大地と結ばれた火の馬
大地と結ばれた火の馬
斜陽の時
忘我の園
天啓
村上仁美氏の個展 Signals from Faraway
2020年 10月 2 - 10日,ぎゃらりい秋華洞 で行われた 村上仁美 氏の個展 Signals from Faraway を,6日,見に行ってきた.混雑するだろう週末を避けるため,敢えて 火曜日を選んだ.たまたま 村上仁美氏が会場にいたので,彼女と少し会話することができた.
今回,馬 ないし unicorn を造形したのは,以前から想い描いていた merry-go-round の実現のためだ,と 彼女は 言う.わたしは,Camille Claudel の La Valse のことを思い出した.
Cette Valse ivre, toute roulée et perdue dans l’étoffe de la musique,dans la tempête et le tourbillon de la danse.音楽の布地のなかに 踊りの嵐と渦のなかに
まったく 巻き込まれ 我を忘れ 陶酔した 円舞
そして,Heidegger の「堂々めぐり」に関する一節 (GA 29/30, pp.266-267) も 思い起こした:
かくして,我れらは ここで 常に 堂々めぐりをしている.それは,我れらが哲学の領域のなかを動いているという徴である.いたるところで堂々めぐり.哲学のこの堂々めぐりは,またしても,通俗的悟性にとっては 厭わしい何事かである.通俗的悟性は,まさに目標へ至ることのみを欲する — ものごとをひと摑みに手に入れるように.堂々めぐりをすること — それは 何にもならない.しかして それは,就中,眩暈を起こさせる.そして 眩暈は不気味だ.あたかも無のただなかにぶらさがっているかのような感じだ.だから,とにかくそんな堂々めぐりは無し,そして循環も無し!それゆえ,そのような循環[論法]無しに済ませることは,学問的哲学の野心である.だが — ひとつの哲学的問いの際に 眩暈に一度も襲われたことのない者は,まだ 哲学しつつ問うてはいない — つまり,まだ 堂々めぐりをしていない.この堂々めぐりの際に決定的なのは,通俗的悟性がひたすら見ていること — 外周に沿って歩み,そしてその外周上の同じ場所へ戻って来ること — ではなく,しかして,堂々めぐりにおいて可能な,そして堂々めぐりにおいてのみ可能な「[円の]中心そのものへ まなざしを向ける」ことである.[円の]中心は,しかるものとしては,それをめぐる旋回においてしか 明らかにならない.
村上仁美氏が創る merry-go-round が「楽しい」ものになるかどうかは定かではないが,きっと frölich[悦ばしい]ものにはなるだろう — Nietzsche の Die fröliche Wissenschaft のように.なぜなら,それは,存在の穴のまわりを回ることになるだろうから.そのことを,我々は,今回の個展で展示された作品によっても 予期することができる.
また,わたしの視線を引きつけたのは,「大地と結ばれた火の馬」の右側面に取りつけられた Medusa の頭である.わたしが村上仁美氏に「あなたが 今まで Medusa を創らなかったのは 不思議なくらいだ」と言うと,彼女は,学生時代に習作として創ったことはある,と答えた.今後,彼女がどのような Medusa を創るか,楽しみにしたい.