Joyce le Symptôme (la version écrite)
症状 ジョイス(書版)[1]
Jacques Lacan
Joyce le Symptôme à entendre comme Jésus la Caille : c’est son nom. Pouvait-on s’attendre à autre chose d’emmoi : je nomme. Que ça fasse jeune homme est une retombée d’où je ne veux retirer qu’une seule chose. C’est que nous sommes z’hommes.
Joyce le Symptôme[症状 ジョイス]は Jésus la Caille [2] と同様に取るべきである:それは 彼の名である.あなたたちは わたしのなかから [3] ほかのことを 予期し得たか ? : わたしは 命名 [4] する.それ[Joyce le Symptôme という 名]が[Jésus la Caille の名と 同様に]若い男[の 名]に見える ということは,ひとつの副次的な効果であり,そこから わたしは ただひとつのことをだけ 引き出したい.すなわち,我々は人間 [5] である.
[1] 1975年 6月 16 - 20 日 に Paris で行われた 第 5 回 International James Joyce Symposium の 初日に,Lacan は,Jacques Aubert の要請に応じて,開会講演を行った.このテクストは,その講演にもとづいて書かれ,1979年に出版された〈その学会の〉記録のなかに そこにおけるほかの演者の発表とともに 収録された.1987年には Navarin éditeur から 出版された Joyce avec Lacan に,同名の表題の講演版 (la version conférence) とともに,収録された(Joyce avec Lacan には,ほかに,Séminaire XXIII (1975-1976) Le sinthome の 初回講義,Jacques Aubert のテクスト など が 収録されている).現在は,Autres écrits (pp.565-570) に 収録されている.この Joyce le Symptôme 書版の 正確な執筆時期は不明だが,Joyce を論じた Séminaire XXIII (1975-1976) Le sinthome において展開されたような形における四つ輪のボロメオ結びへの言及がそこにはないことから,それは,同セミネールの終了後に書かれたのではないだろう — 1975年の夏休みの間に書かれたのだろう — と 推定される.
[2] Jésus-la-Caille は,1914年に出版された〈Francis Carco (1886-1958) の〉小説の表題であり,その主人公の名でもある.小説の舞台は 1910年代始めの Paris, 主人公は Montmartre 界隈の若い gigolo である.Jésus は,一般名詞としては,「坊や,かわいい男の子,少年男娼」を指す.caille は「ウズラ」であるが,子どもや女性に親愛の情をこめて呼びかけるときに « ma petite caille » と言うことがある.また,caille は,俗語的表現では,非道徳的な若い女性のことを指す.小説の もうひとりの主要な登場人物は Pépé-la-Vache — pépé は「おじいさん」,vache は「雌牛,太りすぎの女性,娼婦」— と呼ばれている.明らかに Jésus-la -Caille と Pépé-la-Vache は 逆の属性を それぞれ 付与されている.また,ふたりとも男性であるが,女性名詞を渾名としている.Jésus-la-Caille は gay であるが,他方,Pépé-la-Vache は heterosexual である.
[3] Lacan は d’emmoi と書いている.d’en moi[わたしのなかから]と読める.ただ,通常は,単に de moi[わたしから]と言うだろう.Lacan が 敢えて en moi と言っているのは,ひとつには en soi[ドイツ語の an sich のフランス語訳;通例「即自的に」と訳されるが,わたしは an sich を「自然的に」と訳す]にならって,もうひとつには,surmoi[超自我]との区別において であるかもしれない.
[4] 四つの輪から成るボロメオ結びにおいて,le réel[実在性]R と le symbolique[徴示性]S と l’imaginaire[仮象性]I との三つの輪を ボロメオ的に結び合わせる 第四の輪の機能を,Lacan は,ここでは,命名 (nomination) と呼んでいる — ボロメオ結びの 第四の輪(四つの言説では 他者の座)は,書かれないことをやめないものとしての実在性の在所(四つの言説では 生産の座)に位置するものの〈書かれることをやめない〉名である,という意味において.また,第四の輪は,Séminaire XXIII においては,sinthome Σ の輪とも呼ばれる.R と S と I の 三つの輪をボロメオ的に結び合わせる第四の輪の機能は,Séminaire XXI Les non-dupes errent における Lacan の表現を用いるなら,ボロメオ結合性 (la nodalité borroméenne) と呼ぶこともできる.
[5] Lacan は nous sommes z’hommes と書いている.普通は nous sommes hommes と書く.それを発音するときには,sommes と hommes との間に liaison が生じ,sommes の最後の s が z と発音される : [ nu som zom ]. Lacan は,liaison の際に現れてくる その z の音を 敢えて表記して,lalangue の次元を示唆している.
LOM : en français
ça dit bien ce que ça veut dire. Il suffit de l’écrire phonétiquement : ça le
faunétique (faun...), à sa mesure : l’eaubscène. Écrivez ça eaub... pour
rappeler que le beau n’est pas autre chose. Hissecroibeau à écrire comme l’hessecabeau
sans lequel hihanappat qui soit ding ! d’nom dhom. LOM se lomellise à qui mieux
mieux. Mouille, lui dit-on, faut le faire : car sans mouiller pas d’hessecabeau.
LOM [6] : フランス語では,それは それが言わんとすることを まさに言っている.それを 音声的に [ phonétiquement ] 表記すれば 十分だ — それは faunétique (faun...) [7] なものだ,それにふさわしく : l’eaubscène[卑猥なもの][8]. それを eaub... と書きたまえ — beau[美]は まさにそれであることを 思い起こさせるために.Hissecroibeau [9] — それを hessecabeau [10] のように書くべし.それ [ hessecabeau = escabeau ] 無しには hihanappat qui soit ding ! d’nom dhom [11]. LOM は,互いに競って 自身を lomelliser [12] する.何ものか [13] が LOM に言う:濡れろ [14] — そうせねばならない:なぜなら,濡れることなしに hessecabeau [ escabeau ] は無いから.
[6] LOM : l’homme[男,人間]の lalangue 表記.また,LOM は l’on をも想起させる.on は,不特定の「人」を指す人称代名詞であり,homme と同様に,ラテン語の homo に由来する.
[7] Lacan は,phonétique の phone(ギリシャ語の φωνή[声,音]に由来)に その同音異義語 faune(ラテン語の Faunus[半獣神,牧神]に由来)を代入している.ローマ神話の faune は ギリシャ神話の σάτυρος と同化され,後者の属性のひとつは 好色であること である.
[8] eaubscène には 容易に obscène[猥褻な,卑猥な]が読み取られる.それは,直前に言及されている faune (satyros) の属性のひとつである — satyros は しばしば ithyphallique[phallos の勃起した]なものとして 描かれる.また,eaub は,Lacan がすぐ後にタネ明かししているように,beau[美しい]の anagramme である.
[9] hissecroibeau = il se croit beau[彼は 自身を 美しい と 思っている].
[10] hessecabeau = escabeau[踏み台,脚立].この語にも beau が読み取れる(語源的には beau とは無関係であるが).そして,escabeau[踏み台,脚立]は,高い位置に昇るための道具であることから,sublimation[昇華]と 関連づけられる.Joyce le Symptôme において(講演版においても 書版においても)Lacan が escabeau と呼んでいるのは,芸術作品のことである.芸術的創造が昇華であるのは,それが creatio ex nihilo[無からの創造]— すなわち,否定存在論的孔穴から出発し,かつ,否定存在論的孔穴を 保匿 (bergen) するような 創造 — である限りにおいてである.だが,Joyce においては,そうではなかった.彼の作品は,むしろ,否定存在論的孔穴を完全に塗りつぶしてしまう方向へ向かった.Joyce は,彼の escabeau によって,昇華には至らず,むしろ,彼の escabeau を 絶対化し,永遠に存続させようとした.そこに Lacan は Joyce の作品の精神病的なところを 見ている.
[11] hihanappat qui soit ding ! d’nom dhom = il n’y en a pas qui soit ding ! de nom d’homme[人の名の鳴り響きであるものは 無い].ここでは ding を,das Ding[物]を示唆する語とは取らず,単純に 擬音語と取る : ding, d'nom dhom = ding, dong, dong !
[12] se lomelliser : 自身を LOM 化する,人間化する.
[13] Lacan は « Mouille, lui dit-on » と 言っている.つまり,不特定の「誰か」や「彼ら」や「我々」を指す on が「濡れろ」と命令する者である.しかるに,そのような命令 —「悦せよ!」という定言命令 — を発するのは,超自我 (Über-Ich, surmoi) である.
[14] mouiller は,通常,他動詞であり,「濡らす」と訳される.だが,俗語的表現においては 自動詞として用いられ,「濡れる」,すなわち,女性が「性的に興奮する」こと;そこから,さらに,男に関しても「性的な快を感ずる」こと.
LOM, LOM de base, LOM cahun corps et nan-na Kun. Faut le dire comme ça : il ahun... et non : il estun... (cor/niché). C’est l’avoir et pas l’être qui le caractérise. Il y a de l’avoiement dans le qu’as-tu ? dont il s’interroge fictivement d’avoir la réponse toujours. J’ai ça, c’est son seul être. Ce que fait le f...toir dit épistémique quand il se met à bousculer le monde, c’est de faire passer l’être avant l’avoir, alors que le vrai, c’est que LOM a, au principe. Pourquoi ? Ça se sent, et une fois senti, ça se démontre.
LOM, 基本的な LOM, LOM cahun corps et nan-na Kun [15]. そのことを このように言うべきだ : il ahun... [16], つまり,il estun... [17] ではない (cor/niché [18]). LOM を特徴づけるのは,「...を有する」であって,「...である」ではない.「何を おまえは 有するか?」のなかには avoiement [19] がある —「何を おまえは 有するか?」によって,LOM は 虚構的に 自問する — 常に答えを有しているがゆえに.わたしは それを 有している.それは,LOM の唯一の存在である.知のゴタゴタが それが世界を壊乱し始めるときに 為すこと,それは「...である」を「...を有する」より優先させること [20] である — しかるに,真であるのは このことである:源初において LOM は有している [21]. なぜか ? それは 感ぜられる.そして,いったん感ぜられたなら,それは証明される.
[15] LOM cahun corps et nan-na Kun = l’homme qui a un corps et n’en a qu’un[身体を ひとつ 有しており,それを ひとつしか 有していない 人間].
[16] il ahun... = il a un (corps)[LOM は ひとつの身体を有している].
[17] il estun... = il est un (corps)[LOM は ひとつの身体である].
[18] cor/niché = corps niché[巣や隠れ家のようなところに 置かれた,保護された,隠された 身体].身体は どこに 置かれてあるか ? 言語のなかに.Heidegger の命題を思い起こすことができるだろう : Die Sprache ist das Haus des Seins[言語は 存在の家である].
[19] Lacan は,それが あたかも avoir の名詞形であるかのように,avoiement という新造語を持ち出している.そこには aboiement[aboyer の名詞形 ; aboyer は 犬などが吠えること]を見て取ることができる.
[20]「être が avoir より優先される」ということは「形而上学的な(実体論的な)存在論が 支配的となる」ということであり,すなわち,「大学の言説の構造において 形而上学的な S1 が 否定存在論的孔穴を塞ぎ得るものとして paranoïaque に措定し直される」ということである.
[21] Lacan は,動詞 avoir[有する]の 直説法 現在時制 3 人称 単数の形である a を イタリック体で 表記している : LOM a. それによって,Lacan が「源初において 人間は 所有している」と言うとき,その所有物は 客体 a である,ということが 示唆されている.
Il a (même son corps) du fait qu’il appartient en même temps à trois... appelons ça, ordres. En témoignant le fait qu’il jaspine pour s’affairer de la sphère dont se faire un escabeau.
LOM は,三つの... — それを「次元」[ ordre ] と呼んでおこう — 次元 [22] に 同時に属することによって,有している(身体をさえも).このことを証言しつつ:すなわち,LOM が しゃべるのは,自身のために escabeau にする 球 [23] を 完璧なものにすべく 努力するためである.
[22] les trois ordres[三つの次元]は,le réel[実在性の次元],le symbolique[徴示性の次元],l’imaginaire[仮象性の次元]のこと.
[23] 球は,古来より,unité(一であること,単一性,統一性)の象徴である.それは,裂け目も 穴も 無い 理想的(イデア的)な 完璧さ(完全無欠さ)を 表わしており,否定存在論的孔穴を塞ぐ τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]としての ἰδέα の象徴そのものである.従来,人間存在は,そのような球として 表象されてきた.否定存在論は,そのような表象を廃する.
Je dis ça pour m’en faire un, et justement d’y faire déchoir la sphère, jusqu’ici indétrônable dans son suprême d’escabeau. Ce pourquoi je démontre que l’S.K.beau est premier parce qu’il préside à la production de sphère.
わたしがそう言うのは,わたし自身に ひとつの escabeau を作るためである — ただし,そこにおいて 球を — 従来 その escabeau の至高性において 王位から追放することは不可能であった 球を — 失墜させる [24] ことによって.それによって,わたしは,このことを証明する:すなわち,S.K.beau [25] は 球の生産をつかさどるがゆえに 最高位にいるのである.
[24] Lacan は L’étourdit (1972) において 投射平面を asphère[非球]と呼んでいる.そして,分離の構造において,投射平面を構成していたメビウスの帯から,球は,分離され,廃棄される.
[25] Lacan は,escabeau を S.K.beau と表記することによって,その語に含まれている beau[美]を強調している.美 [ le beau ] は,Platon が 真 [ le vrai ], 善 [ le bien ], 義 [ le juste ] などとともに ἰδέα として措定するものの ひとつである.
L’S.K.beau c’est ce que conditionne chez l’homme le fait qu’il vit de l’être ( = qu’il vide l’être) autant qu’il a – son corps : il ne l’a d’ailleurs qu’à partir de là. D’où mon expression de parlêtre qui se substituera à l’ICS de Freud (inconscient, qu’on lit ça) : pousse-toi de là que je m’y mette, donc. Pour dire que l’inconscient dans Freud quand il le découvre (ce qui se découvre c’est d’un seul coup, encore faut-il après l’invention en faire l’inventaire), l’inconscient c’est un savoir en tant que parlé comme constituant de LOM. la parole bien entendu se définissant d’être le seul lieu, où l’être ait un sens. Le sens de l’être étant de présider à l’avoir, ce qui excuse le bafouillage épistémique.
S.K.beau は,人間において このことによって 条件づけられている:すなわち,人間は存在によって生きている(= 人間は存在を空ずる [26])— 人間は[客体 a としての]身体を有しているのと同様に.そもそも,人間が[客体 a としての]身体を有するのは そのことにもとづいて にほかならない.そこから,わたしの表現 : parlêtre[言語存在][27] — それは,Freud の ICS [28](inconscient[無意識]と読む)に取って代わるだろう — そこから どけ,わたしが そこに 座るから,というわけだ.こう言うために:すなわち,Freud における 無意識 — 彼がそれを発見したとき(無意識は 一挙に 発見された — 発明 [ invention ] の後は さらに その内容を詳細に調べ [ faire l’inventaire ] ねばならないが)— 無意識,それは,語られたものとしての知 [ un savoir en tant que parlé ] [29] — LOM を構成するものとしての知 — である.ことば [ la parole ] は,勿論,そこにおいて 存在が意味を有するところの 唯一の場所 であることによって 定義される.存在の意味 [30] — それは「有する」を司ることである.それは,知がモグモグと不明瞭につぶやく [ bafouiller ] ことを 許す.
[26] Lacan は,命題 « il vie de l’être »[人間は 存在によって 生きる]と同音異義の命題 « il vide l’être »[人間は 存在を 空ずる]とを 等号で繋いでいる.Lacan が Heidegger の Seyn (das durchgekreuzte Seyn) を念頭に置いていることが,ここに 明瞭に 読み取られる.
[27] Lacan は,le sujet parlant[語る主体]という表現を 1955年から用いており,l’être parlant[語る存在]と言う表現を 1958年から用いている.parlêtre という用語が導入されるのは Séminaire XXII (1974-1975) R.S.I. においてである.それは,主体は「語る」だけでなく,「語られて」もいる という考えに基づいている(『症状 ジョイス』講演版 を参照).主体(存在)と 言語との関係について,Lacan が基本的な準拠とするのは,Heidegger の « die Sprache ist das Haus des Seins »[言語は 存在の家である]という命題である.Lacan は,それにもとづいて,「人間は 言語[構造]に住まう」とも言っている.Heidegger や Lacan の そのような考え方は,「言語は communication の道具である」という常識の否定を 包含している.
[28] Freud 自身は das Unbewußte[無意識]を Ubw と略記している.
[29] Lacan が「無意識において 何かが語る」[ dans l’inconscient, ça parle ] (Écrits, p.437) と言うとき,それは,大学の言説の構造において 主体 $ の座(書かれないことをやめないものの座)に 絶対知を仮定することを 包含する.その知は,parlêtre の概念において 主体は 語っており かつ 語られてもいるのと同様に,語っており かつ 語られてもいる.このパラグラフの終わりにおける bafouillage épistémique[知が モグモグと不明瞭につぶやく]という表現も,「無意識において 何かが語る」の言い換えである.
[30] « nach dem Sinn des Seins fragen »[存在の意味に関して問う]は Heidegger が Sein und Zeit[存在と時間](1927) において試みたことである — ただし,彼は,後に,その取り組み方は なおも形而上学的なままであった,と 反省している.意味とは,大学の言説の構造において 真理の座に 支配者意義 (la signifiance maîtresse) として措定される 支配者徴示素 (le signifiant maître) S1 のことである.
L’important, de quel point – il est dit « de vue », c’est à discuter ? ce qui importe donc sans préciser d’où, c’est de se rendre compte que de LOM a un corps – et que l’expression reste correcte, – bien que de là LOM ait déduit qu’il était une âme – ce que, bien entendu, « vu » sa biglerie, il a traduit de ce que cette âme, elle aussi, il l’ avait.
重要なのは — 如何なる観点(いわゆる「観」点)から[重要であるの]かは 議論さるべきだが — ともあれ,重要なのは — 如何なる観点からかは 正確に示さずにおくが — このことを理解すること である:すなわち,LOM は 身体を有している — そして,その表現は 正しいままである — そこから LOM は「わたしは 魂である」と演繹するとはいえ — そのことを,LOM は,勿論 — LOM は 斜視であってみれば —「わたしは 魂を有している」によって 翻訳した.
Avoir, c’est pouvoir faire quelque chose avec. Entre autres, entre autres avisiont dites possibles de « pouvoir » toujours être suspendues. La seule définition du possible étant qu’il puisse ne pas « avoir lieu » : ce qu’on prend par le bout contraire, vu l’inversion générale de ce qu’on appelle la pensée.
「有する」とは「...を以て 何ごとかを為し得る」ということである.なかんづく,もろもろの〈「可能な」と言われる〉avisions [31] のうちで — 常に中断され得るがゆえに.[そも,]可能 [ le possible ] の唯一の定義は,それは「起こらなくなり得る [32]」ということである.人々は「可能」を逆向きに定義しているのだ [33] — 思考と呼ばれるものの一般的な逆転に鑑みるなら[不可思議なことではない].
[31] テクストには avisiont と書かれてあるが,我々は avisions[複数形]と読む.その直前のパラグラフで vue や vu が強調されている(翻訳では表現しきれていないが)ことから,avision には,当然,vision を読み取ることができる.そもそも,古フランス語には avision という語があり,それは「視覚,夢として見る幻覚,表象,ものごとの見かた,意識化,観念」のことである.また,avision には avis[意見,見解,通知]および s’aviser[気づく]さらに viser[狙う]を読み取ることもできる.このテクストの文脈においては「目論見」と訳せるだろう —「もくろみ」を「目論見」と書くことは,それだけで,かなり傑作な「ジョイス語」である.
[32] Lacan が cesser[やめる]と s’écrire[書かれる]とにより定義する 四つの様態は 次のとおり:
l’impossible[不可能]: ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire[書かれないことをやめないもの];
le nécessaire[必然]: ce qui ne cesse pas de s’écrire[書かれることをやめないもの];
le contingent[偶然]: ce qui cesse de ne pas s’écrire[書かれないことをやめるもの];
le possible[可能]: ce qui cesse de s’écrire[書かれることをやめるもの].
[33] 常識的には「可能」は「起こり得ること」であるが,Lacan による「可能」の定義 :「書かれることをやめるもの」にしたがえば,「可能」とは「起こらなくなり得ること」である.
Aristote, Pacon contrairement au B de même rime, écrit que l’homme pense avec son âme. En quoi se prouverait que LOM l’a, elle aussi, ce qu’Aristote traduit du νοῦς. Je me contente moi de dire: nœud, moins de barouf. Nœud de quoi à quoi, je ne le dis pas, faute de le savoir, mais j’exploite que trinité, LOM ne peut cesser de l’écrire depuis qu’il s’immonde. Sans que la préférence de Victor Cousin pour la triplicité y ajoute : mais va pour, s’il veut, puisque le sens, là c’est trois ; le bon sens, entends-je.
Aristoteles — 彼は愚かではない — B で始まる同じ韻の名の者 [34] とは逆に — は,こう書いている:人間は その魂 [ âme ] を以て 思考する [35].そのことにおいて,このことが証明されるだろう:すなわち,LOM は 魂をも 有している.「魂」は Aristoteles が νοῦς [36] という語で言っていることである.わたしは,より騒がしくなく,nœud[結び目]と言うことに 甘んずる.何から何への結び目なのか わたしは言わない — それを知らないので.だが,わたしは このことを 利用する:すなわち,LOM は,[身体を有しているがゆえに]世に 汚れたものとして 存在する [37] ようになって以来,trinité[父と子と聖霊の三つがひとつである唯一神]を書くことをやめることができない.triplicité[三重性]に対する Victor Cousin [38] の好みがそこに付け加わることがなくても.だが,そうであってもよい — 彼が欲するなら — なぜなら,そこにおいて le sens は 三である [39] から — この場合,le sens は le bon sens のことである,と わたしは解している.
[34] Lacan は Pacon と書いている.そこには pas con[愚かではない]を読むことができる.P を B に置き換えれば,Bacon となる.Francis Bacon (1561-1626) のこと.経験論の父と呼ばれる Bacon は,Aristoteles の Ὄργανον に対抗して,Novum Organum を著している.Lacan は,当然,経験論的な思考に対して 批判的である.
[35] Aristoteles は,『魂について』(Περὶ Ψυχῆς, De Anima) の 第 1 巻 第 4 章 において,こう言っている : βέλτιον γὰρ ἴσως μὴ λέγειν τὴν ψυχὴν ἐλλεεῖν ἢ μανθάνειν ἢ διανοεῖσθαι, ἀλλὰ τὸν ἄνθρωπον τῇ ψυχῇ [ Il vaudrait peut-être mieux dire, non pas que c’est l’âme qui a pitié, qui apprend ou qui pense, mais plutôt que c’est l’homme qui fait tout cela par son âme ][そも,おそらく,魂が 憐れむ あるいは 学ぶ あるいは 思考する と言うのではなく,しかして,人間が 魂を以て(魂によって)それらのことをする と言う方が よいだろう].
[36] 実際には Aristoteles は ψυχή と言っているのだが,Lacan は,nœud[結び目]という語と音声的に関連づけるために,敢えて νοῦς を持ち出しているのだろう.
[37] Lacan は 動詞 s’immonder を用いている.そこには immonde[汚れた],monde[世界,俗界],monder[穀物や果実などの不用な部分を除去する,純粋にする]が 読み取れる.人間における 精神と身体との二重性を強調し,身体性を 罪(汚れ)と関連づけるのは,新プラトン主義(グノーシス派)の思考である.
[38] Victor Cousin (1792-1867) : spiritualisme を信奉する哲学者(この場合,spiritualisme とは,精神 [ esprit, Geist ] を 質料からは独立した実在性 と見なす思考).Sorbonne 教授,École normale supérieure 校長,Académie française 会員,文部大臣.フランスにおいて,哲学の歴史を研究する伝統を創始した.また,フランスの lycée における哲学教育の重視の伝統を定着させた.Descartes の著作の編纂,Platon および Proclus のテクストのフランス語訳 を 行った.フランスにおけるドイツ観念論の研究の先駆者でもあり,Hegel と直接の親交を持っていた.Lacan は,triplicité[三重性]に対する Victor Cousin の好み と言っているが,この場合,三重性とは,教科書的なヘーゲル弁証法の These – Antithese – Synthese のことである.また,Lacan は jouissance[悦]としての sens[官能]との関連において「人間は身体を有している」ことを強調しており,それに鑑みるなら,Lacan が ここで Victor Cousin を唐突に持ち出してきたのは 彼が spiritualiste であったからだろう と推察される.
[39] Lacan は « le sens, là c’est trois ; le bon sens, entends-je » と書いている.sens は「感覚,官能,意見,意味」または「方向」と訳され得る.bon sens は「良識,常識」または「良い方向,正しい方向」と訳され得る.この部分で Lacan が何を言おうとしているのかは判然としないが,もしかしたら,彼は,三つ輪のボロメオ結びにおける三つの intersections に配置された le sens, la jouissance phallique, la jouissance de l’Ⱥutre のことを 示唆しているのかもしれない — 彼は,Télévision (Autres écrits, p.517) のなかで,jouissance を jouis-sens と表記して,sens という語における「悦,官能」と「意味」との両義性を 改めて示唆している.ちなみに,大島渚が阿部定事件を描いた映画『愛のコリーダ』(1976) は,フランスでは L’empire des sens[官能の帝国]の表題のもとに 公開された.その映画に,Lacan は,Séminaire XXIII Le sinthome の 1976年03月16日の講義において,言及している.
C’est pour ne pas le perdre, ce bond du sens, que j’ai énoncé maintenant qu’il faut maintenir que l’homme ait un corps, soit qu’il parle avec son corps, autrement dit qu’il parlêtre de nature. Ainsi surgi comme tête de l’art, il se dénature du même coup, moyennant quoi il prend pour but, pour but de l’art le naturel, tel qu’il l’imagine naïvement. Le malheur, c’est que c’est le sien de naturel : pas étonnant qu’il n’y touche qu’en tant que symptôme. Joyce le Symptôme pousse les choses de son artifice au point qu’on se demande s’il n’est pas le Saint, le saint homme à ne plus p’ter. Dieu merci car c’est à lui qu’on le doit, soit à ce vouloir qu’on lui suppose (de ce qu’on sait dans son cœur qu’il n’ex-siste pas) Joyce n’est pas un Saint. Il joyce trop de l’S.K.beau pour ça, il a de son art art-gueil jusqu’à plus soif.
この bond du sens [40][感覚 または 官能 の 跳躍,躍動]を失わないために,わたしは,今しがた,こう表言した:こう断言せねばならない — 人間は身体を有している;すなわち,人間は 身体を以て 語る;言い換えると,人間は 本性的に [ de nature] 言語存在している [41]. かくして,tête de l’art [42] として出現して,人間は,そのことによって 変性する [ se dénaturer ]. それによって,人間は,le naturel[自然的なもの]を l’art[芸術]の目標とする — 素朴に想像されたものとしての 自然的なものを.不幸なことに,それは 人間が想像するものとしての 自然的なもの である:人間は 症状としての自然にしか触れ得ないとしても,驚くべきことではない.Joyce le Symptôme は,事態を,彼の artifice[巧みな策,巧みな術]によって,これほどにまで 推し進める:すなわち,彼は 聖人 [ le Saint ] ではないか,もはや p’ter しない[pを含まない]saint homme[聖なる人間]ではないか,と 我々が自問するほどに.[だが,]神に感謝すべきことに — というのも,我々はそのことを神に負うているからだが — すなわち 我々が神に仮定する あの意志に 負うているからだが — 我々が 神は解脱実存していない と 心のなかでは 知っていることによって — Joyce は 聖人ではない.彼は,そうであるためには,あまりに S.K.beau を joyce しすぎている[悦しすぎている].彼は,彼自身の芸術に 慢心 [43] している — 満腹するほどに.
[40] bond du sens[感覚の躍動]は bon sens[良識]と 準同音異義.
[41] Lacan は « il parlêtre de nature » と書いている — あたかも parlêtrer という動詞があるかのように.
[42] tête de l’art[芸術の頭,芸術的創造が可能な頭脳,才能]は,tête de lard と 同音異義である.lard は「ラード,豚の脂身」であるが,tête de lard は「頑固者,性格の悪い者」である.
[43] Lacan は,orgueil[慢心,自慢,誇り]の代りに,art-gueil と書いている.
A vrai dire il n’y a pas de Saint-en-soi, il n’y a que le désir d’en fignoler ce qu’on appelle la voie, voie canonique. D’où l’on ptôme à l’occasion dans la canonisation de l’Église, qui en connaît un bout à ce qu’elle s’y reconique, mais qui se f... le doigt dans l’œil dans tous les autres cas. Car il n’y a pas de voie canonique pour la sainteté, malgré le vouloir des Saints, pas de voie qui les spécifie, qui fasse des Saints une espèce. Il n’y a que la scabeaustration ; mais la castration de l’escabeau ne s’accomplit que de l’escapade. Il n’y a de Saint qu’à ne pas vouloir l’être, qu’à la sainteté y renoncer.
まことを言えば,その人自身において聖人である者は 無い.あるのは,いわゆる道 — 聖人になるための道,教会法的な道 — を 歩み遂げたいという 欲望である.それゆえ,教会による列聖[の過程]において,場合によって,聖人になりたいと思う者が症状となることがある [44] — 教会は,そこに 自身を イコン的に 認める [45] ことによって,列聖について 多少のことを 識っている [46] —[列聖以外の]ほかのすべての場合においては ひどく勘違いしているのだが.そも,聖性のための[聖人になるための]教会法的な道は 無い — 聖人たちの意志にもかかわらず — 聖人たちを ひとつの種 [ espèce ] とする道,そのように特定 [ spécifier ] する道は 無い.あるのは scabeaustration [47] だけである.だが,escabeau の去勢は escapade[脱出]によってしか 遂行されない.聖人がいるとすれば,それは,聖人になることを欲しないことによってのみであり,聖性への執着を捨てることによってのみである.
[44] Lacan は l’on ptôme と書いており,そこに symptôme を聴き取ることができる.解釈困難な表言であるが,一応,「聖人になりたいと思う者が症状となる」と訳しておく.
[45] Lacan は s’y reconique と書いている.そこには s’y reconnaît と iconique(icône に由来する形容詞)を 聴き取ることができる.
[46] Lacan は,精神分析家の資格認定の手続としての passe[パス]を考案するために,カトリック教会における「列聖」(canonisation) の手続を 結構 参考にしたのではないか と思われる.というのも,passe においては,ある者を精神分析家として認定するか否かの判断を下す 審査委員会は,候補者(passant : 渡ろうとする者)を 直接 面接せず,しかして,候補者の話しを聴いた者(passeur : 渡す者,渡しもり — passeur は,みづから精神分析を経験している者たちのうちから選ばれる;その選考基準は「精神分析を かなりの程度 経験しており,そして,それによって 精神分析の終結に近づいている」ということである)ふたり の 証言を 聴き,それにもとづいて判断する からである.何らかの資格認定のために 審査者が 候補者を 直接 面接せずに 判断する というのは,何とも奇妙なことであるが,列聖の手続の際には,確かに そうせざるを得ない — なぜなら 列聖候補者は 既に死去しているのだから(今 なお 生きている者は 列聖の対象とはならない).したがって,列聖の審査の際には,確かに 候補者の書き残したものがあれば それも参考にするが,より重要なのは,候補者(既に beato[福者]として認定されている)に 熱心に祈ることによって — あるいは,場合によって,候補者の著作を読んだことによって — 何らかの奇跡的な経験をした者の証言を聴くことである.然り,カトリック信者ではない者たちにとっては バカバカしさの極みとしか見えないだろうが,ある者が聖人と認定されるためには,このことが必要である:その者(既に死去している)とのかかわり(深い祈り 等)において 何らかの奇跡を経験する者(生きている者)が 少なくとも ふたり いる.それにならって Lacan は こう考えた と 我々は推測することができる:もし passant が 本当に 分析の終結において 主体 $ として成起(自有 : Ereignis)しているなら(つまり,聖人となっているなら),その passant の証言を聴く ふたりの passeur には それによって 奇跡に相当する何ごとかが 成起し得る.したがって,passe の審査員たちは,passeur の証言のなかに〈passeur が passant の ことばを 聴いたことによって,passeur において 成起したかもしれない〉「奇跡」の証言を 聴き取るべきである.
[47] scabeaustration < escabeau + castration : 自身を高めるために昇る踏み台(すなわち 芸術作品 客体 a)を 去勢すること,つまり,塵芥として 捨てること.
C’est ce que Joyce maintient seulement comme tête de l’art : car c’est de l’art qu’il fait surgir la tête dans ce Bloom qui s’aliène pour faire ses farces de Flower et d’Henry (comme l’Henry du coin, l’Henry pour les dames). Si en fait il n’y a que lesdites dames à en rire, c’est bien ce qui prouve que Bloom est un saint. Que le saint en rie, ça dit tout. Bloom embloomera après sa mort quoique du cimetière il ne rie pas. Puisque c’est là sa destination, qu’il trouve amèredante, tout en sachant qu’il n’y peut rien.
[だが]それ[聖人であること,聖人となること]は,Joyce が維持すること である — ただし,tête de l’art として.そも,彼は,芸術によって [ de l’art ], あの Bloom — Bloom は,Flower と Henry [48] の 笑劇を する(街角の Henry として,女性たちのための Henry として)ために,自己異化する [ s’aliéner ] — において 頭角を現わす [ faire surgir la tête ]. 実際,そのことを笑うのは それらの女性たちだけであるとすれば,それは,まさに,Bloom が聖人であることを 証明する.聖人は 笑う [49] — それが すべてを 物語っている.Bloom は,死後 花咲く [50] ことになる — 墓場からは笑わないとはいえ.なぜなら,それが 彼の運命だから.その運命を,彼は,苦々しい-うんざりさせる [51] ものとして 見出す — 彼自身は どうしようもない と 知りつつ.
[48] Ulysses の主人公 Leopold Bloom は,妻以外の女性と交際する際には,Henry Flower と名のっている.作中で,彼の父 Rudolf Virág は ハンガリーからアイルランドに移住したユダヤ人であり,移住後,Rudolf Bloom に改名したことが 言及されているが,ハンガリー語で virág は「花」であり,bloom も flower も 英語で「花」である.
[49] Lacan は « le saint en rie » と言っている.それは « saint Henri »[聖アンリ]と聞 こえる.また,Télévision (Autres écrits, p.520) において,Lacan は こう言っている : « Plus on est de saints, plus on rit »[聖人であれば あるほど よく笑う].
[50] Lacan は « Bloom embloomera » と言っている.embloomer には,英語動詞 bloom[花咲く]と フランス語の表現 en fleur[花盛りの]を読み取ることができる.
[51] amèredent < amère[苦い]+ emmerdant[うんざりさせる].
Joyce, lui, voulait ne rien avoir, sauf l’escabeau du dire magistral, et ça suffit à ce qu’il ne soit pas un saint homme tout simple, mais le symptôme ptypé.
Joyce は,何も得ようとは欲しなかった — 堂々たる 言 の escabeau 以外には.そして,それで十分である — 彼が,単なる saint homme[聖人]であるのではなく,しかして,symptôme ptypé [52] であるためには.
[52] symptôme ptypé : sinthome ではなく,p つきの symptôme[症状].ptypé には typé[特徴的な,典型的な]を読むことができる:典型的な症状.
S’il Henrycane le Bloom de sa fantaisie, c’est pour démontrer qu’à s’affairer tellement de la spatule publicitaire, ce qu’il a enfin, de l’obtenir ainsi, ne vaut pas cher. A faire trop bon marché de son corps même, il démontre que « LOM a un corps » ne veut rien dire, s’il n’en fait pas à tous les autres payer la dîme.
Henry と名のる Bloom — そのような奇抜な思いつきをする Bloom — を Joyce が そのことで あざ笑う [53] とすれば,それは,このことを証明するためである:すなわち,広告のヘラで かくも 忙しく働いても,そのようにして 得て,やっと 所有するものは,たいしたものではない.自身の身体を あまりに軽んずること [54] によって,彼は,このことを証明する:すなわち「LOM は 身体を有している」は 空文である — そのことについて,ほかのすべての者たちに「十分の一」税を支払わす [55] のでなければ.
[53] Henricaner < Henri (Henry) + ricaner[あざ笑う」.
[54] Joyce が 彼自身の父親と同様に アルコール依存症に陥り 自己破壊的な生活を送っていたこと を 言っているのか?
[55] Joyce の生活は,幾人かの mécène[Maecenas : 芸術や学術に対して 惜しみなく 経済的な援助を行う者]によって 賄われていた.
Voie tracée par les Frères mendiants: ils s’en remettent à la charité publique qui doit payer leur subsistance. N’en restant pas moins que LOM (écrit L.O.M.) ait son corps, à revêtir entre autres soins. La tentative sans espoir que fait la société pour que LOM n’ait pas qu’un corps est sur un autre versant : vouée à l’échec bien sûr, à rendre patent que s’il en ahun, il n’en a aucun autre malgré que du fait de son parlêtre, il dispose de quelque autre, sans parvenir à le faire sien.
それは,乞食修道会[托鉢修道会]の修道士たちによって引かれた道である.彼らは,公衆の施しに身をゆだねる — 公衆は,彼らの生活に必要なものを負担せねばならない.それでも,LOM(L.O.M. [56] と書く)は身体を有している ということに 変りは無い.ほかの諸々の配慮のうちでも,その身体には衣服を着せねばならない.LOM は身体をひとつしか有さないわけではない [57] とするために 社会が為している 試み — 望み無き試み — は,もうひとつのほかの斜面のうえに位置づけられる.そのような試みは,勿論,失敗するよう 定められている — このことを明らかにすることによって:すなわち,LOM は,身体を ひとつ 有するなら,もうひとつのほかの身体を有することはない — その言語存在のゆえに 何かほかの身体を意のままにするにもかかわらず — それを自身の身体にするには至らないがゆえに.
[56] L.O.M. (el-o-em) には Elohim [ אֱלֹהִים ][神]を聴き取ることができる.l’homme[人間]のなかに Elohim[神]が 隠されてある;人間のなかに 神が宿っている.それは,神秘主義的な思考に属することであるが,キリスト教の基礎を成す思考と言ってもよい.
[57] 少し後で Lacan が示唆しているように,Platon の μετεμψύχωσις (metempsychosis) および それに類似の転生のこと.Platon の説くところによれば,人間の身体的な死の後も,その魂 (ψυχή) は不死であり,それは 新たな身体に宿って 再び この世に 生まれてくる.Joyce は Ulysses を Homeros の Odysseia の metempsychosis として 構想している (Leopold Bloom = Odysseus, Molly Bloom = Penelopeia, Stephen Dedalus = Telemachos) と 我々は 言うことができる.実際,Ulysses のなかには metempsychosis と reincarnation の語 および その観念が 幾度も 登場してくる.
A quoi il ne songerait pas, on le suppose, si ce corps qu’il a, vraiment il l’était. Ceci n’implique que la théorie bouffonne, qui ne veut pas mettre la réalité du corps dans l’idée qui le fait. Antienne, on le sait, aristotélienne. Quelle expérience, on se tue à l’imaginer, a pu là faire obstacle pour lui à ce qu’il platonise, c’est-à-dire défie la mort comme tout le monde en tenant que l’idée suffira ce corps à le reproduire. « Mes tempes si choses » interroge Molly Bloom à qui c’était d’autant moins venu à portée qu’elle y était déjà sans se le dire. Comme des tas de choses à quoi on croit sans y adhérer : les escabeaux de la réserve où chacun puise.
身体を 複数 有することを LOM は 夢想しないだろう — と 我々は思う — もし仮に LOM は まことに それが有する身体であるならば.このことは,滑稽な理論をしか包含していない — その理論は,身体を形成するイデアのなかに身体の現実を置こうとはしない.周知のとおり,アリストテレス的な繰り言 [58] だ.想像するにも苦労するが,いったい,彼 [ Aristoteles ] にとって,如何なる経験が 以下のことに対して 妨げとなり得たのか:すなわち,死をプラトン化すること,つまり,死に はむかうこと — 皆のように,イデアは 身体を再生産するに 十分であろう と見なすことによって.« Mes tempes si choses » [59] は Molly Bloom に問いかける.彼女にとっては,それは 理解可能なものではなかった.彼女は 既に そのなかに[métempsychose のなかに]いた — 自身に そう言わずとも — のだから,なおさら[理解可能なものではなかった].人々が それに同意してはいないが 信じている 多くのものごとと 同様に — そこから各人が水を汲んでくるところの貯水池という escabeaux.
[58] Aristoteles の用語においては,εἶδος (forme) と ὕλη (matière).
[59] mes tempes si choses[わたしの〈かくも憔悴した〉こめかみ]= métempsychose. このフランス語の語呂合わせは,Jacques Aubert による Ulysses のフランス語訳のなかに 登場するものだろう.Joyce 自身は,metempsychosis を met him pike hoses と言い換えている.それは,集英社文庫版の邦訳では「とがった管[ホース]は 彼に 会った」と訳されている.
Qu’il y ait eu un homme pour songer à faire le tour de cette réserve et à donner de l’escabeau la formule générale, c’est là ce que j’appelle Joyce le Symptôme. Car cette formule, il ne l’a pas trouvée faute d’en avoir le moindre soupçon. Elle traînait pourtant déjà partout sous la forme de cet ICS que j’épingle du parlêtre.
その貯水池の周りを回り,そして,escabeau について 一般的な公式を与えよう と思った ひとりの男がいた ということ — それが,わたしが Joyce le Symptôme と呼ぶところのものである.そも,その公式 [ Joyce le Symptôme ] を 彼は見出さなかった — それについて ほんの僅かな予感すら持たなかったので.だが,その公式は,既に どこにでも あった — わたしが parlêtre[という用語]によって目立たせる あの ICS[無意識]という形のもとに.
Joyce, prédestiné par son nom, laissait la place à Freud pas moins consonant. Il faut la passion d’Ellmann pour en faire croix sur Freud : pace tua, je ne vais pas vous dire la page, car le temps me pressantifie. La fonction de la hâte dans Joyce est manifeste. Ce qu’il n’en voit pas, c’est la logique qu’elle détermine.
Joyce は,その名によって運命づけられて,Freud[精神分析的解釈]に —[Joyce と]同様に[悦と]協和音を奏でる Freud に — 余地を残した.Freud[精神分析的解釈]を決定的に断念するためには,Ellmann [60] の情熱が必要である : pace tua [61].[Ellmann の著作 James Joyce の]何ページを読めばよいか,わたしは あなたたちに 言わない — 時間が わたしを 急かしている-現在化している [62] から.急くこと [63] の機能は,Joyce において,明らかである.彼には見えなかったもの,それは,その〈急くことの〉機能が規定する論理である.
[60] Richard Ellmann (1918-1987) : 文芸批評家,Oxford 大学教授.彼の著書 James Joyce (1959,1982) は 高く評価されている.
[61] pace tua (dixerim) : soit dit sans t’offenser[あなたの気分を害さずに言うならば,こう言っては失礼ですが].この場合,Freud に向けられた言葉と取ることもできる.
[62] Lacan は « le temps me pressantifie » と 言っている.pressantifier には presser[押す,圧迫する,急かす]と pressant[執拗な,差し迫った]と présentifier[現在化する]を 読み取ることができる.
[63] 急くこと (la hâte) の機能について,Lacan は,1945年の書 Le temps logique et l’assertion de certitude anticipée — Un nouveau sophisme[論理学的時間 と 先取りされた〈確実さ〉の断定 — ひとつの新たなソフィスム]において 論じている.そこにおいて,Lacan は,三人の囚人の譬え話にもとづいて,通常の意味での論理学的推論によっては克服し得ない悪循環から脱出するためには 言うなれば 実存的な決意を以て 不連続を踏み越える必要があることを 説いている.それによって,Lacan は,Freud が陥った 精神分析の行き詰まり — 去勢不安のゆえの行き詰まり — を克服する可能性を 示唆している.次の文で Lacan は「急くことの機能が規定する論理」と言っている.それは,通常の意味において「論理学的」と呼び得る推論にとっては「不可能」であるもの — すなわち,否定存在論的孔穴 — に基礎づけられ,そして,その穴の周りを回ることをやめない思考の歩み — および,そのことに存する〈我々の〉生そのもの — である.
Il a d’autant plus de mérite à la dessiner conforme d’être seulement faite de son art qu’un eaube jeddard, comme Ulysse, soit un jet d’art sur l’eaube scène de la logique elle-même, ceci se lit à ce qu’elle calque non pas l’inconscient, mais en donne le modèle en tempspèrant, en faisant le père du temps, le Floom ballique, le Xinbad le Phtarin à quoi se résume le symdbad du symdptôme où dans Stephens Deedalus Joyce se reconnaît le fils nécessaire, ce qui ne cesse pas de s’écrire de ce qu’il se conçoive, sans que pourtant hissecroiebeau, de l’hystoriette d’Hamlet, hystérisée dans son Saint-Père de Cocu empoisonné par l’oreille zeugma, et par son symptôme de femme, sans qu’il puisse faire plus que de tuer en Claudius l’escaptôme pour laisser place à celui de rechange qui fort embrasse à père-ternité.
Joyce は,それ[急くことの機能が規定する論理]を適切に描いているがゆえに,なおさら 功績を有している — それは 彼の芸術によってのみ 作られているがゆえに.彼の芸術,すなわち,un eaube jeddard [64] — Ulysses のような — すなわち,[Joyce において 急くことの機能が規定する]論理そのものの猥褻さ[猥褻な光景]についての 芸術作品-芸術噴出 [65].そのことは,このことに読み取られる:すなわち,その論理は,無意識を模倣するのではなく,しかして,無意識のモデルを与える — temps-pèrer [66] することによって — 時代の[現代的な]父[Leopold Bloom において造形されている父]を作ることによって — Floom ballique [67], Xinbad le Phtarin [68] — それ [ Xinbad le Phtarin ] に symdbad du symdptôme [69] は 要約される — そこ[症状]において [70],Joyce は,Stephens Deedalus [71] のなかに,自身を,必然的な — すなわち 書かれることをやめない — 息子 [72] として,認める — 彼は Hamlet のヒステリー的な小話 [73] によって 彼自身を思い描くことにより — ただし,自身を美しいと思う [74] ことなく.[Hamlet の物語は]彼の〈聖なる〉寝取られ父 [75] において ヒステリー化 [76] される.彼の父は,毒殺された — 耳によって [77] — zeugma [78] — および 彼の〈女[妻]という〉症状 [79] によって — ただし,彼 [ Hamlet, Dedalus, Joyce ] が Claudius [80] において escaptôme [81] を殺す —〈父-永遠に [82]〉強く抱きしめてくれる [fort embrasse : Fortinbras ]〈代りの〉者を 受け容れる [83] ために — こと以上のことを為し得ぬままに.
[64] un eaube jeddard = un objet d’art[芸術作品].
[65] Lacan は « un jet d’art sur l’eaube scène de la logique elle-même » と言っている.jet は「投げること,噴出,ジェット」.jet d’eau は「噴水」.この jet d’art は,勿論,objet d’art[芸術作品]の ob- の部分が脱落したもの.その ob- は 後の eaube として 見出される.この eaube と それに続く scène[光景]は,一語を成して,obscène[卑猥な,猥褻な]となる.「論理そのものの猥褻さ[猥褻な光景]についての 芸術作品-噴出」と訳しておく.
[66] Lacan は temps-pérer と 書いている.そこには,tempérer[おだやかにする,やわらげる]と temps[時間,時代]と père[父]を 読み取ることが できる.そのすぐ後で,Lacan はタネ明かししている : faire le père du temps. その表現は,「時間の父」と訳すこともできるが,循環的な時間観を有する Joyce においては「時空間の創造」は問題にならないので,「時代の父」すなわち「現代的な父」と解してよいだろう.とすれば,temps-pérer = faire le père du temps は「現代的に穏やかな父を 作る」ということだろう.実際,Leopold Bloom は,15歳の娘の父である.彼女の次に男の子も生まれたが,彼は 生後 11 日で 死去している.Bloom は,Stephen Dedalus に対しても 優しい父を演じている.また,彼は,浮気をした妻に対しても 怒りを覚えることはなく,むしろ,彼女と 彼女のマネージャー(Bloom の妻 Molly は オペラ歌手)との性交場面を想像しつつ,自慰を行う.
[67] Floom ballique は,Bloom phallique[ファロス的 ブルーム]に為された言葉遊び.
[68] Xinbad le Phtarin は,Joyce が Ulysses の Episode 17 Ithaca の最後で提示している Sinbad the Sailor[船乗りシンドバッド]の変奏の最後に現れる Xinbad the Phthailer のフランス語「訳」(フランス語では Sinbad the Sailor は Sinbad le marin または Sindbad le marin).おそらく Jacques Aubert によるものだろう.Joyce が Sinbad the Sailor を持ち出してきたのは,地中海を あちらこちら さまよった Odysseus と インド洋を あちらこちら 航海した Sinbad とを 重ね合わせたからだろう.原文では:
Sinbad the Sailor and Tinbad the Tailor and Jinbad the Jailer and Whinbad the Whaler and Ninbad the Nailer and Finbad the Failer and Binbad the Bailer and Pinbad the Pailer and Minbad the Mailer and Hinbad the Hailer and Rinbad the Railer and Dinbad the Kailer and Vinbad the Quailer and Linbad the Yailer and Xinbad the Phthailer.
phthailer < phthisis[肺疾患]+ sailor[船乗り]
集英社文庫版では:
船乗りシンドバッド そして 仕立屋ティンバッド そして 牢番ジンバッド そして クジラ捕りウィンバッド そして 釘打ちニンバッド そして 失敗者フィンバッド そして 水汲み人ビンバッド そして 桶屋ピンバッド そして 郵便配達ミンバッド そして 喝采屋ヒンバッド そして 不平屋リンバッド そして 菜食主義者ディンバッド そして 臆病者ヴィンバッド そして 混血児リンバッド そして 肺病患者ジンバッド.
[69] symdbad と symdptôme は,いずれも,Sindbad と symptôme との重ね合わせ.
[70] 1979年に出版された 第 5 回 International James Joyce Symposium の記録に収録されたテクストにおいても,Autres écrits に収録されたテクストにおいても,ou[接続詞:または]と表記されているが,1987年に出版された Joyce avec Lacan に収録された版においては,où[関係副詞:そこにおいて ....であるところの]と表記されている.ou と読むと その後の dans Stephens Deedalus が 以前の部分のどこにもつながり得なくなるので,où と読んでおく.
[71] Lacan は,Stephen Dedalus ではなく,Stephens Deedalus と書いている.Stephens については,Ulysses のなかで,アイルランド独立運動を展開した Irish Republican Brotherhood の創立者のひとり James Stephens (1825-1901) の名が 言及されていること と 関連しているだろうか ? Deedalus と書いたのは,Dedalus の発音の二つの可能性 — de を 単音にするか 長音にするか — のうちの 長音の発音にそぐう書き方をした とも考えられるし,また,deed[行為]を読み取らせるため とも考えられる.その場合,Stephens を Stephen’s と取れば,Stephen’s deed を読み取ることも できる.
[72] Joyce le Symptôme の 講演版においても,Lacan は こう言っている:「Joyce は,その名が — まさに その名が — 永遠に生き続けるところの者であることを 欲した」.それは,父の機能の不全を代償するためである — Joyce の 父 John Stanislaus Joyce (1849-1931) は,彼自身の父の遺産の相続によって 資産家であったが,浪費家でもあり,1891年,破産し,以後,年金収入に頼りながら,アルコール依存症者の生活を送った.そのような〈父の名の〉閉出の代償として,息子 Joyce は 彼自身の名が 書かれることをやめないものとなるようにした — 彼の芸術によって.父の問題を Joyce は 問い続けた と 我々は言うことができる.
[73] Lacan は hystoriette と書いている.hystérie と historiette[小話]との重ね合わせ.
[74] hissecroiebeau = il se croie beau
[75] son Saint-Père de Cocu : le saint père は「聖なる父」であるが,le Saint-Père は 教皇のこと.また,Lacan が ほかのところで 幾度か言及している Alfred Jarry (1873-1907) の マリオネット劇の戯曲 Ubu roi (1896) — その表題は 明らかに Sophokles の 戯曲 Œdipe roi[オィディプス王:原題は Οἰδίπους τύραννος]のそれに 準拠している — の 主人公 le Père Ubu[ユビュおやじ]のことも 想起される.le Père Ubu が登場する一連の作品のひとつに Ubu cocu (1897) が ある.「妻を寝取られた父」は,勿論,Hamlet の父であるが,Ulysses のなかでは Leopold Bloom も cocu である(彼の妻 Molly は 彼女のマネージャー Blazes Boylan と性関係を持つ).
[76] 動詞 hystériser および 名詞 hystérisation[ヒステリー化]を Lacan が用いた機会は あまり多くはないが,それは 如何なることか ?
このテクストの少し後のところで,Lacan は,Socrates を « parfait hystérique »[完璧なヒステリー者]と呼んでいる.また,Séminaire XVII『精神分析の裏』の 1969年12月17日の講義においては,Hegel を « le plus sublime des hystériques »[ヒステリー者たちのうち 最も崇高な者]と呼んでいる.さらに,Séminaire XXIV L’insu que sait de l’une-bévue s’aile à mourre[無意識の不成功は愛である]においては,彼自身について « je suis un hystérique parfait, c’est-à-dire sans symptôme, sauf de temps en temps, cette erreur de genre en question »[わたしは 完璧なヒステリー者である,すなわち,症状の無いヒステリー者である — ただし,問題の類の間違い(直前に Lacan は,bévue[失敗]と lapsus linguae[言い違い]について 語っている)を ときおり することを除いて]と 言っている.
ヒステリー者の学素は,ヒステリカの言説の能動者の座(左上の座)に $ が位置していることに示唆されているように,$ — 源初論的孔穴としての 主体 $, 満足不可能な欲望としての 主体 $ —である.ただし,ヒステリカの言説においては,それは 言うなれば an sich [自然的]な ヒステリー者である.それに対して,欲望の弁証法の過程を経て,分析家の言説において,他者の座(右上の座)に開出してきた $ は an und für sich[自然的かつ自覚的]な ヒステリー者である.それが,Lacan が「完璧なヒステリー者」または「崇高なヒステリー者」と呼んでいるものである.
ヒステリー者とは,〈ヒステリカの言説から出発して 支配者の言説と大学の言説とを経て 分析家の言説に至る〉欲望の弁証法の過程を経験する者である.そのことは,強迫神経症者にはできない — 彼は,真理の座に措定された支配者徴示素 S1 に執着するがゆえに.
Socrates は,彼の「産婆術」(μαιευτική, maïeutique) において,「わたしは何も知らない」と言いつつ 教えた.それは,対話相手の〈真理の座に措定された〉支配者徴示素 S1 を揺さぶり,真理の座から 閉出するためである.それによって,対話相手は,ヒステリー化され,そして,それによって,大学の言説から 分析家の言説へ 移行し得る — 完璧なヒステリー者 Socrates の 分析家の欲望 $ に支えられつつ.それによって,対話相手も $ として 新たに生まれて来得る(ゆえに,産婆術,maïeutique).
つまり,この場合,hystérisation[ヒステリー化]とは,大学の言説の構造において真理の座に措定されている支配者徴示素 S1 を閉出し,その座を空座にすることに 存する.
逆に,大学の言説の構造において真理の座に措定される支配者徴示素 S1 を強化することは,強迫神経症 または paranoïa の構造を強化することである.
Hamlet は,父(超自我)が命じた復讐を果たすことに関する procrastination[行為の先送り]によって特徴づけられる限りにおいては,強迫神経症者である.その procrastination は,彼の欲望の客体 Ophelia の死を契機として,解消され,Hamlet は 一気に 復讐の履行と それにともなう 死へ 向かう.
ここでは,Lacan は,Hamlet の物語は 父 — 弟 Claudius と 妻 Gertrude によって 裏切られ,暗殺され,終油の秘跡を受けぬまま « in the blossoms of my sin »[わが罪の花盛りのうちに]死に,亡霊として さまよう 父 — において ヒステリー化されている,と述べている.それは,Hamlet の父が イデア化された支配者徴示素 S1 としては その座から失墜していることを 示唆している.そして,そのことにおいて,Hamlet は ヒステリー化している,と 言うことができる.
[77] Hamlet の父は,耳に注がれた毒液によって 殺害される.奇妙なことに,Shakespeare は「耳」を複数形で用いている : « And in the porches of my ears did [ he = Claudius ] pour The leperous distilment »[そして,彼は わたしの耳のポーチ(つまり 耳介)へ レプラのように忌まわしい蒸留液を 注いだ].毒液が外耳道のなかへ流れ込んで行くためには,被害者の頭部は,仰向けではなく,横向きになっていなければならない — 外耳道が垂直になるように.しかし,それでは,片耳にしか毒液を注ぐことはできない.なぜ Shakespeare は「耳」を複数形にしたのだろうか ? ともあれ,Lacan は,ここでは,単数形で oreille[耳]と言っている.
[78] 動詞 ζεύγνυμι (ζευγνύναι) は「(家畜に)軛をかける,(二頭の家畜を)軛で繋ぐ,結合する,結婚させる」.それに関連する名詞は ふたつ あり,ひとつは ζεύγος[軛,軛で連結された 二頭(または 数頭)の 家畜],もうひとつは ζεῦγμα[結合するために用いるもの,船を幾艘か連結して作る橋,(修辞学で)zeugma].修辞学で zeugma と呼ばれているものは,この例 — « L’air était plein d’encens et les prés de verdure »[空気は 香に 満ちていた そして 野原は 緑に]— が示しているように,文のなかのひとつの要素(この場合,« était plein »[満ちていた])が 複数の要素(この場合,「空気は 香に」と「野原は 緑に」)を 軛でつなぐように 連結することによって作られる 構文のこと.ここでは,Lacan は ふたつの要素 — « par l’oreille »[耳によって]と « par son symptôme de femme »[彼の〈女(妻)という〉症状によって]— が 軛として機能する語 « empoisonné »[毒殺された]によって連結されていることを 示唆している,と 解することができる.勿論,Lacan がしているように 文中に zeugma という語を提示することは 通常は ありえない.
[79] Hamlet の父は,自身の妻(Hamlet の母)Gertrude が Claudius の陰謀に加担したことによって,暗殺される(なぜ Gertrude は Claudius の妻となることを 欲したのか ? Hamlet の父との関係においては 彼女の欲望は満たされ得なかったからである).Lacan は,Séminaire XXIII Le sinthome の 1976年02月17日の講義において,« une femme est un sinthome pour tout homme »[ひとりの女は,あらゆる男にとって,ひとつの sinthome である]と 言っている.また,このテクストにおいても,もう少し後で, « une femme est symptôme d’un autre corps[ひとりの女は,もうひとつのほかの身体の症状である]と 言っている.Gertrude は Hamlet の父にとって 症状である.他方,Ophelia は Hamlet にとって 症状である — Hamlet は,彼女の死により その症状を失ったとき,初めて,自身も死を引き受ける覚悟に到達する.
[80] Claudius は,自身の兄 — Hamlet の 父 — を暗殺し,Gertrude — Hamlet の 母 — と結婚して,王位を簒奪する.Hamlet は,最後に,Claudius を 毒剣(Claudius は 刃に毒を塗った剣を Laertes に渡す — その剣によって Hamlet が より確実に殺されるように)で 刺し(決闘のなかで,Hamlet と Laertes は 取っ組み合いになり,それによって,両者それぞれが相手の剣を手にすることになる — つまり,今や,Hamlet は,刃に毒を塗られた Laertes の剣を 手にしている),かつ,Claudius が Hamlet に飲ませるために用意した毒杯を 逆に Claudius に飲ませて,復讐を遂げる.そして,その後 すぐに 彼自身も死ぬ — 取っ組み合いになる直前に Laertes の剣(毒を塗られた剣)により 負傷していたので.
[81] escaptôme < escabeau + symptôme
[82] Lacan は à père-ternité と言っている.père[父]と éternité[永遠]を読み取ることができる.
[83] Lacan は こう書いている : « de tuer en Claudius l’escaptôme pour laisser place à celui de rechange qui fort embrasse à pere-ternité ». 戯曲 Hamlet においては,この対比 — 一方で デンマーク王 Hamlet と その息子 Hamlet, 他方で ノルウェー王 Fortinbras と その息子 Fortinbras — が 目にとまる.Hamlet の物語が始まる以前(どれほど前かは正確には不明),ノルウェー王 Fortinbras は,デンマーク王 Hamlet(Hamlet の 父)との〈戦場での〉戦いによって 命を失い,それによって,ノルウェー領は デンマーク領となっている.また,物語の現在のなかでは,デンマーク王は Hamlet の叔父 Claudius であり,他方,ノルウェー王は〈若き Fortinbras の〉叔父である.物語の最後,Fortinbras が登場する直前,死にゆく Hamlet は Horatio に こう言う : « But I do prophesy th’election lights On Fortinbras. He has my dying voice »[だが,わたしは,(デンマーク王の)選定の光は Fortinbras に当てられる と 預言する.彼は,死にゆくわたしの(彼を デンマーク王として 支持する)声を 得ている].したがって,ここで « celui de rechange »[代りの者]は,死にゆく Hamlet の代りに デンマーク王となる Fortinbras のことである,と 読むことができる —「永遠に抱きしめてくれる者」は 死 そのものである とはいえ.それゆえ,« fort embrasse »[強く抱きしめる]に Fortinbras を読み取ることもできる.
Joyce se refuse à ce qu’il se passe quelque chose dans ce que l’histoire des historiens est censée prendre pour objet.
歴史学者たちの歴史 [84] が[歴史研究の]対象と見なすだろうと思われる事がらにおいて 何ごとかが起こることを,Joyce は 拒んだ.
[84] Heidegger は,Geschichte[否定存在論的な源初と終末とを包含するものとしての歴史]を,Historie[経験論的な次元のことがらを論ずる歴史研究者たちにとっての歴史]から 区別している.
Il a raison, l’histoire n’étant rien de plus qu’une fuite, dont ne se racontent que des exodes. Par son exil, il sanctionne le sérieux de son jugement. Ne participent à l’histoire que les déportés : puisque l’homme a un corps, c’est par le corps qu’on l’a. Envers de l’habeas corpus.
彼は 正しい — 歴史とは,逃げること[逃避,逃亡]以上のものではない — そのことについて 自身を語っているのは 集団移住 [85] のみである.Joyce は,[自発的な]亡命 [86] によって,彼自身の判断の真摯さを 公に確認している.歴史に参与するのは,外へ移送された者 [87] たち だけである.すなわち,人間は身体を有しているがゆえに,我々が歴史を有するのは 身体によって である.habeas corpus [88] の裏.
[85] Lacan は exode という語を用いている.聖書においては,Exode は モーゼに率いられたユダヤ人たちがエジプトから脱出することを指す.より一般的に,exode は,非常に多くの人々が移住する(ないし 移動する)ことを指す.ここで Lacan が念頭においているのは,アイルランド人たちの大移住のことだろう — 1845年から 1852年まで続いた ジャガイモ(アイルランド人たちの主食)の疫病の流行は アイルランドに大飢饉をもたらし,その結果,当時 約 八百万人であった人口の 約 四分の一が 英国や米国へ移住した — 当然,餓死から逃れるために(約 百万人が 餓死した).
[86] Joyce は,1904年に Ireland を去り,その後,生涯,ほとんど帰国していない.彼の exil は 政治的 ないし 社会的に 強いられたものではないので,しばしば,exil volontaire[自発的な,自身の意志による 亡命]と呼ばれている.彼は,Ireland の社会と そこにおいて支配的であるカトリック教会とに対する嫌悪感から 自発的亡命の生を選択した.しかし,彼の作品の舞台は ほとんどすべて Ireland, 特に Dublin である.
[87] déporté : 一般的な意味においては「国外追放の処罰を受けた者」であるが,特に,第二次世界大戦中に ナチ政権によって 民族虐殺のために 強制収容所に移送された ユダヤ人たちのこと.ここでは,Lacan は,この語を,「身体を有するがゆえに,移送ないし移動を(何らかの意味で)強いられる者」として用いている.
[88] habeas corpus は,ある人物を拘束している者に対して,裁判官が,その拘束の正当性を吟味する等の目的で,発する 命令:「おまえが拘束している者の身柄を 我々裁判官のところに 連れ来たれ」.この命令は,不当な拘禁が継続されることを防止する効果を有する.
Relisez l’histoire : c’est tout ce qui s’y lit de vrai. Ceux qui croient faire cause dans son remue-ménage sont eux aussi des déplacés sans doute d’un exil qu’ils ont délibéré, mais de s’en faire escabeau les aveugle.
歴史を読み直したまえ.それは,そこにおいて読まれる〈真なる〉もの すべて である.歴史のゴタゴタのなかで 自分がその原因を作っていると思う者たちは,彼れら自身も,おそらく,彼れら自身が決心した亡命において 移住した者たち [89] であろう.だが,それを 彼れら自身の escabeau にすることは,彼れらを 盲目にする.
[89] たとえば,西暦 70 年に Jerusalem の神殿が ローマ帝国の軍によって 破壊された後,中東から欧州まで 広い地域に移住した ユダヤ人たち.
Joyce est le premier à savoir bien escaboter pour avoir porté l’escabeau au degré de consistance logique où il le maintient, art-gueilleusement, je viens de le dire.
Joyce は,まことに escaboter [90] することのできた 最初の者である — escabeau を 論理学的確固性の度合いへ 持って行った [91] がゆえに.その度合いに 彼は その escabeau を 維持する — わたしが先ほども言ったように,傲慢に [92].
[90] escaboter は escabeau に由来する動詞 : escabeau を作る.形の上では 動詞 escamoter[(手品で)...を消す,くすねる,隠す,(義務や困難を)巧みに回避する]を 想起させるが,その意味を この escaboter に読み込む必要はないだろう.
[91] Lacan は « porter l’escabeau au degré de consistance logique »[escabeau を 論理学的確固性の度合いへ 持って行く]と言っているが,その表現は,Lacan が Séminaire VII (1959-1960)『精神分析の倫理』において 提示した sublimation[昇華]に関する公式 : « la sublimation élève un objet à la dignité de la Chose »[昇華は 客体を 物の尊厳へ 高める]を 連想させる.だが,escabeau を 論理学的確固性の度合いへ 持って行くことは,昇華ではない.なぜなら,Joyce の〈論理学的確固性の度合いへ持って行かれた〉作品 Finnegans Wake は,主体 $ の穴から出発する創造 — creatio ex nihilo[無からの創造]— ではなく,しかして,主体 $ の穴を 完全に 覆い隠してしまうものであるから — であればこそ,Lacan は,Joyce le Symptôme(講演版)において,Joyce は 無意識に対して 定期購読をやめた者である,と言っている.
La « consistance logique » という表現は 一般的には「論理学的に無矛盾であること」であるが,Lacan は それを ここで そのような意味において用いてはいない ことは 明らかである — Lacan が « consistance logique » という表現を用いた機会は多くはないのだが.Joyce に関して consistance logique と呼べるものは,彼の作品全体がそれを成すところの「ジョイス語」(lalangue joycienne) のことであろう — わたしは ここでは そう解しておく.
[92] Lacan は,orgueilleusement[傲慢に]と書く代りに,art-gueilleusement[芸術作品において 傲慢に]と書いている.
Laissons le symptôme à ce qu’il est : un événement de corps, lié à ce que : l’on l’a, l’on l’a de l’air, l’on l’aire, de l’on l’a. Ça se chante à l’occasion et Joyce ne s’en prive pas.
症状を それがそれであるところのもの — 身体の出来事 — に ゆだねよう.身体の出来事,それは,このことに関連している : l’on l’a, l’on l’a de l’air, l’on l’aire, de l’on l’a [93]. それは,場合によって,歌になる.そして,Joyce は 喜んで 歌うだろう [94].
[93] « l’on l’a, l’on l’a de l’air, l’on l’aire, de l’on l’a » のうち,最初の « l’on l’a » は「我々は 身体を 有している」であるが,そのほかの表現は 文法に適ってはおらず,「ジョイス語」の断片のように見える.かろうじて « l’on a l’air de l’avoir »[我々は 身体を有しているように 見える]を読み取ることができるかもしれない.名詞 air は「空気」または「外観」または「アリア」である.動詞 airer は「(猛禽類が)巣を作る」こと.また,air も aire も 音によって errer[間違う,さまよう]を想起させる.« de l’on » は Delon(俳優 Alain Delon)と 同音異義である.
[94] Joyce は,美声の持ち主であり,歌うことも好きであった.彼の妻 Nora は,彼が わけのわからない小説を書く作家になるより 歌手になることを,欲していた.
Ainsi des individus qu’Aristote prend pour des corps, peuvent n’être rien que symptômes eux-mêmes relativement à d’autres corps. Une femme par exemple, elle est symptôme d’un autre corps.
かくして,こうであり得る:すなわち,個人たち — Aristoteles は 個人を 身体と見なした — は,彼れら自身,症状にほかならない — ほかの身体たちに対して相対的に.たとえば,ひとりの女は もうひとつのほかの身体の症状である [95].
[95] 注 79 で 既に 紹介したように,Lacan は,Séminaire XXIII Le sinthome の 1976年02月17日の講義において,« une femme est un sinthome pour tout homme »[ひとりの女は,あらゆる男にとって,ひとつの sinthome である]と 言っている.
Si ce n’est pas le cas, elle reste symptôme dit hystérique, on veut dire par là dernier. Soit paradoxalement que ne l’intéresse qu’un autre symptôme : il ne se range donc qu’avant dernier et n’est de plus pas privilège d’une femme quoiqu’on comprenne bien à mesurer le sort de LOM comme parlêtre, ce dont elle se symptomatise. C’est des hystériques, hystériques symptômes de femmes (pas toutes comme ça sans doute, puisque c’est de n’être pas toutes (comme ça), qu’elles sont notées d’être des femmes chez LOM, soit de l’on l’a), c’est des hystériques symptômes que l’analyse a pu prendre pied dans l’expérience.
そうでない場合,彼女は いわゆるヒステリー症状 [96] であり続ける —「ヒステリー症状」という表現によって,我々が言わんとしているのは「最後の症状」[ le dernier symptôme ] [97] のことである.すなわち,逆説的にも,それがかかわりを持つのは もうひとつのほかの症状 [98] と だけ である — よって,それは 最後からひとつ前のところにしか 並ばないのであり,かつ,さらに,それは 女の特権ではない [99] — 何によって彼女は自身を症状化するのかを 我々は よく 理解する とは いえ — 言語存在としての LOM の運命を見定めるなら.hysterica たち — 女たちの症状としての hysterica たち [ hystériques symptômes de femmes ] — によって(pas toutes[女は すべてならず [100]]— そのように — おそらく — なぜなら,女たちは,⦅そのように⦆すべてならざること [ n’être pas toutes ] によって,LOM のところで 女であるものとして 評価される — すなわち,「それを 我々は 有している」[ l’on l’a ] ところのものとして)— 症状としての hysterica たちによって,精神分析は 経験のなかに 地歩を得ることができたのである.
[96] ここで,Lacan は,Freud が ヒステリー症状について — 特に,hysterica における症状形成のメカニズムとしての ヒステリー的同一化 [ die hysterische Identifizierung ] について,『夢解釈』(1900) の 第 IV 章「夢の歪曲」および『大衆心理 と 自我分析』(1921) の 第 VII 章「同一化」において — 述べていることを 踏まえている と 思われる.両箇所において,Freud は,hysterica たちの間での いわゆる psychische Infektion[心理的伝染]について ほぼ同一の例を挙げつつ 語っている:複数の女性が 一種の集団生活を送っている状況(たとえば,精神病院の女子病棟,寄宿舎,等)において,ひとりが 手紙 — その内容は たとえば 彼女の恋愛がうまく行っていないこと(つまり,欲望の満足がかなわないこと,欲望不満足)を 示唆している — を受け取り,それをきっかけにして,ヒステリー発作(癲癇における全身痙攣発作に類似の外見を呈する発作のことを Freud は 念頭に置いているはずである)を起こす;すると,ほかの女性たちも,同様のヒステリー発作を起こす.Freud は こう述べている:「そのように,症状による同一化は,ふたつの自我[ここでは Freud は ふたりの場合について論じているが,彼の所論は より多数の場合にも 妥当する]が重なり合う場所 — それは,排斥されたまま 保持されることになる — の 徴となる」(『大衆心理と自我分析』第 VII 章 より).あとでも述べるように,同一化の症状は 大学の言説の構造における 客体 a であり,その「排斥されたまま保持される 共通の場所」は 主体 $ の在所である.
『夢解釈』の 第 IV 章においては,Freud は,加えて(というより,心理的伝染の例を挙げるより前に)あの「機知に富む肉屋夫人」(la spirituelle bouchère) の smoked salmon の 夢(Lacan が取り上げたことにより 非常に有名になった夢)に見て取ることのできる「断念された願望」(der versagte Wunsch — Lacan の用語では le désir insatisfait) による ヒステリー的同一化について 論じている.彼女は,彼女の友人(女性)が 好物の smoked salmon を食べることを断念している(その理由は明示されていない)のを見て,彼女自身,好物の caviar を食べることを断念する(症状行為の心理的伝染).その事態は,彼女が,欲望の断念(不満足な欲望,欲望不満足)において,彼女の友人と同一化していることを 示している.
同一化の徴示素としての 欲望不満足の徴示素 — 肉屋夫人においては caviar, 彼女の友人においては smoked salmon — は,大学の言説の構造における 客体 a であり,不満足な欲望は 源初排斥された 主体-欲望 $ である.大学の言説における a / $ の構造が,症状の構造であり,かつ,Lacan が ここで「身体」と呼んでいるものの構造である.
[97] le dernier symptôme は「最後の症状」とも「究極の症状」とも訳せる.ヒステリー症状は,精神分析的に解釈可能な「最後」の 症状 — 解釈によって ヒステリー症状は解消され,その後には もはや 症状は無い という意味において — である.強迫神経症の症状も 恐怖症の症状も 精神分析の過程において ヒステリー症状へ — 精神分析的解釈によって解消され得るものとしての ヒステリー症状へ — 還元される.特に,強迫神経症者においては,支配的な 超自我(支配者徴示素 S1)からの解放による「ヒステリー化」がなければ,治療は進まない.
[98] « un autre symptôme » は « un autre signifiant » — un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant[ひとつの徴示素は 主体を もうひとつのほかの徴示素に対して 代理する]— の言い換え と 取ることができる.であれば,すぐ後に Lacan が述べる「ひとつの症状が もうひとつのほかの症状に対して 最後からふたつめのところに 並ぶ」という 謎めいた命題も,この「ひとつの徴示素は 主体を もうひとつのほかの徴示素に対して 代理する」と関連づけて 理解することができる.ただし,この場合は,「ひとつの症状」は 支配者徴示素 S1 のことではなく,しかして,症状の徴示素としての 客体 a のことである.そして,「もうひとつのほかの症状」は 分析家の言説の構造における 主体 $ — sinthome となった 主体 $ — もしくは 否定存在論的孔穴のエッジの徴示素としての S(Ⱥ) である.sinthome となった 主体 $ は,もはや 解釈可能ではなく,解釈を必要ともしない.「ひとつの徴示素 S1 が 主体 $ を もうひとつのほかの徴示素 S2 に対して 代理する」を 言い換えつつ,今や こう言うことができる:ひとつの症状(精神分析的に解釈可能な症状)a が 主体 $ を もうひとつのほかの症状(解釈可能ではない症状としての sinthome)Σ に対して 代理する.
[99] 男性のヒステリー者もいる — hysterica[女性のヒステリー者]の方が 圧倒的に多いが.
[100] « pas toutes »[女は すべてならず]は,La femme n’existe pas[女は 現存しない]と等価である表現である.なぜなら,フランス語の定冠詞は,単純に「この,その」という指示を表わすだけでなく,全称命題における「すべての...」を表現し得るからである.
実際,La femme n’existe pas という命題が初めて提示された Séminaire XVIII (1971) D’un discours qui ne serait pas du semblant において,Lacan は,Freud が Totem und Tabu のなかで物語った Urvater[家父長]の 神話 — そこにおいて,Urvater は「女たち すべて」(toutes les femmes) を 悦していた — に関して,こう言っている:「女たち すべて を 悦すること (la jouissance de toutes les femmes) の 神話が さししるしていること,それは このことである:『女たち すべて』は 無い.女については 普遍(全称命題)は 無い」.
なぜ 女については 全称命題を措定することは できないのか ? それは,すべての女たちの集合を形成することを可能にする命題 :「x は 女である」の賓辞は 否定存在論的には 書かれないことをやめない(不可能である)からである.
男については,「x は 男である」は こう規定され得る : x は le phallus patriarcal[家父長ファロス]Φ と 同一化している — それが ひとつの自我理想 (Ichideal) であること において.つまり,le phallus patriarcal は「男である」ことを規定する〈男の〉自我理想である.
かくして,「x は 男である」という命題は 措定される.それを φ(x) と書くなら,男の集合 M は こう 定義される : M = { x | φ(x) }. そして,集合 M は 現存する.さらに,男たち すべて に関する 全称命題は こう書かれ得る:集合 M に属する あらゆる x について ...である.
それに対して,「女である」ことを規定する〈女の〉自我理想は 無い.すなわち,「女である」ことは「男であるのではない」(le phallus patriarcal Φ と〈それを自我理想として〉同一化してはいない)という 否定的な形でしか 表現できない(したがって,「男であるのではない」者たちのなかには,生物学的には男であっても 男の自我理想と同一化していない transgender や queer も 含まれる).
かくして,「x は 女である」という命題は 否定存在論的には規定不可能であり,したがって,女の集合 F(すなわち,La femme)も 規定不可能である.さらに,そこから,女たち すべて に関する 全称命題も 措定不可能である.それが,La femme n’existe pas[女は 現存しない]という命題の言わんとするところである.
また,Lacan は,特に Séminaire XXII (1974-1975) R.S.I. においては,La femme n’ex-siste pas[女は 解脱実存しない]という言い方もしている.それは,このことを 言っている:否定存在論的孔穴を塞ぎ得るような 女の ἰδέα は 無い.さらに,Séminaire XXIII Le sinthome の 1976年03月16日の講義においては,Lacan は,« il n’y a pas d’Autre de l’Autre »[他の他は 無い]と言うときの l’Autre-de-l’Autre と 神(哲学者と神学者の神,形而上学的な神)と La femme とは 同じものだ,と 言っている.それら三者は,否定存在論的孔穴を塞ぎ得るものとして措定される S1 である.それらは,exsister[現存する]も ex-sister[解脱実存する]も していない.
Non sans reconnaître d’emblée que toutom y a droit. Non seulement droit mais supériorité, rendue évidente par Socrate en un temps où LOM commun ne se réduisait pas encore et pour cause, à de la chair à canon quoique déjà pris dans la déportation du corps et sympthomme. Socrate, parfait hystérique, était fasciné du seul symptôme, saisi de l’autre au vol. Ceci le menait à pratiquer une sorte de préfiguration de l’analyse. Eût-il demandé de l’argent pour ça au lieu de frayer avec ceux qu’il accouchait que c’eût été un analyste, avant la lettre freudienne. Un génie quoi !
あらゆる男には その権利がある [ toutom y a droit ] [101] ということを 一挙に認めないわけではない.権利だけでなく,しかして,優位性も — そのことは Socrates によって明らかとされている — 一般の LOM [ LOM commun ] [102] が,既に 身体 — 症状-人間 — の 移送 [ la déportation du corps et sympthomme ] において 捉えられていたとはいえ,まだ そして 当然ながら 資本家の餌食 [ chair à canon ] [103] に還元されてはいなかった 時代に.完璧なヒステリー者 [104] であった Socrates は,他者から ぱっと取った 症状だけに 魅せられていた.そのことによって,彼は,一種の〈精神分析の〉前ぶれを 実践することになった.もし仮に 彼が 彼の産婆術 [105] の対象となった者たちと 親交を持つかわりに その代価を支払うよう 彼らに 求めていたなら,彼は 精神分析家であっただろう — Freud が「精神分析」という語を作り出す前に.天才ではないか !
[101] « toutom y a droit »[あらゆる男は そのことへの権利を 有している]— « toutom » は,« pas toutes »[すべてにあらず]としての女に対して,全称命題「すべての男は...」が妥当するものとしての 男 のこと である.何への権利か ? 既に引用した「ひとりの女は,あらゆる男にとって,ひとつの sinthome である」という命題に準拠するなら,「女を症状として持つことへの権利」であろう.ただし,そのことは paranoïa phallocratique を含意しない — なぜなら,Φ と a とは 相互に ある種の antagonisme の関係にあるから.
[102] « LOM commun » は « l’homme commun » と読むことができる.「普通の人間」とも「平凡な 凡庸な 人間」とも「低俗な人間」とも訳せる.
[103] « chair à canon »[大砲の肉]は「戦場で 砲撃や銃撃によって むごたらしく殺される運命にある 兵士たち」のこと.ここでは,「資本主義社会のなかで 労働力に還元され 徹底的に搾取されるものとしての 人間」であろう.
[104] 注 76 を 参照.
[105] 注 76 を 参照.
Le symptôme hystérique, je résume, c’est le symptôme pour LOM d’intéresser au symptôme de l’autre comme tel : ce qui n’exige pas le corps à corps. Le cas de Socrate le confirme, exemplairement.
要約すると:ヒステリー症状は LOM のための[LOM に対する]症状である — 他者の症状そのものへの関心を持たせることにより.ただし,それは,身体と身体との対決 [ le corps à corps ] [106] を要請するものではない.Socrates の場合が そのことを証している — 実例によって.
[106] « corps à corps » は,副詞句として「互いに身体を接し合って」戦うこと,より抽象的に「ある問題に 正面から 取り組む」こと.Lacan の この文脈においては,性交のこと.
Pardon tout ça n’est que pour spécifier de Joyce de sa place.
失礼,以上のことを述べてきたのは すべて Joyce を 彼が位置する座によって 特定するために ほかならない.
Joyce ne se tient pour femme à l’occasion que de s’accomplir en tant que symptôme. Idée bien orientée quoique ratée dans sa chute. Dirai-je qu’il est symptomatologie. Ce serait éviter de l’appeler par le nom qui répond à son vœu, ce qu’il appelle un tour de farce dans Finnegans Wake page 162 (et 509) où il l’énonce proprement par l’astuce du destin en force qu’il tenait de Verdi avant qu’on nous l’assène.
場合によって,Joyce が 自身を 女性と見なす [107] のは,症状として自身を成就することによってのみ である.良く方向づけられた考えだ — その脱落[失墜,挫折][108] において 失敗するが.こう言おう:彼は symptomatologie [109] である.それは,彼の願望に応ずる名 [110] によって彼を呼ぶことを避けることになろう.彼の願望に応ずる名によって彼を呼ぶこと — それを 彼は Finnegans Wake の 162 ページ [111](および 509 ページ [112])において tour de farce [113] と呼んでいる.それらのページにおいて,彼は,強力な運命 [114] の 狡知 [115] によって まさに そのことを 表言しているのだが.「強力な運命」という表現を 彼は Verdi から得ている — 誰かが 我々に それ[運命の力]を 突きつけてくる [116] 前に.
[107]「場合によって,Joyce は 自身を 女性と見なす」ことがある という指摘が 如何なる事態を指しているのか 不明であるが,たとえば,Ulysses の Episode 15 Circe の ある場面 — 娼館における 幻覚的な場面 — において,突如,Leopold Bloom は 女になり,娼館の女主人 Bella Cohen は 男になる.
[108] chute[脱落,転落,堕落,失墜,挫折]という語を,Lacan は,「分離の構造において 客体 a が 主体 $ から 分離され,塵芥として棄却される」ことを指すために しばしば 用いている.
[109] symptomatologie は 医学用語としては「症候学,症状論」である.« Joyce est symptomatologie » と言うことによって Lacan は 何を言おうとしているのだろうか ? Joyce は 症状として 語っている,または,Joyce の文学作品は 症状である,ということだろうか ?
[110] Joyce le Symptôme[症状 ジョイス]あるいは Joyce le Sinthome[聖人 ジョイス].
[111] Finnegans Wake, p.162 : “the compositor of the farce of dustiny however makes a thunpledrum mistake by letting off this pienofarte effect as his furst act as that is where the juke comes in”[あの笑劇『塵芥的運命の力』の作曲家 (Giuseppe Verdi) は,だが,雷太鼓のごとく大きな誤りを犯している — この ピアノフォルテ(たっぷりの屁)の効果を発することによって — 彼の第 1 幕が(彼の公爵が演技する)— あのように — 娼家(公爵,ジョーク)が入ってくるところで].
compositor : ラテン語で 作曲家.英語では composer.
the farce of dustiny : Giuseppe Verdi の オペラ La forza del destino (The Force of Destiny)[運命の力]の もじり.farce[笑劇].dustiny < dust[ちり,くず]+ destiny[運命].
thunpledrum < thunder[雷]+ ample[十分な,豊かな]+ kettledrum[ティンパニの一種].
pienofarte < pianoforte[ピアノ]+ pieno[イタリア語:満ちた,豊富な]+ fart[英語:屁].
furst < first[英語:第 1 の]+ Fürst[ドイツ語:侯爵].Verdi の『運命の力』の 第 1 幕で 最初に歌い出すのは,ヒロイン Leonora の父 Marchese di Calatrava[カラトラヴァ侯爵]である.
juke < juke[娼家]+ duke[公爵:上述のとおり,最初に歌い出すのは 侯爵 (marchese) であって 公爵 (duca) ではないのだが]+ joke[ジョーク].
[112] Finnegans Wake, p.509 : “He could claud boose his eyes to the birth of his garce, he could lump all his lot through the half of her play, but he jest couldn’t laugh through the whole of her farce becorpse he warn’t billed that way”[彼は,彼の娼婦が演ずる笑劇の誕生に(彼の娼婦の体毛に,ベッドに,職業に)両目を閉じることができた(激しく涙を流すことができた).彼は,彼女の劇の半分までは 彼の運命すべてを 耐え忍ぶことができた(彼の糞便すべてを ひとかたまりにする — どしんと排出する — ことができた).だが,彼は,ともあれ,今,彼女の笑劇全体をとおして(彼女の尻の穴をとおして)笑うことはできなかった;なぜなら(死体になって)彼は そのようには つくられていなかった(彼は そのようには 請求されていなかった,そのようには 宣伝されていなかった,彼は そのように 警告した)から].
claud < claudere[ラテン語:閉じる = 英語 : close]+ cloud[雲,くもらす,かげらす].
boose < both[両方の]+ boose[英方言:牛や馬のための家畜小屋]+ booze[アルコール度の高い酒類,それを飲む].
claud boose : cloudburst[突然 降り出す 激しい雨].
birth < birth + birse[スコットランド方言:体毛;激怒]+ berth[英語:寝台,段ベッド;職業;宿所].
garce < garce[フランス語:英語の bitch に相当]+ farce[笑劇].
lump < lump[英語(名詞):塊,堆積,多数,大量;(他動詞)塊にする,ひとまとめにする;(他動詞)気に入らない,がまんする]+ Lump[ドイツ語:軽蔑的に 人間,男 を指す語]+ Lumpen[ぼろきれ,ぼろ服]+ Lompenproletariat + lumpen[ドイツ語:だらしない生活をする]+ flump[英語:どしんと落ちる,落とす]+ plump[英語:どたっと落ちる,どしんと落とす]+ slump[スランプ,どしんと落ちる,落ち込む].
lot < lot[英語:分け前,運命,ロット(一連の製品 や 出品されたもの に 割り当てられた 番号),たくさん,税金]+ harlot[英語:娼婦]+ Kot[ドイツ語:糞便].
jest < jest[英語:ジョーク,からかい,冗談を言う,からかう]+ just + geste[フランス語:武勲詩,所作]+ jetzt[ドイツ語(副詞):今].
whole < whole[全体]+ hole[穴].
farce < farce[笑劇]+ force + arse (= ass).
becorpse < because + corpse + corps.
warn’t < wasn’t + war[ドイツ語 : sein の 過去形 三人称 単数]+ warn[英語:警告する]+ warnen[ドイツ語:警告する].
billed < billed[動詞 bill の過去分詞:支払いを請求する;広告する,宣伝する;(演劇,興業を)予定する]+ built[動詞 build の過去分詞].
[113] 通常の表現では « tour de force » : 力業[ちから わざ];難しい仕事や作業を たくみに遂行すること(Joyce の作品は まさに tour de force である).注 109 と 注 110 で 見たように,Joyce は « tour de farce »[笑劇の演技,わざ]という表現を用いてはいないが,farce という語を force や garce との語音の類似を利用した pun において(まさに tour de force において)用いている.
[114] Lacan は « destin en force »[強大な力を以て働いている運命]と言っている.Verdi の オペラ La forza del destino[運命の力]の フランス語訳は La force du destin.
[115] astuce[狡知,巧妙]は,Hegel の言う die List der Vernunft[理性の狡知]を想起させる — Hegel のその表現は,フランス語では,通例,la ruse de la raison と訳されるが.また astuce は「冗談,ふざけ,いたずら」でもあるので,« astuce du destin en force » は 注 109 と 注 110 で見た Joyce の force と destiny の pun のことでもある.
[116] « on nous l’assène »[誰かが 我々に それを 突きつける]は « on noue la scène »[彼れらは 舞台(劇,場)の 山場を 作る]と 同音異義.
Que Joyce ait joui d’écrire Finnegans Wake ça se sent. Qu’il l’ait publié, je dois ça à ce qu’on me l’ait fait remarquer, laisse perplexe, en ceci que ça laisse toute littérature sur le flan. La réveiller, c’est bien signer qu’il en voulait la fin. Il coupe le souille du rêve, qui traînera bien un temps. Le temps qu’on s’aperçoive qu’il ne tient qu’à la fonction de la hâte en logique. Point souligné par moi, sans doute de ce qu’il reste après Joyce que j’ai connu à vingt ans, quelque chose à crever dans le papier hygiénique sur quoi les lettres se détachent, quand on prend soin de scribouiller pour la rection du corps pour les corpo-rections dont il dit le dernier mot connu daysens, sens mis au jour du symptôme littéraire enfin venu à concomption. La pointe de l’inintelligible y est désormais l’escabeau dont on se montre maître. Je suis assez maître de lalangue, celle dite française, pour y être parvenu moi-même ce qui fascine de témoigner de la jouissance propre au symptôme. Jouissance opaque d’exclure le sens.
Joyce は Finnegans Wake を書くことによって 悦していた — そのことは 感ぜられる.彼が Finnegans Wake を公表したということ — わたしは,なぜ彼はそれを出版したのか という 問いを,或る者が わたしに そのことを指摘したことに 負うている — は,当惑させる — Finnegans Wake は あらゆる文学[研究]を くたくたに疲れさせる [117] ということにおいて.[彼は 彼の作品によって]文学[研究]を覚醒させた — すなわち,彼は「わたしは 文学の終焉を 欲している」と署名したのだ.彼は 夢の息吹を断つ — 夢は なおも しばらくの時間 残存するが.しばらくの時間 — 我々が このことに 気づくまでの時間 — すなわち,彼は 論理における「急く」ことの機能 [118] にしか 執着していない ということ.その点を わたしは 強調した — おそらく,Joyce の後 — わたしは 20 歳のとき 彼に会った — 何ごとかが 残ることにより — 尻拭き紙 [119] のうえで くたばるべき 何ごとか[が 残ることにより]— 尻拭き紙のうえで 文字[文学]は 際立つ — 誰かが 入念に[塵芥としての文学作品を]書くとき — 身体の指導[しつけ,支配,管理][ la rection du corps ] のために — 体罰[校正][ les corpo-rections ] [120] のために — それについて,Joyce は,我々の知る〈意味[悦]の〉極み [ le dernier mot connu daysens [121] ] を言っている — 明らかにされた〈ついに丹念に作り上げられるに至った[ついに消耗に至った][ venu à concomption [122] ] 文学的症状の〉意味[悦]の極み.文学的症状において,不可解さの極みは,今や,escabeau であり,それを書く者は 自身を それをこなし得る者 として 提示する.わたしは,lalangue を かなり こなし得る者だ — フランス語と呼ばれる lalangue を — わたし自身 そこに[その escabeau に,不可解さの極みに]たどりついたがゆえに — それは魅せる — 症状に固有の悦について証言することにより.意味を排除するがゆえに不透明である悦.
[117] 原文では « laisser sur le flan » と書かれてある.flan は,日本でいう「プリン」に類似の 菓子 ないし デザート.また,俗語表現で « en être comme deux ronds de flan » は「唖然とする」,« à la flan » は「ぞんざいに,いいかげんに」,« c’est du flan » は「それは嘘だ,本当ではない」,« au flan » は「偶然に,たまたま」.我々は,ここでは,« sur le flanc » と読む.flanc は「わきばら,側面」.« être sur le flanc » は「病床についている;くたくたに疲れきっている」.
[118] 注 63 を 参照.
[119] ここで,Lacan は,Ulysses の Episode 4 Calypso の最後の場面を 我々に 思い起こさせている.そこにおいて,Leopold Bloom は,排便のために 屋外共同便所の便器に座りながら 大衆週刊誌 Titbits の古い号に掲載されている 懸賞金小説を読む(彼は その雑誌を 尻拭き紙とするために 自室から 持ってきた).その作者が くだらない文章で 結構な額の賞金を獲得していることを知って,Bloom は 作者を うらやむ.そして,Joyce は こう書いている : « He tore away half the prize story sharply and wiped himself with it »[ブルームは,賞金物語を 鋭く 半分に 引き裂き,それで 自身を 拭いた].この場面では,Joyce の ことば遊び « a letter, a litter »[文学,塵芥(ちり紙)]が まさに そのとおりに 具象化されている.
[120] corpo-rection < corps[身体]+ correction[訂正,校正,矯正,懲罰].注 119 で 言及した Ulysses の一節において,Bloom が便座に腰を降ろす場面で,Joyce は こう書いている : « Asquat on the cuckstool he folded out his paper... »[懲罰椅子に しゃがんで,彼は 雑誌を 広げた...].cuckstool または cucking stool は,英国で 中世から 19世紀初頭まで用いられていた 刑罰用具で,社会秩序を乱すと見なされた女性に対して 適用された.受刑者を その椅子に 固定し,街中で さらしものにしたり,川や池の水のなかに つけたりした.
[121] daysens < jour-sens (= jouissance) + des sens + décence[礼儀正しさ,慎み,品位]+ d’essence
[122] concomption < concoction[丹念に作り上げること]+ consomption[消耗,衰弱]
On s’en doutait depuis longtemps. Être post-joycien, c’est le savoir. Il n’y a d’éveil que par cette jouissance-là, soit dévalorisée de ce que l’analyse recourant au sens pour la résoudre, n’ait d’autre chance d’y parvenir qu’à se faire la dupe... du père comme je l’ai indiqué.
人々は,久しく前から それに感づいていた.post-joycien [ post-joycean ] である とは それを知っている ということだ.あの悦によってしか 目覚めはない.すなわち,〈精神分析 — 精神分析は 悦を解消するために 意味の助けを借りる — が《だまされる者 — わたしが示したように,父に だまされる者 [123] — となることによってしか》そこに辿り着く機会を得ることができないがゆえに〉過小評価される あの悦 [124].
[123] ここで Lacan は Séminaire XXI (1973-1974) Les non-dupes errent[だまされぬ者たちは さまよう]を 我々に 思い起こさせている.Les non-dupes errent は Les Noms-du-Père と 同音異義である.ここで Lacan が la dupe du père[父に だまされる者]と呼んでいるのは,ボロメオ結びの 第 4 の輪(結合性の輪,命名の輪)としての Nom-du-Père に 信頼する者 のことである.その信頼なしには,精神分析の終結に至ることはできない.また,その信頼が,『論理学的時間...』における 三人の囚人の譬え話における 論理学的飛躍 を 可能にするものである.
[124] 昇華の悦,または,分析不可能な症状としての sinthome の悦.
L’extraordinaire est que Joyce y soit parvenu non pas sans Freud (quoiqu’il ne suffise pas qu’il l’ait lu) mais sans recours à l’expérience de l’analyse (qui l’eût peut-être leurré de quelque fin plate).
尋常ならざるのは このことである:すなわち,Joyce は そこに辿り着いた — Freud 無しにではなく(彼が Freud を読んだというだけでは十分ではないとはいえ)— しかして,精神分析の経験(それは おそらく 何らかの凡庸な終わり方で 彼に カン違いをさせていただろう)の助けを借りることなく — ということ.