2014年7月16日

7月16日の twitter : 目覚めよと声は我れらを呼ぶ


日本において,精神分析を新たな相貌のもとに提示しなければなりません.

今朝の新聞の或る記事のなかにこんな文章を見かけました:『*** などの著書がある臨床心理士の *** 氏は、首相の答弁には質問者の弱点を突く「攻撃型」と、用意した文書を読み上げる「官僚型」があると指摘する。「いずれも首相の深い自己愛から生じているのではないか...」』.

日本では一般にこの手の心理学が精神分析だといまだに思われています.

精神分析家でない者,つまり,みずから分析の経験の無いままに精神医学や心理学の分野の者が書物から Freud やその周辺の著者らの言っていることを自分ができる範囲内で読み,精神分析用語らしい言葉をもてあそび,もっともらしいことを言う.それが日本で精神分析と呼ばれているものです.

彼らは,精神分析においては何が本当にかかわっているのかを知りもしないし,みづから経験したこともないのです.彼らはたいてい,大学人です.大学の教師たちです.ですから,必然的に大学の言説のなかに位置しています.大学の言説は強迫神経症者の言説であり,男の言説です.

それに対して,精神分析は hysterica の治療から生まれたという歴史的事実があります.Freud は hysterica を治療するうちに精神分析を発明したのです.Hysterie は精神分析の母です.

性別と関連づけるなら,支配者の言説と大学の言説は男の側にあり,hysterica の言説と分析家の言説は女の側にあります.

精神分析的な意味における症状が形成され現象するのは分析家の言説においてだ,と言いました.Lacan 自身は著作のなかではその用語を使っていませんが,予備面接 entretien préliminaire と呼ぶものを重視していました.予備面接とは,まさに,患者(患者を Lacan は analysant 分析者と呼びます.analyste は分析家です)を分析家の言説に導入することによって症状が十分に立ち現れてくるために必要な時間をさします.予備面接の間に十分に形成されてくる症状こそが,分析されるべき客体,対象になります.

もし症状と呼べるようなものがその間に何も出現してこないとしたら,それは,患者が分析家とは転移の関係に入れなかったということです.転移が成立しない理由はいろいろあります.いわゆる相性の問題は当然あります.それから,患者が精神病的構造の場合,症状の固着が強すぎて,分析家との転移が成り立つ余地がないこともあります.分析家の側が大学の言説に位置していれば,勿論,転移は維持され得ません.

もしあなたが精神分析を新たにしてみようと思って,始めて「分析家」のところに行ったら,最初にこう質問してかまいません:「あなたは自分自身,分析の経験をしましたか?誰としましたか?」と.失礼なことはありまあせん.もし「分析家」がそれに答えなかったり,怒り出したりしたら,その「分析家」はみずから分析を受けたことはないと思ってまちがいありません.また,日本では,日本精神分析学会の伝統のなかで教育分析を受けた分析家は,大学の言説の構造のなかにどっぷりつかったままのことがあります.そのような場合,本当に分析を受けたとは言えないこともあります.

いずれにせよ,そのような「分析家」たちを排除する必要はありません.彼らの商売を邪魔しようとは思いません.福音書にもこう書かれています.

ヨハネはイェスに言った:先生,あなたの名において悪霊を追い払っている者を見たので,やめさせようとしました,彼は我々に従っていませんから.だが,イェスは言った:彼を妨げるな.そも,わたしの名において奇跡を行いながら,その直後にわたしを悪く言う者は無い.我々に反対していない者は,我々の味方である.(Mc 9,38-40)

Barthe も Lacan も日本における仮象の優位を指摘しました.日本では,社会的に認められた形式に従っていれば,不安を感ずることは無いのです.あるいは,不安を感じないですむように,その場の「空気」を敏感に感じ取り,それに適合しようとします.

日本は,不安を感じずにすませるためのお作法が発達した社会です.ですから,神を畏れることを忘れていられるのです.実存的不安を感じずにすむのです.

Freud が初めて USA に講演旅行に行ったとき,「彼らは我々がペストをもたらしに行くことを知らない」と言ったと伝えられています.「ペスト」は,実存的不安です.日本において皆が巧みに避けて通っているそのような不安を,日本の社会に広めること.あらためて日本人に実存的不安を感じさせること.

精神分析が歓迎されるはずはありまあせん.しかし,精神分析はニヒリズムの頂点を迎えようとしている今,唯一のではありませんが,可能な選択肢のひとつとして,日本にもあってよいものです.

救済と解脱の話を始めるのが遅くなってしまいましたが,キリスト教における救済にはふたつの側面があります.贖罪と復活です.いずれも他 A すなわち神との関係において可能なことです.仏教においては他 A は関係無いでしょうか?そんなことはありません.

Buddha とは,目覚めた者です.いわゆる悟りのことを仏教用語で「正覚」と言います.ブッダは,如何にして目覚めに至ったのか?少なくとも,その出発点において,彼は,「目覚めよ」と呼ぶ声を何らかの形で聞いたはずです.

Wachet auf, ruft uns die Stimme. 目覚めよと声は我れらを呼ぶ.御存じのとおり,有名なコラールです.他 A からのそのような呼びかけがなければ,ブッダはブッダにはならなかったでしょう.

 

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