四つの言説 (Les Quatre Discours)
Lacan の 教えにおける「欲望」について
Lacan の 命題「人間の欲望は 他の欲望である」(le
désir de l’homme est le désir de l’Autre) を 説明するよう,最近,ある人から 求められた;そこで,ここで それに答えよう.
Lacan の 教えにおける「欲望」(désir) の概念は,ふたつの根を有している — ひとつは Freud, もうひとつは Hegel. それぞれについて 見てゆこう.
I. Freud における 欲望
Freud の著作のなかで,欲望の概念との関連において,Lacan が 特に 我々の注意を向けさせるのは,『夢解釈』の 第 VII 章の セクション E「一次過程と二次過程 — 排斥」における この文である:
(…) bleibt der Kern unseres Wesens, aus unbewußten Wunschregungen bestehend, unfaßbar und unhemmbar (…)無意識的な欲望活動から成る〈我々の存在の〉中核は,把握不可能かつ制止不可能なままである.
その文のすぐあとに,Freud は「欲望活動」(Wunschregungen) に 第三の形容詞 unzerstörbar[破壊不可能]を付加している.そして,「破壊不可能な欲望」(der unzerstörbare Wunsch) という表現は『夢解釈』全体の最後の文のなかに 見出される — その表現にも注目するよう,Lacan は 我々を促している.
いかにも,Wunsch という単語の翻訳は,英語では wish, フランス語では souhait または vœu, 日本語では「願望」である;それは,のちほど見るように,Hegel が用いた Begierde[欲望]とは異なる語であり,両者の意味あいも相異なる(両者の差異は,日本語の「願望」と「欲望」との差異と ほぼ 重なる — すなわち,我々は,たいてい,我々の「願望」を 誰か他者に言うことはできるが,しかるに,我々の「欲望」については 必ずしも そうではない).
しかし,Lacan は,Freud の Wunsch を désir と翻訳し続ける.そもそも,Freud が フランスに紹介された当初から,Wunsch は désir と翻訳されてきたし,今も そう翻訳され続けている.Freud をフランス語訳で読む者たちに souhait という訳語を押しつけたのは,Freud から「ラカン臭」を一掃しようとした Jean Laplanche が監修した フランス語版「フロィト全集」(PUF) である.
ところで,なぜ Freud は Begierde を用いなかったのか? それは,おそらく,当時,ヴィクトリア時代の保守的な性道徳が 欧州全体において なおも支配的であったからだろう.それゆえ,Freud
は「欲望」を libido というラテン語の衣装を着せてしか 用いなかった(言い換えれば,その形においてであれば Freud も「欲望」について論じている).
また,Lacan は,Freud の Trieb[本能]— 特に Todestrieb[死の本能]— を 非生物学的なものとして論ずるためにも,désir を用いる.特に そのことが見て取れるのは,Lacan が「昇華」(sublimation) について論ずるときである;なぜなら,Freud においては 昇華は「本能の昇華」(Triebsublimierung) であるが,それに対して Lacan は「欲望の昇華」(la sublimation
du désir) について問うているから.
それにしても,「無意識的な欲望」とは 何であろうか — それが「把握不可能,制止不可能,破壊不可能」であるとするなら? それは「無意識的」であるから,そのものとしては「把握不可能」である — なるほど.そして,それは 何らかの 抑えがたい(制止不可能な)Zwang[強制,強迫]として 自身を押しつけてくる — 確かに.しかし,それが「破壊不可能」である とは,いったい 如何なることであり得るのか?
その問いの答えは,Freud の「我々の存在の中核は,無意識的な欲望から成っている」という命題のなかに 見出され得る — というのも,それは このことを示唆しているから :「欲望」は「生物学的」なものでも「心理学的」なものでもなく,しかして,「存在論的」なものである — 我々の用語で言うなら「否定存在論的」(apophatico-ontologique)
なものである.
そして,それがゆえにも,Lacan は,精神分析における「欲望」について問うために,Hegel の『精神の現象学』(Phänomenologie des Geistes) の「自己意識」(Selbstbewußtsein)
の章(第 IV 章)に 準拠する;なぜなら そこにおいて Hegel は「自己意識」を 欲望 (Begierde) として 措定しているから.
II. Hegel における 欲望
Hegel は Phänomenologie des Geistes の 第 IV 章において,自己意識を 欲望として 措定している.
「意識」や「自己意識」という語を聞くと,誰しも すぐさま「認識」(Erkennen) を連想する.いかにも,Kant だけでなく,Hegel も「認識」について論じてはいる.しかし,ドイツ語の「意識」(Be-Wußt-Sein) という語に〈「意識」においてかかわっているのは「知」(Wissen) と「存在」(Sein)
との関係である〉ということが 明瞭に見て取れるように,Hegel においては「意識」は gnoséologique なものというよりは,むしろ épistémologique なものである.
さて,Hegel が「自己意識」を 欲望として 措定するとき,その欲望は,まずは 不満足の状態にある — なぜなら このゆえに:当初,自己意識において,彼自身の存在の真理と 知とは 分裂している(Trennung des Wissens und der Wahrheit : 知と真理との分離 — Phänomenologie des Geistes の Vorrede において用いられている表現 ;
Lacan は そこから « division entre le savoir et la vérité »[知と真理との間の裂けめ]という表現を 作りだしている [cf. Écrits,
p.856]).
次いで,Hegel は,如何に 欲望が,不満足の状態(知と真理との分裂)から出発して,das absolute Wissen[絶対知:知が真理と完全に等合的となる状態]において 満足 (Befriedigung) に達することになるかを 論じてゆくのだが,その過程は 単純に「知が ひとりで 学習する」というようなものではなく,しかして dialektisch[弁証法的]である.そのことを,彼は「自己意識」の章において こう公式化している:
Das Selbstbewußtsein erreicht seine Befriedigung nur in einem anderen Selbstbewußtsein.自己意識が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識においてのみである.
その Hegel の命題についてコメントしつつ,Alexandre Kojève は 彼の Introduction à la lecture de Hegel[ヘーゲル読解入門]において,こう言っている:
Le Désir humain doit porter sur un autre Désir.人間の欲望は,[満足に到達するためには]もうひとつのほかの欲望に かかわらねばならない.
そこにおいて,Kojève は「自己意識」を「欲望」と 言い換えている — それは まったく正当なことである;なぜなら Hegel 自身が そうしているのだから.
Kojève にならうなら,我々は,Hegel の命題を こう言い換えることができる:
Le désir humain n’atteint sa satisfaction que dans un autre désir.人間の欲望が 満足を達成するのは,もうひとつのほかの欲望においてのみである.
その命題を 我々は さらに こう言い換えよう:
Le désir de l’homme n’atteint la jouissance que dans le désir de l’Autre.人間の欲望が 悦を達成するのは,他の欲望においてのみである.
見よ,いかにもラカン的な命題 ! 実際,彼の 1953年の ローマ講演のなかに この命題が 見出される (Écrits, p.268) :
Le désir de l’homme trouve son sens dans le désir de l’autre.人間の欲望は 自身の意味を 他の欲望のなかに 見出す.
その命題のなかの sens[意味]という語は,我々に〈Lacan が 彼の 1973年の Télévision において 言及している この曖昧表現 — jouissance[悦]と jouis-sens[悦-意味]— を〉思い起こさせる.それに従うなら:
Le désir de l’homme trouve la jouissance dans le désir de l’Autre.人間の欲望は,他の欲望のなかに 悦を 見出す.
ともあれ,以上から 我々は,Lacan の「人間の欲望は 他の欲望である」は Hegel の「自己意識が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識においてのみである」— その命題に Lacan は Kojève が 1933年から 1939年まで École pratique des Hautes Études
でおこなった Phänomenologie des Geistes の読解の講義において 出会ったはずである — を 出発点としている,と 推察することができる.そして,Lacan が「無意識的な欲望は 他の欲望である」(le désir inconscient est le désir de l’Autre) とも言っていることから,我々は こう推論することができる:我々の存在の中核を成すものとしての欲望は,他の欲望にほかならない.
さて,では,この Hegel の「自己意識が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識においてのみである」という命題は 如何に解釈され得るであろうか? とりわけ,そこで言及されている「満足」(Befriedigung)
とは 如何なるものであるのか?
それらの問いに答えるための鍵は,これらのことに見出され得る : 1) Hegel は,Phänomenologie des Geistes において,「絶対知」にかかわる最終章の ひとつ前の章(第 VII 章)において,宗教について 論じている ;
2) Kojève は Phänomenologie des Geistes の読解の講義を「ヘーゲルの宗教哲学」(La Philosophie Religieuse de Hegel) という表題のもとに おこなっている.
それらのことが示唆しているのは,このことである : Phänomenologie des Geistes は — のみならず,Hegel の 哲学 全体は — 彼の宗教哲学の観点から 読み返されるべきである.
そして,実際,Hegel は,彼の Vorlesungen über die Philosophie der Religion[宗教哲学講義 — 彼は,その講義を,ベルリン大学の哲学教授への就任の 3 年後の 1821年 秋から 1831年 11月に 61歳で 病死(当時 ベルリンで流行していたコレラに感染して,または,何らかの消化器疾患[胃癌?]によって)するまでの 間に,ほぼ 3 年毎に,4 学期 または 4 学年にわたって (1821, 1824, 1827, 1831)
おこなっている]の 1824年の講義において,こう言っている:
In der Philosophie, welche Theologie ist, ist es einzig nur darum zu tun, die Vernunft der Religion zu zeigen.哲学 — それは 神学である — においては,唯一 このことのみが かかわっている:宗教の理性を示すこと.
また,1827年の講義においては こう言っている:
Der Gegenstand der Religion wie der Philosophie ist die ewige Wahrheit in ihrer Objektivität, Gott und nichts als Gott und die Explikation Gottes. (…) So fallen Religion und Philosophie in eins zusammen. Die Philosophie ist in der Tat selbst Gottesdienst, wie die Religion.宗教の対象も 哲学の対象も,それそのものにおける 永遠なる真理である;つまり,神であり,神以外の何ものでもない;そして,神を明示することである.(…) それゆえ,宗教と哲学とは ひとつのものへ 一致する.哲学は,実は,それ自体,神への奉仕[礼拝]である — 宗教と同様に.
以上のような Hegel の言葉を聞くと,あなたは驚くかもしれない.しかし,そのこと — 哲学と宗教(ないし 神学)との一致 — は,Heidegger においても うかがえることである(Heidegger 自身は Hegel のように 明言してはいないとしても,彼が「存在」について問うとき,彼は「神」について問うているに ほかならない).そして,Hegel における 哲学と宗教との一致は,実は,既に,Phänomenologie
des Geistes の 書題において 示唆されている — Geist という語によって.
ただし,あなたが Geist
を「精神」と邦訳してしまうと,あなたは その語の宗教的な意義を まったく見失ってしまう.しかるに,Geist は,唯一神の宗教(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教)においては,der Heilige
Geist (τὸ ἅγιον πνεῦμα, Sanctus Spiritus) である(それを「聖霊」と邦訳することが如何に不適切であるかについては,このブログ記事を参照)— つまり,神の息吹である.そして,聖書においては,神の「息吹」( רוּחַ ,
πνεῦμα, Spiritus ) と「ことば」( דָּבָר
, λόγος, Verbum ) と「知恵」( חָכְמָה
, σοφία, Sapientia ) とは,相互に等価なものである(このブログ記事を参照).
「ことば」や「知恵」の代わりに,我々は「知」(Wissen)
と言ってもよいだろう;そして,実際,Hegel は そうしている — であればこそ,Hegel は,Phänomenologie des Geistes を,弁証法的な〈知の〉歩み — 最も単純で直接的な知から出発して,弁証法的な過程を経て,次第に自身を豊かにしてゆき,ついには 神を完全に知る絶対知へ至る 知の歩み — として 展開しているのである.
さて,以上のことを踏まえるなら,Hegel の 命題:「自己意識が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識においてのみである」は,如何に解釈され得るだろうか? 我々は こう読む:ひとつめの「自己意識」は 人間,「もうひとりのほかの自己意識」は 神,そして,そこにおいてかかわっている満足は,何らかの地上的な満足でも 性的な満足でも あり得ず,しかして,「神を識る」こと (γνῶσις ἢ ἐπίγνωσις τοῦ θεοῦ) の満足である.
また,自己意識は欲望であれば,ひとつめの「自己意識」は「人間の〈神を識ることの〉欲望」,「もうひとりのほかの自己意識」は「神の〈人間を識ることの〉欲望」と解釈され得る.
その場合,「識る」( יָדַע , γιγνώσκειν
) は,単に「かかわっている対象に関する情報を得る」ということではない;そうではなく,〈それが「そして,Adam
は 彼の妻 Eva
を 識った;そして,彼女は妊娠した」(Gn
4,01) という文において用いられていることが 示唆しているように〉それは,「かかわっている対象と とても親密な関係(交わり : κοινωνία — 場合によって 性的な交わり)を 持つ — その対象のことを とてもよく識り得るほどに」ということである.
では,なぜ「識りたい」のか? それは,愛しているからである.そして,「愛は 神に由来する」(1 Jn 4,07) — なぜなら このゆえに :「神は愛である」(ibid., v.08). それゆえ,「[まず]我々が神を愛したのではない;しかして[まず]神が我々を愛したのだ」(ibid.,
v.10) ;「我々は[神を]愛する — なぜなら このゆえに:最初に 神が 我々を 愛した」(ibid., v.19).
それゆえ,人間が神を愛するのは,まず神が人間を愛しているからである;人間が神を識りたいのは,まず神が人間を識りたいからである.そして,人間の〈神を識りたいという〉欲望は,神の〈人間を識りたい〉という欲望において,満足 — γνῶσις
の満足,κοινωνία の満足,愛の満足 — を達成する;そして,Lacan は「愛は 欲望の昇華である」(l’amour
est la sublimation du désir) と公式化しているのであれば,その満足は,まさに「昇華の悦」(la
jouissance de sublimation) である.そこにこそ,欲望の弁証法の終結は 存する.
III. 欲望の 否定存在論的トポロジー
Hegel が 自己意識 (Selbst-bewußt-Sein) を「欲望」と 規定したことが示唆しているように,精神分析においてかかわっている「欲望」—
Freud が「無意識的な欲望」と呼んだもの — は,Seyn[抹消された存在]としての 主体 $ そのもの — 主体 $ の 穴,すなわち,否定存在論的孔穴 — である.
それは,存在の歴史(主体 $ の 穴の 弁証法的-現象学的 過程)の 源初論的位相(支配者の言説の構造)においては,中心的な場所 —
Freud が 言う「我々の存在の中核」— に 口を開いている(支配者の言説の構造を参照).それが「破壊不可能」であるのは,その穴は,源初論的であるので,なかったことにすることはできない — 閉塞不可能 かつ 隠蔽不可能である — ということである.
次いで,その穴は,形而上学的な支配者徴示素 S1(まずは,Platon の ἰδέα, 次いで,その さまざまな後継概念)によって 閉塞される(もっとも,本当に閉塞されるわけではなく,しかして,あたかも閉塞されたかのように見えるだけだが); そして,それとともに,主体 $ は,支配者徴示素 S1 によって,「書かれないことをやめないもの」の在所へ 排斥される(源初排斥 : Urverdrängung); そして,それによって,存在の歴史の形而上学的位相(大学の言説の構造)が 成立する.つまり,大学の言説の構造における 主体 $ は,源初排斥された欲望である.
そこにおいては,主体-欲望 $ は,自我 S2 から見て,他の側に位置する.つまり,主体-欲望 $ は 異化 [ aliénation ] されている(異状 [
aliénation ] の 構造).そして,それがゆえに,それは「他の欲望」(le
désir de l’Autre) となっている.
形而上学的位相の構造は,歴史学において「古典主義時代」と呼ばれる時期が過ぎ去るとともに,不安定になる — なぜなら このゆえに:科学の言説と資本主義の言説が支配的となってくるにともなって,従来の 形而上学的な支配者徴示素 S1 による 否定存在論的孔穴の閉塞の 有効性が 失われ,穴は開出してこようとする.それに対して,さまざまな 新たな形而上学的支配者徴示素 S1 の措定によって,形而上学的位相は 何とか維持されてゆく(最終的に Nietzsche
に至るまで).しかし,存在の歴史は,必然的に,形而上学的位相(大学の言説の構造)から 終末論的位相(分析家の言説の構造)へ 進もうとする.それに対しては〈その動きを防御 (Abwehr)
しようとする〉強い抵抗 (Widerstand) が働く — なぜなら,その動きは 強い不安 — 死の不安,無の不安,罪の不安 — を 惹起するから.
精神分析家は,分析者(精神分析の患者)が〈そのような防御と抵抗にもかかわらず さまざまな形で伝わってくる「存在 $ の ことば」(das
Word des Seyns) を〉聴き取ることを 助け,そして,それによって 終末論的位相への構造転換を促そうとする.
そして,分析家の言説の構造(分離の構造)において,昇華の悦 — すなわち,Hegel が「自己意識[欲望]が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識[他の欲望]においてのみである」と言うときに かかわっている「満足」— が 達成される.
昇華の構造は,分析家の言説の構造の右半分の部分 $ /
S1 によって 表されている.そこにおいて,S1 は「書かれないことをやめないもの」の座へ 閉出された 父の名(神の名)である.それは 神の〈人間を識りたい という〉欲望を表している.それに対して,開出してきた 主体-欲望 $ の 穴は,人間の〈神を識りたい という〉欲望である.$ / S1 の構造において,$ は S1 を 代理しており,そのことにおいて,$ は S1 と交わっている.そこに,昇華の悦 — 人間の欲望が〈神の欲望と 交わり,一致することによって〉神の欲望において 達成する 悦 — が 存する.
Hegel は,大学の言説の構造における $ の座(書かれないことをやめないものの座)に 絶対知を 仮定していた (le sujet supposé savoir) ; そして,その限りにおいて,Phänomenologie des Geistes の終結を,絶対知の実現 — 絶対知が 分析家の言説の構造における $ の座(書かれることをやめないものの座)へ 現れ出てくること — に見ていた.しかし,それは,彼の形而上学的な思いこみである.実際には,絶対知は 不可能である.大学の言説から 分析家の言説への 構造転換において,書かれることをやめないものの座へ開出してくるのは,穴 — 主体-欲望 $ の 穴 — である(ただし,その穴のエッジは 単純なな輪を成すのではなく,しかして,三つ葉結び [nœud de trèfle ] を成すのだが).そして,それを Lacan は「分析家の欲望」(le désir de l’analyste) と呼ぶ.それは,精神分析の終結において成起する 昇華された欲望 (le désir sublimé) である.
ところで,先ほどは,神の欲望を「人間を識りたい」という欲望として 提示したが,それは,つまるところ,人間たちを すべて 救済したい という 欲望である.開出してきた 主体-欲望 $ の 穴は,神の欲望 — 人間たちすべてを救済したいという欲望 — を代理する 人間の欲望である.神による人間の救済は,そのように 神の欲望を代理する人間 — 神の代理人となる人間 — によって,実行される.神の代理人は,聖職者に限らない.唯一神の宗教(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教)の 信者たちは すべて 神の代理人であり得る.我々の希望は そこに存する.