2023年8月23日

福音が 全世界に 宣べ伝えられるとき,どこにおいても,彼女が為したことは 物語られるだろう — 彼女の記念のために

James Tissot (1836-1902) : The Ointment of the Magdalene (Le parfum de Madeleine)

福音が 全世界に 宣べ伝えられるとき,どこにおいても,彼女が為したことは 物語られるだろう — 彼女の記念のために



復活したイェスに マリア マグダレーナが 最初の証人として 出会う あの聖書のなかでも最も感動的な場面のひとつが 主日のミサの福音朗読の際には 読まれない ということを,カトリック教会の女性軽視の一例として 先日 指摘しました.その投稿は,結構 多くの人々の関心を惹いたようです.ですので,カトリック教会における女性軽視の例を もうひとつ,女性カトリック神学者 Elisabeth Schüssler Fiorenza (1938- ) の 著作 In Memory of Her (1983) にもとづいて,紹介しましょう.それは,「ベタニアでのイェスの塗油」(Anointing of Jesus in Bethany, Unzione di Gesù a Betania) と呼ばれている エピソード — ひとりの女が イェスの頭または足に 高価な香油を注ぐ という場面 — です.これも とても印象的な話ですから,皆さん 覚えていらっしゃるでしょう.

実際,それは,四つの福音書すべてにおいて物語られています;しかし,マタイ (26,06-13) と マルコ (14,03-09) と ヨハネ (12,01-08) においては,そのエピソードは 過越の祭の開始の数日前に 位置づけられている — それゆえ,数日後に十字架上で亡くなるイェスの埋葬を預言する行為という意義を付与されて — のに対して,ルカ (7,36–50) においては それは,イェスが イェルサレムへ上る前,ガリラヤで宣教している時期の出来事として,描かれています(したがって,その場所も イェルサレムの近くのベタニアではありません).

イェスに香油を注ぐ女は,ヨハネ福音書においては,ラザロ(イェスが復活させたラザロ)と マルタとの 姉妹 マリア(ベタニアのマリア — カトリック信者たちは 長い間 彼女と マリア マグダレーナとを混同してきましたが,今は それらふたりのマリアたちは はっきり区別されています;聖人としても,マグダラのマリアの祝日 [ festum ] は 7月22日に祝われ,それに対して,ベタニアのマリアの記念日 [ memoria ] は 7月29日に マルタおよびラザロとともに 祝われます)とされていますが,ほかの福音書においては 彼女は匿名です.特に ルカでは,彼女は「罪人である」と形容されています.

また,どのように彼女が香油を注ぐかというと,マタイとマルコにおいては,彼女はイェスの頭に油を注ぎます(注ぐだけで,それ以上 何もしません); それに対して,ルカとヨハネにおいては,彼女は イェスの足に 油を注ぎます — ただし,ルカにおいては,罪深い女は まず 彼女の涙で イェスの足を濡らし,そして,彼女の髪で 彼の濡れた足を拭ったあと,彼の足に油を注ぎますが,それに対して,ヨハネにおいては,マリアは,彼の足に油を注いだ後,その足を彼女の髪で拭います.いずれにせよ,女が自身の髪でイェスの足を拭うという光景は,献身的であることを通り超して,若干 érotique でさえあります(もし USA で制作されている TV ドラマのシリーズ The Chosen のなかで このシーンが演ぜられているとすれば — あるいは,これから演ぜられるとすれば — どのように描かれるでしょうね?)

以上は 前置きです(細部にこだわりすぎました).重要なのは,このことです:マタイとマルコにおいて(この一節に関しては 両者のギリシャ語文面は ほぼ一致しています),女が高価な香油を 一見 無意味に イェスの頭に注いだことに対して,同席者たち(イェスの弟子たち)は「何と もったいない!」と憤慨しますが,イェスは,彼らを たしなめて,「彼女は わたしの埋葬のために わたしに香油を注いだのだ」と 言い,そして 最後にこう付け加えます (Mt 26,13 ; Mc 14,09) :

Amen, わたしは あなたたちに 言う:この福音が 全世界に 宣べ伝えられるとき,どこにおいても,彼女が為したことは 物語られるだろう — 彼女の記念のために (εἰς μνημόσυνον αὐτῆς).

すごいですね! 彼女がイェスにしたことは,福音が宣べ伝えられるところなら,全世界,どこでも 物語られるだろう — 彼女を記念するために! イェスが彼女の預言者的な行為を どれほど有意義なものとして評価しているかが うかがえます.

ところが,どうでしょう? 今,カトリック教会は 彼女の行為の意義を そのように重要視しているでしょうか? 残念ながら 全然そうではありません.というのも,Mt 26,06-13 は,主日のミサでも平日のミサでも まったく朗読されません;そして,Mc 14,03-09 は,B年の 枝の主日で朗読されることになっているのですが,その日の福音朗読は,14章の始め(過越が始まる二日前の ベタニアでの塗油)から 15章の終わり(イェスの埋葬)まで,かなり長いので,15章の 1節(ピラトによる尋問)から 39節(十字架上の死)までを読むだけでもよいことになっています(実際,日本では そうしています).そして,その場合は,ベタニアでの塗油の場面は まったく 読まれません(日本では そうなっています).

また,Jn 12,01-11 は 聖週間の月曜日に,Lc 7,36-50 は C年の 年間 第 11 主日 および 年間 第 24 週の 木曜日に読まれますが,それらの福音箇所は「彼女の行為は 全世界 どこでも 物語られるだろう — 彼女の記念のために」という イェスのことばを 伝えていません.

これでは,カトリック教会は 主が言ったとおりに 彼女の預言者的な行為を 彼女の記念のために 十分に語り継いでいる,とは 言いがたいですね.女性軽視と批判されても しょうがないでしょう.

また,「彼女の記念のために」(εἰς μνημόσυνον αὐτῆς)[ラテン語では : in memoriam eius]という表現が注目さる もうひとつの理由は,これです:その表現は,ミサにおける葡萄酒の聖別の締めくくりに司祭が言う「これを わたしの記念として おこないなさい」(hoc facite in meam commemorationem) という文言のなかの「わたしの記念として」(in meam commemorationem) と 類似している.

この « hoc facite in meam commemorationem »[ギリシャ語では : τοῦτο ποιεῖτε εἰς τὴν ἐμὴν ἀνάμνησιν :「あなたたちは(あなたたちも)これを おこないなさい(こうしなさい)— わたしの想起のために(わたしを思い出すために)」]は,ルカ福音書の「最後の晩餐」の場面で イェスが 感謝の祭儀を制定する際に 言う 言葉です (22,19) :

そして,彼は,パンを 取り,[神に]感謝し,[パンを]割った;そして,彼らに与えた — こう言いつつ:

それは,あなたたちのために与えられる〈わたしの〉身体[からだ]である.あなたたちは これを おこないなさい[あなたたちも こうしなさい]— わたしの想起のために[わたしを思い出すために].

不思議なことに,マタイとマルコの「最後の晩餐」の場面では,イェスの「あなたたちも こうしなさい — わたしを思い出すために」という言葉は 欠けています;そして,あたかも その代わりであるかのように,あの「ベタニアでの塗油」の場面 —「最後の晩餐」の直前の場面 — で,イェスは「福音が宣べ伝えられるところでは どこでも,彼女がわたしにしてくれたことは 物語られるだろう — 彼女を記念するために」と言います.

また,パウロは,コリントのクリスチャンたちに〈如何に主は感謝の祭儀を制定したか を説明する際に〉こう伝えています:主は この « τοῦτο ποιεῖτε εἰς τὴν ἐμὴν ἀνάμνησιν »[あなたたちも こうしなさい — わたしを思い出すために]を 二度 — パンの聖別のために 一度,葡萄酒の聖別のために もう一度 — 言った (cf. 1 Cor 11,23-25). しかし,現行のミサ式文においては,« hoc facite in meam commemorationem » は,パンと葡萄酒の聖別の最後に 一回 言われるだけです(なぜ パウロが伝えているように 二度 言わないのでしょう?)

というわけで,わたしたちは,ベダニアでイェスに油を注いだ預言者的な女のことを,忘れないでおきましょう — Mt 26,06-13 または Mc 14,03-09 を 枝の主日 または 聖週間の水曜日に読むことによって.また,ミサのなかで 司祭が「これを わたしの記念として おこないなさい」(あなたたちも こうしなさい — わたしを思い出すために)と言うとき,わたしたちは 同時に「彼女を記念するために」をも思い出してもよいでしょう.

マリア マグダレーナが 復活したイェスに出会う 場面(Noli me tangere の 場面)は 主日のミサでは 朗読されない!

Alexander Andreyevich Ivanov (1806-1858) : Noli Me Tangere

マリア マグダレーナが 復活したイェスに出会う 場面(Noli me tangere の 場面)は 主日のミサでは 朗読されない!



わたしの妻は,もともと プロテスタントだったので(今は カトリックですが),常々,カトリック教会の男性中心主義に対して,批判的です(プロテスタント教会のなかに女性差別がないわけではありませんが).聖母被昇天の祭日であった昨日(この文章は 最初,8月16日に Facebook に 投稿されました),夕食後のおしゃべりのなかで,話は 神の母 マリアから マリア マグダレーナへ 移って行きました.そして,「復活の主日の日中のミサの福音朗読 (Jn 20,01-09) のなかでも,マリア マグダレーナには 副次的な役しか与えられていない」と 彼女が言うので,わたしは「いや,それに続く箇所 (Jn 20,11-18) では,彼女は,主演女優級の役 — 復活したイェスの相手役 — を演じているではないか」と言いました.

その箇所 (Jn 20,.01-02.11-18) とは これです:

******
1 さて,週の初めの日,マリア マグダレーナは,来る — 早朝,まだ暗いときに —[イェスの]墓へ;そして,見る —[墓の入口を塞ぐ]石が 墓から 取り去られてあるのを.
2 そこで,彼女は 走る;そして,来る — シモン ペトロのところへ,および,イェスが愛していた ほかの弟子のところへ;そして,彼らに言う:

彼ら[ユダヤ人たち,あるいは,不特定の誰か]は 主[の 遺体]を 墓から 取り去りました;そして,わたしたちは〈彼らが 彼を どこに置いたのかを〉知りません.


11 そして,マリアは,立っていた — 墓へ近づきつつ —[墓の]外に — 泣きながら;ついで,彼女は,泣きながら,身をかがめた — 墓のなかを覗くために.
12 すると,彼女は 見る — 白い服を着た天使たちが ふたり 座っているのを — ひとりは[イェスの]頭の近くに,そして,もうひとりは[イェスの]足の近くに — イェスの遺体が横たわっていたところで.
13 そして,彼らは 彼女に 言う:

女よ,なぜ あなたは 泣いているのか?


彼女は 彼らに 言う:

なぜなら このゆえに:彼らは わが主[の 遺体]を 取り去りました;そして,わたしは〈彼らが 彼を どこに置いたのかを〉知りません.


14 そして,そう言って,彼女は 背後へ 振り向いた;そして,イェスが立っているのを 見る;だが,それがイェスであることを 彼女は 知らなかった.
15 イェスは 彼女に 言う:

女よ,なぜ あなたは 泣いているのか? 誰を あなたは 探しているのか?


彼女は,その者は庭師である と思って,彼に言う:

主よ,もしあなたが 彼[の 遺体]を 運んだなら,わたしに言ってください — あなたが 彼を どこに置いたのかを;そうすれば,わたしが 彼[の 遺体]を 取りに行きます.


16 イェスは 彼女に 言う:

マリアよ!


彼女は,振り向いて,彼に ヘブライ語で 言う:

רִבּוֹנִי (rebboni) !


それは「わが師」の謂いである.
17 イェスは 彼女に 言う:

わたしにしがみつくのを やめなさい[つまり,マリアは イェスに しがみついている];なぜなら このゆえに:わたしは まだ 父のところへ 昇っていない.しかして,あなたは わが兄弟たちのところへ 行きなさい;そして,彼らに 言いなさい:

わたしは 昇ってゆく — わが父のところへ:わが父 かつ あなたたちの父のところへ,そして わが神 かつ あなたたちの神のところへ.


18 マリア マグダレーナは,弟子たちに こう宣べ伝えに 来る:

わたしは 主を 見た;そして,彼は わたしに こう言った.


******
ところが,わたしの妻は「いや,その箇所は 主日のミサでは 朗読されない」と言うのです.わたしは「福音のなかでも最も盛り上がる箇所のひとつである あの一節 — 美術史のなかでも Noli Me Tangere の表題のもとに(Noli Me Tangere[わたしに触れようとしては ならない]は μή μου ἅπτου[わたしにしがみつくのを やめなさい]の誤訳ですが)さまざまに描かれている あの場面 — が 主日のミサで朗読されないはずがない」と思い,即座に 調べたところ,何と 妻の言っていることは 正しいのです! その箇所 (Jn 20,11-18) が ミサのなかで朗読されるのは,復活の主日の二日後の火曜日 および 聖 マリア マグダレーナの 祝日(7月22日;ただし,主日と重なる場合は 除く)だけなのです.

「これは,さすがに,おかしい」と わたしも 思いました.確かに,2016年に Papa Francesco によって,それまで 聖 マリア マグダレーナの「記念日」(memoria) であった 7月22日は 彼女の「祝日」(festum) に 格上げされました;そして,同時に,Thomas Aquinas によって彼女に与えられた 称号「使徒たちの使徒」(Apostolorum Apostola) が 改めて 強調されました.しかし,わたしは 思います:あの〈福音書のなかでも 最も感動的な場面のひとつである〉一節 — 復活したイェスが マリア マグダレーナに対して 自身を啓かす あの一節 — が 復活の主日に読まれないのは,重大な欠落ではなかろうか?

というわけで,来年以降,復活の主日の日中のミサの福音朗読 (Jn 20,01-09) に,皆さんも,こころのなかで,それに続く箇所 (vv.11-18) を 追加してください.

なに? では,10節は どうするのか? そこを読むと,男の使徒たち[ペトロと ヨハネ]の薄情さが さらに浮き彫りにされることになります…

9 なぜなら このゆえに:彼ら[ペトロと ヨハネ]は,聖書にこう書かれてあることを,まだ 知らなかった:彼[イェス]は 死者たちのなかから 復活するはずである.

10 それゆえ,弟子たち[ペトロと ヨハネ]は,[イェスの墓から]去り,ふたたび 彼ら[ほかの弟子たち]のところへ 戻った.


ところが,それに続く v.11 では こう述べられます:

それに対して,マリア[マグダレーナ]は,立っていた — 墓へ近づきつつ —[墓の]外に — 泣きながら.


ですから,墓がカラであることを確認した後 あっさりと仲間のところへ戻っていった ペトロとヨハネに比して,如何に マリア マグダレーナは イェスに対して より愛情深かったか ということを,我々は そこに 読み取ることができます.そして,実際,彼女は報われます — 復活したイェスに最初に出会う者となることにおいて.

その際,イェスは 彼女に Noli me tangere[わたしに触れようとしてはならない]と 冷たく言いはしませんでした;しかして,彼が 彼女に言った言葉は これです : μή μου ἅπτου.

その否定命令が表しているのは,この光景です:

マリア マグダレーナは,復活したイェスに 喜びのあまり しがみついている;そして,彼女がいつまでも離れないので,イェスは 彼女に 優しく言う:

もう いいかげん わたしにしがみつくのを やめなさい — なぜなら,わたしは まだ わが父のところへ 昇って行っていないのだから...