いくつか御質問,御意見をいただきました.ありがとうございます.
S1 の概念についてですが,重要なことを言うのを忘れていました.それは,Lacan 自身が S1 という用語を必ずしも一義的には使っていない,ということです.四つの言説において S1 は signifiant maître 支配者徴示素と定義され,四つの座のいずれかに位置する項として提示されています.ところが,Lacan 自身が,左上の agent 能動者の座のことを S1 と呼ぶこともあるのです.ですから文脈を良く読まねばなりません
律法 loi の概念は,ユダヤ教的な律法と Kant 的な道徳律とを包摂します.その本質は,いずれにせよ,定言命令 impératif catégorique です.定言命令とは,「...の場合は...せよ」という条件付きの命令ではなく,全く無条件的に「...せよ」と命ずるものです.
そのような定言命令を Freud は超自我に帰しました.1923年に公式化された第二トピックにおいて超自我と呼ばれるものは,症状の言説としての分析家の言説における a です.それは定言命令の声としての a です.その声は「悦せよ!」 Jouis ! と命令します.
昨日の「父の名」の話と関連を持たせるなら,「悦せよ!」という命令の声 a は,存在の真理の座に位置する不可能な名 YHWH としての父の名を代理するものです.律法の定言命令は,神の意志そのものです.
割礼という徴(しるし)も,不可能な名 YHWH を代理する signifiant a と解釈されます.割礼は,神への従順の徴です.つまり,ギリシャ語大文字で書かれる signifiant phallique Φ, 男の性別を規定する signifiant Φ
の閉出の象徴です.
割礼を受けたユダヤ人男性がすべて実際に神に本当に従順なわけでは勿論ありませんが,割礼の宗教的な意義は,神との関係を妨げる signifiant Φ
の棄却です.それによって,症状の言説としての分析家の言説が可能になります.そこにおいて剰余悦 a も症状として実現されます.
キリスト教圏におけるユダヤ人に対する差別は,男が女を差別する構造と同じものに根ざしています.そのような差別を動機づけているものは,去勢不安です.別の表現で言えば,「男性的抗議」です.
問題は,キリスト教圏において排除されたユダヤ人たちがイスラエルという国家を,民主主義国家を作ると,そこにおいて支配的である構造は,大学の言説の構造であり,そこにおいてはユダヤ人たちがアラブ人たちを排除してしまう,ということです.
この三週間で千人以上のパレスチナのアラブ人たちが殺され,そのうち子供の犠牲者は二百数十人にのぼっています.あらためて彼らのために祈りましょう.ユダヤ人もアラブ人もキリスト教徒も,あらゆる者が原点に立ち返り,神への従順を取り戻すことができますように.
同じキリスト教圏でも,カトリック圏とプロテスタント圏では分析家の言説の優勢さが異なる,というのは「社会学的」な事実です.
1950年代までは,有効な精神医学的薬物療法が無かったので,USA においても精神分析は優勢でした.しかしそれは,当時の USA において精神医学界のなかで精神科医が出世しようと思うと精神分析家の資格認定を受けねばならない,というやはり「社会学的」な動機に基づいていました.精神医学的薬物療法が発達すると,USA では精神分析はすみやかに過去の遺物になりました.USA は基本的にプロテスタントの国です.カトリックは少数派です.
それに対して今,分析家の言説が優勢である国々,要するに Lacan の教えに準拠する精神分析が栄えている国々は,フランス語,スペイン語,イタリア語の国々であり,基本的にカトリック諸国です.
この「社会学的」な事実を説明することはできるでしょうか?誰も明確な答えを出してはいません.わたしの推測では,それは,神を畏れる度合いの差によるのではないかと思われます.
プロテスタントは非常に多様で,一概には言えません.Luther と Calvin は同じではありません.Heidegger は Luther を熱心に研究しました.わたしはプロテスタント神学をまだよく知りません.ですから,こう言っておきましょう:少なくともプロテスタントの一部は,神中心ではなく人間中心の宗教になっている.近代の人間中心主義に則ってキリスト教を「改革」したのがプロテスタントです.
それに対して,あいかわらず神中心を堅持しているのがカトリックです.あるいは,中世に堕落したカトリックですが,近世以降,プロテスタントに対抗するために,人間中心ではなく神中心の精神を復活させました.
人間中心か神中心かによって神を畏れる畏れ方に違いが出てくると思います.
プロテスタントの教義が厳しくないわけではありません.むしろ,カトリックより非常に厳格であるかもしれません.しかし,それは或る意味でユダヤ教的な律法主義への逆戻りでしかありません.ユダヤ教の律法主義は,イェスの時代,堕落して,神を畏れる気持ちを失い,形骸化していました.だからこそ,父なる神はイェスを世に使わしたのです.プロテスタントは,或る意味でイェスの時代のユダヤ教と同じ過ちに陥っています.戒律,律法を厳格に遵守しますが,神を畏れることを忘れています.
それに対してカトリックは,律法よりも神の愛を強調します.神は愛です.そして,神を愛することが重要です.そこには,神をうやまい,神を畏れる気持ちが伴います.
以上のような違いが,プロテスタント諸国では大学の言説の優位,カトリック諸国では分析家の言説の優位という違いを生んでいるのではないかと,わたしは推測しています.
神を畏れるところでは,律法を遵守することよりは,神の意志を直接知ろうとします.何を神は人間に請求しているのかを知るために神の声を聴き取ろうとします.それは,分析家の言説と同じ構造です.
さて,1932年の医学博士論文で Lacan が取り上げた症例 Aimée についてですが,Lacan は彼女を paranoïa と診断しています.つまり,妄想症状はあったが,Schizophrenie ではなかったのです.
Aimée は,妄想において彼女の迫害者である幾人かの人物のうち或る女優をナイフで襲撃しました.Aimée が自分の攻撃行為の意義を自罰と了悟したとき,彼女の妄想症状は消え去りました.その後の経過において,症状の再発はありませんでした.伝えられているエピソードによると,Sainte Anne 病院から退院した後,或る時期,Aimée は Lacan の両親の家で住み込みの家政婦をしていたそうです.そこで Aimée とはちあわせた Lacan は非常にびっくりしたそうです.ともあれ,彼女は再び妄想症状を持つことはありませんでした.
Schizophrenie に比べると,純粋な
paranoïa の症例ははるかに少ないです.しかし,Freud の症例「狼男」は,大人になってから,一時的に paranoïa 症状を呈したことがあります.このことについては別の機会に紹介しましょう.
「父の名の閉出」の概念も多義的です.或る意味で,症状の言説である分析家の言説においては父の名は閉出されています.父の名が閉出されていないと症状は出現しません.
症例 Aimée においても「父の名」は閉出されていました.だからこそ症状が出現しました.
そして,彼女の症状は,自我理想 Ich-Ideal を攻撃し破壊するという行為において,解体されました.そこが Lacan の注目したところです.
自我理想も,signifiant a の一形態です.死の本能,攻撃本能が仮象 a を破壊することによって aliénation の構造が解体され得る.このことが,後の Lacan の主体滅却 destitution subjective の概念の種となりました.
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