« C'est qu'on ne peut dire à la lettre que ceci manque à sa place, que de ce qui peut en changer, c'est-à-dire du symbolique. Car pour le réel, quelque bouleversement qu'on puisse y apporter, il y est toujours et en tout cas, à sa place, il l'emporte collée à sa semelle, sans rien connaître qui puisse l'en exiler. »
[つまり,文字どおりに「それは,その座に欠けている(在るべきところに無い)」と言い得るのは,座を変えることができるものについてのみである – すなわち,徴在についてのみである.そも,実在は,どれほどの激変がそれへともたらされようと,常にそこに在り,ともあれ,その座に在るのであって,いわば,実在は,自分の座を靴底にくっつけて持ち運んでおり,自身を自分の座から追放するすべを何も識らないのである.]
1974-75年の Séminaire XXII R.S.I. における三つの ordre [位]の定義 –
le réel [実在] : ex-sistence [解脱実存」;
le symbolique [徴在] : trou [穴];
l'imaginaire [影在] : consistance [定存]
から振り返って考えてみると,1956年に書かれた Le séminaire sur « La lettre volée » における le symbolique と1974-75年におけるそれとは異なっている,ということに我々は気づきます.
1974-75年の séminaire においては,le réel, le symbolique, l'imaginaire は,それぞれひとつの位として topologique に定義されています.それらは座を変えることができません.なぜなら,それらは,現象学的-存在論的構造において,それら自体,それぞれひとつの座であるからです.
それに対して,1956年のテクストにおいては,le symbolique peut changer de place [徴在は,座を変え得る]と言われています.そこにおいては,le symbolique はひとつの座のことではなく,而して,ひとつの座からほかの座へと移動し得るひとつの項,つまり,その matérialité [質料性]におけるひとつの signifiant [徴示素]のことです.そして,そのような質料的な徴示素は,1974-75年の定義によれば,定存としての影在の位のものです.
では,徴在の概念は,1950年代と1970年代の間で変化したのでしょうか?我々はそうは考えません.Lacan の教えのなかに Jacques-Alain Miller の言うような paradigm shifts を想定する必要はありません.
我々はむしろ,こう考えます : Lacan が le réel, le symbolique, l'imaginaire と言うとき,それらの用語はそれぞれ,ある場合には,ひとつの topologique な位ないし座を指し,また,ほかの場合には,ひとつの位からほかの位へ,ひとつの座からほかの座へ移動し得る項を指している.座と項と:それらのいづれがかかわっているのかを,我々はできるだけ区別して読解せねばならない.
次に,le réel [実在]に関しては,「実在は,常にその座に在る」.すなわち,実在は,存在の真理として,la localité d'ex-sistence [解脱実存の在処]に存有し続けます.それが反復です:実在は,常に同じ座へ回帰する.
Séminaire XI p.49 (version Seuil) で Lacan が提示している「スピノザ風の公式」を改めて見てみましょう:
« cogitatio adaequata semper vitat eamdem rem. Une pensée adéquate en tant que pensée, au niveau où nous sommes, évite toujours – s'en écarte, fût-ce pour se retrouver après en tout – la même Chose. Le réel, c'est ce qui revient toujours à la même place – à la même place où le sujet en tant qu'il cogite, où le sujet en tant que res cogitans, ne le rencontre pas. »
Lacan は cogitatio と言っていますが,Spinoza なら cognitio と言うはずです.恐らく,Descartes の cogito が Lacan の念頭にあったので,言い間違えたのでしょう.さらに,命題の意味をより良く捉えるために,etiam [...でさえ]を挿入しておきましょう:
Cognitio etiam adaequata semper vitat eamdem rem.
この eadem res は,単に「同じ物」ではなく,Heidegger が das Selbe [本同的なもの]と呼ぶもの,すなわち,ex-sistence における das Seyn, das
「十全適合的な認識でさえ,eadem res [本同物]を常に避ける.我々が存在する次元において,思考としての思考は,十全適合的な思考でさえ,本同物を常に避ける – 本同物から逸れる – その後,完全に回復するとしても.実在は,常に同じ座に回帰するものである – 其こにおいて,思考するものとしての主体,res cogitans としての主体は実在に出会わないところの同じ座に」.
この事態を,我々はこう形式化することができるでしょう:
ここでもう一度,Le séminaire sur « La lettre volée » の冒頭 (Écrits, p.11) へ立ち返ってみましょう:
「l'automatisme de répétition [反復自動] (Wiederholungszwang [反復強迫]) は,その原理を,徴示素連鎖の insistance [固執]に有する.その概念そのもを,我々は,其こに無意識の主体を位置づけるべきところの ex-sistence[解脱実存](すなわち,la place excentrique[解脱中心的な座])と相関的なものとして取り出した.」
反復と insistance について,Lacan は,Le séminaire sur « La lettre volée » の序文 – 1957年に La Psychanalyse 誌に発表されたときには本文に先行していたが,Écrits のなかでは本文に後置されているテクスト – において,「破壊不可能な存続における無意識的欲望」の問題との関係において問うています.
反復強迫の原理としての徴示素連鎖の固執は,Urverdrängung [源初排斥]以来,破壊不可能的に存続する.それは明らかに,書かれることを止めないものとしての必然と関連します.
ということは,書かれることを止めない必然的な徴示素連鎖が位置するのは,常に同じ座に回帰するものとしての実在の座,ex-sistence の在処にである,ということになります.
ところで,実在は不可能在である,すなわち,書かれぬことを止めぬものである.
かくして,必然と不可能との関連は,こうです:書かれぬことを止めぬものとしての不可能在の座,実在の座,ex-sistence の在処において,書かれることを止めない必然的な徴示素連鎖は固執し,存続する.
徴示素連鎖の固執は,Urverdrängung [源初排斥]以来 ex-sistence の在処に秘匿されたままでいる限り,制止不能,かつ破壊不能です.そのような書かれることをやめない徴示素連鎖を,我々は精神分析治療において転移によって agent [能動者,代理人,代表者]の座に引きずり出し,解釈によって分離し,廃します.agent の座へ暴き出されることによって,徴示素連鎖の固執は,「書かれることを止めぬもの」 – 必然在 – から「書かれることを止めるもの」 – 可能在 – へ変化します.さもなければ,精神分析治療は作用し得ません.
前回,2月19日に読んだ Écrits p.27 の « la dette ineffaçable » [帳消し不可能な負債]については,稿を改めて解説しましょう.
東京ラカン塾精神分析セミネール「文字の問い」 第14回:
引き続き Lacan の Le séminaire sur « La lettre volée » を読解して行きます.
日時 : 2016年02月26日 19:30 - 21:00,
場所:文京シビックセンター(文京区役所の建物) 3 階 B 会議室.
参加費無料.事前の申請や登録は必要ありません.
テクストは各自持参してください.テクスト入手困難な方は,小笠原晋也へ御連絡ください : ogswrs@gmail.com