2020年7月9日

フロィトの症例の再検討 東京ラカン塾 精神分析 ウェビナー 2020年04-06月

Jean-Auguste-Dominique INGRES (1780-1867)
Oedipe explique l'énigme du sphinx (1808)


この絵の小さな複製が,Berggasse 19 の Freud の診察室の壁に 掛けられていた:

1938年,London への亡命の直前に 撮影された Freud の診察室の様子.寝椅子の向こう側の壁に掛けられたタペストリーの右上の隅のところに Ingres の Oedipus の小さな複製が掛けられているのが見える.


フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方

フロィトの症例の再検討




2020年の04月から06月の三ヶ月間,我々は,Zoom Webinar として行われた 東京ラカン塾 精神分析セミネールにおいて,Freud の五大症例 (Dora, Hans, Rattenmann, Wolfsmann, Schreber) のうち,恐怖症の Hans と Hysterie の Dora と 強迫神経症の Rattenmann とを取り上げた.

それらの症例をラカン的観点から再検討するとき,我々は,如何に Ödipuskomplex の概念が Freud の形而上学的な先入観を成しており,そして,如何に それが 精神分析治療を妨げてしまっているかを 見ることができる.

我々は,ラカン的観点から,以下のように要約することができる:

恐怖症においてかかわっているのは,恐ろしい深淵として現れ出てこようとする否定存在論的孔穴を前にしての不安と,それに対する回避と防御の試みである.

Hysterie においてかかわっているのは,「性関係は無い」(il n'y a pas de rapport sexuel) の穴としての否定存在論的孔穴を前にして措定される 答え無き 問い :「女性悦 (la jouissance féminine) とは何か?」に対する回答の試みである.

強迫神経症においてかかわっているのは,否定存在論的孔穴が 終末論的な死の穴として現れ出てこようとする運命的瞬間を控えての 際限無き 先のばし (procrastination) の試みである.


Hans I (03/04/2020)


Hans II (17/04/2020)


Hans III (24/04/2020)


Hans IV (15/05/2020)


Dora I (22/05/2020)


Dora II (29/05/2020)


Dora III (05/06/2020)


Dora IV (12/06/2020)


Rattenmann I (19/06/2020)


Rattenmann II (26/06/2020)

2020年7月6日

ラカンによる フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 — 2019-2020年度 東京ラカン塾 精神分析セミネールのまとめ


ラカンによる フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方

2019-2020年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール の まとめ

 


20190923日,我々は,Sigmund Freud (1856-1939) の死去 80 周年を迎えた.それを記念して,我々は,2019-2020年度の 東京ラカン塾 精神分析セミネール において,Lacan 19530926日に Roma で行った講演 :「精神分析における ことばの機能 と 言語の場」(通称 ローマ講演)で提起した le retour à Freud[フロィトへの回帰]の意義について,改めて問うた(2019年08月05日付のセミネールの告知).

1950年代,精神分析は,特に 英語圏において 全盛期にあった.第二次世界大戦中に Mitteleuropa から脱出した多数の精神分析家たちは,英国と USA において,精神分析の臨床の裾野を広げた.当時,精神薬理学はやっと誕生したばかりであり,精神医学における治療法の中心を成していたのは,psychotherapy であった.精神分析は,最も本格的な psychotherapy と見なされていた.特に USA では,当時,精神科医のみが精神分析家の資格を取得することができ(USA において 精神分析家の資格認定をする institutes が 医師でない者たちに門戸を開いたのは,やっと 1988 年になってのことである),かつ,精神科医が精神医学界のなかで「出世」するためには,精神分析家の資格を有していることが必須であった.したがって,USA においては,学界のなかで「名誉」ある地位を欲する若い精神科医たちは,皆,教育分析を受け,精神分析家の資格を取った.

しかし,そのような状況は,精神分析を大きく変質させてしまった :「無意識」と「無意識的な思考」の代わりに,「自我」と「感情」が重視され,ユダヤ教の解釈学 Midrash の伝統に根ざした Freud の巧みな「解釈」の代わりに,所与の「意味」の「了解」と 心理学的「共感」に 力点が置かれ,科学的におよそ不可解な「死の本能」は無視され,「自我」の強化 と「性本能」の成熟による「現実適応」が 精神分析の治療目標とされるに至った.要するに,Freud の発見の真の意義は忘れ去られ,精神分析の本来的な可能性について問われることもなかった.  

Lacan が「フロィトへの回帰」を彼の教えの標語として掲げたのは,そのような状況においてである.

彼の「フロィトへの回帰」は,単純に Freud のテクストをドイツ語において読み直すことに存するのではなく,しかして,フロィト的な精神分析に内在的な行き詰まりを超克し,「フロィトの彼方」へ 「オィディプス複合の彼方」へ — 歩みを進めることに存する. 

重要なのは,Freud による「無意識の発見」の真の意義を捉え直し,かつ,精神分析にその本来的な可能性を与え直すことである.そのために,Lacan は,精神分析を 純粋に すなわち,非経験論的 かつ 非形而上学的に 基礎づける作業に取り組む.その際,Lacan にとって本質的に重要な準拠となったのは,Heidegger Denken des Seyns存在 思考]である.

それによれば,最も源初的であり,最も本来的,本源的であるものを,我々は,Heidegger にならって あるいは Lacan にならって,こう呼ぶことができる:抹消された存在(das durchgekreuzte Sein : Sein, 存在)の穴,あるいは,抹消された主体 (le sujet barré : $) の穴.

「抹消された存在」や「抹消された主体」という表現は,「存在」や「主体」が穴に先立つことを含意してしまうが,それは,その穴が穴として見出されたのが 19 世紀における「形而上学の満了」(die Vollendung der Metaphysik)  そこにおいて,形而上学的な「存在」や「主体」の穴塞ぎの効果はもはや有効ではないことが 露呈される — によってであるからにすぎない.実際には,穴は 穴塞ぎに 先立つ.

その最も源初的であり,最も本来的である穴を,我々は,「否定存在論的孔穴」(le trou apophatico-ontologique) と名づけた.より簡潔には,Lacan の「抹消された主体」の学素 $ を以て,「$ の穴」(le trou du $) と呼ぶのがよいだろう.


我々は,Heidegger が「存在 の歴史」(die Geschichte des Seyns) と呼ぶ現象学的な過程を,次のように要約することができる:

0) la phase archéologique[源初論的位相]: 存在 の歴史の純粋な出発点を成すのは,源初論的孔穴 (le trou archéologique), すなわち,$(le trou du $) である.源初において,$ の穴が 開いていた.あるいは,「穴」の代わりに,我々は,創世記 1,02 に見出される「深淵」(ἄβυσσος) という語を用いてもよかろう — それは,「そこから『無からの創造』(creatio ex nihilo) が発するところ」と見なされ得る.すなわち,ἐν ἀρχῇ ἦν ἡ ἄβυσσος[源初に 深淵があった].

最も源初的であり,最も本来的,本源的であるのは,何らかの「実体」ではなく,仏教好きが愛する「無」や「空[くう]」でもなく,而して,穴である.それが,否定存在論の肝要である.



1) la phase métaphysique[形而上学的位相]: 源初論的な $ の穴は,Lacan が学素 S1(le signifiant maître, 支配者徴示素)を以て形式化するものによって,塞がれる.それによって,穴 $ は,書かれないことをやめないもの (ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire) の在所へ排斥され,そこに秘匿される(それが,Freud が Urverdrängung[源初排斥]と呼ぶ事態である).

ただし,穴 $ は,単純に秘匿されてしまったのではなく,穴のエッジに位置づけられる 客体 a [ l'objet a ] によって 代理される.

S1 は,形而上学の歴史においては,Platon の ἰδέα や 存在論の伝統において τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]と見なされる「存在」 すなわち,イデア的なもの,超越論的なもの  である.キリスト教においては,それは,Pascal が Dieu des philosophes et des savants[哲学者と神学者の神]と呼ぶことになる「神」 形而上学的偶像  である.精神分析においては,それは,その閉出が精神病の発症の可能性の条件を成すところのものと Lacan が規定する限りにおける「父の名」(le Nom-du-Père) である.

源初論的な $ の穴が S1 によって塞がれることを以て,形而上学の歴史は始まる.

S1 の領域の外側の領域には,S2 が位置づけられる.それは,イデア的 ないし 超越論的な S1(存在論的な存在,das ontologische Sein)に対して,経験論的な存在事象 [ das empirische Seiende ] である.


以上によって,我々は,Lacan が「大学の言説」(le discours de l'université) と名づけた構造を得る.それは,あらゆる形而上学に共通する構造である.


2) la phase eschatologique[終末論的位相]: 源初論的な $ の穴の〈形而上学的な S1 による〉閉塞は,しかし,Michel Foucault が l'âge classique と呼ぶ時代の終り  つまり,フランス革命の前後 — において,科学の言説と資本主義の言説の優位のもとで,破綻する.それにともなって,S1 によって排斥されていた主体 $ は,穴として 現れ出てこようとする(大学の言説から分析家の言説への「進歩」[ progrès ] )しかし,それに対する激しい抵抗と防御も やまない(分析家の言説から大学の言説への「退行」[ régression ] )

大学の言説の構造と分析家の言説の構造との間の行ったり来たり — それが,終末論的位相を特徴づける.そのような終末論的位相  哲学史においては Nihilismus によって特徴づけられる時代  を,我々は 今も なお 生きている.

我々にとってかかわる問いは これである:如何に 我々は 源初論的な穴 $ の現出に対して 従順であり得るか? 如何に 我々は 源初論的な穴 $ が我々の Dasein を自有 (ereignen) するがままにすることができ,そして,それによって,我々自身,自有 (Ereignis) と成ることができるか?

我々のセミネールの第 1 回(2019年11月01日)においては,以上のような〈否定存在論 と そのトポロジー〉の概観を提示した.

第一学期は,次いで,我々は,Freud が『夢解釈』において最初に提示し,詳細に分析している夢の例 — Freud 自身が 1895年07月23-24日にかけての夜に見た夢 :「Irma の注射」の夢 — を取り上げ,その構造を検討しなおした(2019年11月08日15日29日,補足:母の欲望についてTrimethylamine の化学式と神の名との関連).


次いで,夢分析の第二の例として,Freud が『夢解釈』の第 IV 章で分析している ある hysterica の夢 — smoked salmon の夢 — を取り上げた(2019年12月13日).

第二学期は,まず,2020年01月10日と17日に,目的論 (téléologie) と 終末論 (eschatologie) との違いを説明した.そして,形而上学的なアリストテレス倫理学が目的論的であるのに対して,精神分析の倫理は終末論的であることを説いた.

2020年01月24日31日2月07日14日21日28日は,Freud が「子どもが叩かれる」という幻想を分析した論文 Ein Kind wird geschlagen にもとづき,幻想について論じ,続いて,Lacan の 幻想の学素 ( $a ) と 欲望のグラフ (le graphe du désir) について論じた.補足 : Freud の邦訳の質の検証

3 月一ヶ月間は春休みとした.4 月からは,SARS-CoV-2 感染の危険性を考慮して,Zoom Meeting を媒体として 我々のセミネールを継続した.

第三学期は,Freud の症例の再検討に当てられた.まず,4月03日17日24日5月15日に,恐怖症を呈した 5 歳児 Hans 少年を,次いで,5月22日29日6月05日12日に,ヒステリー症例 Dora を,最後に,6月19日26日に,強迫神経症の症例 Rattenmann を 取り上げた.

Lacan が formations de l'inconscient[無意識の成形]と呼ぶところのもの — 夢,言い損ない,し損ない,度忘れ,機知 (Witz), 幻想,症状 — に関する Freud のテクストに返り,それらを再検討することによって,我々は,以下のことを確認し得た:

1) 無意識の成形において Lustgewinn[悦の利得]— その Freud の表現から,Lacan は plus-de-jouir[剰余悦]という用語を作り出した — があるとすれば,それは,無意識の成形が 主体 $ の穴の現出を imaginaire なしかたにおいて表現する限りにおいてである.

2) Freud が精神分析理論の中心に措定する「オィディプス複合」(Ödipuskomplex) の概念は,アリストテレス的目的論にもとづいて,否定存在論的孔穴を塞ぎ得るものとしての phallus — 家父長ファロス [ le phallus patriarcal ] — の可能性を包含している.そして,それがゆえに,Freud は,無意識の成形の分析においても 症例の取り扱いについても 不手際をおかしている.Lacan の「性関係は無い」(il n'y a pas de rapport sexuel) は,家父長ファロスの可能性の否定である.それによって Lacan は,精神分析の終結を「オィディプス複合の彼方」へ位置づけることができ,Freud が陥った「去勢不安の行き詰まり」を打開することができた.

2020年4月17日

La topologie des Noms-du-Père




La topologie des Noms-du-Père




La table :

§ 1. Une introduction brève de l’ontologie apophatique et de sa topologie

§ 2. Les Noms-du-Père au pluriel

§ 3. Le Nom-du-Père en tant que support de la fonction symbolique

§ 4. Le Nom-du-Père en tant que signifiant de la Loi

§ 5. Le Nom-du-Père en tant qu’agent de la métaphore paternelle

§ 6. La forclusion méthodique du Nom-du-Père dans l’expérience psychanalytique 



Après avoir été empêché de continuer son Séminaire sur Les Noms-du-Père à cause de son « excommunication » de l’IPA au mois de novembre 1963, Lacan nous déclare à plusieurs reprises qu’il n’en parle plus jamais (par exemple, la séance du 11 mars 1970 du Séminaire XVII, celles du 3 mars et du 14 juin 1972 du Séminaire XIX et celle du 13 novembre 1973 du Séminaire XXI). Mais en fait, il en parle, et même beaucoup, sous des formes diverses du signifiant maître S1 des quatre discours, de la fonction phallique non-Φ des formules de sexuation et du quatrième rond de ficelle du nœud borroméen à quatre, ce qui nous suggère que le Nom-du-Père reste toujours un des concepts cruciaux de tout l’enseignement de Lacan. Le présent travail a pour but de nous interroger de nouveau sur le Nom-du-Père et les Noms-du-Père, et ce à partir de l’ontologie apophatique et de sa topologie en tant que fondement pur de la psychanalyse. 



§ 1. Une introduction brève de l’ontologie apophatique et de sa topologie

L’ontologie apophatique en tant que fondement pur de la psychanalyse est une topologie du trou ce trou irréductible, à la fois archéologique et eschatologique, de l’être.


Fig. 1 : das durchgekreuzte Sein [ l’ « être » barré d’une croix ]


Rayer le mot « Sein » [ être ] d’une croix (cf. la figure 1), c’est une invention de Heidegger qui l’a fait pour la « destruction » de l’ontologie métaphysique qui cachait l’être (cf. la section 6 de son Être et temps), par laquelle destruction ce trou irréductible et archéologique (cf. la figure 2) se dévoile dans un « ἀποφαίνεσθαι τὰ φαινόμενα » (laisser avoir lieu ce qui se dévoile tel qu’il veut se dévoiler de lui-même). Et je suppose que c’est à partir du « Sein » heideggérien que Lacan a inventé son mathème du sujet barré $ et son terme apophatico-ontologique de « manque-à-être ».



Fig. 2 : le trou irréductible de l’être



Ce que Heidegger appelle Histoire de l’être [ die Geschichte des Seyns ] se résumerait comme suit : 0) dans la phase archéologique de l’Histoire de l’être, le trou qu’on appellera trou de l’être ou trou du sujet $ était ouvert ; 1) au commencement de la phase métaphysique, ce trou a été obturé par des signifiants-maîtres métaphysiques (l’ἰδέα comme τὸ ὄντως ὄν, τὸ ὂν ὄν, ens qua ens, etc.) qui refoulaient (ce que Freud appelle Urverdrängung : archi-refoulement) et cachaient le trou du sujet $ dans la place de ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire (c’est-à-dire la place ex-sistente de l’impossible) ; 2) dans l’actuelle phase eschatologique où les signifiants-maîtres métaphysiques ont perdu leur effet obturateur, le trou de l’être (le trou du sujet $, le trou du manque-à-être ou le trou apophatico-ontologique) veut se rouvrir comme le trou du néant, de la mort, de la culpabilité et du désir (toutes ces formes du trou qui s’est signifié au fondateur de la psychanalyse pour qu’il le découvre au « noyau de notre être »), mais s’y opposent des formes diverses de la résistance véhémente et désespérée à cause de l’angoisse intolérable devant ce trou.

Alors la psychanalyse consisterait à faire renoncer à ce qui sert de résistance pour que le désir se sublime pour devenir le désir sublimé de l’analyste (ce que Lacan appelle simplement « désir de l’analyste » dans son Séminaire XI Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse), et ce pour autant que « seul l’amour-sublimation permet à la jouissance de condescendre au désir » (la séance du 13 mars 1963 du Séminaire X L’angoisse). La fin de l’analyse est la fin eschatologique dans la jouissance sublimatoire, non pas la fin téléologique dans la jouissance phallique dont Freud suppose la réalisation dans l’organisation génitale, ce stade final de la maturation libidinale. La jouissance phallique n’est qu’une fictive εὐδαιμονία aristotélicienne.



§ 2. Les Noms-du-Père au pluriel

Comme on le sait, dans le texte D’une question préliminaire à tout traitement possible de la psychose qu’il a écrit pendant les vacances de Noël 1957-1958 à partir de son Séminaire sur Les psychoses (1955-1956), Lacan parlait du Nom-du-Père au singulier, tandis qu’à partir du Séminaire prévu pour l’année scolaire 1963-1964, il met en question les Noms-du-Père au pluriel.

Alors combien y en a-t-il ? La réponse ne peut pas être univoque, mais je dirai 5, c’est-à-dire 4 plus 1.

Quatre selon les quatre places dans les quatre discours, dans chacune desquelles peut se placer le signifiant maître S1 qui est le mathème du Nom-du-Père.

En plus, dans son Séminaire XXII R.S.I. (1974-1975), Lacan appelle Nom-du-Père le quatrième rond de ficelle du nœud borroméen à quatre (cf. la figure 3), c’est-à-dire ce rond qui noue de façon borroméenne les trois autres ronds du symbolique, de l’imaginaire et du réel (comme l’impossible [1]). Dans son Séminaire XXIII Le sinthome (1975-1976), il l’appelle aussi sinthome [2] ou tout simplement symptôme, et il lui donne le mathème Σ. Puisque ce quatrième rond permet le nouage borroméen, nous appellerons sa fonction nodalité, ce terme étant utilisé par Lacan dans son Séminaire XXI Les non-dupent errent (1973-1974).





Fig. 3 : le nœud borroméen à quatre



§ 3. Le Nom-du-Père en tant que support de la fonction symbolique

D’abord, dans son Rapport de Rome (1953), Lacan définit le Nom-du-Père comme « le support de la fonction symbolique » (Écrits, p.287).

Une définition simple et claire...? Mais que voudraient dire cette « fonction symbolique » et son « support » ?

Le symbolique, nous savons que Lacan le définira dans son Séminaire XXII R.S.I. (1974-1975) comme le trou, et qu’à ce moment-là l’imaginaire sera défini comme la consistance, le réel-impossible comme l’ex-sistence et le Nom-du-Père comme le quatrième rond de nodalité qui noue de façon borroméenne les trois autres (cf. la séance du 11 février 1975). Et en nous suggérant le schéma du nœud borroméen à quatre avec la configuration de double boucle du symbolique et du Nom-du-Père (cf. la figure 4), il dit dans la séance du 15 avril 1975 ceci : qu’il y ait quatre ronds, « c’est ce qui dans cette double boucle supporte le symbolique de ce pourquoi en effet il est fait, à savoir le Nom-du-Père ». Dans cette phrase un peu compliquée, nous pouvons retrouver le Nom-du-Père en tant que « support de la fonction symbolique ». Autrement dit, le symbolique comme le trou fait la différence entre l’imaginaire et le réel, tandis que le Nom-du-Père comme la nodalité fait le nouage entre l’imaginaire et le réel.



Fig. 4 : le nœud borroméen à quatre
avec le double boucle du symbolique et du Nom-du-Père



Mais nous pourrions nous demander aussi : que voudrait dire « la fonction symbolique » dans l’enseignement de Lacan au moment de son Rapport de Rome, bien avant la définition topologique du symbolique comme le trou ? Ce n’est pas tellement évident, puisque à ce moment-là Lacan ne nous donnait pas de définition claire de sa triade.

Ma supposition est qu’au commencement de l’enseignement de Lacan la définition relativement simple de sa triade était ceci : le réel est l’être du sujet ; l’imaginaire est ce qui cache le réel du sujet ; et le symbolique est ce qui représente le réel du sujet qui est caché par l’imaginaire.

Par exemple, le moi imaginaire cache le réel du sujet, et c’est pourquoi Lacan parle de l’ « inertie » (Écrits, p.11) qu’ont des éléments imaginaires dans la psychanalyse. Ce qui est inerte fait de la résistance contre le processus analytique.

Par contre, le symptôme dont Lacan dit dans le Rapport de Rome que « le symptôme est structuré comme un langage » (ibid., p.269), a la fonction du signifiant qui représente le sujet, et c’est cette fonction symbolique qui nous rend l’analyse possible.

Donc nous pourrions dire que la fonction symbolique est ce qui fait qu’un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant [3].

Alors que serait « le support de la fonction symbolique » sans lequel il n’est pas possible qu’un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant ? La réponse se retrouve dans ce passage de la Subversion du sujet (ibid., p.819) :

Pour nous, nous partirons de ce que le sigle S(Ⱥ) articule, d’être d’abord un signifiant. Notre définition du signifiant (il n’y en a pas d’autre) est : un signifiant, c’est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant. Ce signifiant [ S(Ⱥ) ] sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c’est dire que faute de ce signifiant [ S(Ⱥ) ], tous les autres ne représenteraient rien. Puisque rien n’est représenté que pour.

Or la batterie des signifiants, en tant qu’elle est, étant par là même complète, ce signifiant [ S(Ⱥ) ] ne peut être qu’un trait qui se trace de son cercle sans pouvoir y être compté.


Donc c’est le S(Ⱥ) le « signifiant du manque dans l’Autre » (Écrits, p.818) qui est le Nom-du-Père en tant que support de la fonction symbolique.

Du point de vue topologique, le S(Ⱥ) est le cercle qui délimite le lieu de l’Autre en tant que trésor du signifiant, c’est-à-dire son bord (cf. la figure 5).



Fig. 5 : le lieu de l’Autre et son bord S(Ⱥ)



Mais ce bord du disc du lieu de l’Autre en tant que trésor du signifiant est aussi le bord de la bande de Möbius pour autant que l’identification du bord du disc et du bord de la bande de Möbius fait la surface close que Lacan appelle cross-cap (cf. la figure 6).

Dans la topologie du cross-cap, nous pouvons distinguer ces quatre éléments (cf. la figure 6) :

1) la consistance du disc (autrement dit de la sphère trouée, étant donné que le disc et la sphère trouée sont homéomorphes l’un à l’autre) du lieu consistant de l’Autre (coloré en bleu) ;

2) l’ex-sistence de la bande de Möbius qui correspond à la localité ex-sistente du sujet $ (colorée en rouge) ;

3) le trou Ⱥ (coloré en jaune) qui s’ouvre dans le lieu de l’Autre, et qui fait la différence (cf. la figure 3) entre le lieu de l’Autre (la consistance) et la localité du sujet $ (l’ex-sistence) ;

4) la nodalité du bord S(Ⱥ) (coloré en vert) qui joint la sphère trouée (le lieu de l’Autre) et la bande de Möbius (la localité du sujet $) pour constituer la surface close du cross-cap. Et ce bord S(Ⱥ) est aussi le bord du trou Ⱥ.




Fig. 6 : la topologie du cross-cap



Ainsi nous pouvons retrouver là les quatre éléments du nœud borroméen à quatre (cf. les figures 3 et 4) : la consistance de l’imaginaire, l’ex-sistence du réel-impossible, le trou (la différence) du symbolique et la nodalité du Nom-du-Père (ou du sinthome).

Le Nom-du-Père en tant que « support de la fonction symbolique » est donc bien le bord S(Ⱥ) qui fonctionne comme la nodalité qui rend possible le nouage borroméen du symbolique, de l’imaginaire et du réel. Et maintenant nous pouvons voir aussi que ce que Lacan appelle point-de-capiton n’est rien d’autre que ce qui fait cette nodalité.  



§ 4. Le Nom-du-Père en tant que signifiant de la Loi


Dans son écrit sur la psychose (1957-1958), Lacan définit le Nom-du-Père comme « le signifiant qui dans l’Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l’Autre en tant que lieu de la loi » (Écrits, p.583) pour autant que le Père est l’ « auteur de la Loi » (ibid., p.556). Et il dit aussi que « Pour que la psychose se déclenche, il faut que le Nom-du-Père, verworfen, forclos, c’est-à-dire jamais venu à la place de l’Autre, y soit appelé en opposition symbolique au sujet. C’est le défaut du Nom-du-Père à cette place qui, par le trou qu’il ouvre dans le signifié, amorce la cascade des remaniements du signifiant d’où procède le désastre croissant de l’imaginaire, jusqu’à ce que le niveau soit atteint où signifiant et signifié se stabilisent dans la métaphore délirante » (ibid., p.577).

Nous pouvons et devons remarquer là le double statut de l’Autre : l’Autre en tant que lieu du signifiant et l’Autre en tant que lieu de la Loi.

L’Autre en tant que lieu de la Loi, c’est, par définition, le Père, tandis que l’Autre en tant que lieu du signifiant (autrement dit : le trésor du signifiant ou l’ensemble des signifiants), c’est la Mère (cf. Écrits, p.813). Donc le Nom-du-Père est le signifiant de l’Autre (le Père en tant que lieu de la Loi) qui est Autre que l’Autre (la Mère en tant que lieu du signifiant). Bref : le Nom-du-Père en tant que signifiant de la Loi est le signifiant de l’Autre-de-l’Autre.

À propos de la Loi et du Père dont il s’agit là, Lacan, en se référant au mythe que Freud nous présente dans son Totem et tabou du meurtre du Patriarche [ Urvater ], dit ceci (Écrits, p.556) :

Comment Freud ne la [ l’affinité de l’ « être père » et de l’ « être mort » ] reconnaîtrait-il pas en effet, alors que la nécessité de sa réflexion l’a mené à lier l’apparition du signifiant du Père, en tant qu’auteur de la Loi, à la mort, voire au meurtre du Père, montrant ainsi que si ce meurtre est le moment fécond de la dette par où le sujet se lie à vie à la Loi, le Père symbolique en tant qu’il signifie cette Loi est bien le Père mort.

La Loi dont il s’agit là est la Loi originelle de l’interdiction de l’inceste que les fils s’imposent à chacun d’eux-mêmes tous après avoir tué leur Patriarche [ Urvater ], lequel est maintenant notre Père qui est aux Cieux, c’est-à-dire à la place transcendante et transcendantale par rapport au monde des étants, autrement dit à la place de l’être métaphysique. Et nous, fils des fils qui ont tué leur Patriarche, nous héritons tous la dette [ Schuld, culpabilité ] d’eux, laquelle constitue notre péché originel [ Erbsünde, le péché hérité ], et, avec la dette-culpabilité originelle, nous héritons d’eux la Loi originelle.

Donc le Nom-du-Père est le signifiant de la Loi originelle qui nous lie à l’interdiction de l’inceste et à la dette-culpabilité originelle, de sorte que nous sommes coupables du désir incestueux dont nous ne sommes jamais conscients et du meurtre du Patriarche que nous n’avons jamais commis.

D’ailleurs, comme le péché originel l’est, notre dette-culpabilité originelle est impossible à régler ou à réparer de nous-mêmes, puisque, de nous-mêmes, nous n’avons rien commis à l’endroit de personne. C’est pourquoi Lacan parle de « la béance impossible à combler de la dette symbolique » (Écrits, p.303).

Tel est le Nom-du-Père en tant que signifiant de la Loi présenté dans l’écrit sur la psychose (1957-1958). Mais deux ou trois ans après, dans la Subversion du sujet (1960), qu’est-ce que Lacan dit sinon ceci : « il n’y a pas d’Autre de l’Autre. C’est en imposteur que se présente pour y suppléer, le Législateur (celui qui prétend ériger la Loi) » (Écrits, p.813). Quel renversement ! Le trou du manque Ⱥ dans le lieu de l’Autre en tant que trésor du signifiant (cf. ibid., p.818) est en fait impossible à combler puisqu’il n’y a pas d’Autre-de-l’Autre qui pourrait l’obturer. Le Nom-du-Père comme l’Autre-de-l’Autre et l’auteur de la Loi n’est qu’un faux-semblant. La Loi originelle de l’interdiction de l’inceste elle-même n’est que quelque chose de mythique. Mais une chose mythique, c’est le réel qu’elle mythifie, dit Lacan (cf. ibid., p.853). Quel réel ? C’est le réel que Lacan indique par la formule : « il n’y a pas de rapport sexuel », c’est-à-dire l’impossibilité (ne pas cesser de ne pas s’écrire) du phallus patriarcal, sous le primat duquel, selon la supposition développementaliste de Freud, on pourrait enfin avoir la satisfaction complète de la pulsion sexuelle. 



§ 5. Le Nom-du-Père en tant qu’agent de la métaphore paternelle


La métaphore paternelle est introduite dans l’enseignement de Lacan pour formaliser plus clairement la structure qu’impliquent les notions freudiennes du complexe d’Œdipe et du complexe de castration (cf. la séance du 22 janvier 1958 du Séminaire V).

Par la substitution du Nom-du-Père au désir de la Mère, la métaphore paternelle doit « évoquer dans l’imaginaire la signification du phallus » (cf. Écrits, p.557).




Fig. 7 : la formule de la métaphore paternelle



Certes, dans les années 1950, le phallus en tant que signification (Bedeutung) est formalisé simplement avec le mathème φ, le mathème ( φ ) étant introduit dans l’enseignement de Lacan pour la première fois dans la séance du 29 avril 1959 du Séminaire VI, mais nous reformulons ici la métaphore paternelle avec le ( φ ) qui est défini comme « fonction imaginaire de la castration » (Écrits, p.825). Le phallus en tant que signification est imaginaire au sens où il obture le trou de l’être (voir ci-dessous).

Mais qu’est-ce que le « désir de la Mère » ici plus précisément ?

Notons bien que pour présenter la formule de la métaphore paternelle, Lacan dit ceci (Écrits, p.577) :
Ceci [ la substitution signifiante ] s’applique ainsi à la métaphore du Nom-du-Père, soit la métaphore qui substitue ce Nom à la place premièrement symbolisée par l’opération de l’absence de la mère.

C’est-à-dire, là où nous attendons « le désir de la mère », il dit « la place premièrement symbolisée par l’opération de l’absence de la mère ».

Le mot « absence » se retrouve aussi dans ce passage-ci (ibid., p.563) :

Essayons maintenant de reporter la position du sujet telle qu’elle se constitue ici dans l’ordre symbolique sur le ternaire qui la repère dans notre schéma R.

Il nous semble bien alors que si le Créé I y assume la place en P laissée vacante de la Loi, la place du Créateur s’y désigne de ce liegen lassen, laisser en plan, fondamental, où paraît se dénuder, de la forclusion du Père, l’absence qui a permis de se construire à la primordiale symbolisation M de la Mère.

« L’absence de la mère » nous renvoie au jeu de la bobine d’un des petits-fils de Freud, lequel crie O (Fort : hors) pour l’absence de la mère et A (Da : là) pour sa présence, ce Fort-Da auquel Lacan se réfère fréquemment dans le Séminaire IV (1956-1957) et dans le Séminaire V (1957-1958).

Alors, du point de vue topologique, ce qui se construit au moment de « la symbolisation primordiale de la Mère », c’est la place vide de ce qui est là absent, c’est-à-dire le trou Ⱥ du manque dans le lieu de l’Autre (cf. Écrits, p.818). Le désir de la mère est ce trou Ⱥ du manque-à-être, c’est-à-dire le trou irréductible de l’être. Il « se dénude » par la forclusion du Nom-du-Père qui l’obturait.

Que le désir de la mère soit le trou Ⱥ, Lacan nous en présente une illustration explicite, 12 ans après D’une question préliminaire, dans la séance du 11 mars 1970 du Séminaire XVII, avec une jolie image de la bouche béante d’un grand crocodile. Après avoir dit que « je n’ai jamais parlé du complexe d’Œdipe que sous cette forme [ c’est-à-dire sous la forme de la métaphore paternelle ] », il continue :

Le rôle de la mère, c’est le béguin [4] de la mère. C’est absolument capital, parce que le béguin de la mère n’est pas quelque chose qu’on peut supporter comme ça, et qui vous soit indifférent. Ça entraîne toujours des dégâts.

Un grand crocodile dans la bouche duquel vous êtes c’est ça, la mère. On ne sait pas ce qui peut lui prendre tout d’un coup de refermer son clapet. C’est ça, le désir de la mère.

Alors, j’ai essayé d’expliquer que ce qu’il y avait rassurant, c’est qu’il y avait un os, comme ça je vous dis des choses simples —, il y avait quelque chose qui était rassurant j’improvise un peu —, un rouleau comme ça, bien dur, en pierre, qui est là en puissance, au niveau du clapet, et ça retient, ça coince. C’est ce qu’on appelle le phallus, le rouleau qui vous met à l’abri, si tout d’un coup ça se referme.

Alors, si le désir de la mère est le trou Ⱥ, qu’est-ce qui peut satisfaire ce désir en comblant ce trou ? Le phallus de l’Urvater mythique dont on suppose qu’il pouvait satisfaire le désir de toutes les femmes de sa tribu, le phallus patriarcal Φ [5], « signifiant de la jouissance » (Écrits, p.823) ? Oui, certainement, s’il existait. Mais, en fait, il n’y a pas d’Autre-de-l’Autre qui puisse combler le trou Ⱥ ouvert dans le lieu de l’Autre. C’est-à-dire le phallus de l’Urvater mythique, le phallus patriarcal Φ, n’est que quelque chose de fictif.

Pourtant, Freud y croit, ce qui est indiqué par sa notion de l’organisation génitale en tant que stade final de maturation libidinale sous le primat du phallus Φ. Freud y croit et exige qu’il y ait le phallus Φ qui puisse donner à la pulsion sexuelle la satisfaction complète. Si on est névrosé, c’est parce qu’on est fixé à la jouissance immature et insuffisante d’une pulsion prégénitale. La psychanalyse peut et doit diriger le patient vers la maturation libidinale de l’organisation génitale en le libérant de la fixation prégénitale.

Mais Lacan y oppose, dès le Rapport de Rome, sa critique formulée en ce terme de la « mythologie de la maturation instinctuelle » (Écrits, p.263), ce qu’il développera dans la formule : « il n’y a pas de rapport sexuel » présentée comme telle pour la première fois dans son Séminaire XVI (1968-1969).

Il n’y a pas de rapport sexuel autrement dit : le phallus patriarcal Φ n’est qu’un faux-semblant ; en fait, le phallus sous le primat duquel se réaliserait l’organisation génitale, ne cesse pas de ne pas s’écrire, c’est-à-dire il est impossible.

Du point de vue topologique donc, la métaphore paternelle consiste en ceci : au trou Ⱥ qui est le trou thanatique de l’être (le trou angoissant du néant, de la mort et du péché originel), le signifiant du Nom-du-Père en tant que phallus patriarcal Φ qui prétend et fait semblant de l’obturer, donne la signification sexuelle et érotique du manque phallique ( φ ). Le trou de l’être est impossible à obturer, tandis que s’il est le trou du désir de la Mère à cause du manque phallique ( φ ) du corps maternel A, on serait permis de supposer que le Nom-du-Père en tant que phallus patriarcal Φ pourrait le combler, pour tromper l’angoisse devant le trou (l’angoisse irréductible du néant, de la mort et du péché originel), à laquelle on peut donner dès lors l’aspect de l’angoisse de castration.




Fig. 8 : la topologie de la métaphore paternelle


Telle est la structure qu’impliquent le complexe d’Œdipe et le complexe de castration (cf. la figure 8).

Et la structure illustrée par notre figure 8 correspond à la structure de l’aliénation et à celle du discours de l’université.




Fig. 9 : la topologie du cross-cap et le discours de l’université




Fig. 10 : la structure de l’aliénation et le discours de l’université



La colorisation des quatre éléments de la structure apophatico-ontologique est la même dans toutes nos figures 3, 4, 6, 8, 9 et 10 :

bleu : le disc ou la sphère trouée la consistance l’imaginaire la place de l’agent le savoir S2 ;

rouge : la surface möbiusienne l’ex-sistence le réel-impossible la place de la production le sujet archi-refoulé $ ;

jaune : le trou de l’être la différence le symbolique la place de la vérité le signifiant maître S1 qui obture le trou (le Nom-du-Père ainsi que le phallus patriarcal Φ sont un tel signifiant maître) ;

vert : le bord la nodalité le réel-nécessaire la place de l’autre le plus-de-jouir a.


Alors, examinons de notre point de vue topologique le schéma I (Écrits, p.571) qui formalise la structure de la psychose de Daniel-Paul Schreber.


Fig. 11 : le schéma I


Dans le schéma I, le P0 représente « le trou creusé dans le champ du signifiant [ c’est-à-dire le lieu de l’Autre en tant que trésor du signifiant ] par la forclusion du Nom-du-Père » (Écrits, p.563) et le Φ0 le « trou correspondant [ c’est-à-dire le trou qui correspond au trou de la forclusion du Nom-du-Père ] à la place de la signification phallique » (ibid., p.558).

Ces deux trous le P0 et le Φ0 sont en fait un seul et même trou : le trou thanatique de l’être qui est dévoilé par la forclusion du Nom-du-Père (le phallus patriarcal Φ ou le signifiant maître S1 qui obturaient le trou) et maintenant privé de sa signification érotique du manque phallique ( φ ).

Le domaine R (le réel-nécessaire qui ne cesse pas de s’écrire) correspond au bord nodal où prolifère maintenant le plus-de-jouir a en tant que phénomènes hallucinatoires de la voix de l’automatisme mental et/ou du trou du regard.

C’est-à-dire le schéma I représente le bord du trou qui est aussi le bord de la surface möbiusienne, avec le trou apophatico-ontologique dévoilé par la forclusion du Nom-du-Père. Seulement la surface möbiusienne qui correspond à la localité ex-sistente du sujet $ n’y est pas représentée.

Dans le schéma I n’est pas représenté non plus l’autre élément de la symptomatologie psychotique : le délire. La signifiance délirante (Wahnbedeutung) qui fait le primum movens à partir duquel se développe le délire, c’est le signifiant maître S1 qui se forme à nouveau à la place de la vérité pour compenser le Nom-du-Père forclos.



Fig. 12 : la structure psychotique avec l’automatisme mental et la signifiance délirante



Nous pouvons résumer la structure psychotique comme ceci : d’abord, comme la condition nécessaire du déclenchement de la psychose, le signifiant maître S1 qui fonctionnait comme le Nom-du-Père dans la place de la vérité, est forclos pour laisser béant le trou apophatico-ontologique ; cette béance provoque la prolifération réactive de l’objet a au bord nodal pour renforcer la nodalité et empêcher par là la dissociation du nœud borroméen et/ou la compensation de la forclusion du Nom-du-Père par la signifiance délirante S1 qui se forme à nouveau dans la place de la vérité pour obturer le trou béant. Comme on le sait bien, dans les schizophrénies, les deux éléments les phénomènes hallucinatoires (l’objet a en tant que voix de l’automatisme mental et/ou regard qui se présente dans le trou) et la signifiance délirante S1 sont opérants dans des mélanges variés, tandis que dans les paranoïas, on n’a que la signifiance délirante S1 qui compense le Nom-du-Père forclos, sans les phénomènes hallucinatoires.  



§ 6. La forclusion méthodique du Nom-du-Père dans l’expérience psychanalytique


Lacan exige qu’il y ait une fin nécessaire de l’expérience psychanalytique, non pas seulement des fins qui seraient induites par des conditions contingentes diverses, pour que la qualification du psychanalyste puisse être déterminée par le seul fait qu’il a parcouru sa propre expérience analytique jusqu’au bout.




Fig. 13 : la dialectique du désir sous la ruse de l’amour


Étant donné que le processus de l’expérience analytique consiste dans la dialectique du désir $ (la dialectique du sujet $ en tant que désir : cf. la figure 13), la fin de l’analyse est impossible si le désir $ reste insatisfait dans son glissement métonymique sans fin, lequel glissement est conditionné dans la structure du discours de l’université en tant que structure de l’aliénation.

Et comme on le sait, l’opinion que Freud exprime dans son texte L’analyse finie et l’analyse infinie (1937) est ceci : l’analyse aboutit nécessairement à l’impasse à cause du complexe de castration qui prédestine le désir à l’insatisfaction. Seulement c’est pour autant qu’il pense que la satisfaction véritable du désir consiste dans la jouissance phallique sous le régime de l’organisation génitale. C’est que Freud reste aristotélicien dans son éthique : l’éthique de la psychanalyse freudienne est téléologique.

Quant à Lacan, il n’est pas aristotélicien : l’éthique de la psychanalyse lacanienne ne peut pas être téléologique, puisque l’organisation génitale qui est le τέλος du développement libidinal est impossible (ce que veut dire la formule qu’ « il n’y a pas de rapport sexuel »). Si elle ne peut pas être téléologique, que serait-elle ? Nous dirons que l’éthique de la psychanalyse lacanienne est eschatologique, pour autant que la fin de l’analyse consiste à assumer le trou de l’être et à s’y offrir pour qu’ait lieu son dévoilement (ἀποκάλυψις) dans notre Dasein.

Lacan se pose la question de savoir quelle serait une jouissance autre que la jouissance phallique ou une jouissance au-delà de la jouissance phallique, laquelle puisse mettre fin au glissement métonymique du désir, sous la condition qu’il n’y a pas de rapport sexuel, autrement dit, que la jouissance phallique est en fait impossible puisque le phallus patriarcal Φ qui conditionnerait l’organisation génitale est en fait impossible (ne pas cesser de ne pas s’écrire).

Et Lacan nous suggère la réponse à cette question cruciale en nous formulant que « l’amour est la sublimation du désir » et que « seul l’amour permet à la jouissance de condescendre au désir » (la séance du 13 mars 1963 du Séminaire X).

C’est-à-dire la jouissance au-delà de la jouissance phallique est la jouissance de sublimation dans l’amour. Seulement il s’agit de l’ἀγάπη (l’amour agapétique qui consiste à « donner ce qu’on n’a pas »), et non pas de l’ἔρως (l’amour érotique qui consiste à jouir du plus-de-jouir de l’objet a).

Et nous pourrions dire que la dialectique du désir est dirigée depuis le commencement par l’amour agapétique dans sa ruse, puisque la dialectique du désir est prédestinée à tomber dans l’impasse conditionnée par l’impossibilité du phallus patriarcal Φ, et qu’il n’y a pas d’autre possibilité de jouissance que la jouissance sublimatoire dans l’amour.

Alors, la fin eschatologique de l’expérience psychanalytique consiste dans la transformation structurale du discours de l’université en tant que structure de l’aliénation dans le discours de l’analyste en tant que structure de la séparation (cf. la figure 14).




Fig.14 : le « progès » du discours de l’université dans le discours de l’analyste


Dans la structure du discours de l’université en tant que structure de l’aliénation, le trou archéologique du désir $ reste archi-refoulé dans la place de la production qui est la place de ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire (l’impossible) par le Nom-du-Père qui est le signifiant maître S1 à la place de la vérité et qui obture le trou archéologique de l’être.

Pour qu’ait lieu la transformation du discours de l’université dans le discours de l’analyste, il faut que le Nom-du-Père soit forclos de la place de la vérité où il obture le trou apophatoco-ontologique, dans la place de la production où il est maintenant le Nom impossible de Dieu, ce Nom qui ne cesse pas de ne pas s’écrire.

Mais comment serait-il possible que la psychose ne se déclenche pas chez l’analysant par cette forclusion pour ainsi dire méthodique du Nom-du-Père ? C’est parce qu’il y a l’être de l’analyste qui accompagne l’analysant dans l’expérience psychanalytique, c’est-à-dire qu’il y a l’être analyste $ qui est le désir déjà sublimé dans sa propre expérience analytique et qui se tient dans la place de l’autre pour servir de support au désir de l’analysant dont le trou va se dévoiler par la forclusion du Nom-du-Père.

Si ce support du désir de l’analyste ne fonctionne pas, le dévoilement du trou apophatico-ontologique peut provoquer la prolifération réactive des phénomènes hallucinatoires et/ou la formation compensatoire de la signifiance délirante. Le fait que la psychose puisse se déclencher au cours de la psychanalyse, est bien connu cliniquement depuis les années 1950.

La fin eschatologique de l’analyse consiste en ceci : le sujet $ qui était archi-refoulé dans la place de la production (la place de ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire) surgit de là dans la place de l’autre (la place de ce qui ne cesse pas de s’écrire), en tant que désir sublimé et être analyste. Il s’offre à l’être pour qu’ait lieu le dévoilement du trou de l’être dans son Dasein, et il représente maintenant le Nom-de-Dieu S1 qui ne cesse pas de ne pas s’écrire. Un tel sujet $ mériterait d’être appelé saint, et c’est pourquoi Lacan le compare effectivement au saint dans un passage de sa Télévision (Autres écrits, pp.519-520).


À Tokyo, le 17 avril 2020
  






[1] Il nous faut distinguer dans l’enseignement de Lacan deux sortes de « réel » : 1) le réel comme « ce qui revient toujours à la même place », autrement dit, le nécessaire « qui ne cesse pas de s’écrire » ; 2) le réel comme l’impossible « qui ne cesse pas de ne pas s’écrire ». Le réel comme l’impossible correspond à l’ex-sistence, tandis que le réel comme le nécessaire correspond à la nodalité. Dans les quatre discours, le réel comme l’impossible correspond à la place de la production, tandis que le réel comme le nécessaire correspond à la place de l’autre.

[2] Le « sinthome » qui est l’orthographe ancienne du « symptôme », est un homonyme du « saint homme ». Cette homonymie n’est pas un jeu de mots gratuit, mais nous pourrions la situer dans le parcours de Lacan qui s’interroge sur la jouissance qu’impliquerait la sublimation, lequel parcours part 1) de l’amour courtois (le Séminaire VII), passe 2) par la jouissance féminine et la jouissance mystique de sainte Thérèse d’Avila (le Séminaire XX) et 3) par le saint auquel il compare dans la Télévision l’analyste en tant que celui qui a parcouru son expérience analytique jusqu’à sa fin, et enfin arrive 4) au sinthome (le Séminaire XXIII) et 5) à l’escabeau joycien (cf. Joyce le Symptôme) qui permettrait d’ « élever un objet à la dignité de la Chose » (cette formule est la définition de la sublimation dans le Séminaire VII). Alors peut-on considérer le Finnegans Wake comme un produit de la sublimation ? La réponse de Lacan est négative : « Joyce n’est pas un Saint » (Autres écrits, p.566), et il n’est pas « un saint homme tout simple, mais le symptôme ptypé [ typé ] » (ibid., p.567).

[3] Dans ses Écrits, Lacan nous présente cette formule « un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant » pour la première fois dans le texte de 1960 Subversion du sujet (p.819) tandis que dans ses Séminaires, nous retrouvons la première présentation de cette formule dans le Séminaire IX Les identification (1961-1962). Cela nous suggère que Lacan aurait fait quelques rajouts et remaniements à cet écrit de 1960 avant sa première publication dans ses Écrits en 1966.

[4] Selon le Grand Robert, le mot « béguin » signifie une « passion passagère pour quelqu’un » et la locution « avoir un béguin pour quelqu’un » veut dire « être amoureux de quelqu’un ».

[5] Certes, dans les formules de sexuation, Lacan écrit non-Φ (le symbole Φ avec la barre de négation sur lui) pour la fonction du phallus patriarcal et Φ pour le prédicat phallique des fils qui est l’effet de l’identification au phallus patriarcal comme l’idéal-du-moi masculin et qui leur permet de former l’ensemble de l’Homme. Mais si nous écrivons φ pour le prédicat phallique des fils, nous pouvons écrire simplement Φ pour la fonction du phallus patriarcal (cf. la figure 15). 


Fig. 15 : les formules de sexuation