2026年9月8日

フロィトの「性本能」論の ラカン的批判


フロィトの「性本能」論の ラカン的批判



以下は,わたしの著書『ラカンの教え — 精神分析と信仰』(Kindle Direct Publishing, 2026) の § 4.3「性本能の否定存在論的批判」の抜粋である.

なぜ フロィトは,1920年に死の本能を導入する以前,まずは,本能を「性本能」(Sexualtrieb) と捉えたのか いかにも,彼は,性本能と対立するものとして(つまり,性本能に対する「抵抗」を成すものとして)「自我本能」(Ichtrieb) ないし「自己保存本能」(Selbsterhaltungstrieb) をも措定してはいるが  ? そして,なぜ 彼は,彼の神経症病因論のなかで,性本能を特権化したのか ? その問題に関するフロィト自身の証言を振りかえることによって,我々は,こう推察することができる:それは,このゆえに:遅くとも 1880年代の始めまでに,「ヒステリーの病因は性的なものである」という臆見が,医師たちの間で広く共有されていた.というのも,このゆえに : 1914年の回想的なエッセー『精神分析運動の歴史について』(Zur Geschichte der psychoanalytischen Bewegung) において,フロィトは,神経症の性的病因論は彼自身の独創によるものではないと明言しつつ,その着想を彼に与えた師および先輩たち三人の名を挙げている:シャルコー (Jean-Martin Charcot : 1825-1893), ブロィア (Josef Breuer : 1842-1925), Rudolf Chrobak (1843-1910).

André Brouillet (1857-1914) : Une leçon clinique [ de Jean-Martin Charcot ] à la Salpêtrière

フロィトは,彼が 188510月下旬から約四ヶ月間シャルコーのもとに留学していたときに目撃したあるエピソードを想起しつつ,こう語っている:ある晩,レセプションで,シャルコーは,法医学の教授 Paul Brouardel (1837-1906) から,ある若い夫婦の問題 妻の重篤なヒステリー症状 について相談を受けると,彼に向かってこう断言した : « Mais, dans des cas pareils, c’est toujours la chose génitale, toujours, toujours, toujours ! »(フロィトのドイツ語原文においてそのシャルコーの言葉はフランス語で引用されている:「だが,その類のケースにおいては,問題はいつでも性器的なものだ いつでも,いつでも,いつでも!」)

Rudolf Chrobak

フロィトが1886年に神経医として開業してから 3年後,1889年,以前から親しい仲であった婦人科医 Chrobak は,ウィーン大学の正教授に任命されると,ある女性患者を引き継ぐようフロィトに依頼してきた 今後,忙しくなるので,彼自身は彼女の治療に十分な時間を割くことがもはやできないから.そして,教授は若き開業医にこう説明した:患者の不安症状は,このことに起因している:彼女は,結婚して18年たった今も,virgo intacta(手つかずの処女)である;なぜなら,彼女の夫はまったくの性的不能者であるから;そのような患者のための唯一の有効な処方は,十分によく知られている ただ,我々はそのような処方箋を書くことはできないが ;それは,こうである : « Rx. Penis normalis, dosim, repetatur »(処方:正常なペニス,用量:繰りかえさるべし).

Josef Breuer

ブロィアは,フロィトのパリ留学以前の 1880年代前半,ある偶然的な機会に,« Geheimnisse des Alkovens »(閨房の秘密)という婉曲表現を以て,ヒステリーの性的病因論をフロィトに示唆したことがあった;さらに,フロィトとの共著『ヒステリー研究』(1895) の理論的なことに関する章においては,彼は,このうえなく明示的にこう断言した : « Der Sexualtrieb ist gewiß die mächtigste Quelle von lange anhaltenden Erregungszuwächsen (und als solche, von Neurosen) »(性本能は,確実に,長時間持続する[脳内に生ずる神経生理学的な意味での]興奮増加の最も強力な源泉であり,そして,そのようなものとして,神経症の最も強力な源泉である).ところが,彼らの共著の出版のおよそ半年後,189511月08日付の書簡において,フロィトは,ベルリン在住の親友フリースに,こう語っている:四日まえにおこなわれたウィーン医師会の学術会合での講演において,ブロィアは,フロィトのヒステリーに関する発表を絶讃しつつ,彼自身を « bekehrter Anhänger der Sexualätiologie » と提示した;その表現の意義するところは,これである:「わたしは,フロィトが唱える神経症の性的病因論に,当初は賛同していなかったが,その後,転向して,その信奉者となった」;ともあれ,その会合の終了後にフロィトがブロィアに礼を言いに行くと,ブロィアはフロィトにそっけなくこう言った:「いや,わたし自身は,そんなこと(神経症の性的病因論)を信じてはいない」;フロィトの喜びは打ち砕かれ,彼は当惑するしかなかった.

At Clark University on September 10, 1909. From left in the front row: Sigmund Freud, Granville Stanley Hall (1844-1924: psychologist, the first president of Clark University), Carl Gustav Jung; and from left in the back row: Abraham A. Brill, Ernest Jones, Sándor Ferenczi.

後年,1909年,フロィトは,マサチューセッツ州にある Clark University に招かれたときに,そこでおこなった講演において,こう言っている: 

わたしは,このことを知っている:わたしのこの主張[神経症の性的病因論]は,喜んで信じてもらえるようなものではない.わたしの心理学的業績を進んで追っている研究者たちでさえ,こう思いがちである:わたしは,性的契機の病因論的分担を過大評価している;そして,彼らは,わたしに,このような問いを差し向ける:では,なぜ,ほかの心的興奮[複数]も,記述された現象 排斥と[症状形成としての]代理形成 の誘因となる,ということにはならないのか ? そのとき,わたしはこう答えることができる:なぜそうなのか,わたしは知らない;そのこと[ほかの心的興奮も排斥や症状形成を惹起し得るという説]に,わたしはまったく反対しない;ただ,経験はこのことを示している:それら[ほかの心的興奮]は,そのような意義[排斥や症状形成の惹起]を有していない;それらは,せいぜい,性的契機の作用の下支えとなるだけであり,しかして,後者[性的契機]に取ってかわることはできない.この事態[神経症の性的病因論]は,わたしによって理論的に要請されたわけではない ; 1895年にブロィアとの共著として出版された『ヒステリー研究』においても,わたしは,まだ,その立場に立ってはいなかった.わたしの[神経症患者の治療の]経験が,より増え,そして,対象のなかへより深く入り込むようになったときに,[初めて]わたしはその立場へ転向せねばならなくなった. 

以上の振りかえりから,次のことが推察されるだろう:神経症の性的病因論は,精神分析の理論のなかで必然的に要請されたものではなく,しかして,つまるところ,既に広く共有されていたヒステリーの病因は性的なものである」という臆見 より卑俗な表現で言えば「女がおかしくなるのは,性的欲求不満のせいだ」という女性蔑視に満ちた偏見 を出発点にしている.

当時,ウィーンの医学界では,医師としての確立された名声を既に有しているブロィアのような者が公の場で性的病因論を唱えても,それは,薄ら笑いを誘う〈言わずもがなの「公然の秘密」の〉暴露として聞き流されるだけだったのだろう;あるいは,それは,同じユダヤ人である後輩のための温情に満ちた援護と受け取られたのかもしれない;いづれにせよ,ブロィアはフロィトに「わたしは本気で性的病因論を信じているわけではない」と言いわたしている.他方,フロィトのような若輩がそれをひとつの学術的なテーゼとしておおまじめに提示すると,彼は先輩たちの顰蹙を買う.

Freud and Fließ in the early 1890s

それゆえ,我々は改めてこのことに感嘆してもよかろう:そのような学界の「空気」をものともせず,フロィトは,彼の「性理論」(Sexualtheorie : 性本能に関する理論)を,精神分析の基礎を成すものとして,作りあげてゆく — フリース (Wilhelm Fließ : 1858-1928) を唯一の支えとしつつ.ところで,そのフリースという男は,彼自身「鼻粘膜反射神経症」(nasale Reflexneurose) という似非科学的な(要するに,パラノイアックな)ヒステリー病因論を唱える耳鼻咽喉科医である.彼らの交友 それは,1887年に始まり,一時期,きわめて親密なものであった は,1906年にこの出来事を以て決定的に終わる:そのとき,フリースは妄想的にこう確信する:人間における「両性具有性」(Bisexualität) に関するフリースの未発表の着想 それをフリースはフロィトにだけ伝えてあった の〈ある著者 [1] による〉「剽窃」に,フロィトが関与していた;そこで,フリースは,その件に関して,フロィトを非難する.そのしばらくまえから彼らの文通の頻度はかなり少なくなっていたが,フロィトは,その機に,フリースと絶交する.

[1] 悲劇的にも 23歳 6ヶ月の若さで拳銃により自殺を遂げたオーストリアの哲学者 Otto Weininger (1880-1903) のこと.彼は,ユダヤ人であり,かつ homosexual であるがゆえに,自身の民族性と sexuality について 特に,彼が彼自身のうちに見いだす女性性について 非常に強い葛藤を抱えていた(勿論,当時,自身の homosexuality を公言することは,問題外であった);そして,その葛藤にもとづいて,主著『性と性格』(Geschlecht und Charakter) それは,彼の死の 5ヶ月まえに出版される を書きあげた;そこにおいて,彼の葛藤は,不幸にも,反動形成により,女性性とユダヤ性に対する嫌悪と憎悪の形をとることになった;また,そこには,人間の両性具有性に関する考察 勿論,それは,フリースの両性具有性に関する思念とは何のかかわりも有していない も含まれていた.その本は,著者の自殺のゆえに,当時,ベストセラーとなった.

ともあれ,フロィトの性理論を特徴づけるものが,ふたつある:ひとつは「性的」(sexual, erotisch) の概念の拡張であり,そして,もうひとつは「性本能の発達段階論」である.後者は,前者を目的論的視野のなかに位置づけるために,要請される.

フロィト以前には,性的悦 (la jouissance sexuelle) は,性交における性器悦 (la jouissance génitale) のことであった;実際,シャルコーは,先ほどの引用において「性的」と言う代わりに「性器的」と言っている.しかるに,フロィトは,Richard von Krafft-Ebing (1840-1902) Havelock Ellis (1859-1939) 等による性倒錯に関する精神病理学的ないし心理学的諸研究に準拠しつつ,性器以外の身体部分ないし生殖以外の身体機能 特に,口,肛門,視覚 において得られる悦をも,性的悦のなかに包含する.口にかかわる性本能と肛門に関わる性本能は,後述のように,発達段階論のなかに組みこまれる;だが,視覚本能 (Schautrieb, la pulsion scopique) それは,露出と窃視とに存する視覚的性倒錯から演繹される については,フロィトはそれを発達段階論のなかには位置づけなかった.また,我々は,ラカンの四つの客体 a 口の本能の客体としての乳房,肛門の本能の客体としての糞便,視覚本能の客体としてのまなざし,および,聴覚本能 [2] (Hörtrieb, la pulsion invocante) の客体としての声 を知る限りにおいて,なぜフロィトは聴覚本能を論じなかったのだろうか?と自問する;そして,こう答える:それは,おそらく,性倒錯の精神病理学において声がかかわる類型が論ぜられたことがなかった [3] らであろう.

[2] « Hörtrieb »(聴覚本能)という語は,フロィトが用いた « Schautrieb »(視覚本能)という語に対応するものとして,要請されてよいだろう.その語の実際の用例を探したところ,ラカンがセミネール XI のなかで一回だけ用いた « la pulsion invocante » 意外にも,それはラカンの教え全体のなかで hapax(唯一用例)である のドイツ語訳としてそれが用いられているのが見つかった.その pulsion invocante に関して,ラカンは,それが客体 a としての声にかかわるものであるということ以上の説明を,我々に与えていない.語源的には,フランス語の動詞 invoquer(祈りによって神などを助けに呼ぶ)は,ラテン語の動詞 invocare に由来し,後者は vocare(呼ぶ,招く)に由来し,さらに,その語は名詞 vox(声)に由来している.« La pulsion invocante » を「祈願本能」と訳すことは,次の訳注において言及する声とサドマゾヒズムとの関連を考慮するなら,あまり適切とは言えないだろう.

 [3] ただし,ラカンは,セミネール XVI において,こう指摘している:声 命令や侮辱の声 は,サディズムおよびマゾヒズムにおいてかかわる客体 a である;その場合,マゾヒストは,他が発する命令や侮辱の声を聞くことを欲し,それに対して,サディストは,自身が発する命令や侮辱の声が他によって聞かれることを欲する.

次に,性本能の発達段階論について:そこにおいて,フロィトは,こう公式化する:人間が乳児から成人へ成長してゆく発達の過程において,性本能も未成熟な状態から成熟した状態へ発達してゆく 成熟した性本能が,その本来的な目的である生殖に役だち得るものとなるように.まず,未成熟な段階 「前性器期」(die prägenitalen Phasen) においては,性本能は,性器以外のいくつかの特定の器官 それらは人体表面に開口を有するものである にかかわる部分的なもの(Partialtriebe : 部分本能)である:すなわち,まずは,栄養摂取の器官としての口にかかわる部分本能,次いで,排泄の器官としての肛門にかかわる部分本能.そして,それらの部分本能は,「ファロスの優位」(das Primat des Phallus) のもとに,ひとつの性本能へ統合され,それによって「ファロス期」(die phallische Phase) が成立する;そのファロス期は「オィディプス期」(Ödipusphase) オィディプス複合が活発である 3歳から 5歳の時期 と重なる.しかし,その時期には生殖器官そのものは未成熟であるので,性本能の発達は,いったん「潜伏期」(Latenzperiode) に入る;そして,生殖器官が成熟してくる思春期に,性本能の発達は,最終的な成熟段階である「性器体制」(Genitalorganisation) に到達する;そのように成熟した性本能は,性交において十全な性的悦を得ることができる;そして,性本能の本来的な目的である生殖に役だつことができる.

そのような発達段階論をふまえて,フロィトは,しばしばこのような議論を展開する:ここで検討の対象となっている症例においては,性本能の発達は,小児期に,いったんファロス期に到達したが,オィディプス複合にともなう去勢複合における去勢不安のゆえに,前性器的な段階(口の段階または肛門の段階)へ退行した;そして,性本能はそこに固着したままとなっている.そのような状態においては,性本能は,前性器的な(性倒錯的な)悦を得ることはできても,本当の十全たる性的悦を得ることはできないがゆえに,病原的に作用する;かくして,患者が成人 または,未成年でも,思春期以降の年齢 となったとき,実現されていない性器体制における性器的な悦の代わりに,前性器的な(性倒錯的な)代理悦を可能にする症状が形成されたのだ.

されば,精神分析の治療的課題は,このことに存することになるだろう:性本能の前性器的な固着を解消し,性器体制を確立すること.しかるに,そのような治療過程は,去勢不安を改めて惹起することになる;ところで,フロィトは,『終りある分析と終りなき分析』(1937) において,こう論じている:精神分析の過程は,克服不可能な去勢不安に突きあたることを以て,行きづまりに陥らざるを得ない.それゆえ,もし精神分析の治療目標が性本能の前性器的固着の解消と性器体制の確立に存するならば,去勢不安のゆえに,その目標は達成不可能である.以上のように,もし我々がフロィトの性理論に無批判的にもとづくならば,我々は,精神分析は不可能な治療であると結論せざるを得ないことになる.

だが,されば,我々は批判的にこう問う必要がある:フロィトの性理論のどこに誤りがひそんでいるのか ? ラカンは,その問いに対して,1953年のローマ講演において,この表現を以て,的確に答えている : la « mythologie de la maturation instinctuelle [4] »(本能の成熟という神話).それは,こういうことである:如何にも,フロィトはこう考えていた:「性本能が前性器期からファロス期へ成熟してゆく際に,前性器的な部分本能(複数)は,ファロスの優位のもとに,ひとつの性本能へ統合される」;しかし,そのようなファロスは神話的なもの 架空のもの にすぎない.それゆえ,性本能の最終的な成熟段階としての性器体制も,ひとつの虚構にすぎない.さらに,「性本能の本来的な目的は,生殖である」という命題も,単に形而上学的な目的論の観点において要請されたものにすぎない.実際,ラカンは,セミネール XX Encore 1973年0220日の講義において,こう言っている:「性行為は,雄(オス)の多形的性倒錯である 語る存在(すなわち,人間)においては (L’acte d’amour, c’est la perversion polymorphe du mâle, ceci chez l’être parlant). その「多形的性倒錯」という表現は,フロィトが小児における性本能に関して用いたものである;それは多様に性倒錯的である なぜならこのゆえに:小児においては,生殖を目的とせずに,外性器を含むさまざまな身体部分または身体機能において,性的悦が達成されようとする.

 [4] Cf. Écrits, p.263. そこにおいてラカンが本能に関して用いる「神話」という語は,フロィト自身がまさに本能に関して用いたその語を想起させる.フロィトは,『精神分析への導入のための新たな一連の講義』(1932) において,自嘲ぎみにこう述べている:「本能に関する[精神分析の]学説は,言うなれば,我々の神話学である.本能は,神話的な存在であり,その定かならざることにおいて 大したものである」.つまり,エジプト芸術の謎がエジプト人たち自身にとって謎のままであったように,フロィトの「本能」の謎も彼自身にとって謎のままであったというわけだ


以上のようなフロィトの性理論に対する批判を,ラカンは,最終的にこう公式化する:「性関係は無い」(il n’y a pas de rapport sexuel) ; その公式は,1968-1969年のセミネール XVI『ひとつの他 A から a へ』において,彼の教えに導入される.それは,否定存在論的トポロジーにおいては,このことである:否定存在論的孔穴を塞ぎ得る支配者徴示素 S1 としての「徴示的なファロス」(le phallus symbolique) Φ は,不可能である,すなわち,書かれないことをやめない.如何にも,古代ギリシャにおいて,紀元前 6世紀よりももっと古くから つまり,ソクラテス以前の哲人たちの時代よりもずっと前から ディオニュソス祭 (τὰ Διονύσια) において,参加者たちは,大きな〈勃起したファロス (ἰθύφαλλος) の〉木像を持ち運びつつ,熱狂的に練り歩いた (τὰ φαλληφόρια または τὰ φαλλαγώγια) ; それ(勃起したファロス)は,豊饒性(多産性)と生命力と性的悦の象徴である;だが,それは,まことに徴示的なものではなく,しかして,単に仮象的なものであるにすぎない.

Krater with the figure of a female φαλλοφόρος, estimated to have been produced around 470 B.C.

それゆえ,ラカンは,従来の彼の教えの用語を以て,「徴示的なファロスは不可能である」(le phallus symbolique est impossible) と言ってもよかったであろう;そう言う代わりに「性関係は無い」と言ったのは,彼がよりセンセーショナルな表現の方を好んだからであろう なぜなら,その方が聴衆の記憶に残りやすいから たとえ彼らがラカンの言っていることを何も理解できていないとしても.そして,実際,今でも,「性関係は無い」とは如何なることか?と問い続けている者たちは,少なくない ラカンの狙いどおりに.


ともあれ,去勢不安を防ぐために,否定存在論的孔穴を塞ぎ得る支配者徴示素
S1 としての徴示的ファロス Φ が信奉されている限り,大学の言説が維持され続ける;そして,その場合,大学の言説から分析家の言説への構造転換は,起こり得ない.フロィトが陥った行きづまりは,そのようなものである.それに対して,徴示的ファロス Φ が不可能なものとして閉出されるとき,大学の言説から分析家の言説への構造転換が生じてくる;そして,否定存在論的孔穴は,もはや去勢の穴としてではなく,しかして,無の穴,死の穴,罪の穴として,開出してくる.その開出に直面しての不安は,フロィト的な去勢不安のように克服不可能なものではない;なぜならこのゆえに:無と死の罪は,行きづまりを成してはおらず,しかして,それらの彼方が神により用意されている 新たな創造」と「永遠のいのちへの復活」と「罪の赦し」とにおける救済として.そこに,精神分析の本来的な終結 それは,徴示的ファロス Φ を信じ続けたフロィトにとっては,思考不可能なものであった は,存する.そして,精神分析の実践においては,その終結は,昇華として経験される.


ところで,ならば,人間をいわゆる「性的」な行動 それが生殖に至るのであれ至らないのであれ へ「駆り立てる」(instinguere, treiben) ものとしての「性本能」(instinctus sexualis, Sexualtrieb) とは,何なのか ? 一般的に「性欲」すなわち「性的欲望」(le désir sexuel, le désir érotique) と呼ばれているものは,何なのか ? その答えを,ラカンは,カントとともに存在の歴史の終末論的位相の開始期を生きた「哲人」(Denker, penseur) サドにおいて見いだす 「悦への意志」(la volonté de jouissance), すなわち,定言命令「悦せよ!」(Jouis !) として ;そして,ラカンは,その定言命令を以て,フロィトが「超自我」(das Über-Ich) と呼んだものを規定しなおす [5].

 [5] フロィトは,超自我を「オィディプス複合の遺産相続人」(der Erbe des Ödipuskomplexes) と規定しつつ,そのカント的な側面 道徳律の側面 を強調する;それに対して,ラカンは,そのサド的な本質 無際限な悦の意志 を以て,それを規定しなおす.ともあれ,我々がフロィトの第二トピックを大学の言説のなかに位置づけるなら,それは,上の図に示されているようになる:「超自我」(das Über-Ich) は,真理の座(左下の座)に位置する S1 であり,「自我」(das Ich) は,能動者の座(左上の座)に位置する S2 である.自我 S2 は,超自我 S1 を「自我理想」(Ichideal) としており,それと同一化し,それによって規定される;言いかえれば,自我 S2 は超自我 S1 によって支配されている.「何か」(das Es) は,支配者の言説から大学の言説への構造転換の際に支配者徴示素 S1 によって生産の座(不可能の座:右下の座)へ源初排斥された主体 $ である.他者の座(右上の座)に位置する客体 a は,欲望の客体(フロィトの用語で言えば Libidoobjekt : リビード客体)である;ラカンは,四つの言説の図式において,客体 a を,マルクスの「剰余価値」(Mehrwert) にならって,plus-de-jouir(剰余悦)と規定している;それは,超自我の命令 « Jouis toujours encore plus ! »(悦せよ いつでも,さらにもっと!)に応じて,常により多く,より大きく,より強く悦するために,無際限に増殖してゆく 資本主義市場における商品と同様に.

ただし,その定言命令は,単純な「悦せよ!」ではなく,しかして,これである:「悦せよ いつでも,もっと,もっと,もっと;常に,より多く,より大きく,より強く!」その無際限な「いつでもさらにもっと」(toujours encore plus, immer noch mehr) の意志が,存在の歴史の終末論的位相において否定存在論的孔穴を塞ぐものとして措定される支配者徴示素 S1すなわち,超自我 を,特徴づける.形而上学的位相において否定存在論的孔穴を塞いでいた S1 は,不生不滅にして不変不動なる「イデア的なもの」であった;それに対して,終末論的位相において「イデア的なもの」に取って代わる超自我 S1 は,「もっと」の無際限性を本性として有する意志である.その最も顕著な例をさらにふたつ挙げるなら:ひとつは,資本主義;もうひとつは,ニーチェの「力への意志」(der Wille zur Macht).

資本主義は,このことに存する:剰余価値(Mehrwert : より多くの価値)の無際限な生産による資本の無際限な増価 (Verwertung). その過程の原動力を,マルクスは,資本家の「絶対的富裕化本能」(der absolute Bereicherungstrieb) と呼んでいる 資本家とは「擬人化された資本」(das personifizierte Kapital) にほかならない限りにおいて.その「絶対的富裕化本能」に,我々は,資本主義の超自我を見て取ることができる.

ニーチェの「力への意志」について,ハィデガーは,『ニーチェ』(GA 6.1, pp.56-57) において,こう述べている: 

あらゆる Wollen[欲する]は,ひとつの Mehr-sein-wollen[より多く,より大きく,より強くあることを欲する]である.力そのものは,ひとつの Mehr-Macht-sein-wollen[より強大な力であることを欲する]であり続ける限りにおいてのみ,存在する.その意志が止むや,既に,力は,もはや力ではない たとえそれが被支配者をなおも権力下に保持していようとも.Mehr-sein-wollen としての意志には,力への意志としての意志には,本質的に,Steigerung[上昇,増大,強化]が,Erhöhung[高まること]が,存している;なぜならこのゆえに:常に高まり続けることにおいてのみ,高みは自身を 高く かつ 上に 保持し得る.下降に対しては,より強力に高まることによってのみ,対処され得る 単に従来の高さを維持することによってではなく ;なぜならこのゆえに:そのようなこと[従来の高さを維持すること]は,つまるところ,単なる消耗を結果として有するだけである.ニーチェは,『力への意志』において,こう言っている:「人間が欲するもの,生きている有機体の最小部分の各々が欲するもの,それは,ひとつの Plus von Macht[より強大な力]である.」 

そのように無際限により強大な力であることを欲し続けることとしての力への意志 それが,ニーチェ的な超自我である.

では,カントにおいては ? 如何にも,純粋理性が,観想 (theoretisch) においても,実践 (praktisch) においても,カント的な超自我である;それは,一見すると,無際限な「もっと」の特徴を有してはいないように思われる;しかし,まず,実践理性に関しては,無際限性は,このことにおいて読み取られ得る:道徳律として公式化される定言命令は,das höchste Gut(最高善)への意志である限りにおいて,人間がみづから如何に努力しようとも決して到達し得ない善の高みへ人間を無際限に駆り立てることになる.同様に,観想的理性としての純粋理性は die höchste Wahrheit(最高の真理:勿論,それはカント用語ではない)への意志である限りにおいて あるいは,ヘーゲルの das absolute Wissen(絶対知)にならって die absolute Wahrheit(絶対真理)と言うなら,観想的純粋理性は絶対真理への意志である限りにおいて ,それは,人間がみづから如何に努力しようとも決して到達し得ない真理へ人間を無際限に駆り立てることになる(付言するなら,それらの場合,神の恵みの賜は考慮に入れられていない;つまり,人間がみづから如何に努力しようとも決して到達できないものを,神は,恵みとして,人間に与えてくれるだろう).

以上から,我々はこう言うことができる:存在の歴史の終末論的位相において否定存在論的孔穴を塞ぐものとして措定される支配者徴示素 S1すなわち,超自我 は,達成不可能な絶対的な目標 絶対悦,絶対価値,絶対力,最高善,絶対真理 へ人間を無際限に駆り立てる本能的な意志として,作用する.ところで,もし人間がそのような本能に従うなら,どうなるか ? 疲弊と消耗によって死に至ることになる;如何にも,先ほど見たように,ニーチェは「従来の高さを維持しようとするだけなら,それは消耗に至ることになる」と言っている;しかし,もし我々が到達不可能な目標へ向かって「もっと,もっと」と駆り立てられるなら,それは,なおさら,死をもたらすことになる.実際,今や最も深刻な例は,これである:資本主義的超自我の無際限な Mehrwert(もっと価値を)への命令は,温室効果ガス 資本主義的生産過程の副産物 の大気中への無際限な放出によって,全地球的規模の気候変動を惹起し,そして,それによって,人類の生存を脅かそうとするに至っている;だが,それでも,資本主義は,みづから自身を超自我の致死的な Mehrwert の意志から解放することはできない.容易に想像されるように,このままでは,人類の歴史は,最も人口の多いふたつの大国 ともに古代文明発祥地である中国とインド が(そして,トランプ主義が続く限りにおいて,アメリカ合衆国も),気候危機の諸現象を無視し,経済成長を最優先目標とすることにおいて,今後もますます大量に放出し続けるであろう二酸化炭素によって,幕を閉じることになるかもしれない.

ともあれ,今や,このことが明らかである:絶対意志としての超自我は,それが,一見,死の本能とは異なる姿 「性本能」であれ「絶対的富裕化本能」であれ「力への意志」であれ「純粋理性」であれ を取ろうとも,実は,自己保存本能や生の本能に奉仕しているのではなく,しかして,死の本能に奉仕しているのであり,さらに言えば,超自我は,その本性において,死の本能にほかならない.

2026年9月1日

R.I.P. Catherine Millot (1944-09-04 - 2026-08-24) — 彼女を連れて ラカンが ハィデガーを訪問したとき

Une photo prise par Gérard Miller au moment de la visite de Lacan à Venise au mois de septembre 1974. De gauche à droite : Jacques-Alain Miller, sa fille Ève, son fils Luc, Jacques Lacan, Judith Miller, Jocelyne Livi (historienne des représentations de la femme) et Catherine Millot.

L'entretien de Catherine Millot just après la parution de son témoignage de ses éxpériences auprès de Lacan « La vie avec Lacan » (2016)
 

R.I.P. Catherine Millot (1944-09-04 - 2026-08-24) — 彼女を連れて ラカンが ハィデガーを訪問したとき


 
わたしは,わたし自身の分析のため および パリ第VIII大学精神分析学部での DEA の取得のため 1986年夏から 1988年秋まで パリに滞在したが,その間,一度だけ Catherine Millot と 直接 会話したことがある.Paris VIII での一年め,Saint-Denis の校舎でおこなわれていた彼女の講義に わたしは出席していた.何が講義のテーマだったのか,わたしは もう憶えていない.あるとき,わたしは 彼女に質問し,彼女は 答えてくれた.わたし自身の問いも 彼女の答えも,わたしは もはや憶えていない. わたしにとっては,彼女は,彼女の La vie avec Lacan の出版のときまで,あまたの psychanalystes lacaniennes のなかで,Colette Soler の影に隠れてしまっていた.ともあれ,主が永遠の安らぎを彼女に与えてくださるように.

彼女の追悼文としては,Le Monde 紙に E. Roudinesco が書いたものがあるが,それは 例によって 虚偽に満ちており,読むに値しない.オンライン誌 ActuaLitté の追悼文の方が よかろう.

わたしとしては,彼女の追悼のために,『ハィデガーとラカン — 精神分析の純粋基礎としての否定存在論とそのトポロジー』(青土社,2020)からの抜粋を,以下に提示する.

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1975年04月08日の講義 (Séminaire XXII, R.S.I.) で,ラカンは,数日前にハィデガーを訪ねてきたことについて 語っている:「この復活祭休暇の間に,わたしは,ハィデガーに ちょっと会ってきた.我々がふたりともこの世からいなくなるまえに ちょっと挨拶をしてきた というわけだ.わたしは,彼のことが好きだ.彼は,まだとても元気だ」.

その訪問は,ラカンがハィデガーと会った最後の機会だった.その際にラカンに同行していた Catherine Millot[カトリーヌ ミヨー]— 彼女は 当時 ラカンの公然たる愛人であり,彼は 誰はばかることなく どこでも(旅先でも,別荘でも,彼の弟子たちがほとんど皆参加する l’École freudienne de Paris の学会でも)彼女を連れ回っていた は,彼女の 2016年の著書 La vie avec Lacan[ラカンとともに生きる](pp.87-90) のなかで,興味深い証言を残している.その一節を,若干長いが,ラカンとハィデガーとの個人的な関係性を概観するためにも,引用しておこう:

その後 しばらくして,わたしは,ラカンがハィデガーをフライブルクの彼の自宅に訪ねるのに 同行した.ハィデガーが脳卒中にみまわれたのを知って,ラカンは,彼自身の表現によると,「ハィデガーが死ぬ前に もう一度 会っておきたい」と思ったのだ.

ラカンは,ハィデガーとは昔から知り合いだった.最初は,1950年代の始めに,Jean Beaufret[ジャン ボフレ]とともに訪問している.ちなみに,Beaufret は ラカンに分析を受けていた.ラカンは,Logos と題されたハィデガーのテクストを フランス語に翻訳している.その翻訳は,1956年に La Psychanalysela Société française de psychanalyse の学会誌]に発表された.1955年,ハィデガーは,Cerisy-la-Salle で行われたある学会に,Beaufret と Maurice de Gandillac とによって招かれた.その帰途,ハィデガー夫妻は,ギトランクールのラカンの別荘に立ち寄り,数日間 滞在した[注:正しくは,ラカンがハィデガー夫妻を彼の別荘でもてなしたのは,学会開始まえの数日間である].ラカンは,夫妻のために,その地域を車で案内して回ったいつものように,猛スピードで運転して.ハィデガー夫人が叫び声を上げるのを,彼は無視した.

我々は,まず 飛行機で バーゼルへ行き,かの地のとても美しい美術館を訪れた.次いで,車を借りて,ハィデガー夫妻が我々を待つフライブルクへ おもむいた.

ハィデガー夫妻は,住宅街の比較的新しい家に住んでいた.それは,わたしが哲学者ハィデガーに結びつけていた森の山小屋のイメージには似ても似つかなかった.我々が中へ入るや,ハィデガー夫人は,訪問者用のスリッパをはくよう 我々に権威的に命令した.わたしは,ジュラ県の出身なので,雪の季節,山岳地方ではそのような室内履きがごく普通に用いられていることを 知っていた.北欧諸国では家に入るときに靴を脱ぐことも,わたしは知っていた.しかし,そのときはもう 4月だった.我々は外界の汚れを持ち込む者と見なされているのだ,と わたしは感じた.フロィトは,無意識にとっては「外」は「異」すなわち,敵,および,一般的に言って,憎むべきものと同義である,と教えている.わたしは,一方では侵入者と見なされた不快感を感ずるとともに,他方では,スリッパと形而上学との思いがけぬコントラストが惹き起こした笑いをこらえていた.

我々は,応接間に通された.ハィデガーは,長椅子に横たわっていた.ラカンは,ハィデガーのかたわらに座るや,セミネールで展開中のボロメオ結びを用いた最新の理論的前進を伝えようとした.話を図解するために,ラカンは,四つ折りの紙をポケットから取り出し,そこに一連のボロメオ結びを描いて,ハィデガーに見せた.後者は,その間ずっと一言も発さず,目を閉じたままだった.この態度は,関心の欠如の表現なのか,それとも,認知能力が弱っているせいにすべきなのだろうか,と わたしは自問した.あきらめることを知らないラカンは,頑固に説明し続けた.この事態が永遠に続くのかと思われたとき,幸運にも,ハィデガー夫人が現れて,「面会」を終わらせた.「夫を疲れさせないために」あらかじめ定められていた時間が過ぎたのだ.我々は,スリッパをはいた足で出口に向かった.そのまま厄介払いというわけではなく,後ほど近所のレストランで一緒に食事をするよう 招かれた.

スリッパのことがひどくしゃくにさわっていたわたしは,外に出るや,ラカンに質問した:ハィデガー夫人はナチスだったのか,と.「勿論さ」と ラカンは答えた.当時は,ハィデガーとナチズムとの関係は さして問題にされていなかった.Victor Farias の本 [ Heidegger et le nazisme (1987) ] は,まだ出ていなかった.

食事の間,ハィデガーの口数は もう少し多かったが,会話は ほとんどはずまなかった.ラカンは,ドイツ語を読めるものの,話すことはできず,ハィデガー夫妻も フランス語はできなかった.別れ際,ハィデガーは,葉書大の彼の写真を わたしにくれた.その裏面に 彼はこう書いた:「フライブルク訪問の記念に,1975年 4月 2日」.わたしの名前は 書かれなかった.頼まれてもいないのに彼がファンのためにサインすることに,わたしは ちょっとびっくりした.しかし,わたしはその写真をうやうやしく取っておいた.わたしの面接室の本棚にその写真を見かけた[精神分析の]患者のひとりは,それはわたしの祖父なのか,と尋ねた.


以上のミヨーの証言からもうかがえるように,ハィデガーのラカンに対する態度はそっけないものであるのに対して,ラカンのハィデガーに対する「友情」は熱烈である.

ハィデガーにとっては,精神分析は,生物学的な「性本能」を前提するひつとのいかがわしい心理学理論 しかも「ユダヤ人『フロィト』」[ der Jude »Freud« ] (GA 96, p.218) によって作り出されたもの にすぎなかった.それに対して,ラカンは,精神分析を形而上学にも生物学や心理学や社会学などの経験科学にもよらずに純粋に基礎づける ラカンの教え全体はそのことに存している ための本質的な手がかりを,ハィデガーの思考のなかに見出していた.であれば,相手に対する熱の入れようが両者の間で大きく異なっているのも,当然である.

だが,ラカン派精神分析家として,わたしは断言することができる:ハィデガーの教師としての最大の功績は ラカンを生んだことである,と.今 我々が受け継いでいるラカンの遺産はハィデガー無しにはおよそ考えられず,また,ハィデガーの教えの成果を最も有意義に活用したのはラカンである,と わたしは見積もっている.

2026年5月3日

小笠原晋也の新著『ラカンの教え — 精神分析と信仰』(2026) より抜粋:序章

Jacques Lacan (1966)

小笠原晋也の新著『ラカンの教え — 精神分析と信仰』より抜粋:序章


§ 1. 序章

§ 1.1. ラカンとは何者か ? 何のために彼は教えたのか ? ラカンの教えによれば精神分析とは何か ?

ラカン (Jacques Lacan : 1901-1981) とは何者か ? 彼は,フロィトによって創始された精神分析を「純粋に」 すなわち,非経験論的かつ非形而上学的に  基礎づけなおした精神分析家である.フランス語では,より簡潔に言うことができる : Si Freud est le fondateur de la psychanalyse, Lacan en est le refondateur(フロィトが 精神分析の fondateur[創立者,創始者]であるとすれば,ラカンは 精神分析の refondateur[精神分析を基礎づけなおした者]である).つまり,「ラカンとは何者か?」という問いに対して,フランス語ではこう答えればよい : Lacan est le refondateur de la psychanalyse(ラカンは,精神分析を基礎づけなおした者である).

ラカンが我々に遺した書とセミネールは,それらの総体において,このことを証言している:彼は,1930年代始めに精神分析に参与するようになって以来,終生,このことについて 問い かつ 思考し続けた:如何に精神分析を純粋に基礎づけなおし得るか?

その〈ラカンの問いと思考の歩みの〉総体は,フランスでは l’enseignement de Lacan(ラカンの教え)と呼ばれている.彼は,精神分析を純粋に基礎づけなおす彼の努力を我々に伝えるために,教えた  我々が彼の努力を相続し,それをさらに発展させてゆくことができるように.

では,何のためにラカンは精神分析を純粋に基礎づけなおす必要があると考えたのか ? それは,このためにである:新たな精神分析家を 適切に  つまり sachgerecht に(事に適ったしかたで) 養成すること.

如何に新たな精神分析家を養成するか ? そのラカンの問いは,彼の教えの〈臨床からまったくかけ離れたものに見えるかもしれない〉外見とは逆に,このうえなく実践的な問いであり,かつ,実社会のなかでの精神分析の将来的な存続にとって必要不可欠な問いである.

なぜならこのゆえに:精神分析家として適切に養成されていない者がいくら精神分析をおこなおうとしても,その者が為すことは精神分析にはならない;つまり,そのような者が患者に対していくら外見的には精神分析家のようにふるまったとしても,患者に対する彼の言動は,精神分析的な効果を持ち得ず,しかして,患者に何の変化ももたらし得ないばかりか,場合によって,むしろ,逆に,患者における精神病理を強化することにさえなり得る.そのような事態がひとつの社会において何十年間か続けば,当然,そこにおいて,精神分析の実践は,形骸化し,そして,ついには,すたれてしまう.

実際,ラカンを排除した IPA (International Psychoanalytical Association) に属する精神分析家たちが精神分析を独占してきたアメリカ合衆国では,精神分析は,1950-1970年代には最も高度な精神医学的治療のひとつとして全盛を誇っていたが,精神薬理学的治療が精神医療のスタンダードとなるや,絶滅の運命をたどり始めた;なぜならこのゆえに : IPA に属する精神分析家たちがアメリカでおこなってきた精神分析は,非常に多くの時間と費用がかかるにもかかわらず,その効果を,医学のほかの諸分野におけるのと同様なしかたで evidence-based に証明することは,できない;そして,それがゆえに,新たに精神分析家になろうとする若者が非常に少なくなった.

精神分析の創立者であるフロィト自身は,どうであったか ? 彼は,神経系の解剖学および生理学の研究者として出発しながらも,当時のオーストリアにおけるユダヤ人差別のゆえにウィーン大学で教授へ出世することが極めて難しかったので,大学を去り,神経科 [1] の開業医となり,臨床をおこなってゆくうちに,1890年代に,彼の患者たちの治療のために有効な手段として,精神分析を考案した  当時の「最先端」の治療法であった催眠術から出発しながらも,その方法を懐疑的に放棄することによって.そして,彼は,精神分析の臨床において観察されることおよび生ずることについて,みづから問い,思考し,そして,そこから,彼に可能なしかたで精神分析の理論を作りあげていった.

[1] 当時は,現在の日本で「神経内科」と呼ばれている領域と「精神科」と呼ばれている領域とは未分化であり,「神経科」(Neurologie)  両領域を扱っていた.実際,フロィトは,神経科の開業医として,神経系に器質的な病理のある疾患も,ない疾患(神経症)も,ともに扱っていた.

は如何なるものであるか ? それを知るためには,当然ながら,フロィトの著作をみづから読んでみればよい.すると,我々はすぐさまこのことに気づく:彼は,経験科学(特に生物学と心理学)および 形而上学(特に目的論)を無批判的に前提している;そして,それがゆえに,精神分析治療は行き詰まりに陥らざるを得なかった.

実際,フロィト自身,最晩年,「精神分析は,去勢複合という行きづまりに行きつくしかない」ということに気づいていた [2].だが,なぜそうならざるを得ないのか,また,如何にしてその行きづまりを打開し得るのかについては,彼は我々に答えを示し得てはいない  その行きづまりを成している去勢複合という手がかりを除くと.

[2] フロィトの 1937年の論文 Die endliche und die unendliche Analyse(終わりのある分析と終わりのない分析)を参照.その表題は,フロィトがこう自問していることを,示唆している:果たして,精神分析の経験の過程に,終わりはあるのかないのか?

して,まさにその去勢  すなわち「ファロスの欠如の穴」(le trou du manque phallique)  から出発することによって,ラカンは,精神分析を基礎づけなおした  その穴を「性関係は無い」の穴 (le trou du non-rapport sexuel) と呼びなおしつつ.かくして,ラカンは,フロィトが精神分析の行きづまりをしか見ることができなかったところに,精神分析の本来的な終結の可能性が開かれてくるのを見出し得たのである.

精神分析の終結は如何なるものであり得るか ? その問いは,ラカンの教えのなかで中心的な問いのひとつである.なぜならこのゆえに:「精神分析家である」ことは,「その者自身の精神分析の経験を,その本来的な終結において,完了した」ことによって規定されるべきである;というのもこのゆえに:そこにおいてこそ  精神分析の本来的な終結においてこそ  精神分析家であることを規定するひとつの実存的な構造変化が決定的に成起する.

改めて言おう:ラカンとは何者か ? そして,彼は何のために教えたのか ? 今,我々は,彼の思考の歩みを その全体において ふりかえるとき,それらの問いに簡潔明瞭に答えることができる:ラカンは,精神分析を純粋に基礎づけなおした者である;そして,彼は教えた  如何に精神分析は純粋に基礎づけられ得るかについて,および,如何にその純粋基礎にもとづいて新たな精神分析家を適切に養成することができるかについて.

そのような彼の意図は,既に,彼の教えの出発点を成す「ローマ講演」(1953) において,明示的に述べられている.にもかかわらず,ラカンの教えを衒学趣味に還元しようとし,あるいは,彼を intelligentsia の世界の道化のようなものと見なしたがる者たちは,ラカンの生前にも,今も,たくさんいる.ラカンを誹謗中傷する彼らのテクストは,山のように残されている  ルディネスコ (Elisabeth Roudinesco) の〈精神分析とラカンに関する〉諸著作を含めて.だが,それは,如何に彼らがラカンを読むことができなかったかを証言しているだけである.

では,ラカンによって純粋に基礎づけなおされた限りにおいて,精神分析は,如何に定義され得るか ? わたしは,こう定義する:精神分析は,主体 $ の穴の実践的な現象学である  ヘーゲルおよびハィデガーにおいてかかわっているのが思弁的な現象学であるのに対して.

2021年,我々は,413日に,ラカンの生誕 120 周年の記念日を迎え,そして,99日に,彼の死去 40 周年の記念日を迎えた.そのことを記念するために,わたしは,2020-2021年度から2年間,わたしが主宰する東京ラカン塾の精神分析セミネールを「ジャック ラカン  その人とその教え」の標題のもとに おこなった.

そこにおいて,わたしは,ラカンの思考の歩みを,思想史研究者が通常そうするであろうように,1930年代(彼のパラノイアに関する医学博士論文は 1932年に提出された)ないし 1950年代(彼の教えの出発点を画する講演 Le symbolique, l’imaginaire et le réel[徴示性,仮象性 [3],実在性]および「ローマ講演」は 1953年におこなわれた)から出発して 1970年代末へ向かって 時系列に沿ってたどってゆくのではなく,しかして,逆に,「最晩年のラカン」から出発して,彼の思考の歩みを 反時系列的に たどりなおした.

[3] 前著『ハィデガーとラカン』(青土社,2020)においては ラカンの用語 l’imaginaire を「事象性」と訳していたが,本書においては「仮象性」と訳する.

そうするのか ? それは,わたしがこう仮定するからである:「如何に精神分析を純粋に基礎づけ得るか?」を問うラカンの思考の歩みは,ハィデガーのそれにならって,否定存在論的孔穴 [4](言い換えれば,抹消された存在  存在 Sein ]  の穴,または,抹消された主体 $ の穴) あの〈根本的であり,中心的であり,かつ,還元不可能である〉穴  の周りを回ることを決してやめない歩みであった — その穴に関して問い続けつつ  なぜなら,その穴こそ精神分析の純粋基礎となるものであるから.であれば,彼は,あの「どこにもたどりつかない道 [5]」を歩み続ければ歩み続けるほどに,その穴のエッジに ますます 肉薄していったはずであり,そして,それゆえ,彼は,彼の最晩年の教えにおいてこそ,あの穴の在所に関する思考を 最も明瞭な形において かつ 最も突きつめられた形において 我々に 示し得ているはずである.

[4] 否定存在論的孔穴 (le trou apophatico-ontologique) については,『ハィデガーとラカン』および本書の § 3 を参照.

[5]「どこにもたどりつかない道」(Chemins qui ne mènent nulle part) は,ハィデガーの論文集 Holzwege[杣道:そまみち](GA 5 : ハィデガー全集  巻)の フランス語訳に 訳者Wolfgang Brokmeier が与えた 表題である.否定存在論的孔穴の周りを回ることを決してやめなかった哲人の足跡を言い表すために うってつけの表現である  ただし,Holz(木材 ないし 森)という語に相当する語の不在は,ハィデガーの重要な用語 Lichtung[森のなかの空き地,朗開]への対義語的暗示を消し去ってしまうが.

それゆえ,わたしは,2020-2021年度のセミネールにおいて,ラカンの最晩年のふたつのセミネール  Séminaire XXIV (1976-1977) L’insu que sait de l’une-bévue s’aile à mourre [6] および Séminaire XXV (1977-1978) Le moment de conclure  を取り上げ,次いで,2021-2022年度は Séminaire XXIII (1975-1976) Le sinthome から出発して Séminaire XX (1972-1973) Encore  ミレール (Jacques-Alain Miller) が「晩年のラカンの教え」と呼ぶものの出発点   至った.

[6] 晩年のラカンの いくつかのセミネールの 奇妙な表題については,のちほど説明する.

わたしは,本書を,それらの二年間の成果  セミネールにおいて語ったこと および ブログにフランス語で書いたいくつかの論文  および,その後に書いたものにもとづいて,執筆した.異なる時点に書かれた幾つかのテクストが一冊の本にまとめられたので,随所で同じ論が反復されている.だが,それは,その論が重要であることの指標でもあるので,あえて整理しなかった.また,あとから書きたした部分がその前後の部分との釣りあいを欠いている箇所も多々ある.読者に御容赦願う.


§ 1.2. ラカンの教えの時期区分について

ところで,わたしは 先ほど「晩年のラカンの教え」(le dernier enseignement de Lacan) および「最晩年のラカンの教え」(le tout dernier enseignement de Lacan) という表現を 用いた.それらは,ミレールにより作られたものである.それらの表現を用いるなら,本書は,「最晩年のラカンの教え」を含む「晩年のラカンの教え」からふりかえりつつ,彼の教え全体を見わたすものということになる.

だが,ここで,我々は,ミレールの説を鵜呑みにせず,しかして,ラカンの教えの時期区分について予備的に問うておこう.

ラカンの教えの出発点を画するのは,誰の目から見ても異論の余地なく,SPP (Société psychanalytique de Paris) からの分裂によって誕生したばかりの SFP (Société française de psychanalyse) において 1953 7 8日に行われた 講演 Le symbolique, l’imaginaire et le réel(徴示性,仮象性,実在性)および 同年 926日にローマで行われた学会発表 Fonction et champ de la parole et du langage en psychanalyse(精神分析における ことばの機能  言語の場) 通称「ローマ講演」 である.

次いで,1964 1月に ENS (Ecole normale supérieure)  la salle Dussane(デュサーヌ講堂)を講義室として借用しつつ始められたセミネール XI『精神分析の四つの基礎概念』が,彼の教えの第二の出発点を画するものと一般的には見なされている.

なぜならこのゆえに:セミネール XI の背景には,次のような経緯がある : 196311月,IPA は,ラカンの「破門」 つまり,精神分析家の国際的な職業団体からの追放   決定する.その理由は,表向きには,ラカンの「短時間面接」(より正確には,変動時間面接:ラカンは,IPA において慣習的に規範的と見なされていることにしたがって面接時間を固定的に 40-50分間とすることはせずに,しかして,面接の最中に否定存在論的孔穴がふと開出する瞬間を以て,面接を区切っていた)の「違法性」である.しかし,その本当の理由を,わたしはこう推測する:それは,ラカンによる〈自我心理学  IPA のなかで主流派である精神分析理論  に対する〉容赦ない批判であっただろう.というのもこのゆえに:もし仮に IPA のなかでラカンの言説を許していたなら,自我心理学の正統性と正当性は維持不可能とならざるを得なかったであろう;そして,それは,当然,IPA の主流派にとっては容認しがたい事態である.

ともあれ,その IPA  決定を受けて,ラカンは,SFP から脱退し,19646月に みづから 新たな精神分析家養成機関 EFP (Ecole freudienne de Paris)  創立する.セミネール XI『精神分析の四つの基礎概念』は,まさに そのような危機的な状況においておこなわれたセミネールである.それゆえ,それを ラカンの教えの第二の出発点と見なすことは,確かに,故なきことではない.

そして,最後に「晩年のラカンの教え」— それは,1972-1973年の セミネール XX Encore に始まる;なぜならこのゆえに:そこにおいて,le réel[実在性]の概念の決定的な変更が生じている  ミレールは,2000-2001年度の彼の講義において,そう主張した.

ミレールは,1973年以来,ラカンのセミネールの編纂をラカン自身から託されており,長年にわたって,ラカンの教えに関して最も明晰な説明を我々に与えてきており,それゆえ,ラカンの没後,全世界のラカニアンたちからラカン派の最高指導者として尊敬されてきた.したがって,彼による「晩年のラカンの教え」という時代区分は,即座に世界中のラカニアンたちに共有された.

ところが,ミレールにより編纂された〈セミネール Encore の〉公式版  それは,早々と 1975年に Seuil 社から出版された  だけでなく,Staferla と名のる匿名作業グループ [7] が後に〈録音データ [8] にもとづいて〉作成した〈そのセミネールの〉テクストをも入念に吟味してみると,我々は,ミレールの「セミネール Encore において,実在性の概念の決定的な変更が生じた」という見解は誤っている,ということに気づくことができる.なぜなら,彼がその主張の根拠にしている当該のセミネールの一節の文面(ミレール自身の編纂による文面)は,実際にラカンが言っているのとは逆のことをラカンに言わせているからである(後述参照).

[7] Staferla という名称のもとにラカンのセミネールの編集を行っているのが誰であるかは,今のところ,完全に伏せられている.いずれにせよ,その作業の膨大さと困難さに鑑みるなら,個人ではなく,グループであろう,と推測される.彼らは,ミレールがまだ出版していないものをも含めて,すべてのラカンのセミネールの編集を完了している.それらのテクストは,誰でも彼らのウェブサイトからダウンロードすることができる.

[8] ラカンのセミネールのうち,1962-1963年の『不安』(第 巻),および,1969-1970年の『精神分析の裏』(第 XVII 巻)から 1977-1978年の『結論するとき』(第 XXV 巻)までの 10回に関しては,録音が残っており,その〈MP3 の形での〉データファイルは,パリ在住のラカン派精神分析家 Patrick Valas (1939-2023) 個人的なウェブサイトで,誰もがダウンロードすることができるよう,今でも公開されている.セミネール『不安』の録音は,おそらくラカン自身の意向により為されたのだろう  明らかにマイクはラカンの近くに置かれており,音質は良好である.それ以外のものは,聴講者たちのうちの誰かが個人的に録音したものであり,音質は必ずしも良くない(それでも,Staferla 版は,録音データが利用可能な場合は,おもにそれにもとづいて作成されている).それに対して,ミレールは,録音データが残っているセミネールに関しても,録音データではなく,速記録にもとづいて,編纂をおこなっている.それは,おそらく,録音データが 当時 ミレールにとっては利用可能でなかったからであろう;ミレール自身も,いちいち録音することはしていなかったのだろう(1960-1970年代,今のように誰もが手軽に録音することができたわけではない).速記録にもとづくテクストが包含する問題点はいろいろあるが,なかんづく,この問題がある:ラカンが一般的なフランス語の語法や文法から逸脱した表現を使うとき  それは珍しくない  こうなることがある:速記録者(女性)は,それについてゆくことができない;つまり,彼女は,ラカンが発した音声をそのとおりに記録することができない;なぜならこのゆえに:生まれつきフランス語話者である彼女はどうしても一般的に了解される「意味」にとらわれている.その結果,速記録にもとづいて作成されたテクストから出発して編纂されたミレール版は,ときとして,ラカンに,彼が言ったのとは逆のことを言わせてしまう.その具体例は,のちほど提示する.

ラカンの思考の歩みそのものに「前期ラカン」,「中期ラカン」,「後期ラカン」というような時期区分を〈そこに内在的なものとして〉見出すことはできない,と わたしは考える.なぜならこのゆえに:彼は,彼の教えの始めから終わりまで,終始一貫,否定存在論的孔穴のまわりを うまず たゆまず まわり続けただけである.

確かに,ハィデガー  存在について,やはり終始一貫,問い続けた哲人  の場合は,彼自身が Kehre(転回,方向転換) die Kehre von »Sein und Zeit« zu »Zeit und Sein« [9]『存在と時間』から『時間と存在』への転回— 呼ぶ切れめが,1936-1938年に書かれたテクスト(出版されたのは 1989年)Beiträge zur Philosophie (Vom Ereignis)(哲学への寄与(自有による))において,見出される.

[9] Heidegger, M. (1946) : Brief über den »Humanismus«. GA 9, p.328.

その Kehre は,図 におけるようにトポロジックに図式化するなら,このことに存する:「存在事象の領域を中心に措定し,そこから出発して,超越論的地平線または存在論的差異を横切って,存在へ向かう」ことから「存在の在所 (die Ortschaft des Seynsそのものを中心に措定する」ことへの転回.

図 1

図  左側の図は,1927年の時点におけるハィデガーの問い方  それは「存在の意味に関して問う」(nach dem Sinn von Sein fragen) ことに存していた   形式化している.中央には「存在事象」(das Seiende) の領域が措定されている.そこから出発して存在 (das Sein) そのものへ向かおうとする問いは,〈『存在と時間』においては「超越論的地平線」(der transzendentale Horizont) と呼ばれ,また,1927年の夏学期の講義『現象学の基礎問題』においては「存在論的差異」(die ontologische Differenz) と呼ばれている謎めいた境界(図 の左側の図における黒い円周状の地帯)を〉横断しなければならない;それは謎めいている — なぜなら このゆえに:存在論的差異は,定義上,存在事象でもなければ,存在でもない.  

そして,まさに その「存在論的差異」の謎について問うことが,ハィデガーの思考を「転回」へ導くことになる.その「転回」が初めて明瞭な形で提示されるテクストが,『哲学への寄与(自有による)』である.そこにおいては,「存在の在所」(die Ortschaft des Seyns : この表現がそのものとして用いられるのは 戦後のことである)が 中心に措定されている.「存在論的差異」と呼ばれていたものは,「存在の在所」という穴(ハィデガー自身は「穴」[Loch] という語を用いてはおらず,しかして,Ab-grund[深淵的な基礎 または 基礎的な深淵]という表現を用いている)そのものへ 還元される.この思考を,戦後,ハィデガーは,みづから Topologie des Seyns存在のトポロジー)と呼んでいる.

それに対して,精神分析の純粋基礎について問う精神分析家ラカンの場合は,ハィデガーにおけるような意味での「転回」は,無い.ラカンが 1929年に書いた詩の表題に フィヒテの hiatus irrationalis(不合理な裂けめ)という表現を用いている という事実は,彼が 当時 既に 穴の直観を有していた ということを,我々に示唆している.つまり,ラカンは,始めから,存在のトポロジーにしたがって,否定存在論的孔穴のまわりをまわりつつ,問い,そして,思考していたのである.

後述するように,ラカンにとっては,「穴」の直観は,「結びめ」の直観とともに,根本的なものである,と わたしは考える.彼の直観によれば,フロィトが「無意識」という名称のもとに発見したものにおいてかかわっているのは,何らかの実体的な「力」(フロィトの表現で言えば dynamisch[力動論的]なもの)でも「エネルギー」(フロィトの表現で言えば ökonomisch[経済論的]なもの)でもなく,しかして,ひとつの「穴」(フロィトの表現で言えば topisch[場所論的]なもの  今,我々は,topisch という語の代わりに,topologisch[トポロジック]という語を用いることを,より好む)にほかならない.そして,ラカンが「ボロメオ結び」(nœud borroméen) において見出すことになる「結合性」(nodalité) は,その穴のトポロジックな構造の可能性の条件にほかならない.

したがって,ミレールが主張しているようなしかたで ラカンの教えの歩みそのもののなかに 何らかの切れめや不連続を想定することは 適切ではない,と わたしは考える.その代わりに,我々は,ラカンが 彼の思考と問いのために 如何なるオルガノン(organon : 道具立て)を用いたか を問う 観点において,彼の教えに,次のように,準備期を含めて,五つの時期を区別することができるだろう:

0) 1953年よりまえの準備期

ラカンは,敬虔なカトリック信者である両親のもとに生れ,カトリック司祭が教える私立学校で初等教育と中等教育を受ける.第一次世界大戦終了後,当時の現代芸術(ダダイスム,シュルレアリスム,等)と出会う.1919年にパリ大学医学部に入学.1920年代にフロィトの著作と出会う.1927-1929年,サンタンヌ病院 (l’hôpital Sainte-Anne)  インターン.また,1928-1929年,パリ警視庁で精神鑑定を担当していたクレランボー (Gaëtan Gatian de Clérambault) のもとで,多様な精神病(特に,慢性幻覚性精神病や Schizophrenie の経過における初期症状である automatisme mental と,彼が博士論文で取り上げることになるパラノイア)について,学ぶ.1931年,ソシュールの構造言語学に準拠する精神病症状の分析について,学会発表を行う [10]1932年,パラノイア症例 Aimée をフロィトの諸概念を用いて分析した医学博士論文で,学位を取得.1932年から1938年まで,レーヴェンスタィン (Rudolf Loewenstein) のもとで教育分析を受け,1938年末に SPP によって精神分析家として認定される.その間,ラカンは,1930年代に,コジェーヴ (Alexandre Kojève) の講義において,ヘーゲルの『精神の現象学』を学ぶ.そして,同じく,コジェーヴをとおして,ハィデガーの名を知る.勿論,1943年に出版された サルトルの『存在と無』 そこにおいてサルトルは『存在と時間』の読解に懸命に取り組んでいる  を,ラカンも読んだであろう.また,1949年に出版された レヴィストロースの『親族の元素的構造』によって,構造論的人類学と出会う.

[10] ラカンが早くも 1920年代にソシュール言語学を知るに至っていたのは,ピション (Edouard Pichon) を介してであった,と言われている.ピションは,医師であり,SPP の創立メンバーのひとりであり,また,言語学者でもあった.政治的には基本的にナショナリストであったピションは,ラカンを,純粋にフランス人である(つまり,ユダヤ人ではない)若き才能として,高く評価していた.ラカンも,ダムレッ (Jacques Damourette) とピションとの協働(ダムレットはピションの叔父である)による〈フランス語に関する〉言語学的研究の大著 Des mots à la pensée(語から思考へ : 1911-1940)から,幾つかのインスピレーションを受けており,しばしば彼らの名と書に言及している.

この時期のラカンの論文や学会発表等のうちでは,特に次のものが注目される:「不合理な裂け目」(Hiatus irrationalis) と題された〈当時の彼の愛人に献げられた〉短い詩 (1929) ; パラノイアの本質を「超自我精神病」と捉える医学博士論 (1932) ; ワロン (Henri Wallon) の「鏡の段階」説への準拠によって仮象的自我の形成について論じた学会発表(1936 ; ただし,そのテクストは公表されていない);『論理学的時間と先取りされた確実さの断言  新たなソフィスム』(1945)  そこにおいて,ラカンは,「三人の囚人」の譬えによって ひとつの「救済論」を展開し,そして,そこにはひとつの実存的飛躍が包含されていることを,我々に示している;『心的因果性についての講話』(1946)  そこにおいて,ラカンは,おもにヘーゲルの『精神の現象学』に準拠しつつ「狂気」について論じているが,それだけでなく,ハィデガーの名を挙げるとともに,パスカルの「実存の深淵 [11](l’abîme de l’existence) にも言及している (cf. Écrits, p.166).

[11] パスカルの死後創作された一種の伝説;それによると,パスカルは,死の数年まえから,ときおり視野の左側に深淵が出現するのを見ていた;その深淵体験が馬車の事故に関連づけられることもある:彼が乗っていた馬車が,それを引く馬たちがセーヌ河を渡る橋のひとつのうえで何かに驚き,水中へ転落し,馬車もあやうく橋から落ちそうになった;それがきっかけでパスカルは深淵を見るようになった.眼科医 René Onfray (1877-1968) は,もしそのパスカルの深淵体験が実際のものであったとすれば,それは眼性偏頭痛の症状であっただろうと推定している.

ただ,この時期には,のちのラカンの教えのオルガノンを特徴づける記号  ラカンは それらを「学素」(mathème) と呼ぶことになる   図式は,まだ登場していない.

1) 1953 7 8日の講演 Le symbolique, l’imaginaire et le réel[徴示性,仮象性,実在性]に始まり,1960-1961年度のセミネール VIII『転移』に至る 8 年間:

1952年,SPP の内部では,生物学主義を採る保守的なナシュト (Sacha Nacht) と心理学主義に立つリベラルなラガシュ (Daniel Lacache) との間で〈教育分析に関する〉意見の対立が,先鋭化していた.ラカンは,いづれの側にも与せず,その年の 12月に SPP の会長に選出されると,ナシュトとラガシュとの和解を試みた.しかし,彼の仲裁の努力は報われず,1953 6月,ラガシュと彼の仲間たちは,SPP から脱退して,新たに SFP を設立した.ラカンは,保守的なナシュトが君臨する SPP にとどまるよりは,よりリベラルなラガシュの新グループに加わることを,選んだ.そして,精神分析家たち および〈精神分析家になるために教育分析を受けている〉比較的若い精神科医や心理臨床家たちに〈精神分析の基礎づけについて問うことを〉教えるために,彼は,195311月,彼のセミネールを,サンタンヌ病院の敷地内の礼拝堂(それは,当時,既に,祭儀のためではなく,集会室として使われていた)において,開始する.

この時期のラカンの教えのオルガノンは,幾つかの学素を幾つかのトポロジックに規定された座に配置する図式  それらを 我々は「学素トポロジックな図式化」(schématisation mathématico-topologique) と呼ぶことができるだろう  から,成る.その最初のものは,セミネール において提示されている「光学図式」(図 2 そこにおいては,如何に仮象的自我が実在的主体を隠すかが,図式化されている  である.次いで,セミネール II においては,シェーマ L(図 3)が 提示される  そこにおいては,如何に仮象性は徴示性と実在性との直接的な関係に対する障害となっているかが,図式化されている.そして,この時期のラカンの教えのオルガノンの頂点を成すのは,セミネール において提示される「欲望のグラフ」(図 4)である.

図 2
 
図 3

図 4

2) 1961-1962年度の セミネール IX『同一化』から 1968-1969年度の セミネール XVI『ひとつの他 A から  a へ』に至る 8 年間:

この期間は,確かに,ラカンの IPA からの「破門」(196311月)および 彼による〈新たな精神分析家の養成機関 EFP の〉創立(1964 6月)という 重大な出来事を,含んでいる.そして,それにともなって,1964 1月からは,彼のセミネールは,もはや サンタンヌ病院の礼拝堂ではなく,ENS  行われることになる.この場所の変更は,当然,新たな聴衆  特に,ミレールを始めとする ENS  学生たち(彼らは,必ずしも精神分析の臨床そのものに関心を持ってはいない) を,ラカンのもとに引き寄せることになる.

しかし,ラカンの教えのオルガノンの観点からは,それらの出来事は何らかの切れめとは対応していない.セミネール IX から セミネール XVI までの 年間を特徴づけるのは,穴のトポロジーの図像化である;それを,ラカンは,セミネール IX『同一化』において,投射平面(図 5)のトポロジーを以て,導入する.

図 5

投射平面は,ひとつの円板(それは,穴開き球面と位相同型的 [homeomorphic] である)のエッジとひとつのメビウスの帯のエッジとを同一化することによって得られる閉曲面である;それは,三次元空間のなかでは完全に表象され得ない(トポロジーの用語では : embedding[埋め込み]が不可能である).だが,ともあれ,我々はそこに四つの構成要素を区別することができる:穴開き球面(青),穴,エッジ(緑),メビウス曲面(赤).そこで,取り扱いが若干めんどうな投射平面の代わりに,セミネール X『不安』からは,部分的に重なり合うふたつの円から成る図(図 6 : 本書においては,便宜上,「二重円の図」と呼ぶ)が 用いられることになる.

図 6

それは,一見,初歩的な集合論で用いられるヴェン図 (Venn diagram) に似ている(そして,おそらくラカンもそこから着想を得ただろう);だが,ラカンの教えにおいては,その図は集合論とは何の関係もなく,しかして,それは投射平面のトポロジーの一種の平面化である.すなわち,そこにおいてかかわっているのは,集合ではなく,しかして,上に列挙した四つのトポロジックな要素である:青い領域は,穴開き球面に対応する;赤い領域は,メビウス曲面に対応する;中央の〈ふたつの円の重なり合いの〉領域は,穴に対応する;そして,緑色のエッジは,穴のエッジでもあり,穴開き球面のエッジでもあり,メビウス曲面のエッジでもある.そのように,投射平面の平面化として,この二重円の図は,投射平面によって導入された穴のトポロジーを,投射平面を以てするよりもはるかにより容易に扱うことを,可能にする.この図は,セミネール XVI に至るまで,用いられる.

3) 1969-1970年度の セミネール XVII『精神分析の裏』から 1972-1973年度の セミネール XX Encore に至る 4 年間:

1968-1969年度,ENS の学長は「翌年度からは,あなたのセミネールのためにデュサンヌ講堂を使用することを,許可しない」と ラカンに通告してくる.ラカンは,そのことを,セミネール XVI  最終講義の際に 聴衆に 告げる.聴衆の一部は,抗議のために,ENS の学長室を占拠する(あの時代,世界中のあちらこちらの大学で似たようなことが起きていた).というわけで,1969-1970年度以降,ラカンのセミネールは,パンテオン広場に接するソルボンヌの法学部の大講堂で,大人数の聴衆を前にして,行われることになる(ラカンは ときおり 聴衆の数が多すぎることを 嘆いている).

セミネール XVII から セミネール XX までの 年間を 特徴づけるのは,セミネール XVII  冒頭で 導入される「四つの言説」(図 7)である.

図 7

四つの言説 (les quatre discours) は,「支配者の言説」(le discours du maître) と「大学の言説」(le discours de l’université) と「ヒステリカの言説」(le discours de l’hystérique) と「分析家の言説」(le discours de l’analyste) とから成っている.それぞれにおいて,四つの学素(支配者徴示素 [ le signifiant maître ] S1 [ le savoir ] S2主体 [ le sujet ] $客体 [ l’objet ] a)が 四つの座(能動者の座 [ la place de l’agent ] : 青色,他者の座 [ la place de l’autre ] : 緑色,真理の座 [ la place de la vérité ] : 黄色,生産の座 [ la place de la production [12] ] : 赤色)に 配置されており,それら四とおりの相異なる配置のしかたが四つの言説のそれぞれを規定している.各言説において,ふたつの学素の間に置かれた水平の線分は,一見,分数において分子と分母とを分ける線分のように見えるが,しかし,そうではない.そうではなく,それら線分によって区切られる四つの座は,四つのトポロジックな領域  穴開き球面(青),メビウス曲面(赤),穴(黄),エッジ(緑)  対応している.つまり,四つの言説は,1950年代に展開されていた学素トポロジックな形式化 (formalisations mathématico-topologiques) の延長線上に位置づけられるものであり,しかも,その最も完成された かつ 最も美しい かつ それゆえ 最も力づよい図式である,と我々は言うことができる.

[12] なぜラカンは四つの言説の右下の座を「生産の座」と呼んだのか? ラカン自身は,その問いに明瞭に答えてはいない.わたしの推量は こうである:支配者の言説において,右下の座には 客体 a  置かれている.そして,四つの言説において,客体 a の定義は「剰余悦」(plus-de-jouir) である.それは マルクスが「剰余価値」(Mehrwert, plus-value) と呼んだものである,と ラカンは 四つの言説を導入した セミネール XVII において 言っている.つまり,支配者の言説  それは,次章において説明するように,存在の歴史の源初論的時点に対応している  において,右下の座は「剰余価値の生産」の座である(右上の座に位置する S2 が「労働力」であるのに対して).そのことにもとづいて,ラカンは,右下の座を「生産の座」と呼び続けたのだろう.いずれにせよ,より重要なのは,このことである:右下の座は「書かれないことをやめないもの」の座である(次章以下参照).労働力と剰余価値生産との関係について言えば:どれほどの労働力がどれほどの剰余価値を生産するかを規定する法則は無い.すなわち,生産される剰余価値は,その予測される量に関しては,書かれないことをやめない.言い換えれば,かつてのソヴィエト連邦において試みられていたような「計画経済」は,不可能である.

4) 1973-1974年度のセミネール XXI Les non-dupes errent から 1977-1978年度のセミネール XXV『結論するとき』に至る 5 年間:

ラカンがソルボンヌの大講堂でおこなった最後のセミネールは,1978-1979年のセミネール XXVI『トポロジーと時間』である(ただし,EFP の「解散」[dissolution] に関連して 1980年にラカンの名において発表された幾つかのテクストの総体が セミネール XXVII『解散』と呼ばれることもある).『トポロジーと時間』は,10回の講義から成る.しかし,それらのうち,最後の 回では,セミネール参加者の発表が行われ,ラカン自身はほとんど語っていないので,実質的には講義は 回しかおこなわれていない.しかも,それらにおいても,ラカンは,健康状態の悪化のために,ごくわずかしか語っていない.録音された彼の発言にもとづいて編纂された Staferla 版のテクストからも,如何に彼がそのセミネールを展開しようとしていたのかを推察することは,困難である.ただ,そこにおいて彼が試みた「ボロメオ結びの一般化」(la généralisation des nœuds borroméens) は,このことを示唆している:彼は,セミネール XXV『結論するとき』の最後に到達した「三葉結び」(le nœud de trèfle, trefoil knot) の「結合性」(nodalité)  それは,無「性関係」の穴 (le trou du non-rapport sexuel)  ひとつの「代補」(suppléance) であり,そして,精神分析の終結を成す「欲望の昇華」の徴である  から出発して,さらに,そのような代補としてのより複雑な結合性について問い続けようとした(だが,残念ながら,彼自身は,有意義な成果に到達し得なかった).また,『トポロジーと時間』という表題は,ハィデガーの主著の表題『存在と時間』を想起させる  ハィデガーの表現 « die Topologie des Seyns »存在のトポロジー]を介して.それゆえ,わたしはこう想像する:ラカンは,そのセミネールにおいて,ハィデガーに対する敬意を 何らかの形で 表したかったのかもしれない.というのも,このゆえに:ハィデガーが 1976 526日に亡くなったとき,ラカンは,セミネール XXIII Le sinthome  最終講義を 511日に 既に終えてしまっており,それゆえ,精神分析の純粋基礎づけのために最も重要な足がかりを与えてくれた哲人に対する敬意と感謝を表明する弔辞を公の場で述べる機会を持つことができなかった.

ともあれ,それゆえ,我々は,ラカンの教えの最後を実質的に成すのは 1977-1978年のセミネール XXV『結論するとき』である,と見なす.

セミネール XXI から セミネール XXV に至る 年間のうち,セミネール XXII R.S.I.  セミネール XXIII Le sinthome とにおいて,ラカンは,三本または四本の縄輪を用いたボロメオ結び [13]  最もよく活用している.

[13] 数学的トポロジーの結びめ理論においては,三つ輪のボロメオ結びは,より一般的な Brunnian link (entrelacs brunnien) の一種と見なされている;後者は,このような結びめである:それは,三つ以上の輪から成っており,それらの輪のうちのいづれのふたつも絡みあってはおらず,かつ,それらの輪うちのいづれかひとつを切断すると,残りのものはバラバラになり,結びめは解消されてしまう.三つ輪のボロメオ結びは,最も単純な Brunnian link である;そして,ボロメオ結びという名称は,三つ輪のものに限定される;つまり,今は「四つ輪のボロメオ結び」とは言わず,しかして,ラカンが提示していたような「四つ輪のボロメオ結び」は,四つ輪の Brunnian link の一種である.なお,« Brunnian » という形容詞は,ドイツ人数学者 Hermann Brunn (1862-1939)  彼は,Brunnian link を含む Verkettung(連鎖)ないし Verschlingung(絡みあい)のトポロジーに関する論文 Über Verkettung  1892年に 発表した  の名に由来する.

それらに先立つ セミネール XXI Les non-dupes errent においては,ラカンは,ボロメオ結びを導入するものの,それをまだ十分に活用し得ていない.つまり,そのセミネールは,従来の学素トポロジックな時期からその後のボロメオ結びの時期への移行を成している — ボロメオ結びの最初の導入(単なる言及ではない導入)は セミネール XX  最後からふたつめの講義(1973 515日)において(そして,その回においてのみ)為されてはいるが.

そして,セミネール XXIV  セミネール XXV において,ラカンは,三本の円環面 (torus) を用いたボロメオ結びを,導入する.そして,そのうちの一本を,そこに切れ目を入れて,裏返す  その裏返された一本によって ほかの二本の円環面を包み込むために.そのような独創的な操作のゆえに,セミネール XXIV  XXV  通常のボロメオ結びの彼方について問うセミネールである,と言うことができるだろう.ただし,『結論するとき』と題されたセミネール XXV の最後にラカンが得るものは,円環面のボロメオ結びから導出されるものではなく,しかして,先ほども言及したように,そして,後ほど詳しく見るように,欲望の昇華の徴としての三葉結びである(図 12 を参照).

図 12

ともあれ,ラカンの教えのオルガノンの観点から見るなら,「晩年のラカンの教え」 より適切に言えば「ラカンの教えのボロメオ期」 は,セミネール XX ではなく,しかして,セミネール XXI  始まる.

改めて まとめておくと,ラカンの教えの〈そのオルガノンの観点からの〉時期区分は,次のようになる:

0) 1953年よりまえの準備期;

1) 1953-1954年度から 1960-1961年度のセミネール VIII『転移』に至る 年間:学素トポロジックな図式化の時期;

2) 1961-1962年度の セミネール IX『同一化』から 1968-1969年度の セミネール XVI『ひとつの他 から  a へ』に至る 年間:穴のトポロジーの図式の時期;

3) 1969-1970年度の セミネール XVII『精神分析の裏』から 1972-1973年度の セミネール XX Encore に至る 年間:四つの言説の時期;

4) 1973-1974年度のセミネール XXI Les non-dupes errent から 1977-1978年度のセミネール XXV『結論するとき』に至る 年間:ボロメオ結びの時期.

本書の執筆の時点において,わたしは,2020 月に青土社から出版された『ハィデガーとラカン』におけるよりも,ラカンの教えの幾つかの細部の理解に関して,若干,さらに前に進むことができた,と 思っている.また,ラカン用語の邦訳に若干の変更を加えた(特に « l’imaginaire » を「事象性」ではなく「仮象性」と訳すことにした).しかし,根本的なところは変わっていない  それは,わたしが「否定存在論」(l’ontologie apophatique) と名づけた思考である.その語を聞いて,ハィデガーとラカンが「よくぞ名づけた」と言うか,あるいは,顔をしかめるかは,不明である(たぶん,ハィデガーは顔をしかめるだろうが,それに対して,ラカンは « Excellent ! » と言ってくれるだろう,と わたしは勝手に想像する).ともあれ,否定存在論は,精神分析を純粋に基礎づけるために,ラカンがハィデガーの思考から抽出してきたそのエッセンスである.それゆえ,ラカンと精神分析を学ぼうとする人々にだけでなく,ハィデガー研究者たち,および,副題「精神分析と信仰」が示唆しているように,神学者たちにも,是非,参考にしていただきたい.