2014年7月17日
7月17日の twitter : 精神分析家は己れ自身によって己れを精神分析家として認定する
2002年のわたしの事件のことについて,御質問をいただきました.
わたしと分析をしようとする人には,当然,わたしの事件のことを事前に知っておいていただかなければなりません.
わたしが患者と恋愛関係に陥ったとの御指摘をいただきましたが,それは事実ではありません.「以前に患者であった女性」です.当時,治療関係には既にありませんでした.しかも,その女性は実際には,精神科医療を必要とする厳密な意味での病者ではありませんでした.
殺人罪で服役した経歴を持ちながらも敢えて精神分析家として仕事を続けるのは,精神分析がわたしの lifework だからです.Lifework とは,存在が請求していることです.
Lacan は言いました:精神分析家は己れ自身によって己れを精神分析家として認定する.この命題の意味は,誰もが勝手に精神分析家を自認してよいということではありません.「己れ自身」とは,精神分析を通じて到達し得る「抹消された存在」という最も本自的なものです.
精神分析家が精神分析家であり得るのは,抹消された存在としての最も本自的な自己に基づいてのみです.誰か他者なり,何らかの認定団体,保証機関によるのではありません.
ですから,精神分析家にはあらかじめ自分自身の精神分析の経験が必要なのです.
「分析家である」 « être analyste » という表現は,「分析の言説の構造において分析家として機能している」という意義と,存在論的意義と,両方を持ち得ます.
Freud は分析家として機能しましたが,存在論的には分析家であるとは言えません.彼の理論的な構築がそのことを証しています.
存在論的に分析家で在るということを問題にしたのは Lacan が初めてです.
そして,Lacan 自身,自分は存在論的に分析家で在る(つまり,聖人である)というところまでは行かなかったと認めています (cf. Autres écrits, p.520).
存在論的に分析家で在るようになるためには,いわゆる自己分析で済ますわけには行きません.必ずみづからの分析の経験が必要です.
ここで,パレスチナとイスラエルの子供たちのために祈りましょう.今回の武力衝突のきっかけは,6月にイスラエルの子供たち三人が誘拐され殺害されたことです.しかし,それはパレスチナで何十人もの子供たちが殺されつつあることを正当化しません.
Facebook を利用している人は,わたしのページを見てください.Facebook を利用していない人は,Le Nouvel Observateur の site を見てください.子供たちが殺された現場の映像が upload されています.血を流す子供たちを見たくない人には勧めません.
ユダヤ教の YHWH とキリスト教の父なる神とイスラム教の Allah は同じ唯一なる神です.
それを心得ていなければ,Freud も Derrida も読むことはできません.
今,頼まれて Derrida の Mal d'Archive を読んでいるところですが,Derrida も全く宗教的な哲人です.Derrida をまともに読んだのは今回初めてですが,ユダヤ教を抜きにして Derrida を読むことはできません.
ともあれ,パレスチナとイスラエルの子供たちを主が憐れんでくださいますように.天に召された子供たちの涙を主が御みづからぬぐってくださいますように.
このような悪を神はなぜ起きるがままにするのか?Freud は第一次世界大戦に関してそう問いました.
今読んでいる Derrida の Mal d'Archive の mal も悪という意味を持っています.
イェス自身が信徒に教えた祈りとして「主の祈り」はキリスト教徒にとって最も根本的な祈りです.その短い祈りの最後の言葉は,Délivre-nous du Mal 「わたしたちを悪から救ってください」です.
しかし,悲劇はやみません.悪の問題を論ずるには,この場は狭すぎますから,別の機会にゆずります.
Derrida の Mal d'Archive が英語で Archive Fever と訳されているのには笑ってしまいました.なぜかというと,この ... Fever はわたしくらいの年齢の者にはいやおうなく 1977年の John Travolta 主演映画 Saturday Night Fever を連想させてしまうからです.
しかし,Derrida の言う mal はそんなものでは全然ありません.この mal は死の本能そのものを指します.Derrida は,Freud が死の本能を破壊本能,攻撃本能と呼んだことをも強調します.
Derrida が archive と単数形で呼んでいるものは,要するに signifiant です.そして,mal d'archive における archive は,抹消された signifiant としてのファロスです.つまり,症状の構造の学素における抹消されたギリシャ小文字 φ です.
Derrida のこのテクストにおける archive は,能動者の座における徴示素 a と,真理の座における抹消された徴示素 φ barré との両方をさしています.ちょうど Heidegger における存在の真理の現象学的構造において「存在」が「抹消された存在」を代表しているように.
悪は,存在の真理そのものに属しています.善も,存在の真理そのものに属しています.抹消された存在は,その真理において,あらゆる対立を己れのうちに含んでいます.それが,現象学の秘密です.
わたしたちの心を引き裂く悲劇は,存在論的裂口の痛みをわたしたちに教えてくれます.その痛みを,酒や薬物でおしつぶしてしまおうとするのはひとつの否認です.祈りにおいて痛みに耐えねばなりません.それが本自的実存です.
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