2016年2月24日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-16年度 第14回,2016年2月26日

前々回,02月05日に読んだ Écrits p.25 の一節において,Lacan は le symbolique [徴在]と le réel [実在]についてこう言っています:

« C'est qu'on ne peut dire à la lettre que ceci manque à sa place, que de ce qui peut en changer, c'est-à-dire du symbolique. Car pour le réel, quelque bouleversement qu'on puisse y apporter, il y est toujours et en tout cas, à sa place, il l'emporte collée à sa semelle, sans rien connaître qui puisse l'en exiler. »
[つまり,文字どおりに「それは,その座に欠けている(在るべきところに無い)」と言い得るのは,座を変えることができるものについてのみである – すなわち,徴在についてのみである.そも,実在は,どれほどの激変がそれへともたらされようと,常にそこに在り,ともあれ,その座に在るのであって,いわば,実在は,自分の座を靴底にくっつけて持ち運んでおり,自身を自分の座から追放するすべを何も識らないのである.]

1974-75年の Séminaire XXII R.S.I. における三つの ordre [位]の定義 –

le réel [実在] : ex-sistence [解脱実存」;
le symbolique [徴在] : trou [穴];
l'imaginaire [影在] : consistance [定存]

から振り返って考えてみると,1956年に書かれた Le séminaire sur « La lettre volée » における le symbolique と1974-75年におけるそれとは異なっている,ということに我々は気づきます.

1974-75年の séminaire においては,le réel, le symbolique, l'imaginaire は,それぞれひとつの位として topologique に定義されています.それらは座を変えることができません.なぜなら,それらは,現象学的-存在論的構造において,それら自体,それぞれひとつの座であるからです.

それに対して,1956年のテクストにおいては,le symbolique peut changer de place [徴在は,座を変え得る]と言われています.そこにおいては,le symbolique はひとつの座のことではなく,而して,ひとつの座からほかの座へと移動し得るひとつの項,つまり,その matérialité [質料性]におけるひとつの signifiant [徴示素]のことです.そして,そのような質料的な徴示素は,1974-75年の定義によれば,定存としての影在の位のものです.

では,徴在の概念は,1950年代と1970年代の間で変化したのでしょうか?我々はそうは考えません.Lacan の教えのなかに Jacques-Alain Miller の言うような paradigm shifts を想定する必要はありません.

我々はむしろ,こう考えます : Lacan が le réel, le symbolique, l'imaginaire と言うとき,それらの用語はそれぞれ,ある場合には,ひとつの topologique な位ないし座を指し,また,ほかの場合には,ひとつの位からほかの位へ,ひとつの座からほかの座へ移動し得る項を指している.座と項と:それらのいづれがかかわっているのかを,我々はできるだけ区別して読解せねばならない.

次に,le réel [実在]に関しては,「実在は,常にその座に在る」.すなわち,実在は,存在の真理として,la localité d'ex-sistence [解脱実存の在処]に存有し続けます.それが反復です:実在は,常に同じ座へ回帰する.

Séminaire XI p.49 (version Seuil) で Lacan が提示している「スピノザ風の公式」を改めて見てみましょう:

« cogitatio adaequata semper vitat eamdem rem. Une pensée adéquate en tant que pensée, au niveau où nous sommes, évite toujours – s'en écarte, fût-ce pour se retrouver après en tout  la même Chose. Le réel, c'est ce qui revient toujours à la même place  à la même place où le sujet en tant qu'il cogite, où le sujet en tant que res cogitans, ne le rencontre pas. »

Lacan は cogitatio と言っていますが,Spinoza なら cognitio と言うはずです.恐らく,Descartes の cogito が Lacan の念頭にあったので,言い間違えたのでしょう.さらに,命題の意味をより良く捉えるために,etiam [...でさえ]を挿入しておきましょう:

Cognitio etiam adaequata semper vitat eamdem rem.

この eadem res は,単に「同じ物」ではなく,Heidegger が das Selbe [本同的なもの]と呼ぶもの,すなわち,ex-sistence における das Seyn, das Sein です.ですから,la même Chose と大文字で表記しておきます.翻訳すると:

「十全適合的な認識でさえ,eadem res [本同物]を常に避ける.我々が存在する次元において,思考としての思考は,十全適合的な思考でさえ,本同物を常に避ける  本同物から逸れる – その後,完全に回復するとしても.実在は,常に同じ座に回帰するものである  其こにおいて,思考するものとしての主体,res cogitans としての主体は実在に出会わないところの同じ座に」.

この事態を,我々はこう形式化することができるでしょう:


ここでもう一度,Le séminaire sur « La lettre volée » の冒頭 (Écrits, p.11) へ立ち返ってみましょう:

「l'automatisme de répétition [反復自動] (Wiederholungszwang [反復強迫]) は,その原理を,徴示素連鎖の insistance [固執]に有する.その概念そのもを,我々は,其こに無意識の主体を位置づけるべきところの ex-sistence[解脱実存](すなわち,la place excentrique[解脱中心的な座])と相関的なものとして取り出した.」

反復と insistance について,Lacan は,Le séminaire sur « La lettre volée » の序文  1957年に La Psychanalyse 誌に発表されたときには本文に先行していたが,Écrits のなかでは本文に後置されているテクスト  において,「破壊不可能な存続における無意識的欲望」の問題との関係において問うています.

反復強迫の原理としての徴示素連鎖の固執は,Urverdrängung [源初排斥]以来,破壊不可能的に存続する.それは明らかに,書かれることを止めないものとしての必然と関連します.

ということは,書かれることを止めない必然的な徴示素連鎖が位置するのは,常に同じ座に回帰するものとしての実在の座,ex-sistence の在処にである,ということになります.

ところで,実在は不可能在である,すなわち,書かれぬことを止めぬものである.

かくして,必然と不可能との関連は,こうです:書かれぬことを止めぬものとしての不可能在の座,実在の座,ex-sistence の在処において,書かれることを止めない必然的な徴示素連鎖は固執し,存続する.

徴示素連鎖の固執は,Urverdrängung [源初排斥]以来 ex-sistence の在処に秘匿されたままでいる限り,制止不能,かつ破壊不能です.そのような書かれることをやめない徴示素連鎖を,我々は精神分析治療において転移によって agent [能動者,代理人,代表者]の座に引きずり出し,解釈によって分離し,廃します.agent の座へ暴き出されることによって,徴示素連鎖の固執は,「書かれることを止めぬもの」  必然在 – から「書かれることを止めるもの」  可能在 – へ変化します.さもなければ,精神分析治療は作用し得ません.

前回,2月19日に読んだ Écrits p.27 の « la dette ineffaçable » [帳消し不可能な負債]については,稿を改めて解説しましょう.

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 第14回:

引き続き Lacan の Le séminaire sur « La lettre volée » を読解して行きます.

日時 : 2016年02月26日 19:30 - 21:00,
場所:文京シビックセンター(文京区役所の建物) 3 階 B 会議室.

参加費無料.事前の申請や登録は必要ありません.

テクストは各自持参してください.テクスト入手困難な方は,小笠原晋也へ御連絡ください : ogswrs@gmail.com

2016年2月17日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 2015-2016年度 第13回,2016年2月19日

前回,2016年2月5日は,おもに Le séminaire sur « La lettre volée » の pp.24-25 (Écrits 原書の頁で) を読解しました.そこからふたつのことを取り上げましょう.ひとつは徴示素の質料性,もうひとつは反復です.

まずは,« la matérialité du signifiant » [徴示素の質料性,物質性] (p.24). « cette matérialité est singulière » [徴示素の質料性は,特異的である]と Lacan は言っています.

singulier という形容詞にはおもにふたつの意味があります:「奇妙な,奇異な」と「単数の,単独の」.

ところで,同じ形容詞 singulier は,p.23 では,英語の odd の訳語として,徴示素と場処との関係 – 盗まれた手紙 (lettre, 文字) はどこにも見つからないということ,すなわち,文字の無在性 [ nullibiété ]  – を形容するのに用いられています:

« la lettre a avec le lieu, des rapports singuliers, car ce sont ceux-là même qu'avec le lieu entretient le signifiant » [文字は,場処と,特異的な関係を持っている.そも,徴示素が場処と有する関係は,特異的な関係そのものである].

手紙(文字)は場処(警察が捜索する空間,le lieu de l'Autre, 他の場処)に対して singulier [特異的]な関係を有している.我々はこう言い換えることができます:問題の文字は,他の場処に対して ex-sistent [解脱実存的]である.

p.24 の「徴示素の特異的な質料性」に関しては,Lacan は「徴示素の分割不能性」を第一に挙げます.徴示素は分割不可能である,言い換えると,« le signifiant est unité » [徴示素は単一である].この unité は,「単数の,単独の」という意味における singulier と関連しています.

分割不可能な単一性を説明するために,Lacan はまずは逆に,部分冠詞を用いたさまざまな表現を提示します : de la signification, de l'intention, de l'amour, de la haine, du dévouement, de l'infatuation, etc. 意義,意図,愛,憎しみ,献身,うぬぼれ,等々,それらは全く質料的(物質的)ではありませんが,部分冠詞が付されることによって,その全部ではなく,部分的な若干量のみがかかわっている,ということが示されます.

それに対して,文字(手紙)に関しては Lacan はこう強調します : « jamais qu'il n'y ait nulle part de la lettre » [部分冠詞を付された lettre は,決してどこにも無い].

ところで,部分冠詞と言えば,我々は,Lacan が1971-72年の Séminaire XIX において提示する命題 : « il y a de l'Un » [一が有る]を思い起こすことができます.le signifiant Un [徴示素 1]には,Lacan は部分冠詞を付します.それに対して,unité [単一]としての徴示素には部分冠詞は付され得ない.いったい,どういうことでしょうか?

我々はこう答えることができます : 部分冠詞を付して de l'Un と呼ばれ得る le signifiant Un に対して,無在性における徴示素,特異的質料性における徴示素は,ex-sistent [解脱実存的]である.

この解脱実存的な徴示素 [ le signifiant ex-sistent ], その解脱実存的な質料性 [ matérialité ex-sistente ] における徴示素について,Lacan はこう言っています :

« le signifiant est unité d'être unique, n'étant de par sa nature symbole que d'une absence. Et c'est ainsi qu'on ne peut dire de la lettre volée qu'il faille qu'à l'instar des autres objets, elle soit ou ne soit pas quelque part, mais bien qu'à leur différence, elle sera et ne sera pas là où elle est, où qu'elle aille. »
[その徴示素は,単一である – その性質として,ひとつの不在を標す記号でしかないことにより,唯一的であるがゆえに.かくして,盗まれた手紙[解脱実存的徴示素]について,それは,ほかの物体と同様に,どこかに存在するか,または存在しないかのいずれかでなければならない,と言うことはできない.而して,ほかの物体とは異なり,それは,どこへ行こうと,存在するところにおいて存在し,かつ存在しないだろう.]

「ひとつの不在」とは,manque-à-être [存在欠如],すなわち ex-sistence [解脱実存]です.存在欠如を,我々は,抹消された徴示素ファロス φ を持って形式化することにしています.「ひとつの不在を標す記号」は,この φ にほかなりません.

技術的な理由により,ここでは我々は φ と表記しますが,可能であれば,$ Ⱥ に倣って,こう記したいところです:



この「盗まれた手紙についてのセミネール」では Lacan は,φ について「存在する」と言っていますが,より正確には,「解脱実存する」 [ ex-sister, ek-sistieren ] と言うべきでしょう.解脱実存的徴示素は,解脱実存するがゆえに,ひとつの存在事象としては存在しておらず,かつ,存在そのものとしては存有しています [ es west als Sein ]. なお,wesen という語をそのように動詞として用いるのは,Heidegger の工夫です.

φ は,localité d'ex-sistence ないし localité de l'être [解脱実存の在処,存在の在処] の学素です. 存在は das Selbe [本同] であり,einfach [純一]であり,唯一的です.分割不可能な単一です.存在の在処は,そのものとしては移動しません.

それに対して,解脱実存の在処へ閉出される徴示素があります.後者は移動します.移動可能な徴示素について,反復がかかわってきます.

p.25 で Lacan は反復の問題に言及していますが,この記事は既に長くなってしまったので,反復については別途解説することにしましょう.

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 第13回:

日時 : 2016年02月19日 19:30 - 21:00,
場所:文京シビックセンター(文京区役所の建物) 3 階 B 会議室.

引き続き,Lacan の Le séminaire sur « La lettre volée » の読解を行います.
参加費は無料,事前の申請や登録も不必要です.

テクストは各自持参してください.テクスト入手困難な方は,小笠原晋也へ御連絡ください : ogswrs@gmail.com

2016年2月2日

東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」,2015-2016年度 第12回,2016年02月05日

開闢の穴と無からの創造

源初に Logos は,穴として己れを開闢する.Logos は,神を解脱実存させるために己れを開闢する.Logos は,神の解脱実存の穴である.

言語の構造において徴示素の座と被徴示の座とを区切る切れ目は,言語の構造の必要条件として,最も根本的なものであり,最も源初的なものです.

その切れ目は,徴示素の位の穴であり,Heidegger の用語で言えば Lichtung, clairière [朗場]です.したがって,それを der lichtende Schnitt, la coupure clairante と呼びましょう.日本語では「開闢の切れ目」です.それが穴としての徴在の位に相当する限りで,「開闢の穴」と呼ばれてもよいでしょう.

上にヨハネ福音書の最初の文の言い換えを提示しました.ヨハネ福音記者の言う源初的な Logos は,まさに開闢の穴です.その穴によって,Ⱥutre としての神は解脱実存します.

源初的な Logos の穴は,Lichtung として,創世記の冒頭に述べられている「無からの創造」の源初を成す「光が在れ」の光,Licht でもあります.

そして,ヨハネ福音書の源初的な Logos は,Lichtung として,Parmenides の ἀλήθεια でもあり,Herakleitos の Λόγος でもあります.

Lichtung は,言語の構造の学素において徴示素の座と被徴示の座とを分ける横線に相当しますが,徴示素の座に何も書かないのもさまにならないので,空集合の記号 Æ を便宜的に記入しておきましょう:


これが,源初的な Logos の構造です.源初的な Logos は,解脱実存 Ⱥ の穴そのものです.

Lacan 自身が用いた学素のうちでは,Lichtung を形式化するのは S(Ⱥ) です:


ともあれ,以上のように書記し得るとしても,このことを忘れないでください:すなわち,厳密に言って,Lichtung は,徴示素の座と被徴示の座との間の切れ目であり,源初的な Logos の構造においては徴示素の座は空座である.

源初的な Logos の構造は,そして,精神分析の過程が到達すべき終わりの構造でもあります.異状の徴示素としての a が仮象の座からすべて分離されて,主体廃位 [ destitution subjective ] が完了したとき,源初的な Logos の構造が回復されます. それが Heidegger の言う Ereignis [自有]です.

2015-2016年度 東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」,第12回

日時 : 2016年02月05日金曜日 19:30 - 21:00,

場所:文京シビックセンター(文京区役所の建物) 5 階 D 会議室.

Lacan の Le séminaire sur « La Lettre volée » [盗まれた手紙についてのセミネール]の解説を継続します.

事前の申込や登録は必要ありません.

テクストは各自お持ちください.テクストの入手の困難なかたは,小笠原晋也へ御連絡ください : ogswrs@gmail.com