2018年1月17日

Catherine Deneuve の書簡(2018年01月14日付 Libération)



Le Monde 紙で「わたしたちはハラスメントの自由を擁護する」と題された請願に,わたしは実際,署名しました.その請願は,多数の反応を引き起こしました.[そのなかには誤解も含まれているようですから]正確なことを述べる必要があります.

いかにも,わたしは自由を愛します.各人が「裁き,審判し,断罪する権利」を持っていると思っている今の時代のそのような特徴は,好きではありません.今の時代,SNS でのちょっとした告発のせいで,処罰,辞任,ときとして,また,しばしば,メディアによるリンチが起きます.

ひとりの俳優が,映画からデジタル処理で消されてしまう.New York 市にある大きな institution の長が,30年前に誰かの尻をさわったという理由で,何の法的な手続も無しに辞任に追い込まれる.そういうことが起こり得ます.

わたしは弁護しているわけではありません.それらの男性たちが有罪かどうか,わたしは判断しません.その資格もありませんから.そもそも,それ有している人は,ほとんどいないでしょう.

嫌なことです,たくさんの猟犬が寄ってたかって一頭の獲物を追い回すようなこの事態は.昨今,いたるところで起きてきます.

ですから,10月に始まった #BalanceTonPorc[ブタを密告しろ]についても,わたしは態度を保留していました.

あのような行動[性的いやがらせや性暴力]を取るのは,女性よりも,男性の方がずっと多い.しかし,わたしはお人好しではありません.あの hashtag は密告をそそのかすものではないと,どうして言えますか?誰が保証できますか,悪意による操作や不正は無い,無実の人が自殺に追いやられることはない,と?

わたしたちは,「ブタ」も「売女」も無しに,共に生きねばなりません.

ですから,告白するなら,わたしは,あの「わたしたちはハラスメントの自由を擁護する」のテクストを,力強いと思いました ‒ 完璧に正しいと思ったわけではありません.

いかにも,わたしはあの請願に署名しました.しかし,今,このことを強調しておく必要が絶対にあるように思えます 署名者たちのうち幾人かが個々に勝手にメディアに登場する権利を手に入れて,あのテクストの精神そのものを変質させているという事態に,わたしは賛同しません.

強姦のときでも悦することがある」とテレビに出て言うのは,その犯罪の被害者全員の顔に唾を吐きかけるよりも悪いことです.そんなことを言えば,破壊のために力を用いたり sexualité を利用することを習慣にしている者たちに,結局,犠牲者は悦することがあるのだから,さほどたいしたことではない,と思わせてしまうことになる ‒ それだけではありません.

ほかの人々も関与しているマニフェストに署名するなら,自制すべきです.ほかの人々を自分の言葉の垂れ流しのなかに巻き込むのは避けるべきです.そんなことをする人は,あそこに署名する資格はありません.

明らかに,あのテクストのなかには「ハラスメントには良いところもある」などと主張しているところは全然ありません.さもなくば,わたしは署名していなかったでしょう.

わたしは,17歳のときからずっと俳優です.野蛮というよりももっとひどい状況の目撃者になったこともありますし,映画界の男たちが卑怯にも自身の権力を濫用しているということをほかの女優たちから聞いたこともあります  当然,わたしはそう言うことができます.ただ,わたしが同業姉妹たちの代弁者になるわけにはいきませんでした.

トラウマを与える耐え難い状況を作り出すのは,常に,権力や,ヒエラルキーのなかの地位や,或る種の影響力です.雇用を失うリスク無しには,あるいは,侮辱やこちらの品位をおとしめる嘲りを被ること無しには,否と言うことが不可能なとき,罠の口は閉じられます.

ですから,わたしたちの子どもたちの教育が解決をもたらしてくれるでしょう.また,場合によっては,企業のしきたりも.ハラスメントがあれば,すぐさま訴追が開始されるようにすればよいのです.わたしは,法の正義を信じています.

わたしがあのテクストに署名したもうひとつの理由は,わたしの目には本質的です.それは,芸術界の「粛清」の危険性です.Pléiade Sade 全集が焚書になるだろうか ? Leonardo da Vinci が pedophilia の芸術家と指定され,彼の作品が消し去られるだろうか ? Gauguin の作品が美術館から撤去されるだろうか ? Egon Schile のデッサンが破壊されるだろうか ? Phil Spector が手がけたレコードは発禁になるだろうか ? この検閲の雰囲気に,わたしは声を失い,社会の未来を不安に思います.

わたしのことをフェミニストでないと非難する人が,ときどきいます.お忘れなのでしょうか,わたしが Marguerite Duras Françoise Sagan とともに1971年に Simone de Beauvoir によって書かれた「売女343人のマニフェスト わたしは妊娠中絶した」の署名者のひとりであることを?当時,妊娠中絶は非合法で,刑事訴追と禁固刑の対象でした.

ですから,わたしを支持することが戦略的に良いことだと思っているあらゆる類の保守派や差別主義者や伝統主義者たちに,わたしは言いたいと思います:わたしはだまされません.彼れらは,わたしから感謝や友情を受け取ることはありません.まったく逆です.

わたしは自由な女であり,そうであり続けます.

性暴力という忌まわしい行為の犠牲者で,Le Monde の論壇に掲載されたあのテクストによって傷つけられたと感じたかもしれない人々すべてに,わたしは,同胞として挨拶します.彼女たちに,そして彼女たちにのみ,わたしはお詫びします.

参考 :「なぜフランス女性はハラスメントの自由を擁護できるのか? ‒ ラカン派精神分析の社会的効果」(小笠原晋也)

「わたしたちはハラスメントの自由を擁護する ‒ 性の自由に不可欠だから」翻訳


20180109日付 Le Monde 紙の「論壇」欄に発表された公開書簡

わたしたちはハラスメントの自由を擁護する性の自由に不可欠だから

執筆者:
Sarah Chiche(作家,臨床心理士,精神分析家)
Catherine Millet(美術評論家,作家)
Catherine Robbe-Grillet(俳優,作家)
Peggy Sastre(文筆家,ジャーナリスト,翻訳家)
Abnousse Shalmani(作家,ジャーナリスト)

署名者:上記5名,ならびに,ほか105名,計110名 


強姦は犯罪だ.しかし,ナンパは,しつこくても,不器用でも,犯罪ではなく,男が熱心に女性の気を引こうとすることも,男尊女卑的暴力ではない.

Weinstein 事件に続いて,特に男が権力を濫用する専門職の領域において女性に対して為されてきた性暴力を正当に意識化する運動が起きた.それは必然的なことだった.しかし,その言論の解放は,今や,その逆のものに転化しつつある:わたしたちは,しかるべく語り,まずいことは黙っているよう言い渡され,そのような命令に従うことを拒否する女たちは,女に対する裏切り者,男の共犯者と見なされてしまうのだ!

永遠の犠牲者,ファロス権力者 [ phallocrate ] という悪魔の支配のもとにある憐れな小物かつて魔術が信ぜられていた時代のように,そのような地位に女性たちをよりうまく拘束しておくために,万人の善の口実のもとに,女性の保護と解放を主張する議論を借用する.それは,清教徒主義のやり口だ.

事実,#MeToo は,密告や公開告発のキャンペーンを報道機関と SNS のなかに巻き起こした.そこで告発された諸個人は,返答することも自身を弁護することも許されないままに,まさに性暴力の加害者と同列に扱われた.既にこの即席裁判の犠牲となった男たちがいる.職務上,制裁を受けたり,辞任を強いられたり,等々.彼らが犯した唯一の過ちが,互いに惹かれ合っているわけではない或る女性に対して,その膝に触れた,口づけをかすめ取ろうとした,仕事関係の会食の際に「親密な」ことがらを話題にした,性的な含みを持つメッセージを送った,というようなことにすぎなくても.

「ブタ」どもを屠殺場へ送り込むことに熱狂するこの動きは,女性たちが自律的になるためには何ら役立っていない.むしろ,実際には,そのような動きが利しているのは,性の自由の敵である すなわち,宗教極右,最悪の反動勢力,および,善を実体的に考える思想とそれに伴うヴィクトリア朝的道徳との名のもとに,女性たちは「特別な」存在であり,大人の顔をした子どもであり,保護される必要がある,と考える者たち.

面と向かって,男たちは催促される 犯した罪を認めなさい.過去を振り返って,良心の奥底から探し出してきなさい.あなたは,10年前,20年前,30年前に「無礼なふるまい」をした.悔い改めなさい.そのように,公の場で告解するよう強いられ,検察官を自称する者らが私的な領域へ踏み込んでくる.かくして,全体主義的社会のような雰囲気が醸成される.

浄化の波は,とどまるところを知らないように見える.あちらでは Egon Schiele の裸婦のポスターが検閲され,こちらでは,ペドフィリアを弁護しているとの理由で Balthus の絵の美術館からの撤去が要請される.作家と作品との混同において,Cinémathèque française では Roman Polanski の回顧上映の禁止が求められ,Jean-Claude Brisseau の回顧上映は延期される.或る大学教授[女性]は,Michelangelo Antonioni の映画 Blow-Up を「女性蔑視」的で「容認しがたい」と断罪する.そのような修正主義の光のもとでは,John Ford の『捜索者』も,Nicolas Poussin の『サビニの娘たちの誘拐』さえも,追い詰められてしまう.

男性登場人物をもっと性差別をしない男のように描いてください,性や愛について語るときはあまり度を超さないでください,「女性登場人物の被るトラウマ」がもっと明白になるようにしてください わたしたちのうち幾人かは,既に編集者からそう求められている!ほとんどお笑いぐさだが,スエーデンでは「性関係を持つことを志願する者は必ず,明示的に通告された同意を[相手から]得るべし」という法律が作られる予定だそうだ!もっとがんばれば,こうなるだろう ふたりの大人がいっしょに寝たいと思ったら,あらかじめ,スマホのアプリに表示される書類にしかるべく列挙された「受容できる行為」と「拒絶する行為」の各項目にチェックを入れなければならない.

哲学者 Ruwen Ogien は,「不快にさせることの自由」[ liberté d’offenser ] を芸術的創造に必要不可欠のものとして擁護した.同様に,わたしたちは,「ハラスメントの自由」[ liberté d’importuner] を性の自由に必要不可欠のものとして擁護する.わたしたちは,今日,「性本能  [ pulsion sexuelle ] は本質的に不快にさせるものであり,飼いならされ得ない」ということを認めることができるほどに,十分に教えられている.だが,わたしたちは,また,不器用なナンパと性暴力とを混同しないでいられる程度に十分な洞察力を持っている.

なかんづく,わたしたちはこのことについて意識的である:人間存在は一枚岩ではない;ひとりの女は,同じ日のなかで,[昼間は]仕事のチームを指揮し,かつ,[夜は]男の性欲対象 [ objet sexuel ] であることを悦する [ jouir ] ことができる「売女」でも家父長制の卑しい共犯でもあることなく.自分の給料が男の給料と同等であるよう留意し,かつ,メトロのなかの痴漢によって決して癒されることのないほどに傷つけられたとは感じずにいることができる 痴漢は犯罪と見なされているとしても.痴漢をする男の性生活は非常に貧しいのだろうと考えたり,痴漢されてもたいしたことはなかったと思うことさえできる.

権力濫用を告発する域を超えて,男と性に対する嫌悪の容貌を取るあのフェミニズムのなかに,わたしたちは,女として,わたしたち自身の姿を見出さない.ハラスメントの自由がなければ,性的な申し出に対して否と言う自由もない,とわたしたちは思う.そして,ハラスメントの自由に対して,餌食の役割のなかに閉じこもる以外のしかたで答えることができるのでなければならない,とわたしたちは考える.

わたしたちのうちで子どもを持つことを選択した者たちのためには,わたしたちはこう思う:不安を持たされることも罪悪感を持たされることもなく自身の生を充実した生として生きることができるよう,十分な情報と十分な意識の高さを持つ そうなるようにわたしたちの娘を育てるのが,より適切である.

或る女性の身体を傷つけるかもしれない出来事は,必ずしも彼女の尊厳を傷つけるとは限らないし,そのような出来事がときとしてどれほど辛いものであるとしても,必ずしも彼女を永続的な犠牲者にすることになるとは限らない.わたしたちは,わたしたちの身体に還元され得るわけではないから.わたしたちの内的自由は,不可侵である.この自由を,わたしたちは大切に思う.そして,そこにはリスクや責任が無いわけではない.

参考 :「なぜフランス女性はハラスメントの自由を擁護できるのか?ラカン派精神分析の社会的効果」(小笠原晋也)