2017年2月9日

Des status divers du petit a

Pourquoi Lacan a-t-il inventé les quatre discours ? Il y aurait certainement plusieurs raisons, mais une en est sûrement ceci : pour expliquer des différents statuts du petit a.

Partons de cette définition triadique de la structure topologique du parlêtre que Lacan nous présente dans la Position de l’inconscient (Écrits, p.839) :

« elles [ c’est-à-dire fermeture et ouverture ] donnent à deux domaines leur mode de conjonction. Ce sont respectivement le sujet et l’Autre, ces domaines n’étant ici à substantifier que de nos thèses sur l’inconscient. Le sujet, le sujet cartésien, est le présupposé de l’inconscient. L’Autre est la dimension exigée de ce que la parole s’affirme en vérité. L’inconscient est entre eux leur coupure en acte ».


Et voyons les correspondances entre la topologie apophatico-ontologique, la triade d’RSI et la structure des quatre discours :


le lieu de l’Autre ‒ la sphère trouée (le disc) ‒ la consistance de l’imaginaire ‒ la place de l’agent ;

la localité du sujet ‒ la bande de Möbius ‒ l’ex-sistence du réel ‒ la place de la forclusion et de la production ;

les bords de la coupure et de l'identification ‒ le trou du symbolique ‒ la place de l’autre et celle de la vérité.


Dans le discours du maître, le petit a dans la place de la production est le plus-de-jouir refoulé dans la place du phallus φ impossible et foncièrement forclos. Là, le petit a est de l’ordre du réel.



Dans le discours de l’hystérique et le discours de l’université qui est le discours de l’obsessionnel, le petit a est le trou ou la coupure de l’ordre du symbolique même.



D'ailleurs, dans son Séminaire XIII L’objet de la psychanalyse, Lacan nous présente un schéma de l'aliénation comme ceci :



Là, l’objet a est la coupure entre le savoir et la vérité. Cette structure qui est celle de la Science, n’est rien d’autre que le discours de l’université.



Enfin, dans le discours de l’analyste, le petit a se présente comme semblant qui représente le savoir S
2 supposé dans la place de la vérité. Là, le petit a est de la consistance de l’ordre de l’imaginaire.



Mais, comme j'ai déjà dit dans mon petit article Du a en superposition du réel, de l'imaginaire et du symbolique, on peut penser aussi que le petit a a un état de superposition des trois ordres du réel, de l'imaginaire et du symbolique.


2017年2月3日

Séminaire XVII 『精神分析の裏』 第 VII, VIII, IX 章の解説

東京ラカン塾精神分析セミネールでは,2017年01月06日,13日,20日に Séminaire XVII L'envers de la psychanalyse精神分析の裏] 第 VII, VIII, IX 章の解説を行いました.それら三つの章は,第 VI 章とともに,「オィディプス複合の彼方」と題された第二部を形成しており,密接に連関しています.まとめて解説しましょう.

そこにおける Lacan の意図は,Freud が準拠した父殺し神話が表している存在論的構造を明らかにすることに存します.

そもそも,Lacan は何のために教えたのか? 基本的に言って,その全体において,Lacan の教えは,精神分析を純粋 [ pur ] に基礎づけることに存します.

「純粋に」とは,「非経験論的 [ non empirique ] に」ということです.すなわち,生物学,医学,心理学,社会学などの経験科学を一切前提とせずに.

1964年01月15日,Séminaire XI Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse [精神分析の四つの基礎概念] の初回講義の冒頭で,Lacan はこう宣言します : « je vais vous parler des fondements de la psychanalyse » [わたしは,あなたたちに,精神分析の基礎について語ろう].

そして,彼の教えの最晩年,Séminaire XXV Le moment de conclure [今や結論するときだ] の1978年04月11日の講義で,Lacan はこう言います : « Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel, c'est le fondement de la psychanalyse » [性関係は無い:それが精神分析の基礎である].

この簡潔な公式:「性関係は無い」は,単に,「性関係」と呼ばれるひとつの存在事象の不在なり欠如なりを言い表しているのではありません.そうではなく,この « il n'y a pas » [無い] は,「徴在の明るみへ一度も来たことのないもの」 (« ce qui n'est jamais venu au jour du symbolique », Ecrits, p.388) にかかわっています.言い換えると,Heidegger が「存在論的差異」 [ die ontologische Differenz ] と呼ぶところのもの – 存在事象と存在との差異 – によって存在事象の場処 [ lieu ] とは根本的に隔てられ,存在事象の場処に対して解脱実存的 [ ek-sistent ] である存在の在処 [ la localité de l'être, die Ortschaft des Seyns ] にかかわっています.

この « il n'y a pas »  は,存在の在処と存在論的差異とにかかわる限りで,ひとつの存在論的な公式です.そして,この根本的な « il n'y a pas » を包含する存在論を,我々は「否定存在論」 (l'ontologie apophatique, die apophatische Ontologie) と名づけます.

apophatique という形容詞は,伝統的には「否定神学」 (théologie apophatique) という名称において用いられてきたものです.それは,無限にして永遠なる神に関して,「神は ... である」という肯定命題を措定することは,神を有限にしてしまうことであるであるので,神については否定命題で語るべきである,という思考です.

我々はこう言います:神は,ひとつの存在事象ではない.存在事象の場処に対して ex-sistent [解脱実存的] である在処こそが,神の座である.したがって,神に関して,存在事象に妥当し得る何らかの賓辞を以て「神は ... である」と措定することはできない.

ともあれ,否定存在論は,精神分析の基礎を成す存在論です.それを Lacan は,Heidegger から抽出してきました. 

Heidegger が1955年に発表した Zur Seinsfrage [存在の問いのために] という論文のなかで,Lacan は,否定存在論の根本的な学素に出会いました.これです:




Sein という単語をバツ印で抹消して表記することはここでは技術的に困難なので,これを以てその代わりとします : Sein

わたしは,これを初めて見たとき,直観的に,これにならって Lacan は「抹消された主体」 [ le sujet barré ] の学素 $ を作ったのだ,と思い当たりました.実際,Lacan が学素 $ を導入するのは1958年のことです.

この学素 Sein または Seyn は,1941-1942年に執筆され,2009年に出版された Heidegger の手稿 Das Ereignis (GA 71) のなかにも見出されます.それが初出かどうかは,今のところ定かではありません.

Sein [存在] という語を書くなら,それを抹消せねばならない.それは,存在を存在事象と同様に対象化することのないようにするためだ,と Heidegger は言っています (cf. Zur Seinsfrage, in GA 9, pp.410-411).

「バツ印で抹消する」は,ドイツ語で durchkreuzen です.Kreuz は「十字架」であり,kreuzigen は「十字架にかける」です.十字による抹消は,十字架に架けられた Jesus の処刑を想起させます.処罰,罪,死,禁止などを連想させます.そして,死から永遠の命への復活も.

さて,Zur Seinsfrage の一節 (GA 9, pp.415-416) を読んでみましょう:
Sein verbirgt sich. Es hält sich in einer Verborgenheit, die sich selber verbirgt. In solchem Verbergen beruht jedoch das griechisch erfahrene Wesen der Vergessenheit. Sie ist am Ende, d.h. aus dem Beginn ihres Wesens her nichts Negatives, sondern als Ver-bergung vermutlich ein Bergen, das noch Unentborgenes verwahrt. 
存在は,自身を秘匿する.それは,秘匿性のうちに自身を保持する.その秘匿性そのものも,秘匿されている.しかるに,そのような秘匿にこそ,ギリシャ的に経験される忘却 [ λήθη ] の本有は存している.忘却 [ λήθη ] は,つまるところ,すなわち,その存有の始まり以来,否定的なものではなく,而して,「秘-匿」として,おそらく,なおも啓匿されざるものを保存するひとつの保匿であろう.
Die Seinsvergessenheit gehört zur Sache des Seins selbst, waltet als Geschick seines Wesens. Die recht bedachte Vergessenheit, die Verbergung des noch unentborgenen Wesens des Seins, birgt ungehobene Schätze und ist das Versprechen eines Fundes, der nur auf das gemäße Suchen wartet. Um solches zu vermuten, bedarf es keiner prophetischen Gabe und nicht der Manier von Verkündern, sondern nur der jahrzehntelang geübten Achtung des Gewesenen, das sich im metaphysichen Denken des Abendlandes bekundet. Dieses Gewesene steht im Zeichen der Unverborgenheit des Anwesenden. Die Unverborgenheit beruht in der Verborgenheit des Anwesens. Dieser Verborgenheit, in der die Unverborhenheit (Ἀλήθεια) gründet, gilt das Andenken. Es denkt jenes Gewesende an, das nicht vergangen ist, weil es das Unvergängliche in allem Währen bleibt, das je das Ereignis des Seins gewährt.
存在忘却は,存在の本事に属しており,存在の本有の運命として作用している.存在忘却は,正しく考察されるなら,存在の未啓匿な存有の秘匿であり,未発掘の宝を保匿しており,適切な探索をしさえすればその宝は発見されるだろうという約束である.そのようなことを推察するために必要なのは,預言者の才能や作法ではなく,而して,ただ,西洋の形而上学的思考のなかで自身を表示している既往存有事象を尊重することに数十年にわたり熟達することだけである.その既往存有事象は,現在存有事象の非秘匿性の徴のもとにある.非秘匿性は,現在存有の秘匿性に基づいている.其こに非秘匿性 (Ἀλήθεια) が基づくところのこの秘匿性にこそ,思い馳せは向けられる.思い馳せが思い馳せる既往存有事象は,過ぎ去ってはいない.なぜなら,それは,毎次,存在の自有が恵み与えるあらゆる存続において,過ぎ去らざるもの [不滅のもの] であり続けるから.

Heidegger が「適切な探索」と呼んでいるものは精神分析にほかならない,と我々は言うことができます.Heidegger は決して同意しないでしょうが.

ともあれ,引用した一節を否定存在論的構造にもとづいて読解してみましょう.本来は,上の一節から否定存在論的構造を導き出すべきですが,それはあまりに手間がかかりすぎますから,別稿で試みます.



図 1

Heidegger は,一方に ἀλήθεια と Unverborgenheit を置き,他方に λήθη と Verborgenheit を置きます.後者は,die ek-sistente Ortschaft des Seins, la localité ex-sistente de l'être存在解脱実存的な在処]であり,ex-sistence [解脱実存]としての l'ordre du réel [実在の位]です.前者は,穴としての l'ordre du symbolique [徴在の位]であり,Heidegger の用語では,存在論的差異,Lichtung [朗場],Austrag [解和] に相当します.個々の存在事象は,l'ordre de l'imaginaire [影在の位] に属しています.

Lacan の実在,徴在,影在の三位と,否定存在論的トポロジーとの対応は,以上のごとくです.

否定存在論は,必然的にトポロジーとして展開されます.なぜなら,抹消された存在 Sein は,そのものとしては,存在事象のようにひとつの対象であるわけではないからです.そうではなく,存在事象が位置する空間とは異質な空間を考えねばなりません.

そのために Lacan は,最も単純に,曲面のトポロジーを利用します.閉曲面 [ closed surface ] の一種,投射平面 [ projective plane ] です.



図 2

投射平面は,適切な切れ目によって,ひとつの円板と homeomorphic な穴開き球面と Möbius strip とへ切り分けられます(図 1 を参照). 投射平面は,三次元のユークリッド空間のなかでは完全に表象され得ません.cross-cap (図 2)と呼ばれる投射平面の immersion (三次元ユークリッド空間における表象)においては,交線として描かれている線分において,穴開き球面のエッジは閉じられているように見え,ユークリッド空間の外へはみ出した Möbius strip の曲面は,口を閉じた穴開き球面によって隠されてしまっています.

そのような cross-cap のトポロジーは,Heidegger が秘匿性と呼ぶ存在の在処の解脱実存性について思考するために,うってつけの思考モデルを Lacan に提供します.

Freud が Verdrängung [排斥]と呼ぶものは,或る signifiant [徴示素]が穴開き球面(影在の位)から Möbius strip の曲面(実在の位)へ移動した,ということです.すなわち,Möbius strip は,Freud が das Unbewußte [無意識]と呼ぶ場に相当します.

Verdrängung に対して Lacan が forclusion [閉出]と呼ぶものは,解脱実存的な在処そのものにかかわります.すなわち,源初にひとつの閉出が起こります.性関係を可能にするかもしれない phallus が閉出されます.それによって,この phallus は不可能な phallus になります.書かれないことをやめない phallus です.我々はそれを次の学素を以て形式化します:




図 3

図 3 においては,否定存在論的トポロジーと四つの言説の構造との相関が示されています.


図 4

図 4 においては,aliénation-séparation [異化-分離]の図と否定存在論的トポロジーとの相関が示されています.


図 5

図 5 では,如何に精神分析の過程が,他の欲望 Ⱥ に関する問い Che vuoi ? [何を汝れは欲するか?] から出発して,欲望の昇華 S(Ⱥ) へ至るかを示しています.

ところで,否定存在論的構造は,源初的な所与でしょうか?哲学者なら然りと言うかもしれません.しかし,Lacan はそうは考えません.臨床的にも,小児自閉症においては否定存在論的構造の或る種の形成不全がかかわっており,また,精神病においては,構造の解体とそれに対する代補形成が起こります.

Lacan は,否定存在論的構造の可能性の条件について問うことをやめませんでした.それは,精神分析がこの構造を解体すること – 切れ目によって,Möbius strip から穴開き球面を切り離すこと – に存するからです.影在(穴開き球面)と実在(Möbius strip の曲面)との切り離し,ないし分離の可能性は,否定存在論的構造の可能性に包含されていなければなりません.

欲望のグラフ(図 5)において,Lacan は,精神分析の終結を「欲望の昇華」を以て規定し,学素 S(Ⱥ) を以てそれを形式化しています.

ところで,« signifiant du manque dans l'Autre » [他のなかの欠如の徴示素] (Ecrits, p.818) と定義される S(Ⱥ) は,« le trait qui se trace de son cercle » [その円によって描かれる線] (ibid., p.819) にほかならない,と Lacan は言っています.つまり,図 1 ないし図 3 において,他の場処 [ le lieu de l'Autre ] である穴開き球面の穴のエッジが其れであるところの円周の線が,S(Ⱥ) です.

S(Ⱥ) は,「他のなかの欠如の徴示素」ですが,ひとつの特別な徴示素です.そも,それは,« le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c'est dire que faute de ce signifiant, tous les autres ne représenteraient rien » [其れに対してほかの徴示素すべてが主体を代表するところの徴示素であり,すなわち,もし仮にそれが無ければ,ほかの徴示素は何も代表しなくなるだろう] (ibid., p.819).  

かくして,S(Ⱥ) は,ひとつの徴示素と定義されはしても,« sans pouvoir y être compté » [徴示素のセットのなかには算入され得ない] (ibid., p.819), すなわち,ほかの徴示素すべてが属する「徴示素の宝庫」としての他の場処に属していません.

Lacan は S(Ⱥ) を trait [線,すじ]と呼んでいます.果たして,この trait を如何なるものと捉えるべきでしょうか?それは固有の定存 [ consistance ] を有しているのでしょうか?

もし精神分析の終結が S(Ⱥ) の自有に存するならば,すなわち,影在の位も実在の位も空座となり,ともに徴在の位の穴へ還元され,その穴が穴として存有することに存するならば,S(Ⱥ) は固有の定存を有していることになります.

S(Ⱥ) がそれ固有の定存を有しているならば,S(Ⱥ) は,精神分析の終結においてかかわるだけでなく,そもそも言語存在の源初において,徴在の穴の存有を可能にするものであることになります.ボロメオ結びのトポロジーにおいては,S(Ⱥ) は,実在,徴在,影在の三つの輪をボロメオ的に結ぶことを可能にする第四の輪である,ということになります.実際,Lacan も,最晩年,四つ輪のボロメオ結びについて思考し続けています.

さて,冒頭にも述べたように,1970年 2月18日,3月11日,18日,4月15日の四つの講義は,「オィディプス複合の彼方」と題された第二部を成しています.Lacan 自身は « au-delà du mythe d'Oedipe » [オィディプス神話の彼方] (p.143) と言っています.すなわち,父殺し神話の虚構のなかに保匿されている実在について問うことが,かかわっています.

オィディプス神話にせよ,Urvater 神話にせよ,父殺し神話においては,当然ながら,父は最初は生きており,次いで息子によって殺害されます.生前の父は,母(自身の妻)と性関係を持っており,あるいは,一族の女すべてを独占しています.つまり,性的に全能です.もし仮にそのような父が現存していたならば,根本的な「性関係は無い」は否定され,少なくとも当初は父と母との間に – または,父と一族の女たちとの間に – 性関係は可能であった,ということになります.次いで,父殺しの効果として制定される律法によって,または,以前から定められていた律法によって,母または一族の女たちとの性関係 – すなわち,近親相姦 – は禁止される,ということになります.

しかし,そのような父殺し神話は Freud の夢である,と Lacan は断言します (cf. pp.135 et 159). つまり,Freud の神経症的虚構創作です.

その虚構が保匿している実在は,これです:父は,源初から,去勢されており,死んでいる.すなわち,生きており,性的に全能である Urvater の正反対です.

むしろ,Urvater は不可能である  不可能,すなわち,実在です.

ところで,父は源初から死んでいるのですから,子が父を殺したわけではありません.にもかかわらず, 子は,みづから行ったわけではない父殺しのゆえに,源初から有罪です.それが,キリスト教神学の言う原罪です.



死せる父の座は,四つの言説の構造においては,右下の生産の座です.分析家の言説では,支配者徴示素 S1 がそこに置かれています.否定存在論的トポロジーにおいては,Möbius strip の曲面が死せる父の座です.


四つの言説の四つの座そのものが如何なるものかから出発するなら,右下の生産の座は,源初的に閉出された不可能な phallus の座です.左下の真理の座は,不可能な phallus によってしか満たされ得ない欲望 Ⱥ – すなわち,満足不可能な欲望 Ⱥ – の座です.


この不可能な関係の学素が,「性関係は無い」 [ il n'y a pas de rapport sexuel ] の学素です.

欲望 Ⱥ は phallus φ の不可能性のゆえに満たされ得ないという事態について,Lacan は,真理の座と生産の座との間には障碍 [ barrière ] がある (cf. p.124), あるいは,« il n'y a pas de rapport sexuel » の « pas » がある (cf. p.151) と言っています.

ただし,Seuil 版 p.151 において,Lacan が « le pas fait par la jouissance » と言っているのに対して,Jacques-Alain Miller は « l'obstacle fait par la jouissance » と書いています.おそらく,この « pas » が « il n'y a pas de rapport sexuel » の « pas » であることを読み取ることができなかったのでしょう.

支配者徴示素 S1 が不可能な phallus φ の座に位置しているということ,それが,父は源初において既に死んでおり,かつ,去勢されている,ということです.

父殺し神話という虚構が保匿する実在は,性関係の可能性の条件である phallus の不可能性という実在です.