と見なされ得る.そして,神が知恵を生んだのは,天地の創造の開始前のことである.つまり,知恵は 創造界に対して praeexistentia を有している.

その praeexistentia という語は 神学において praeexistentia Christi という表現において用いられる;そして,それは「ロゴスとしての イェス キリストが 創造界より先に(天地の創造 以前に)存在していること」を言う.

だが,ヨハネ福音書 1 章において 洗礼者ヨハネが ロゴスとしてのイェスについて「わたしより後に来る彼は,わたしより前に成っていた;なぜなら,彼は わたしより先に 最初に[源初において]存在していたから」と言うとき,それは むしろ このことを示唆しているにほかならないのではなかろうか:福音記者ヨハネは「イェスとは誰か? 彼は如何なる者であるか?」について問うとき,神の娘としての知恵を 準拠のひとつとした.

3) v.35 で 知恵は「わたしを見出すものは,いのちを見出したのだ」と言っている.それは,知恵といのちとの等価性の断定である.そして,それは,Jesus の「わたしは いのちのパンである」や「わたしは 復活 および いのちである」を想起させる.


II-2. 知恵の書


次いで,知恵の書.その作者は,知恵を「すべてのものの女性職人」(πάντων τεχνῖτις : すべてのものを造り出す女性職人 — τεχνῖτις は「職人」の女性形;その男性形は τεχνίτης ; 女性形が用いられているのは,「知恵」[ σοφία ] が女性名詞であるから)と呼んだあと,こう述べている (Sap 7,22 – 8,01) :

22 なぜなら このゆえに:彼女[知恵]のなかには 息吹がある — その息吹は,
知性的であり;神聖であり;
唯一的 (μονογενής [8]) であり,多 (πολυμερής) であり,
繊細であり,機敏であり,
明瞭であり,無垢であり,
明確であり,無傷であり,
善を愛し,鋭く,
23 妨げられることがなく,善行を為し,人間を愛し,
しっかりしており,揺らぐことがなく,心配事もなく,
すべてが可能であり,すべてを見わたし,
すべての精神を見ぬく — 知性的なものも,浄いものも,最も繊細なものも.
24 そも,知恵は,あらゆる動きよりも 動きやすく,
すべてのものを見とおし,見ぬく — その純粋さによって.
25 そも,彼女[知恵]は 神の力の精気 [9] であり,
全能なる神の栄光の 純粋な発露である;
それゆえ,彼女のなかへ入り込む 汚れたものは 何も無い.
26 そも,彼女は,永遠なる光の輝きであり,
神の活動の くもり無き鏡であり,
彼[神]の善性の似姿である.
27 彼女は,一[いち]であるので,すべてを能い,
彼女自身のうちにとどまりつつ,すべてを新しくする;
そして,時代時代に 聖なる魂たちのなかへ 次々に入ってゆき,
神の友たち および 預言者たちを 養成する.
28 なぜなら このゆえに:神は,知恵とともに住まう者をしか 愛さない.
29 そも,彼女は,太陽よりも美しく,
すべての星々よりもうえに 位置している;
光と比較されるなら,
より優るものとして見出されるのは 彼女である.
30 なぜなら このゆえに:昼[の 光]は 夜[の闇]に取って代わられるが,
知恵が 悪に 負けることはない.
01 彼女は,[世界の]果てから果てへ 力強く 広がり,
善意を以て すべてを統治する.


[8] この μονογενής という語は,新約においては,Jesus が 神の唯一の息子であることを言うために 用いられる;たとえば,Jn 3,16 :

Οὕτως γὰρ ἠγάπησεν ὁ θεὸς τὸν κόσμον, ὥστε τὸν υἱὸν αὐτοῦ τὸν μονογενῆ ἔδωκεν, ἵνα πᾶς ὁ πιστεύων εἰς αὐτὸν μὴ ἀπόληται ἀλλ᾽ ἔχῃ ζωὴν αἰώνιον.

なぜなら このゆえに:これほどに 神は 世を 愛した — 彼の唯一の息子を[世に]与えたほどに — 彼を信ずる者が,誰しも,滅びることなく,しかして,永遠のいのちを有するために.

また,μονογενής は,名詞として「ひとり子」を言うこともある;たとえば,Jn 1,14 :

Καὶ ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο καὶ ἐσκήνωσεν ἐν ἡμῖν, καὶ ἐθεασάμεθα τὴν δόξαν αὐτοῦ, δόξαν ὡς μονογενοῦς παρὰ πατρός, πλήρης χάριτος καὶ ἀληθείας.

そして,ロゴスは,肉となった;そして,我らのうちに[天幕を張って]住んだ;そして,我らは 彼の栄光を 見た — 彼が ひとり子として 父のもとで[得た]栄光を —[彼(イェス)は]恵みと真理に満ちていた.

それゆえ,その語は,神の知恵と 神のひとり子 Jesus Christus とが 同じひとつのものであることを,それだけで,示唆している.


[9] ἀτμὶς τῆς τοῦ θεοῦ δυνάμεως[神の力の精気]— ここで「精気」と訳した語 ἀτμίς の 辞書的な意味は,「水蒸気」(moist vapour, steam) である.「息吹」の言い換えと見なし得るだろう.


以上のように「知恵の書」においても,1) 知恵は「すべてのものを造り出す 女性職人」として ペルソナ化されている; 

2)「知恵の書」の 作者は,1,05-07 において「知恵」と「聖なる息吹」または「主の息吹」とを 完全に相互に等価なものとして(相互に置き換え可能なものとして)論じており,上に引用した 7,22 においても 知恵と息吹との等価性を 示唆している;

3) また,v.26 において,知恵と光との等価性が 措定されている.我々は,先に〈Pr 8,35 において 知恵が「わたしを見出すものは,いのちを見出したのだ」と言っていることにおいて〉知恵といのちとの等価性が措定されていることを 見た.それら ふたつの等価性は,ヨハネ福音書の序章の v.04  “ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων”[それ[ロゴス]のなかに いのちがあった;そして,いのちは 人間たちの光であった]— における〈ロゴスと いのちと 光との〉等価性において 再び見出される.神の知恵と息吹とロゴスは いづれも「いのちを成すもの」(τὸ ζῳοποιοῦν) であり,かつ,光をもたらすものである.

4) v.27 の「知恵は 一[いち]である」は,知恵が YHWH そのものでもあることを,示唆している (cf. Dt 6,04).


II-3. ベン シラの 書


第 3 に,ベン シラの 書 (Si 24,01-22) :
 
01 知恵は,彼女自身を 称讃するだろう;
そして,民のただなかで 彼女自身を 誇るだろう.
02 いと高き方[神]の集会で 彼女は 口を開くだろう;
そして,彼の力の面前で[彼女自身を]誇るだろう.

03 わたし[知恵]は,いと高き方の口から 出た;
そして,霧のように 地を 覆った.
04 わたしは[天の]高きところに テントを張った[住んだ];
そして,わが玉座は 雲の柱のうえに あった.
05 わたしは,天の円を ひとりで 回った;
そして,深淵の深みを 歩き回った.
06 海の波のうちに,地全体のうちに,
そして,あらゆる民と民族のうちに,わたしは[領地を]得た.
07 それらすべてのうちに わたしは 休むところを 探した;
誰の相続財産のところに わたしは居を定めようか?
08 そのとき,すべてのものの創造主は わたしに命じた;
わたしを創造した方は わたしのテントを 置いた;
そして,言った:

ヤコブのうちに,あなたのテントを 張りなさい;
そして,イスラエルのうちで,あなたは 相続人となりなさい;
 
09 世の[始まる]前に,源初から,彼は わたしを創造した;
そして,世の[終わるとき]まで,わたしは 決して過ぎ去らないだろう.
10 聖なるテントのなかで,彼の面前で,わたしは 礼拝を おこなった;
そして,そのように わたしは シオンに 居を定めた.
11 また,彼は,彼が愛した都で,わたしを休ませた;
そして,イェルサレムに わが権力は ある.
12 わたしは 根を降ろした — 称讃された民のなかに,
主の領分に,彼の財産である領分に.
13 わたしは 成長した — レバノン杉のように,
ヘルモン山 [10] のイトスギのように.
14 わたしは 成長した — Ein Gedi [11] の ヤシの樹のように,
イェリコのキョウチクトウのように,
平地の 美しいオリーヴの樹のように,
プラタナスのように — わたしは 成長した.
15 シナモンのように,香ばしいアスパラト [12] のように,わたしは香りを与えた;
そして,選ばれた 没薬 (σμύρνα) のように,わたしは 芳香を放った —
χαλβάνη[ヘルベナ香 [13]],ὄνυξ[シェヘレト香],στακτή[ナタフ香]のように,
そして,[主の]テントのなかの 乳香 (λίβανος) の 蒸気のように.
16 わたしは,テレビンの樹のように わたしの枝を 伸ばし広げた;
そして,わたしの枝は 栄光と恵みの枝であった.
17 わたしは,葡萄の樹のように,恵みを 芽吹いた;
そして,わたしの花は,栄光と富の実りとなった.
18[わたしは 母である — 美しい愛の 母,
(主を)畏れることの 母,(主を)識ることの 母,
聖なる希望の 母;
永遠に存続する わたしは,与えられた —
わが子たち すべてへ,
彼(主)によって選ばれた者たちへ [14]]
19 あなたたちは わたしのところへ 来なさい — わたしを欲する者たちよ,
そして,わたしが生む実りで 満たされなさい.
20 なぜなら このゆえに:わたしの思い出は,蜜より 甘い;
そして,わたしの相続財産は,蜜の巣[蜜が取れる蜂の巣]よりも[甘い].
21 わたしを食べる者たちは,さらに 空腹を覚えるだろう;
そして,わたしを飲む者たちは,さらに 渇きを覚えるだろう.
22 わたしに従う者は,はずかしめられないだろう;
そして,わたしのなかで[わたしとともに]働く者たちは,罪を犯さないだろう. 


[10] Mount Hermon ( הַר חֶרְמוֹן ) : レバノンとシリアとの国境に位置する山:頂上の高さは 標高 2,814 m.

[11] Ein Gedi( עֵין גֶּדִי‎ : 子山羊の泉)は,死海の西側にある オアシス.今は,自然保護地域に指定され,観光地となっている.

[12] ἀσπάλαθος : 棘のある灌木;香油が採れる.

[13] この節において列挙されている香料は,出エジプト記 30,22-38 において YHWH が モーセに〈儀式で用いる 油 および 香に関する〉指示を与えるときに 挙げているのと 同じ香料である.そこにおいては,こう述べられている (Ex 30,34-35a) :

そして,YHWH は モーセに 言った:

あなたは これらの香料を得なさい — נָטָף (nataph, στακτή), שְׁחֵלֶת (shehelet, ὄνυξ), חֶלְבְּנָה (helbenah, χαλβάνη) — それらの香料 および 純粋な לְבוֹנָה (lebonah, λίβανος) — それぞれが等量ずつであるように.そして,あなたは そこから 香を作りなさい (…).

Nataph (στακτή) は 没薬の一種,helbenah (χαλβάνη) は galbanum(芳香性の樹脂),lebonah (λίβανος) は 乳香である;しかし,shehelet (ὄνυξ) が何であるのかについては 研究者の見解は 一致を見ていない;ある種の巻き貝の蓋,または,ある種のハンニチバナ (labdanum, rockrose) から取れる樹脂などと 言われている.

[14] 18 節は,後から挿入された 注釈と 見なされている.


以上のように,ベン シラの書においても,1) 知恵は 一人称で語ることにおいて ペルソナ化されている ; 

2) v.03 で,知恵は「神の口から出る」ことにおいて,神のことば および 神の息吹と等価なものであることが,示唆されている.また,「神の口から出る」という表現は,Jn 20,22 において描かれている この場面を 我々に 想起させる:すなわち,復活した Jesus は,弟子たちのまえに現れる;そして,彼は 彼らに 息を吹きかける [15] ; そして,彼らに 言う :「聖なる息吹を 受けなさい」.


[15] そこで用いられている動詞 ἐμφυσάω[息を 吹きかける,吹き込む]は,創世記の「そして,YHWH Elohim は,人間を,土から取った塵で 作った;そして,その鼻孔へ いのちの息を 吹き込んだ;そして,人間は נֶפֶשׁ חַיָּֽה[nephesh hayya : 神のいのちを生きている 地上的な生命]となった」(2,07) の 七十人訳において “ἐνεφύσησεν εἰς τὸ πρόσωπον αὐτοῦ πνοὴν ζωῆς”[神は,人間の顔に いのちの息を 吹きかけた]と言われるときに用いられている語である.つまり,福音記者ヨハネは,Gn 2,07 の引用によって〈主 イェス キリストによる新たな創造を〉示唆している.


3) v.09 においては,知恵の〈創造界に対する〉praeexistentia とともに,知恵の永遠性も 措定されている.知恵の「世の[終わるとき]まで わたしは 決して過ぎ去らないだろう」は,Jesus の “ὁ οὐρανὸς καὶ ἡ γῆ παρελεύσεται, οἱ δὲ λόγοι μου οὐ μὴ παρέλθωσιν”[天と地は[終末の日に]過ぎ去るだろう;だが,わたしのことばは[終末の日にも]過ぎ去らないだろう][Mt 24,35] を 即座に想起させる; 

4) いかにも「知恵の受肉」については何も語られていないが,しかし,知恵が イスラエルの民のうちに「テントを張る」(κατασκηνόω) という表現 (v.08) は,Jn 1,14 の「そして,ロゴスは,肉となった;そして,我々のうちに テントを張った (σκηνόω)」の後半部分を 即座に想起させる.また,知恵が 植物のように「成長する」(ἀνυψωθῆναι) ということは,それが 有機的な生命 — 肉ではないとしても — に譬えられていることを 示している ; 

5) 知恵の「わたしのところへ来なさい」(v.19),「わたしを食べる者たち」(v.21),「わたしを飲むものたち」(ibid.) という表現は,Jesus の ことば (Mt 11,28 ; Jn 6,53-56) を 即座に 思い起こさせる ; 

6) 知恵の「わたしの思い出」(τὸ μνημόσυνόν μου) [v.20] は Jesus の “τοῦτο ποιεῖτε εἰς τὴν ἐμὴν ἀνάμνησιν”[これを おこないなさい — わたしの想起(記念)のために](Lc 22,19) を 思い起こさせる.


III. 結論:神の「息吹」と「ことば」と「知恵」とは 相互に等価的である


神学 — 特に christologie — においては,教父時代の早い時期から,Jesus Christus(すなわち,神の ことば)と 神の知恵とは 同じひとつのものである と 見なされてきた — なぜなら このゆえに:パウロ (1 Co 1,24) は,Christus を「神の力 かつ 神の知恵」(θεοῦ δύναμις καὶ θεοῦ σοφία) と 呼んでいる.

では,なぜ 福音記者ヨハネは,Jesus Christus を,単純に ἡ σοφία τοῦ θεοῦ と呼ぶのではなく,敢えて ὁ λόγος τοῦ θεοῦ と呼ばねばならなかったのか(あるいは,そう呼びたいと思ったのか)? 思うに,その理由のひとつは このことであったのではなかろうか ? : σοφία という語は女性名詞であり,それゆえ,σοφία は しばしば 女性として 描かれてきた(実際,ギリシャ神話において,アテナは 戦争の女神であると同時に 知恵の女神である).ヨハネにとって,女性である σοφία が 神の息子になる という 受肉の過程は,考えづらかったのではなかろうか? それに対して,λόγος は 男性名詞であるので,それが 受肉により 神の息子になる ということは,彼にとって より受け容れやすかったであろう.ちなみに,ヘブライ語においても「知恵」( חָכְמָה ) は 女性名詞であり,それに対して「ことば」( דָּבָר ) は 男性名詞である.

ともあれ,旧約聖書(第二正典を 含む)における 神の「ことば」と「知恵」の意義を 改めて検討することによって,我々は,このことに気づくことができた:神の「ことば」と「知恵」は 神の「息吹」と密接に関連しあっている;そして,そればかりでなく,それら三者は 相互に等価的である:すなわち,それらは いづれも これらのことを指している:神の生命的な創造力;神による創造の medium[手段]または agent[作用者,能動者]; そして,そのようなものとして 神から創造界へ遣わされることにおいて,神と創造界との間の medium[媒介]として,神と創造界とを繋ぐもの.

そのことを踏まえて,別稿において,より深い〈ヨハネ福音書の序章の〉読解を 試みてみよう.