大変興味深い御意見,御指摘を幾つかいただきました.ありがとうございます.
まず「境界例」についてですが,厳密にはこの表現には括弧が付されるべきです.境界例と診断され得る人々は,単一の精神病理学的状態にあるわけではありません.一方には,分析家の言説の外に置かれたヒステリー神経症の人々があり,他方には未発症の Schizophrenie の人々がいます.つまり,典型的な精神病症状の無いまま,感情的不安定や極度の攻撃性などだけを呈している患者さんたちです.
そもそも borderline という用語は,まだ有効な薬物療法の無い時代,つまり,もっぱら精神療法が治療の主流であった時代に,精神療法ないし精神分析の経過の最中に精神病が発病するケースについて用いられていました.実存構造が比較的容易に解体してしまい,精神病症状によって代補される,そのような状態を borderline と呼んだのです.
ですから,今「境界例」と呼ばれている患者さんたちのなかにも潜在的に精神病発症の危険性を持つ人々がいます.そのように,「境界例」は単一同質の疾病概念ではないのです.ですから,一概には言えません.
Hysterica の言説から分析家の言説への転換は比較的容易に起こります.なにしろ Hysterie は精神分析の生みの母ですから.「境界例」が hysterica であるとすれば,精神分析への導入はさほど困難ではありません.
ただ,日本ではいわゆる教育分析を受けた者がフランスに比べて圧倒的に少ないので,治療者の側が尻込みすることはあるでしょう.治療者が教育分析を経験していなければ,いわゆる陰性転移に対しておじけづいてしまうでしょう.
攻撃性は,死の本能のひとつの現象形態です.Lacan は,死の本能を積極的に利用して,Freud 的な行き詰まりを打開することが可能だと提起しました.それにもとづいて彼は,精神分析の終わりを規定しました.
分析の経過中の攻撃性は,望ましくないものでは全然ありません.
精神医療の中核を成すのは,いわゆる内因性精神疾患,つまり Schizophrenie と躁欝病の治療です.それ以外の精神病理学的状態の治療も,それに準じて行われます.そこにおいては,社会適応が基本的な治療目標になります.
躁欝病においては実存構造の解体が起こり,Schizophrenie においては実存構造の解体が幻覚妄想症状によって代補されます.少なくとも不安定期には保護的な配慮が優先せざるを得ません.そのような態度が,精神医療の基本的態度になります.
そのような精神医療のなかには精神分析の居場所はありません.精神分析は,基本的に言って,精神医療の外のものです.フランスのように分析家の言説が優位なところでは,精神医療の現場が分析家の言説の構造を輸入しようという試みが為されることはありますが.
精神分析的救済論・解脱論を展開しようとしているところですが,たとえば,先日ちょっと調べた日本のカトリックの人口において,男女比は 2 : 3 です.女性の方が有意に多いのです.日本だけでなくフランスでもカトリック信者の男女比は 2 : 3 で女性の方が多いです.
女性の方が男性より神の御国により近いのです.男は,signifiant Φ との強固な同一化のせいで,神の御国にも入りにくいし,分析家の言説にも入りにくいのです.救いようがありません.
フランスの精神分析家の数の男女比の統計があるかどうかわかりませんが,おそらく女性の方が多いでしょう.彼女たちは非常に活動的・積極的です.日本にも数多くの女性の精神分析家が誕生してほしいものだと思っています.
日本の精神医療の現状について,男性治療者と男性患者とによる
signifiant Φ を防衛するための集団的自衛権行使だという鋭い分析をいただきました.ありがとうございます.
性倒錯について御質問をいただきましたが,先に,昨日教えていただいた「本覚」に触れておきましょう.
本覚は,すべての人間に本自的に備わっている悟りの状態を言います.しかし,日常性においては,まずもって大方は,本覚は煩悩により覆い隠され,我々は「不覚」の状態にあります.
ですから,煩悩を断つことが必要です.それは,羅刹天や不動明王の持つ剣によって象徴されます.まさに去勢です.
去勢,すなわち煩悩断ちによって達成される悟りは「始覚」と呼ばれます.
実存の構造の学素に依拠すれば,本覚は φ barré そのものです.それは,煩悩 a により覆い隠されています.その場合の a は,純粋徴示素ではなく,影象的なものとしての a です.まさに自我にとらわれた迷いの境地です.
そこから脱するには,φ barré から a を切断せねばなりません.そのために仏教においては,厳しい禁欲が課せられます.それによって煩悩が完全に断たれた状態が涅槃です.
涅槃に達するということは,覚の状態に達したことであり,真如へと目覚めたということです.真如は,まさに存在の真理
φ barré そのものです.
涅槃からの「復活」という概念はそのものとしてはやはり無いようですが,始覚において涅槃に達するということは,死の先取りであり,生理学的死ではないわけですから,涅槃から始覚の状態への「復活」を考えてもよいはずです.
始覚の状態においては,煩悩 a は断たれ,a は純粋徴示素としての穴へ還元されています.仏教における救済,つまり解脱は,以上のように把握されると思います.
他 A の関与は明白ではありませんが,しかし,やはり,仏陀の慈悲や,仏法の守護神である羅刹天,不動明王の剣による助力が必要であるということは含意されているのではないでしょうか.そもそも,仏陀は人間を救済するために仏法を説いたのですから.
性倒錯に話を移すと,Freud は「神経症は性倒錯の Negativ だ」と言いました.神経症においては幻想という無意識的なシナリオにとどまっているものが,性倒錯では実際の行為として演ぜられます.
性倒錯も,症状の言説としての分析家の言説に位置づけられます.
性倒錯を精神病理学的に分類していると切りがありませんが,最も基本的なのは Fetischismus です.Fetisch は,症状の構造としての a / φ barré における客体 a です.
性倒錯という病的なレベルの Fetischismus においては,性的興奮のために
Fetisch がその場に現存することが必要不可欠になります.
Freud は,Fetisch は母親の欠如せる
Phallus の代理である,と公式化しています.それは,症状の構造 a / φ barré そのものです.
のぞきと露出においては,まなざしとしての客体 a がかかわります.露出では,他 A のまなざしを喚起するために,自分の身体の一部をさらします.のぞきでは,自分のまなざしを以て客体 a を体現しようとします.
sado-masochisme
においてかかわるのは,声としての客体 a です.sadique は自分の声を以て客体 a を体現しようとします.声は,超自我の声のように,命令する声です.masochiste は,他 A の命令の声 a を惹起させることを以て,悦します.
以上のように,症状の構造としての分析家の構造は,神経症,性倒錯,精神病,すべてにおける症状の構造を表します.
穴の概念について御質問いただきました.ありがとうございます.話しているとどうしても表現が雑になってきてしまいますが,わたしが「存在論的穴」と呼んでいるものは,正確には,純粋徴示素としての a そのものです.徴象 le symbolique を Lacan は穴と定義します.それが存在論的穴です.
それに対して,φ barré は ex-sistence 解脱実存であり,実在 le réel です.
存在論的穴は,言ってみれば,この ex-sistence によってうがたれた穴であり,ex-sistence の場処のエッジを成すものです.
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