Freiburg 大学総長,Heidegger (1934) : Hitler と同様のヒゲをはやし,ワシと鈎十字から成る Nazi の徽章を襟に付けている
(写真は,こちらのページから借用)
東京ラカン塾 精神分析セミネール「フロィト,ハィデガー,ラカン & 一神教」
5月31日の 東京ラカン塾 精神分析セミネール「フロィト,ハィデガー,ラカン & 一神教」では,Heidegger の Antisemitismus についてさらに見て行きたいと思います.
Gesamtausgabe Band 95 (GA 95) は,Schwarze Hefte[黒ノート]のうち,1938-1939年(つまり,第二次世界大戦が始まる直前の時期)に書かれた Überlegungen[考察]VII - XI を収録しています.そこに含まれている Überlegungen VIII から,Heidegger が「ユダヤ組織」(das Judentum) に言及している箇所 (pp.96-97) を,紹介しましょう:
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今,起きていることは,西洋の人間の偉大な源初の歴史の終焉である — その源初において,人間は,存在を守護するよう呼ばれたが,しかし,すぐさま,その呼ばれ[召命]を,存在事象をその作謀的な非本質において vor-stellen する[表象する,眼前に置く]ことの要請へ,変換してしまった.
この最初の源初の終焉は,しかし,中止ではなく,而して,ひとつの固有の開始である.しかし,その開始は,その真理においては,おのれ自身から引き離されたままである — なぜなら,それは,すべてを,単なる表面へ整えねばならないから:そも,今の人間は,もはや,表面を整備し,そのうえで踊ることによってしか,〈自身を(主体として)識っているように〉自身を確かなものと認めることができない.だが,人間がそのような確認を必要とするのは,以下の理由によってである:すなわち,人間は,長らく,敢えて存在と向き合うことをせず,[単に]現前事象にもとづいて飼育し,計算することに頼ってきた,という理由によって.今,[最初の源初の歴史の]終焉として起きていることは,それゆえ,まさに,以下の者たちには,まずもって,かつ,最終的に,知り得ないことである —[以下の者たちとは:]この終焉を,その最終的な形態(すなわち,巨大なもの[大規模なもの]という形態)において開始し,かつ,歴史を欠くものを,史学的なものの仮面において,「歴史」と称するよう定められた者たち.そこからは,ほかなる源初への移行は無い.[ほかなる源初への]移行は,歴史を欠くものを,秘匿された歴史の最も表面的な灰色の浮きかすとして,認識せねばならない — 問いつつ前方遠くへ跳躍することによって,人間を,歴史へ救済するために.
歴史を欠くものにおいては,仲間うちでのみ繋がりあっているものが,またしても,せいぜい,まったくの混ざり合いの統一へ来たる[だけである];仮象的な「築き上げる」と「新たにする」と,まったくの破壊 — 両者は同じものだ — 基底を欠くもの — 単なる存在事象へ頽落したもの,存在から疎遠になったもの.歴史を欠くものが自己貫徹するや,「歴史主義」の勝手気ままが始まる —;基底を欠くものは,その最も多様にして最も相対立する諸形態において,互いを同じ非本質において認め合うことなく,極度の敵対性と破壊嗜癖へ陥る.
そして,この「戦い」— そこにおいては,まさに無目的性をめぐる戦いが行われ,それゆえ,その戦いは,単に「戦い」のカリカチュアでしかあり得ない — においては,おそらく,何ものにも繋ぎとめられておらず,すべてを自身に役立てる〈より大きな〉基底欠如性(ユダヤ組織)が「勝利」する.しかし,本来的な勝利 — 歴史を欠くものに対する歴史の勝利 — は,以下のところにおいてのみ,勝ち取られる:すなわち,基底を欠くものが,互いに排除し合う — なぜなら,基底を欠くものは,敢えて存在に向き合わず,しかして,常に,ただ,存在事象を勘定に入れ,その計算結果を現実的なものとして措定するだけであるから — ところにおいて.
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巨大なものの最も隠された形態のひとつ — かつ,おそらく,最も古いもの — は,「計算する」と「押す」と「ごちゃ混ぜにする」の粘り強い巧みさ — それによって,ユダヤ組織の無世界性が基礎づけられる — である.
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「日常性」と「普通人」には,巨大なものへの転換が,なおも迫っている.現場存在の「非本来性」は,今のところ,無害なものにとどまっている.しかし,計算者[打算家]がおり,彼れらは,今のところまだ無害で,子どもじみているが,こう思念している:「民族共同体」の設立によって,「日常性」も「普通人」も(それらを,大都市の頽落世界の現象と誤って思い込んで)克服しよう,と.そのような思念の盲目性は,「存在事象を確かなものとするのではなく,しかして,存在を思考すること」の〈増大する〉不能性に由来している.
普通のドイツ語の文章では集合的な意味における「ユダヤ人,ユダヤ民族」や「ユダヤ人の特性」を指す Judentum という名詞は,Heidegger の文章においては,何やら無気味な「巨大なもの」(das Riesige) との関連において用いられ,そして,その「巨大なもの」の「自己殲滅」(Selbstvernichtung) という黙示録的な想念が展開されて行きます.
5月31日のセミネールでは,ほかの箇所も紹介して行く予定です.
セミネールの日程は,以下のとおりです:
VI. 5月31日 : Heidegger の反ユダヤ主義について (II)
VII. 6月07日 : Lacan と精神分析とキリスト教について (I)
VIII. 6月14日 : Lacan と精神分析とキリスト教について (II)
IX. 6月21日 : Lacan と精神分析とキリスト教について (III)
X. 6月28日 : Lacan と精神分析とキリスト教について (IV)
ただし,必要に応じて内容を変更する可能性もあります.
各回とも,開始時刻は 19:30, 終了時刻は 21:00 の予定です.
場所は,各回とも,文京区民センター 内の 2 階 C 会議室です.
いつものとおり,参加費は無料です.事前の申込や登録も必要ありません.
問い合わせは,小笠原晋也 まで:
tel. 090-1650-2207
e-mail : ogswrs@gmail.com