2014年7月27日

死の本能の問いは存在論的問いである; 仮象の座の底を踏み抜いて真理の場処へ到達する; 自己秘匿の座から a を能動者の座へ引き上げる.



1950年の Lacan の犯罪学に関する書についての御質問ですが,そこにおいて Lacan が問うているのは,破壊,攻撃として現れる死の本能です.そして,死の本能について問うということは,抹消された存在 φ barré について問うことです.それは,心理学的な問いでも生物学的な問いでもなく,而して,存在論的問いです.

Lacan の問いの出発点は,1932年の医学博士論文で取り上げた症例 Aimée です.彼女の妄想において彼女を迫害する幾人かの人物のうち,或る女優を彼女は殺害しようとして,現場で取り押さえられ,Sainte Anne 病院で Lacan と出会うことになります.

他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φ barré a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました.文字どおり,突然足もとに穴が開いて,そこに呑み込まれてしまう感覚でした.実存構造の突然にして急激な解体が起きた場合,そのようなことが起こり得ます.

さて,仮象と真理に関して,大変興味深い御指摘をいただきました.

Lacan が「a とφ barré との分離において φ barré の場処へ到達する」と公式化した事態を,「仮象の座から真理の場所へと底を踏み抜く」という身体的な表現を以て捉えることは,独創的なとてもすばらしい試みだと思います.

Freud は去勢複合,つまり,男における男性的抗議(即ち,去勢不安)と女におけるペニス妬みを,精神分析治療に対する克服し難い行き詰まりと見なしました.Lacan はその行き詰まりを打開する道を探求しました.まさに「底を踏み抜く」ことがかかわっています.

大学の言説と分析家の言説との関連についての御指摘から,Socrates のことを連想しました.

対話において Socrates は「わたしは自分では何も知らない」と言います.通常,学者と呼ばれる人々は「わたしは何でも知っている」「わたしは知の体現者である」という態度を取ります.それは,知 S2 が能動者の座に位置する大学の言説です.Socrates の対話相手はそんなふうです.

それに対して Socrates は,「わたし自身は何も知らない.知っているのは神だ」と言います.それは,左下の真理の座に知 S2 が仮定される分析家の言説の構造に対応しています.そして,Socrates は真理が語る言葉に耳を傾け,それを聴き取り,そして,みづから真理の代弁者として語ります.Lacan が「フロィト的な物」という書において真理の女神に「我れ,真理は語る」とと言わせたとおりです.

確かに,男が精神分析経験に入るときには,自分が今までしがみついていたものが揺さぶられ,無効になり,除去される,という感覚があります.それは,大学の言説から分析家の言説への転回に伴うものだと見なされます.つまり,能動者・支配者の座にあった知 S2 が,死の座である真理の座へ罷免されるのです.

それに対して,女性が精神分析の経験に入るときは,それまで漠然としていたものがはっきり見えてくるという感覚を持つでしょう.

御指摘のとおり,それまで自己秘匿としての真理の座にあった a が,能動者の座へ引き上げられ,症状として出現してきます.それによって,真理は,それまでは「断念された欲望」,つまり frustration $ としてしか表現されていなかった状態から,signifiant a により代表される状態,つまり,真理がみづから語ることができるようになります.

御指摘いただいた以上のような表現を用いると,大学の言説から分析家の言説へ,ならびに,hysterica の言説から分析家の言説への転回がとても見えやすい形で定式化できます.
(7月26日)

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