2023年11月9日

ロゴスの受肉 と 三位一体 — 実存論的観点から

三位一体の図式化:左側は Scutum Fidei[信仰の楯]と呼ばれる図式化;右側は 三つ輪のボロメオ結びによる図式化(本稿の末尾を参照)
 

ロゴスの受肉 三位一体 実存論的観点から

ルカ 小笠原 晋也 


本稿においては,ヨハネ福音書の序章における「ロゴスの受肉」(ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο) および キリスト教の根本的な教義のひとつ「三位一体」の 実存論的意義について 考察する.

いかにも,ヨハネ福音書の序章(ロゴスの讃歌)にもとづいて,伝統的に,「神のロゴス」(神のことば)は,ChristusΧριστός, מָשִׁיחַ , 塗油された者,メシア)などと並んで,Jesus NazarenusἸησοῦς ὁ Ναζαρηνός, ナザレのイェス)の称号のひとつと見なされている.しかし,前稿において見たように,我々は〈神の「ことば」( דָּבָר , λόγος, verbum ) と「息吹」( רוּחַ , πνεῦμα, spiritus ) と「知恵」( חָכְמָה , σοφία, sapientia ) とは 相互に等価的なものである 神の創造力として,あるいは,神による創造の medium[手段]ないし agent[作用者,能動者]として,そして,それゆえ 神と創造界との間の medium[媒介]として ということを〉旧約聖書(第二正典における「知恵の讃歌」をも含む)から 読み取ることができるのであれば,三位一体の観点からは,神の息子 イェス (Jesus Filius Dei) 神のことば (Verbum Dei) とを 即座に同一視することできない;なぜなら それは Filius Sanctus Spiritus とを 単純に同一視することになるであろうから.

では,神の息子 イェスと 神のロゴスとを 即座に同一視しないのであれば,如何に 我々は ヨハネ福音書の序章を 特に「ロゴスは肉と成った」(ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο) 読むことができるであろうか — triadologie (trinitologie) を考慮に入れつつ?

ヨハネ福音書の序章において triadologie がかかわっている ということは,そのものとしては謎めいた〈洗礼者ヨハネの〉証言 : « Ὁ ὀπίσω μου ἐρχόμενος ἔμπροσθέν μου γέγονεν, ὅτι πρῶτός μου ἦν »[わたしより後に来る彼は,わたしより前に成っていた;なぜなら,彼は わたしより先に 最初に[源初において]存在していたから](Jn 1,15) にもとづいて構築された praeexistentia Jesu Christi[イェス キリストの 先在]という洗練された神学概念 それは三位一体を包含している によってだけでなく,しかして,v.01 « ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν » において用いられている表現 πρὸς τὸν θεόν によっても 示唆されている(その πρὸς τὸν θεόν は,1 Jn 1,02 « τὴν ζωὴν τὴν αἰώνιον ἥτις ἦν πρὸς τὸν πατέρα » において πρὸς τὸν πατέρα という形のもとに 再度 見出される);というのも,この 対格を取る前置詞 πρός が示唆しているのは,単純に「ことばは 神とともにあった」ではなく,しかして「ことばは 神に対してあった」であるから;つまり,そこにおいてかかわっているのは (Deus) ことば (Spiritus) との ある種の関係である;そして,それは如何なる関係であるかというと,それは,同じ Jn 1,01 において 最後に « θεὸς ἦν ὁ λόγος »[ロゴスは神であった]と言われているように,両者 (Deus et Spiritus) は一致している と言うこともできるような 関係である.したがって,我々は そこに 三位一体が部分的に示唆されていることを 読み取ることができる.

そのように,ヨハネ福音書の序章において triadologie がかかわっているのであれば,先に述べたように,神の息子 イェスと 神のロゴス(神の息吹)とは 単純に同一視され得ない.しかして,我々は,むしろ Jn 1,14 « ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο »[ロゴスは肉となった]に,三位一体の可能性の条件を見ることができるであろう 以下に論ずる意味において.

 

ロゴスの受肉とイェスの受胎

神のロゴスと 息吹(聖なる息吹)とは相互に等価なものであるとすれば,« ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο »[ロゴスは 肉となった]は 何を言おうとしているのか? それは,ニケアコンスタンチノープル信条において この表現によって言われていることにほかならないであろう:

καὶ σαρκωθέντα ἐκ Πνεύματος Ἁγίου καὶ Μαρίας τῆς Παρθένου καὶ ἐνανθρωπήσαντα

そして[主 イェス キリストは]肉となった 聖なる息吹と おとめマリアとから ;そして,人間となった

付言しておくと,現在 カトリック教会において 各国の言語に翻訳されている ラテン語版ニケアコンスタンチノープル信条においては,その箇所の表現は 本来のギリシャ語版のそれとは 微妙に異なる:

Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria Virgine, et homo factus est

そして[主 イェス キリストは]肉となった 聖なる息吹により おとめマリアから ;そして,人間となった

ともあれ,それは,マタイ福音書 (1,18) においては « εὑρέθη ἐν γαστρὶ ἔχουσα ἐκ πνεύματος ἁγίου »[マリアは,聖なる息吹から[子を]腹に得ているのが,見出された]という 簡潔な表現を以て 述べられ,また,ルカ福音書においては より劇的な受胎告知の場面として 描かれている 出来事である.実際,受胎告知において,大天使ガブリエルは おとめマリアに 言う (Lc 1,35) :

聖なる息吹が あなたのうえへ 来るだろう;そして,至高なる方の力が あなたのうえに 陰を投げかけるだろう[あるいは:至高なる方の力が その陰で あなたを覆うだろう].それゆえ,生まれてくる子は 神聖であり,神の息子と呼ばれることになる.

かくして,おとめマリアは 神の息子 イェスを 受胎することになる すなわち,彼は受肉することになる.

 

聖なる息吹による洗礼

では,「おとめが 神の息吹により 神の息子を 受胎する」という神話的な物語の 実存的な意義は 何か?

我々は〈聖書に描かれている神話的な物語の 実存的な意義を〉問う;なぜなら,神話とは 何らかの実在的なもの それは それそのものとしては 表言され得ない「神秘」である の神話化に存するから.聖書の神話的物語は,古代のユダヤ人たちと最初期のクリスチャンたちの宗教的想像力による創造であるが,その創造は 単純に無根拠なものではなく,しかして,それとしては表言され得ない実在的なもの(神秘)に もとづいている.そして,その実在的なものについて問うことが,神話の実存的意義 我々自身にかかわる実存的意義 について問うことになる.

それゆえ,我々は 問う:「おとめが 神の息吹により 神の息子を 受胎する」という神話的な物語の 実存的な意義は 何か? それは,四つの福音書すべてにおいて描かれている「イェスの洗礼」に準拠することによって,読み取られ得るだろう:

Mt 3,16-17 :

βαπτισθεὶς δὲ ὁ Ἰησοῦς εὐθὺς ἀνέβη ἀπὸ τοῦ ὕδατος· καὶ ἰδοὺ ἠνεῴχθησαν αὐτῷ οἱ οὐρανοί, καὶ εἶδεν τὸ πνεῦμα τοῦ θεοῦ καταβαῖνον ὡσεὶ περιστερὰν καὶ ἐρχόμενον ἐπ᾽ αὐτόν· καὶ ἰδοὺ φωνὴ ἐκ τῶν οὐρανῶν λέγουσα, Οὗτός ἐστιν ὁ υἱός μου ὁ ἀγαπητός, ἐν ᾧ εὐδόκησα.

洗礼を受けると,イェスは,すぐに 水から上がった.そして,見よ,天が 彼のために 開かれた;そして,彼は 見た 神の息吹が ハトのように くだって,彼のうえへ来るのを.そして,見よ,声が 天から こう言った:「この者は わが愛しい息子である;彼において わたしは よしと思った」.

Mc 1,10-11 :

καὶ εὐθὺς ἀναβαίνων ἐκ τοῦ ὕδατος εἶδεν σχιζομένους τοὺς οὐρανοὺς καὶ τὸ πνεῦμα ὡς περιστερὰν καταβαῖνον εἰς αὐτόν· καὶ φωνὴ ἐγένετο ἐκ τῶν οὐρανῶν, Σὺ εἶ ὁ υἱός μου ὁ ἀγαπητός, ἐν σοὶ εὐδόκησα.

そして,すぐに水からあがると,彼は 見た 天が裂けるのを,そして,息吹が ハトのように 彼のうえへ くだるのを.そして,声が 天から 生じた:「おまえは わが愛しき息子である;おまえにおいて わたしは よしと思った」.

Lc 3,21-22 :

Ἐγένετο δὲ ἐν τῷ βαπτισθῆναι ἅπαντα τὸν λαὸν καὶ Ἰησοῦ βαπτισθέντος καὶ προσευχομένου ἀνεῳχθῆναι τὸν οὐρανὸν καὶ καταβῆναι τὸ πνεῦμα τὸ ἅγιον σωματικῷ εἴδει ὡς περιστερὰν ἐπ᾽ αὐτόν, καὶ φωνὴν ἐξ οὐρανοῦ γενέσθαι, Σὺ εἶ ὁ υἱός μου ὁ ἀγαπητός, ἐγὼ σήμερον γεγέννηκά σε*.

さて,このことが起きた:民がすべて洗礼を受けたとき,イェスも 洗礼を受けて 祈っていると,天が 開かれた;そして,聖なる息吹が くだった 身体的な形で ハトのように 彼のうえへ;そして,声が 天から 生じた:「おまえは わが愛しき息子である;わたしは 今日 おまえを 生んだ*」.

*) この最後の文は,Nestle-Aland Novum Testamentum Graece の本文では Mc 1,11 においてと同じく « σὺ εἶ ὁ υἱός μου ὁ ἀγαπητός, ἐν σοὶ εὐδόκησα » であるが,詩篇 2,07 からの引用である この « σὺ εἶ ὁ υἱός μου ὁ ἀγαπητός, ἐγὼ σήμερον γεγέννηκά σε » 非常に古い写本において見出されるものであり,Traduction œcuménique de la Bible では 本文に それが採用されている.

Jn 1,32-34

32 Καὶ ἐμαρτύρησεν Ἰωάννης λέγων ὅτι Τεθέαμαι τὸ πνεῦμα καταβαῖνον ὡς περιστερὰν ἐξ οὐρανοῦ καὶ ἔμεινεν ἐπ᾽ αὐτόν. 33 κἀγὼ οὐκ ᾔδειν αὐτόν, ἀλλ᾽ ὁ πέμψας με βαπτίζειν ἐν ὕδατι ἐκεῖνός μοι εἶπεν, Ἐφ᾽ ὃν ἂν ἴδῃς τὸ πνεῦμα καταβαῖνον καὶ μένον ἐπ᾽ αὐτόν, οὗτός ἐστιν ὁ βαπτίζων ἐν πνεύματι ἁγίῳ. 34 κἀγὼ ἑώρακα καὶ μεμαρτύρηκα ὅτι οὗτός ἐστιν ὁ υἱὸς τοῦ θεοῦ.

32 そして,ヨハネは,証しした こう言って:「わたしは このことを 見た:息吹が ハトのように 天からくだってきた;そして,彼のうえに とどまった.33 そして,わたしは 彼を知らなかった;しかし,わたしを遣わした方 わたしが水によって洗礼するために わたしを遣わした方 は,わたしに 言った:『もし おまえが このことを 息吹が ある者のうえへ くだり,そして その者のうえに とどまるのを 見たならば,その者は 聖なる息吹で洗礼する者である』.34 そして,わたしは 見た;そして,証しした:彼こそ 神の息子である」.

以上の四つの引用箇所のなかでは ヨハネ福音書の一節においてしか 洗礼者ヨハネは「イェスは 聖なる息吹で 洗礼する」と言っていないが,三つの共観福音書においても それぞれの引用箇所の少し前のところで「イェスは 聖なる息吹で 洗礼するだろう」または「聖なる息吹と火で 洗礼するだろう」と 彼は言っている.そして,福音記者ヨハネは「だが,イェス自身は洗礼しなかった;しかして,洗礼したのは 彼の弟子たちである」(4,02) と言っているので,イェスの「聖なる息吹と火による洗礼」は,使徒言行録 (2,01-04) に描かれてある〈イェスの昇天後の〉ペンテコステの日の出来事のことを指しているのであろう.あるいは,「火による洗礼」は 終末論的な出来事とも解釈され得るだろう.

また,四人の福音記者のうち「イェスは 洗礼者ヨハネによって 洗礼された」と明記しているのは,マタイとマルコのみである.ルカは,そう明記してはいないが,「イェスは,ほかの者たちと同様に,ヨハネにより洗礼された」と読むのが自然であるような書き方をしている.それに対して,ヨハネ福音書においては,洗礼者ヨハネは こう言っている:「わたしは 彼[イェス]を 知らなかった」[あるいは:わたしは彼を見たことがなかった];だが,「わたしを遣わした神は『もし おまえが〈息吹が ある者のうえへくだり,そして その者のうえに とどまるのを〉見たならば,その者は わが息子[あるいは,神の子羊]である』と わたしに あらかじめ告げていた;そして,実際,わたしは〈息吹が ハトのように 天からくだってきて,彼のうえにとどまったのを〉見た」.それゆえ,我々は ヨハネ福音書においては こう読むことができる:洗礼者ヨハネがイェスに水で洗礼を授けたのではなく,しかして,神が 聖なる息吹によって 直接 イェスに「洗礼」を授けたのだ もっとも,その場合は「洗礼」(βάπτισμα) という表現(それは「水のなかへ浸す」[ βαπτίζω ] ことを含意している)は もはや比喩的なものにすぎなくなる;実際に起きているのは このことである:神は 聖なる息吹を イェスに 授けた;あるいは,創世記 2,07 にならうなら:神は 聖なる息吹を イェスに 吹き込んだ.さらには,動詞 βαπτίζω の「浸す」という意味を保持するなら:神は 聖なる息吹のなかへ イェスを 浸した その場合,我々は,聖なる息吹が イェスを 包み込んでいる 光景を 想像してもよいだろう.

いずれにせよ,イェスの洗礼について語られている四つの箇所すべてにおいて,これらのことが確認される 1) 聖なる息吹が 彼へ くだる(洗礼者ヨハネがイェスに洗礼を授けたか否かにかかわりなく つまり,より本質的なのは このことである:父なる神が みづから 聖なる息吹によって イェスに 洗礼を授ける);そして 2)「イェスは神の息子である」ことが 宣言される.

つまり,「おとめ[処女]が,神の息吹により 神の息子を 受胎し,そして,彼を生んだ」という神話的な物語の 実存的な意義は,これである:ナザレのイェスは,神の息吹が 神から 彼へ 吹き込まれたことによって,神の息子と成った.

そして,神の息吹と神のロゴスとは相互に等価であれば,「ロゴスは肉となった」の実存的な意義も そのこと イェスは〈聖なる息吹(ロゴス)を 神から 授かったことによって〉神の息子となった ということ にほかならない.

我々は,神の息子 イェスの 存在の意義を そのように理解するとき,初めて,我々自身も 神の子 (τέκνα θεοῦ, υἱοὶ θεοῦ) と成り得る 聖なる息吹が 神から 我々へ 吹き込まれることによって ということを 信ずることができるだろう.実際,創世記 2,07 において,こう書かれてある:

そして,YHWH Elohim は,Adam ( אָדָם ) ( אֲדָמָה : adamah) 塵から 作った;そして,彼の鼻へ いのちの息( נִשְׁמַת חַיִּים : nishmath hayyim — 神の いのち[永遠の いのち]を与える 息)を 吹き入れた;そして,Adam 生きている いのち( נֶפֶשׁ חַיָּֽה : nephesh hayyah — 神に与えられた いのち[神の いのち,永遠の いのち]を生きている 地上的な いのち)に成った.

いかにも,そこで使われている単語は רוּחַ (ruach) ではなく,しかして נְשָׁמָה (neshamah) である;しかし,この場合,両者は 同義語(息,息吹)である.

創世記 1,27 の「そして,神は Adam 創造した彼の似姿に;神の似姿に 彼[神]は  (Adam)  創造した;男と女彼[神]は 彼らを 創造した」においては,息吹は言及されていない.しかし,もし 我々が 神の似姿であるように 創造されているのだとすれば,それは,神が 彼の息吹を 我々へ吹き込んでくれた そして,それによって,我々は 神のいのち(永遠のいのち : hayyim, ζωή)を 我々の地上的ないのち (nephesh, ψυχή) において 現に 生きている(必ずしも自覚的にではないが)からにほかならないだろう.

ヨハネ福音書 1 章における「イェスの洗礼」(洗礼者ヨハネによる証言)の 一節 (vv.29-34) に関して 次のことを 付言しておこう.神学者 Troels Engberg-Pedersen 彼の著書 John and Philosophy – A New Reading of the Forth Gospel (2017) において述べていることによると,こう考える神学者たちが 20世紀始め以来 幾人かいた:すなわち,福音記者ヨハネは,その一節 そこにおいては,洗礼者ヨハネは,彼の方へやってくるイェスを見て,「見よ,神の子羊 世の罪を取り除く者.彼こそは,わたしが その者について こう言ったところの者である:わたしの後に ひとりの男が 来る;彼は わたしより前に 成っていた;なぜなら このゆえに:彼は わたしより先に 源初において 存在していた」と言ったあと,先ほども見たように,聖なる息吹によるイェスの洗礼について 証しする において,「ロゴスは肉に成った」(v.14) とは何を言わんとしているのかを,説明している ロゴスと息吹とが等価的なものであることを前提にして.Troels Engberg-Pedersen 自身は,ロゴスと息吹との等価性を〈福音記者ヨハネに対するストア派の思考の影響に〉帰している.しかし,我々は,前稿において,詩篇の 33 および 147 章における 神の「ことば」と「息吹」との 詩的パラレリズムを 見た.詩篇の大多数は 紀元前 5 世紀 または 4 世紀より前に作られた,と 推定されている.ということは,ヘレニズム それがパレスチナ地域において支配的となるのは 紀元前 4 世紀の終わり以降のことである 詩篇への影響は 考えにくい.つまり,神の「ことば」と「息吹」との等価性は,ユダヤ教に本来的なものである,と 考えてよいだろう.

また「なぜ 聖なる息吹は ハトとして表象されるのか?」については,研究者たちの意見は一致を見ていないようであるが,Traduction œcuménique de la Bible において Mt 3,16 に付された脚注によると,ユダヤ教のラビたちの伝統のなかには このような解釈がある それは,創世記 1,02 の「そして,神の息吹が 水の面を 覆っていた」の 動詞 רָחַף (rachaph) — それは〈雌鶏が卵や雛のうえに「覆いかぶさる」ことを言うために〉用いられる を,そのように静的なものとしてではなく,しかして,より動的なものとして解釈することによって,そこに「ハトが飛び回っている」イメージを 見る.

 

旧約における 塗油と 息吹の降臨

ところで,ルカ福音書における 詩篇 2,07 の引用は,イェスの洗礼の 旧約的な文脈を 我々に 明示してくれる:すなわち,詩篇 2 章において YHWH が「わが息子」と呼んでいるのは,彼が 人間の女を孕ませることによって もうける子のことではなく,しかして,塗油された者( מָשִׁיחַ : mashiach, メシア — Ps 2,02 参照)となることによって イスラエルの王となる者のことである.

したがって,そこにおいては「わたしは 今日 おまえを生んだ」は,文字どおりの意味において言われているわけではなく,しかして,この謂である:おまえは 今日 塗油によって そして,それにともなって わたしの息吹 (Spiritus) おまえへくだったことによって わたしの filius spiritualis[精神的な息子,息吹の恵みにもとづく父子関係における息子]になった.

それゆえ,我々は こう言うことができるだろう:詩篇 2 章の「おまえは わが息子である;わたしは 今日 おまえを生んだ」を 文字どおりに取るならば,我々は,マリアの処女懐胎とイェスの誕生の神話的物語を得ることになる;それに対して,それを spiritual な意味において取るならば,我々は,イェスの洗礼の場面を得ることになる.

とはいえ,詩篇 2 章においては「聖なる息吹がくだる」ことについては何も言及されていない.しかし,我々は,ダヴィデの塗油の場面 (1 S 16,13) において,こう書かれてあるのを 見出す:

そして,サムエルは,油を入れた角[つの]を取り,彼[ダヴィデ]に 塗油した 彼の兄弟たちのただなかで.すると,YHWH 息吹が ダヴィデのうえへ 襲いかかるようになった その日以来.

そこにおいて「襲いかかる」と訳された動詞 צָלֵחַ (tsaleach) は,ヘブライ語聖書において その意味で用いられるとき,主語として「神の息吹」を必ず取る.そして,それは,福音書において「ハトの姿で天から降りてくる」と言われているような優しげな動きではなく,しかして,激しい攻撃的な動きを表している(あとで見るように,サウルは 神の息吹に襲われると 憑依状態に陥る).

また,ソロモンの場合には,預言者ナタンと祭司ツァドクとによる塗油 (1 R 1,39) の直後には「聖なる息吹が彼に襲いかかった」と言われてはいないが,しかし,その場面より少し後(第 3 章)で,彼の夢に現れた YHWH が,彼の求めに応じて「賢明にして 洞察力のある 心」[ לֵב חָכָם וְנָבוֹן ] (v.12) 言い換えれば「神の知恵」[ חָכְמַת אֱלֹהִים ] (v.28) すなわち「神の息吹」を 彼に 直接 授けている.

ダヴィデの場合とソロモンの場合を見たので,加えて,イスラエルの最初の王 サウルの場合をも 改めて見てみると,興味深い差異に気づくことができる.YHWH の命令にしたがって,預言者サムエルは サウルの頭に 油を注ぐ (1 S 10,01). すると,神の息吹が彼に襲いかかり,彼は「預言する」(ibid. v.10).

そこにおいて「預言する」と訳された נָבָא (naba) は「預言者」( נָבִיא : nabi ) の語源である動詞であるが,それは「神の息吹の作用のもとで憑依状態にある」ことを含意している(使徒言行録に描かれているペンテコステ[聖霊降臨]の場面を 想起 いわゆる異言は一種の憑依状態にほかならない).それゆえ,Robert Alter その語を “go into ecstasy”[エクスタシーへ入る]と訳している.そのような状態の劇的な様子は,「神の息吹が襲いかかる」という表現の激しさと よく合致している.しかし,ダヴィデとソロモンについては,彼らが「聖なる息吹に襲われたことによって 憑依状態に入った」とは述べられていない.そのことは,サウルが 悪い意味において ダヴィデおよびソロモンとは異なっていることを 示唆しているのだろう;というのも,神は サウルには「悪しき息吹」をも送るからである.

実際,ヘブライ語聖書では,神は「悪しき息吹」( רוּחַ רָעָה : ruach raa ) を人間へ送ることもある(福音書にも「悪しき息吹」[πνεῦμα πονηρόν] や「不浄な息吹」[πνεῦμα ἀκάθαρτον] — それらは「悪霊」[ δαίμων ないし δαιμόνιον ] とも呼ばれる が登場するが,それらは「神から送られたもの」と書かれてはいない).サウルが神の命令に背いたとき,神は,サウルの代わりに ダヴィデを イスラエルの王とするために,預言者サムエルに〈ダヴィデに塗油するよう〉命ずる(そして,上に引用したように,その塗油以来,神の息吹がダヴィデに襲いかかるようになる).それに対して「YHWH の息吹は サウルから 立ち去った;そして,YHWH からの 悪しき息吹が 彼を恐怖に陥れるようになった」(1 S 16,14)[今なら「サウルは 不安発作(パニック)を起こすようになった」と言うだろう].そのようなサウルの気を鎮めるために,ダヴィデが 竪琴奏者として サウルのもとに 連れて来られる.そして,ダヴィデは サウルに気に入られる.しかし,ゴリアトを討ちとったダヴィデの名声が高まると,サウルは ダヴィデを妬むようになる.そして,「悪しき〈神の〉息吹が サウルに襲いかかった;すると,彼は 家のなかで 預言した[つまり 憑依状態に陥った];ダヴィデは いつものように 彼の手で[竪琴を]奏でた;だが,サウルの手には 槍があった.そして,サウルは 槍を[ダヴィデに向かって]投げた;そして,言った:『わたしは ダヴィデを 壁へ 串刺しにしよう』.ダヴィデは サウル[の攻撃]を 二度 かわした」(idem 18,10-11). つまり,神から送られてきた悪しき息吹は,サウルに正気を失わせる(その点に関しては,福音書に物語られている「悪しき息吹」も同様である).

 

イェスの塗油 

ところで,ダヴィデとソロモンの聖別 まず 預言者が塗油し,次いで 息吹が降る の場面を イェスの洗礼の場面と 比較すると,我々は このことに気づく:神の息吹が授けられることは 両場面に共通しているが,しかし,福音書のなかでは,塗油が息吹の降臨に先立つことはない.では,イェスに対する塗油は 如何に? それは,彼の受難の直前に 成される(ルカ福音書を除いて)誰によって? ひとりの女によって(この記事を参照):彼女は,三つの共観福音書においては 匿名であり,ルカにおいては「彼女は罪人であった」と付言されている;それに対して,ヨハネにおいては 彼女は「ベタニアのマリア」と同定されている.そして,ルカ以外の三つの福音書においては,その女による塗油には「イェスの埋葬の準備」という意義が イェス自身によって 与えられている.

しかるに,ヘブライ語聖書においては,塗油は〈イスラエルの王となる者を その即位に先立って 聖別するために〉預言者によって なされる;そして,それによって,塗油された者は「メシア」( מָשִׁיחַ , Χριστός ) として公認される.それにしたがうなら,イェスの塗油は,彼の公的な活動の開始に先立つ彼の洗礼の際に 同時に行われていてもよかったはずである それによって,彼が「メシア,すなわち キリスト」であることは 公に宣言されたであろうから.ところが,そうはならなかった.何故か? 塗油をおこなうにふさわしい預言者がいなかったからである 洗礼者ヨハネも「わたしは預言者ではない」と断言している.では,なぜ預言者がいなかったのか? なぜなら 彼らは 殺されてしまっていたから (cf. Mt 29-36).

かくして,イェスの塗油は,彼の公的な活動の始まりのときにではなく,その終りのときに おこなわれた;しかも,預言者によってではなく,ひとりの女によって 彼女は,何の権威も権限も有していない(彼女の〈イェスに対する〉愛以外には)にもかかわらず.しかし,彼女は,イェスに問われて「あなたはメシアです」(Mc 8,29) と彼に答えたペトロよりも より公に(なぜなら そこには イェスの弟子たちだけでなく,彼ら以外の者たち 特に ファリサイ人たち もいたから),彼女の無言の預言者的行為によって,イェスを「メシア」と宣言したのである 彼の埋葬の準備と同時に.もし イェスが「福音が 全世界に 宣べ伝えられるとき,どこにおいても,彼女が為したことは 物語られるだろう 彼女の記念のために」と言ったとすれば,それは,彼女の行為が,埋葬準備という意義だけでなく,しかして,まさに メシア宣言という意義をも有していたからであろう.

 

三位一体の実存論的意義

以上,神の息吹による「洗礼」それによって 神の「息子」が誕生する および それに関連することがらを 詳しく見返してきた;なぜなら このゆえに:神のロゴスと息吹とが相互に等価なものであるとすれば,「ロゴスは肉と成った」とは その事態 ひとりの人間に神の息吹が授けられることにより その者は神の「息子」となる という事態 にほかならない;そして,そのことこそが 父なる神と 神の息吹と 神の息子との三位一体の可能性の条件である なぜなら それによって 初めて 神の息子は誕生するのだから.

いかにも,「イェス キリストは まことの神であり かつ まことの人間である」(Catechismus Catholicae Ecclesiae #464). そして,そこには「源初以来 そうである」ということも 含意されている.実際,ニケアコンスタンチノープル信条は「主 イェス キリストは,すべての時代よりもまえに,父から生まれた」と断言している.しかし,もし 我々が ナザレのイェスの存在を単に神話的なものと見なすことに甘んじないとすれば,我々は,実際に人間として生きていた彼を 如何なる人物と考えることができるだろうか?

こう想像してみよう:ガリラヤ地方(David Bivin によれば,当時のガリラヤ地方は,イェルサレムよりも より都市的であり,ヘレニズムやローマの文化に対して より開かれており,教育水準も より高かった)で育ち,地元のシナゴーグの付属学校で教育を受け,さらに,優れたラビのもとで修練を経験し,そして,慣例どおりに 30 歳ころに みづから ラビとして 公的な活動を開始することになる Yeshua ben Yosef[ヨセフの息子 イェス]は,あるとき,祈りにおいて,息吹の洗礼によって「神の息子」と成ったことを 自覚する.その「あるとき」は ひとつの劇的な瞬間であったかもしれないし,あるいは,彼は,ラビとなるための厳しい修行の年々をとおして「神の息子」であることに目覚めていったのかもしれない.いずれにせよ,特に 詩篇 2,07 の「おまえは わが息子である;わたしは 今日 おまえを生んだ」は 彼に 決定的な inspiration[息吹の吹入]を与えただろう.

しかも,彼にとって「神の息子」である ということは,単に〈栄光に満ちた〉メシアであることを意義するだけではなく,しかして,第 2 イザヤ書 (Is 52,13 – 53,12) で提示されている「主のしもべ」彼は,神の意志にしたがって〈人間すべての代わりに 彼らの罪を引き受け,自身を 子羊のように 贖いのいけにえとして献げることによって〉人間すべてに救済をもたらし,そして,彼自身 高められ,永遠のいのちを生きることになる であることをも 意義する.

かくして,彼は,救済論 人間は如何に救済され得るか に,終末論との連関において,このコペルニクス的な転回を もたらす:すなわち,救済は〈個々人が ことこまかな律法の規定に忠実に従って 生活し,律法が定めるとおりに 家畜や穀物の いけにえを 神に 定期的に捧げ続けることによって〉個別的に得られるのではない;そうではなく,神が〈神の 人間に対する 愛のゆえに〉神自身の意志によって 人間すべてに 終末論的な救済を 与える しかも,人間にとっては 無償で なぜなら 神が みづから その代価を 人間のために 支払ってくれるから:すなわち,人間を贖うために,神が 神自身の〈人間である〉息子[בֶן־אָדָם , Ben Adam, 人の子]を いけにえとして 神自身に 捧げる しかも,繰り返してではなく,一回限り なぜなら このゆえに:それで十分である 全人類の終末論的な救済の完成ために.そして,彼[イェス]自身は〈死から 永遠のいのちへ 復活することを〉報いとして 父から与えられる.

そのような救済論は,民衆からは熱烈に支持されるであろうが,イェルサレムでは神殿祭司(サドカイ人)たちからも律法学者(ファリサイ人)たちからも激しい反発を惹起するだろう,ということを,イェスは 当然 始めから 計算に入れている.しかも,自身をいけにえとして捧げるために十字架上で処刑されるためには,それだけでは足りない;ローマ帝国に対する反逆者と見なされねばならない;そこで,イェスは,彼の周りに形成される弟子たちの集団を わざと「神の王国」ないし「天の王国」と呼ぶ それが あたかも ユダヤ民族国家の独立を目ざす政治的な動きであるかのように 見せるために;そして,実際,ローマ帝国に対する反乱をもくろむ勢力は 彼を「ユダヤ人たちの王」として担ぎ上げようとする.かくして,イェスの意図どおりに,彼の救済論は 実現される 彼が 十字架上で 全人類の贖いのために 神に献げられる いけにえとして 屠られることによって.

ともあれ,論を三位一体に戻すなら,イェスがひとりの人間として生きていたときには,三位一体は 父なる神と 聖なる息吹と 神の〈人間である〉息子 (Ben Adam) とから成っている そこにおいて ひとりの人間を神の息子とするのは 息吹の洗礼(ロゴスの受肉)であり,そして,その意味において,息吹は 神と Ben Adam との 父子関係の 媒介である.

三位一体をそのようなものと取るなら,それは 旧約聖書にも見出される:たとえば,ダヴィデも ソロモンも そのような三位一体における 神の Ben Adam である.

勿論,伝統的にも 現在も,キリスト教神学において「三位一体」と言えば,それは「神の三位一体」である.ただし,そこにおける 神の息子は,「死者たちのなかから復活し,天へ昇り,父なる神の右に座した」限りにおける イェス キリストである.いかにも,彼は「まことの神 かつ まことの人間」であることにおいて「唯一の〈神と人間との間の〉媒介者」(CCE #480) である.だが,ということは,こういうことである:これら四者 神の息子,神の息吹,神のことば,神の知恵 は,いづれも,神と人間との間の媒介として 機能することにおいては,相互に等価である.実際,今,イェスは もはや 天へ去ってしまい,そして,彼自身の代わりに 聖なる息吹を Παράκλητος[弁護してくれる者,慰めてくれる者]として 我々に 遣わしてくれている;また,使徒パウロは,コリントの信徒たちへの第一書簡において,イェス キリストを「神の力 かつ 神の知恵」(1,24) と呼び,さらに,こうも言っている (15,45) :

Ἐγένετο ὁ πρῶτος ἄνθρωπος Ἀδὰμ εἰς ψυχὴν ζῶσαν, ὁ ἔσχατος Ἀδὰμ εἰς πνεῦμα ζῳοποιοῦν.

源初の人間 アダムは nephesh hayyah[神のいのちを生きている地上的ないのち]になった;終末のアダム[すなわち イェス キリスト]は いのちを成す[いのちを与える]息吹になった.

しかし,だからといって,三位一体を構成する persona (hypostasis) としては,神の息子と神の息吹とは 当然ながら 同一であるわけではない なぜなら,神の息子は,神のことばの受肉として,からだ (corpus) を有しているから(神の息吹が鳩に譬えられるとしても,それは ひとつの比喩でしかない).

では,からだを有するものとしての 神の息子 キリストは,どこに どのような様態において 存在しているのか? 勿論,天へ昇って 父の右に座している イェス自身を 身体的な存在として 直接 見ることは 我々にとっては 不可能である.だが,その代わりに,我々は 身体的なものとしてのキリストに これらのものとして 出会う:教会,聖体,我々の隣人 特に「飢えている者たち,渇いている者たち,よそ者たち,着るものの無い者たち,病む者たち,投獄されている者たち」等々 (cf. Mt 25,31-46), そして,我々自身 — 我々が,神からいのちを授かり,洗礼を受け,キリストのからだとしての聖体をいただくことによって,みづからも キリストと同様に「神の子」である限りにおいて

それゆえ,三位一体は,確かに「神の三位一体」(Divina Trinitas) ではあるが,しかし,その拡大された意義においては その実存的な意義においては 「神の息子」の persona は「神の〈人間である〉息子」(Ben Adam) としての 我々 人間 自身である.

そして,そのように 三位一体を その実存的な意義において 捉えるとき,初めて,我々は,秘跡において 人間と神との交わりが 聖なる息吹の媒介によって 実現されることを,キリスト教の教義の最も根本的な概念のひとつである 三位一体のなかに 基礎づけることができるだろう.

 

付:三位一体の図式化

 

本稿の
冒頭に掲げたのは,二種類の〈三位一体の〉図式化である.左側は,Scutum Fidei[信仰の楯:使徒パウロのエフェソの信徒たちへの書簡 6,16 に見出される ὁ θυρεὸς τῆς πίστεως ラテン語訳]と呼ばれるものである;より単純な三角形 その三つの角に 三つの personae 位置づけられる の図式は,12世紀の始めの文献に 見出され,Scutum Fidei の図式そのものは 13世紀の始めの文献に 見出され,そして,それは,15-16世紀には 広く 写本やステンドグラスで 用いられるようになる.

右側は,三つ輪のボロメオ結びによる 三位一体の図式化である.Adolphe-Napoléon Didron (1806-1867) は,彼の著作 Histoire de Dieu Iconographie chrétienne (1844) において,その図を〈13世紀の終りに制作された写本に 挿絵のひとつとして 見出されるもの と〉紹介している.

三つ輪のボロメオ結びにおいては,三つの輪は このように結合されている:すなわち,三つの輪のうちの任意のひとつを切断すれば,ほかのふたつの輪は,からみあってはいないので,相互に独立する.つまり,三つの輪のうちの任意のふたつは 相互にからみあってはいないにもかかわらず,第三の輪の媒介によって それらは連結されており,三つの輪は その全体において ひとつの結びめを成している.


三つ輪のボロメオ結びによって
三位一体を考えるなら,父の輪と 息子の輪は,相互に独立しているが,息吹の輪の媒介によって,三位一体を成すよう ボロメオ的に結び合わされている.そのような結合は,三位一体 そこにおいては,三つの ὑποστάσεις (hypostases) が,相異なるものでありながらも 相互に ὁμοούσιοι (consubstantiales) であり,すなわち,三にして一である の構造を うまく図式化している.

2023年9月25日

Lacan の 教えにおける「欲望」について


四つの言説 (Les Quatre Discours)

Lacan の 教えにおける「欲望」について



Lacan 命題「人間の欲望は 他の欲望である」(le désir de l’homme est le désir de l’Autre) 説明するよう,最近,ある人から 求められた;そこで,ここで それに答えよう.

Lacan 教えにおける「欲望」(désir) の概念は,ふたつの根を有している ひとつは Freud, もうひとつは Hegel. それぞれについて 見てゆこう.


I. Freud における 欲望


Freud の著作のなかで,欲望の概念との関連において,Lacan 特に 我々の注意を向けさせるのは,『夢解釈』の VII 章の セクション E「一次過程と二次過程 排斥」における この文である:

(…) bleibt der Kern unseres Wesens, aus unbewußten Wunschregungen bestehend, unfaßbar und unhemmbar (…)

無意識的な欲望活動から成る〈我々の存在の〉中核は,把握不可能かつ制止不可能なままである.

その文のすぐあとに,Freud は「欲望活動」(Wunschregungen) 第三の形容詞 unzerstörbar[破壊不可能]を付加している.そして,「破壊不可能な欲望」(der unzerstörbare Wunsch) という表現は『夢解釈』全体の最後の文のなかに 見出される その表現にも注目するよう,Lacan 我々を促している.

いかにも,Wunsch という単語の翻訳は,英語では wish, フランス語では souhait または vœu, 日本語では「願望」である;それは,のちほど見るように,Hegel が用いた Begierde[欲望]とは異なる語であり,両者の意味あいも相異なる(両者の差異は,日本語の「願望」と「欲望」との差異と ほぼ 重なる すなわち,我々は,たいてい,我々の「願望」を 誰か他者に言うことはできるが,しかるに,我々の「欲望」については 必ずしも そうではない).

しかし,Lacan は,Freud Wunsch désir と翻訳し続ける.そもそも,Freud フランスに紹介された当初から,Wunsch désir と翻訳されてきたし,今も そう翻訳され続けている.Freud をフランス語訳で読む者たちに souhait という訳語を押しつけたのは,Freud から「ラカン臭」を一掃しようとした Jean Laplanche が監修した フランス語版「フロィト全集」(PUF) である.

ところで,なぜ Freud Begierde を用いなかったのか? それは,おそらく,当時,ヴィクトリア時代の保守的な性道徳が 欧州全体において なおも支配的であったからだろう.それゆえ,Freud は「欲望」を libido というラテン語の衣装を着せてしか 用いなかった(言い換えれば,その形においてであれば Freud も「欲望」について論じている).

また,Lacan は,Freud Trieb[本能] 特に Todestrieb[死の本能] 非生物学的なものとして論ずるためにも,désir を用いる.特に そのことが見て取れるのは,Lacan が「昇華」(sublimation) について論ずるときである;なぜなら,Freud においては 昇華は「本能の昇華」(Triebsublimierung) であるが,それに対して Lacan は「欲望の昇華」(la sublimation du désir) について問うているから.

それにしても,「無意識的な欲望」とは 何であろうか それが「把握不可能,制止不可能,破壊不可能」であるとするなら? それは「無意識的」であるから,そのものとしては「把握不可能」である なるほど.そして,それは 何らかの 抑えがたい(制止不可能な)Zwang[強制,強迫]として 自身を押しつけてくる 確かに.しかし,それが「破壊不可能」である とは,いったい 如何なることであり得るのか?

その問いの答えは,Freud の「我々の存在の中核は,無意識的な欲望から成っている」という命題のなかに 見出され得る というのも,それは このことを示唆しているから :「欲望」は「生物学的」なものでも「心理学的」なものでもなく,しかして,「存在論的」なものである 我々の用語で言うなら「否定存在論的」(apophatico-ontologique) なものである.

そして,それがゆえにも,Lacan は,精神分析における「欲望」について問うために,Hegel の『精神の現象学』(Phänomenologie des Geistes) の「自己意識」(Selbstbewußtsein) の章(第 IV 章)に 準拠する;なぜなら そこにおいて Hegel は「自己意識」 欲望 (Begierde) として 措定しているから.


II. Hegel における 欲望


Hegel は Phänomenologie des Geistes  IV 章において,自己意識を 欲望として 措定している.

「意識」や「自己意識」という語を聞くと,誰しも すぐさま「認識」(Erkennen) を連想する.いかにも,Kant だけでなく,Hegel も「認識」について論じてはいる.しかし,ドイツ語の「意識」(Be-Wußt-Sein) という語に〈「意識」においてかかわっているのは「知」(Wissen) と「存在」(Sein) との関係である〉ということが 明瞭に見て取れるように,Hegel においては「意識」は gnoséologique なものというよりは,むしろ épistémologique なものである.

さて,Hegel が「自己意識」を 欲望として 措定するときその欲望はまずは 不満足の状態にある なぜなら このゆえに当初自己意識において,彼自身の存在の真理と 知とは 分裂しているTrennung des Wissens und der Wahrheit : 知と真理との分離 — Phänomenologie des Geistes の Vorrede において用いられている表現 ; Lacan そこから « division entre le savoir et la vérité »[知と真理との間の裂けめ]という表現を 作りだしている [cf. Écrits, p.856]).

次いで,Hegel は,如何に 欲望が,不満足の状態(知と真理との分裂)から出発して,das absolute Wissen[絶対知:知が真理と完全に等合的となる状態]において 満足 (Befriedigung) に達することになるかを 論じてゆくのだが,その過程は 単純に「知が ひとりで 学習する」というようなものではなく,しかして dialektisch[弁証法的]である.そのことを,彼は「自己意識」の章において こう公式化している:

Das Selbstbewußtsein erreicht seine Befriedigung nur in einem anderen Selbstbewußtsein.

自己意識が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識においてのみである.

その Hegel の命題についてコメントしつつ,Alexandre Kojève 彼の Introduction à la lecture de Hegel[ヘーゲル読解入門]において,こう言っている

Le Désir humain doit porter sur un autre Désir.

人間の欲望は,[満足に到達するためには]もうひとつのほかの欲望に かかわらねばならない.

そこにおいて,Kojève は「自己意識」を「欲望」と 言い換えている それは まったく正当なことである;なぜなら Hegel 自身が そうしているのだから.

Kojève にならうなら,我々は,Hegel の命題を こう言い換えることができる:

Le désir humain n’atteint sa satisfaction que dans un autre désir.

人間の欲望が 満足を達成するのは,もうひとつのほかの欲望においてのみである.

その命題を 我々は さらに こう言い換えよう:

Le désir de l’homme n’atteint la jouissance que dans le désir de l’Autre.

人間の欲望が 悦を達成するのは,他の欲望においてのみである.

見よ,いかにもラカン的な命題 ! 実際,彼の 1953年の ローマ講演のなかに この命題が 見出される (Écrits, p.268) :

Le désir de l’homme trouve son sens dans le désir de l’autre.

人間の欲望は 自身の意味を 他の欲望のなかに 見出す.

その命題のなかの sens[意味]という語は,我々に〈Lacan 彼の 1973年の Télévision において 言及している この曖昧表現 jouissance[悦]と jouis-sens[悦-意味] を〉思い起こさせる.それに従うなら:

Le désir de l’homme trouve la jouissance dans le désir de l’Autre.

人間の欲望は,他の欲望のなかに 悦を 見出す.

ともあれ,以上から 我々は,Lacan の「人間の欲望は 他の欲望である」は Hegel 「自己意識が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識においてのみである」 その命題に Lacan Kojève 1933年から 1939年まで École pratique des Hautes Études でおこなった Phänomenologie des Geistes の読解の講義において 出会ったはずである 出発点としている,と 推察することができる.そして,Lacan が「無意識的な欲望は 他の欲望である」(le désir inconscient est le désir de l’Autre) とも言っていることから,我々は こう推論することができる:我々の存在の中核を成すものとしての欲望は,他の欲望にほかならない.

さて,では,この Hegel の「自己意識が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識においてのみである」という命題は 如何に解釈され得るであろうか? とりわけ,そこで言及されている「満足」(Befriedigung) とは 如何なるものであるのか?

それらの問いに答えるための鍵は,これらのことに見出され得る : 1) Hegel は,Phänomenologie des Geistes において,「絶対知」にかかわる最終章の ひとつ前の章(第 VII 章)において,宗教について 論じている ; 2) Kojève は Phänomenologie des Geistes の読解の講義を「ヘーゲルの宗教哲学」(La Philosophie Religieuse de Hegel) という表題のもとに おこなっている.

それらのことが示唆しているのは,このことである : Phänomenologie des Geistes  のみならず,Hegel 哲学 全体は 彼の宗教哲学の観点から 読み返されるべきである.

そして,実際,Hegel は,彼の Vorlesungen über die Philosophie der Religion宗教哲学講義 彼はその講義を,ベルリン大学の哲学教授への就任の 3 年後の 1821 秋から 1831 11月に 61歳で 病死(当時 ベルリンで流行していたコレラに感染して,または,何らかの消化器疾患[胃癌?]によって)するまでの 間に,ほぼ 3 年毎に,4 学期 または 4 学年にわたって (1821, 1824, 1827, 1831) おこなっている]の 1824年の講義において,こう言っている:

In der Philosophie, welche Theologie ist, ist es einzig nur darum zu tun, die Vernunft der Religion zu zeigen.

哲学 それは 神学である においては,唯一 このことのみが かかわっている:宗教の理性を示すこと.

また,1827年の講義においては こう言っている:

Der Gegenstand der Religion wie der Philosophie ist die ewige Wahrheit in ihrer Objektivität, Gott und nichts als Gott und die Explikation Gottes. (…) So fallen Religion und Philosophie in eins zusammen. Die Philosophie ist in der Tat selbst Gottesdienst, wie die Religion.

宗教の対象も 哲学の対象も,それそのものにおける 永遠なる真理である;つまり,神であり,神以外の何ものでもない;そして,神を明示することである.(…) それゆえ,宗教と哲学とは ひとつのものへ 一致する.哲学は,実は,それ自体,神への奉仕[礼拝]である 宗教と同様に.

以上のような Hegel の言葉を聞くと,あなたは驚くかもしれない.しかし,そのこと 哲学と宗教(ないし 神学)との一致 は,Heidegger においても うかがえることである(Heidegger 自身は Hegel のように 明言してはいないとしても,彼が「存在」について問うとき,彼は「神」について問うているに ほかならない).そして,Hegel における 哲学と宗教との一致は,実は,既に,Phänomenologie des Geistes の 書題において 示唆されている — Geist という語によって.

ただし,あなたが Geist を「精神」と邦訳してしまうと,あなたは その語の宗教的な意義を まったく見失ってしまう.しかるに,Geist は,唯一神の宗教(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教)においては,der Heilige Geist (τὸ ἅγιον πνεῦμα, Sanctus Spiritus) である(それを「聖霊」と邦訳することが如何に不適切であるかについては,このブログ記事を参照)— つまり,神の息吹である.そして,聖書においては,神の「息吹」( רוּחַ , πνεῦμα, Spiritus ) と「ことば」( דָּבָר , λόγος, Verbum ) と「知恵」( חָכְמָה , σοφία, Sapientia ) とは,相互に等価なものである(このブログ記事を参照).

「ことば」や「知恵」の代わりに,我々は「知」(Wissen) と言ってもよいだろう;そして,実際,Hegel そうしている であればこそ,Hegel は,Phänomenologie des Geistes を,弁証法的な〈知の〉歩み 最も単純で直接的な知から出発して,弁証法的な過程を経て,次第に自身を豊かにしてゆき,ついには 神を完全に知る絶対知へ至る 知の歩み として 展開しているのである.

さて,以上のことを踏まえるなら,Hegel 命題:「自己意識が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識においてのみである」は,如何に解釈され得るだろうか? 我々は こう読む:ひとつめの「自己意識」は 人間,「もうひとりのほかの自己意識」は 神,そして,そこにおいてかかわっている満足は,何らかの地上的な満足でも 性的な満足でも あり得ず,しかして,「神を識る」こと (γνῶσις ἢ ἐπίγνωσις τοῦ θεοῦ) の満足である.

また,自己意識は欲望であれば,ひとつめの「自己意識」は「人間の〈神を識ることの〉欲望」,「もうひとりのほかの自己意識」は「神の〈人間を識ることの〉欲望」と解釈され得る.

その場合,「識る」( יָדַע , γιγνώσκειν ) は,単に「かかわっている対象に関する情報を得る」ということではない;そうではなく,〈それが「そして,Adam 彼の妻 Eva 識った;そして,彼女は妊娠した」(Gn 4,01) という文において用いられていることが 示唆しているように〉それは,「かかわっている対象と とても親密な関係(交わり : κοινωνία — 場合によって 性的な交わり)を 持つ その対象のことを とてもよく識り得るほどに」ということである.

では,なぜ「識りたい」のか? それは,愛しているからである.そして,「愛は 神に由来する」(1 Jn 4,07)  なぜなら このゆえに :「神は愛である」(ibid., v.08). それゆえ,「[まず]我々が神を愛したのではない;しかして[まず]神が我々を愛したのだ」(ibid., v.10) ;「我々は[神を]愛する なぜなら このゆえに:最初に 神が 我々を 愛した」(ibid., v.19).

それゆえ,人間が神を愛するのは,まず神が人間を愛しているからである;人間が神を識りたいのは,まず神が人間を識りたいからである.そして,人間の〈神を識りたいという〉欲望は,神の〈人間を識りたい〉という欲望において,満足 — γνῶσις の満足,κοινωνία の満足,愛の満足 を達成する;そして,Lacan は「愛は 欲望の昇華である」(l’amour est la sublimation du désir) と公式化しているのであれば,その満足は,まさに「昇華の悦」(la jouissance de sublimation) である.そこにこそ,欲望の弁証法の終結は 存する.


III. 欲望の 否定存在論的トポロジー


Hegel 自己意識 (Selbst-bewußt-Sein) を「欲望」と 規定したことが示唆しているように,精神分析においてかかわっている「欲望」— Freud が「無意識的な欲望」と呼んだもの は,Seyn[抹消された存在]としての 主体 $ そのもの 主体 $ 穴,すなわち,否定存在論的孔穴 である.

それは,存在の歴史(主体 $ 穴の 弁証法的-現象学的 過程)の 源初論的位相(支配者の言説の構造)においては,中心的な場所 — Freud 言う「我々の存在の中核」 口を開いている(支配者の言説の構造を参照).それが「破壊不可能」であるのは,その穴は,源初論的であるので,なかったことにすることはできない 閉塞不可能 かつ 隠蔽不可能である ということである.

次いで,その穴は,形而上学的な支配者徴示素 S1(まずは,Platon ἰδέα, 次いで,その さまざまな後継概念)によって 閉塞される(もっとも,本当に閉塞されるわけではなく,しかして,あたかも閉塞されたかのように見えるだけだが); そして,それとともに,主体 $ は,支配者徴示素 S1 によって,「書かれないことをやめないもの」の在所へ 排斥される(源初排斥 : Urverdrängung; そして,それによって,存在の歴史の形而上学的位相(大学の言説の構造)が 成立する.つまり,大学の言説の構造における 主体 $ は,源初排斥された欲望である.

そこにおいては,主体-欲望 $ は,自我 S2 から見て,他の側に位置する.つまり,主体-欲望 $ 異化 [ aliénation ] されている(異状 [ aliénation ] 構造).そして,それがゆえに,それは「他の欲望」(le désir de l’Autre) となっている.

形而上学的位相の構造は,歴史学において「古典主義時代」と呼ばれる時期が過ぎ去るとともに,不安定になる なぜなら このゆえに:科学の言説と資本主義の言説が支配的となってくるにともなって,従来の 形而上学的な支配者徴示素 S1 による 否定存在論的孔穴の閉塞の 有効性が 失われ,穴は開出してこようとする.それに対して,さまざまな 新たな形而上学的支配者徴示素 S1 の措定によって,形而上学的位相は 何とか維持されてゆく(最終的に Nietzsche に至るまで).しかし,存在の歴史は,必然的に,形而上学的位相(大学の言説の構造)から 終末論的位相(分析家の言説の構造)へ 進もうとする.それに対しては〈その動きを防御 (Abwehr) しようとする〉強い抵抗 (Widerstand) が働く なぜなら,その動きは 強い不安 死の不安,無の不安,罪の不安 惹起するから.

精神分析家は,分析者(精神分析の患者)が〈そのような防御と抵抗にもかかわらず さまざまな形で伝わってくる「存在 $ ことば」(das Word des Seyns) を〉聴き取ることを 助け,そして,それによって 終末論的位相への構造転換を促そうとする.

そして,分析家の言説の構造(分離の構造)において,昇華の悦 すなわち,Hegel が「自己意識[欲望]が 満足を達成するのは,もうひとりのほかの自己意識[他の欲望]においてのみである」と言うときに かかわっている「満足」 達成される.

昇華の構造は,分析家の言説の構造の右半分の部分 $ / S1 によって 表されている.そこにおいて,S1 は「書かれないことをやめないもの」の座へ 閉出された 父の名(神の名)である.それは 神の〈人間を識りたい という〉欲望を表している.それに対して,開出してきた 主体-欲望 $ 穴は,人間の〈神を識りたい という〉欲望である.$ / S1 の構造において,$ S1 代理しており,そのことにおいて,$ S1 と交わっている.そこに,昇華の悦 人間の欲望が〈神の欲望と 交わり,一致することによって〉神の欲望において 達成する 存する.

Hegel は,大学の言説の構造における $ の座(書かれないことをやめないものの座)に 絶対知を 仮定していた (le sujet supposé savoir) ; そして,その限りにおいて,Phänomenologie des Geistes の終結を,絶対知の実現 絶対知が 分析家の言説の構造における $ の座(書かれることをやめないものの座)へ 現れ出てくること に見ていた.しかし,それは,彼の形而上学的な思いこみである.実際には,絶対知は 不可能である.大学の言説から 分析家の言説への 構造転換において,書かれることをやめないものの座へ開出してくるのは,穴 — 主体-欲望 $ 穴 — である(ただし,その穴のエッジは 単純なな輪を成すのではなく,しかして,三つ葉結び [nœud de trèfle ] を成すのだが).そして,それを Lacan は「分析家の欲望」(le désir de lanalyste) と呼ぶ.それは,精神分析の終結において成起する 昇華された欲望 (le désir sublimé) である.

ところで,先ほどは,神の欲望を「人間を識りたい」という欲望として 提示したが,それは,つまるところ,人間たちを すべて 救済したい という 欲望である.開出してきた 主体-欲望 $ 穴は,神の欲望 人間たちすべてを救済したいという欲望 を代理する 人間の欲望である.神による人間の救済は,そのように 神の欲望を代理する人間 神の代理人となる人間 によって,実行される.神の代理人は,聖職者に限らない.唯一神の宗教(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教)の 信者たちは すべて 神の代理人であり得る.我々の希望は そこに存する.