2014年9月16日

精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン



13 September 2014 : Jacques-Alain Miller の功績; 徴示素 a は剰余悦である; 欲望は実在である; ひとつの徴示素 a は,主体の存在の真理 φ を,もうひとつのほかの徴示素 $ に対して代表する; 精神分析の基礎は存在のトポロジーである.


今,我々が多かれ少なかれ Lacan を読解することができるようになったとすれば,それは Jacques-Alain Miller のおかげです.それは,彼が Lacan Séminaire を編纂しているからだけではありません.Jacques-Alain Miller 以前には,Lacan の教えをその全体において把握し得た者は,Lacan 自身以外にはいなかったのです.

わたしは1986-88年に Paris VIII に留学し,Jacques-Alain Miller に直に Lacan 読解のしかたを学びました.

わたしだけでなく,世界中の lacaniens Jacques-Alain Miller に恩義を感じている,と言ってもおおげさではありません.

わたしがしていることは,Jacques-Alain Miller による Lacan 読解の模倣にすぎません.わたしの作業は,Jacques-Alain Miller Lacan 読解作業の延長線上に位置しています.

しかし,Jacques-Alain Miller も,人間ですから,無謬ではあり得ません.彼の Séminaire のテクスト確立作業に対して批判があるのは事実です.Jacques-Alain Miller も,これは Miller 版の Lacan だ,と公言しています.

それだけではありません.Lacan の諸概念の一部の解釈に関して,Jacques-Alain Miller の言っていることは misleading です.

実際,わたしは,Jacques-Alain Miller の解釈に基づいて Lacan を読み解こうとして,幾つかの障碍を経験してきました.それらの障碍を克服するためには,改めて Lacan のテクストを読み込まなくてはなりませんでした.加えて,Heidegger と神学を経由することが大いに手助けになりました.

Jacques-Alain Miller の解釈のうち誤っていると思われるものを幾つか挙げてみましょう.

ひとつは,« un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant » 「ひとつの徴示素は,主体を,もうひとつのほかの徴示素に対して代表する」という命題の解釈です.Jacques-Alain Miller はこの命題を常に,支配者の言説の構造を表言するものと教えています:「S1 $ S2 に対して代表する」.

第二に,欲望 désir は,欲望のグラフにおけるイタリック体で記された d として,imaginaire なものである.

第三に,jouissance = réel. = 実在.この解釈に準拠しつつ,Jacques-Alain Miller はしばしば,A / J barré という学素を黒板に書いていました.A は,徴示素の場処としての他 A です.J jouissance です.

三番目のものから検討するなら,1971-72年の Séminaire XIX ...Ou pire, p.17 Lacan はこう言っています: « le signifiant, c'est la jouissance, et le phallus n'en est que le signifié ». 「徴示素は悦であり,ファロスはその被徴示にほかならない.」

この命題は,我々の学素 a / φ を文字どおりに表言しています.a は,四つの言説においては le plus-de-jouir 「剰余悦」です.φ は,書かれぬことをやめない徴示素ファロスです.

したがって,Lacan jouissance と言うとき,必ずではないとしても,多くの場合,それは症状の剰余悦のことであり,したがって,signifiant a で形式化されます.

もうひとつ例を挙げるなら,Ecrits に収録されている1964年の短いテクスト:『フロイトの“本能”と精神分析家の欲望とについて』にこうあります : « Le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose ». 「欲望は他 A に由来し,そして,悦は物の側にある」.

ここでは欲望と悦とが対置されています.

Lacan の欲望の概念は Freud の本能(欲動)の概念の取り上げ直しであり,悦の概念は Lust の概念を再検討することによって作られました.

「本能の満足は常に Lust に満ちている」と Freud は公式化しています.それに照合すれば,悦は,欲望の満足です.ただし,全的な満足ではなく,部分的な満足です.精神分析においてかかわる「本能」は常に「部分本能」ですから.

ところで,欲望の満足は客体において達成されます.さきほどの命題では Lacan は客体を「物」と呼んでいます.

欲望は manque à être 「存在欠如」,他 A の場処のなかの欠如,つまり,欠如せる徴示素ファロス φ です.

かくして,やはり a / φ の構造に準拠することによって,欲望は φ として signifié の座に位置づけられ,悦は徴示素の座の a です.

次に,欲望は imaginaire であるか?欲望のグラフでは確かに,欲望 d は幻想 ( $ a ) と対にされて imaginaire な項として措定されています.しかし,1958-59年の Séminaire VI 『欲望とその解釈』 p.424 にはこの命題が見出されます : « La chose freudienne, c'est le désir ». 「フロイト的な物,それは欲望である」.

先ほどの命題では「物」は客体 a でしたが,ここでは違います.「フロイト的な物」は,主体の存在の真理であり,四つの言説の構造において左下の真理の座に位置します.つまり,欲望は φ です.この解釈は,欲望は manque à être 存在欠如である,という命題と合致します.

かくして,欲望は,imaginaire ではなく,而して,不可能としての実在 le réel である,と言わねばなりません.

最後に,« un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant » については,1964年の書:『無意識の位置』において Lacan は,「それは formation de l'inconscient すべての構造である」と言っています.

formation de l'inconscient 「無意識の成形」とは,精神分析において解釈されるべき夢,しそこない,言いそこない,Witz, 症状などの現象のことです.

Freud が「夢は願望満就である」と言ったように,無意識の成形には悦が含まれています.より正確には,無意識の成形は剰余悦の成形であり,したがって,a / φ の構造を有しています.このことは,1967年に Lacan がパスの手続きを提起した論文においても確認されます.

「ひとつの徴示素は主体をもうひとつのほかの徴示素に対して代表する」は,支配者の言説のことを言っているのではなく,分析家の言説の構造を表言しています.ひとつの徴示素 a は,主体の存在の真理 φ を,もうひとつのほかの徴示素 $ に対して代表しているのです.

このことに気づくことによってやっと Lacan を一貫したしかたで読むことができるようになった,とわたしは感じました.それまでは,四つの言説の構造をどう理解すべきかは,大きな難題でした.

しかし,Lacan のことを最も良く理解しているはずの Jacques-Alain Miller がどうしてこのような誤解をしてしまったのでしょうか?

思うに,その根にあるのは,1964-65年の Séminaire XII Lacan が提起した命題 : « le a est de l'ordre du réel » a は,実在の位のものである」です.

Jacques-Alain Miller はその前年度の Séminaire XI から Lacan を聴講し始めました.彼は当時まだ20-21歳です.彼の頭にはこの「a は実在の位のものである」が刷り込まれたはずです.

しかも,彼は,Lacan の教え全体を見渡して,a の概念の変遷を chronologique なものと捉えました.まずは a は自我-他者として imaginaire であった.次いで,signifiant として symbolique であった.今や a réel である.

ところが,a の概念の多様性は chronologique なもの,diachronique なものではなく,構造論的なもの,synchronique なものと考えるべきです.a は,同時に,imaginaire であり,symbolique であり,réel なものです.このことは,RSI のボロメオ結びの中央部分,RSI 三者の交わりに a が置かれていることに表されています.

ところが,Jacques-Alain Miller は,imaginaire, symbolique, réel の順で a の概念は時間的に変遷したのだ,と捉えた.ですから,彼は,1972-73年の Encore の命題:「a semblant 仮象だ」の位置づけに困っていました.その命題は,「a は実在の位のものである」と矛盾しますから.

Jacques-Alain Miller は,Lacan の教えをその時間的な展開において区切って整理しようとします.そのような考え方は「最晩年の Lacan」という Miller の表現にも表れています.それはひとつの解釈です.わたしも大いに助けられました.

しかし,今,わたしはむしろ,Lacan の教え全体を chronologique な発展の観点においてではなく,ひとつの一貫した構造として捉えたいと思っています.その一貫した構造の基礎を成すのが,「存在のトポロジー」と Heidegger が呼ぶもの,つまり,φ という Ab-grund 「深淵」の場処,処有です.


14 September 2014 : 「性関係は無い」は,精神分析の alpha であり omega である; 欲望は存在欠如である ; φ ≡ Ⱥ ; S(Ⱥ) の穴に代入される仮象 a ; consistance と身体; 聖アガタの切り取られた乳房は,a の分離を象徴している; therapy S(Ⱥ) の穴により désirable な仮象 a を代入することに存し,精神分析は仮象 a を分離し滅却することに存する.


いただいた御質問のひとつに引用されていた Lacan の言葉をその文脈において読むために,Patrick Valas 氏の site に公表されている1978-79年の Séminaire La topologie et le temps のテクストを初めて見てみました.

そこにおいて Lacan が「一般ボロメオ結び」について語ろうとしていることを読解することは今のわたしにはできません.

しかし,ただひとつ確認し得たことがあります.それは,死の2年前の時点で Lacan がなおも強調し続けているのは「性関係は無い」であるということです.

我々の「抹消されたファロス」の学素 φ は,「性関係は無い」を形式化する学素です.

その学素が「抹消された存在」の学素でもあることの証明については,わたしの『ハイデガーとラカン』第一章の「ハイデガー・ラカン定理」の証明の節をお読みください.

Lacan が最晩年において「性関係は無い」を強調し続けたことは,φ が精神分析の最も中心的な主題-主体であることの証拠である,と言ってもよいでしょう.

φ Lacan は様々に呼びます : manque à être 存在欠如,sujet du désir 欲望の主体,または端的に,欲望,主体.さらに,Heidegger の表現を用いるなら,真理,存在の真理,主体の存在の真理.学素 φ は,それらすべてを形式化する学素です.

「欲望は存在欠如の metonymia である」という Lacan の命題に関しては,この「存在欠如の metonymia」の「の」は同格を表しています.manque à être = métonymie なのです.

なぜなら,φ は,そのものとしては,つまり,a / φ という métaphore の構造のなかに保匿される以前には,際限無く横滑りして行く制止不可能・把握不可能な動きとしての métonymie そのものであるからです.

「欲望は存在欠如の metonymia である」と「欲望は存在欠如である」は等価です.

「欲望は,他 A の欲望である」という Lacan の命題は,φ Ⱥ という等価性の公式により形式化されます.

「穴」や「切れめ」と呼ばれているものは,厳密には「他 A のなかの欠如の徴示素」 S(Ⱥ) の学素により形式化されます.

a は,S(Ⱥ) の穴に代入されるものを表す学素である,と言ってもよいでしょう.

欲望 φ Ⱥ とは,ex-sistence として,le réel です.

RSI において Lacan le symbolique を「穴」と定義します.S(Ⱥ) の穴です.

a / φ の学素は a / Ⱥ の学素と等価であり,さらに,a が純粋徴示素である限りにおいて,この構造は S(Ⱥ) / Ⱥ と書記することもできます.

RSI Séminaire において Lacan l'imaginaire consistance と定義しています.

consistance は,なんらかのまとまりをもったものです.たとえば,身体の image はひとつのまとまりをもっています.

先日,911日のフジタゼミの予告編として,わたしは藤田博史先生の Facebook timeline Zurbaran による聖アガタの肖像画を提示しました.聖アガタは西暦三世紀なかばに殉教したキリスト教の聖人です.拷問者は彼女の両乳房をむしり取ったという伝説にもとづき,聖アガタは切り取られた自分の両乳房を盆に載せて捧げ持っています.






Lacan Séminaire X において言及しているこの絵をわたしが思い出したのは,藤田先生から聞いたこの話のゆえにです.藤田先生は美容外科医として豊胸手術をすることがあるのですが,精神療法でも SSRI でも良くならない eating disorder の女性がたまたま豊胸手術を受けたところ,eating disorder の行動が劇的に改善したそうです.藤田先生は複数の症例において同じ関連性を見出しました.

乳房は,Lacan が列挙する四つの客体 a の形象のひとつです.

豊胸手術によって何が起きたか?存在論的構造 a / φ において,a が加工されたのです.

eating disorder の女性たちは,自分の現在の身体 image を受容することができません.彼女たちにとって,自分の身体 image は望ましいものではないのです.

豊胸手術は,豊満な乳房を彼女たちに与えることによって,彼女たちの身体 image désirable なものに変え得ます.そして,それが,彼女たちの存在論的構造を安定化させる効果を持ち得ます.

これは,therapy と呼ばれているものの mécanisme 一般を示しています.therapy は,S(Ⱥ) の穴に,何らかの意味でより désirable な仮象 a を代入することに存します.

それに対して,精神分析は,仮象 a を分離し,滅却することに存します.

それによって開口した S(Ⱥ) の穴において,なんらかの創造が成起します.creatio ex nihilo resurrectio ex mortuis, 「無からの創造」と「死者のうちからの復活」とには本質的な関連があります.

1974-75年の RSI Séminaire の時点で Lacan consistance と呼ぶものと身体と呼ぶものとの間には密接な関連があるのではないかと思われます.そして,その séminaire において jouissance de l'Autre と呼ばれているものも.


15 September 2014 : 三位一体は神の現象学である; イェスは我々各自にとって実存的手本である; 精神分析家であることの存在論的規定と機能的規定.

今日はまず,キリスト教に関する御質問を考えて行きましょう.Freud は『モーゼと一神教』(GW p.194, SE p.88) においてキリスト教を批判しています.特に,三位一体の教義によってキリスト教は厳密には一神教でなくなった,と Freud は言っています.しかし,ということは,Freud は三位一体の本質を把握し得ていないのです.

三位一体の本質は,神の現象学です.

聖書において三位一体が最も明確に描かれているのは,イェスの洗礼の場面(たとえば,マタイ福音書 3,16-17)です.イェスが水から出ると(水は死の象徴です:死からの復活としての洗礼),天が開き(つまり,ex-sistence の深淵の口が開く),聖なる霊気(聖霊)がハトのように降りてきます.そして,天からの声が宣言します:「これは我が愛し子なり」.

父なる神は,存在の真理の座に ex-sistence φ として隠れています.イェスは,父なる神を代理する a です.聖なる霊気は,この代理構造を保証するものです.

三位一体の構造は,神の存在の真理の現象学的構造 a / φ にほかなりません.

ユダヤ教やイスラム教においては,ex-sistence としての神を代表・代理するのは律法だけです.その場合,律法中心主義 légalisme に陥る危険性があります.いわゆる原理主義は,légalisme の一形態です.プロテスタントの一部も légalisme に陥っています.

それに対して,キリスト教では,特にカトリックでは,律法ではなく,イェスが中心です.その実存におけるイェスが中心です.

ユダヤ教やイスラム教においては,律法を遵守することが信仰の中心を成します.

それに対して,キリスト教,特にカトリックにおいては,実存様態においてイェスにならうことが信仰の本質を成します.つまり,現場存在 Dasein において神の現象学を実現すること.イェスは身を以て,父なる神を ex-sister させます.我々は各自,イェスと同じく,神の現象学に現場存在を提供せねばなりません.イェスは,実存的な手本を我々に示しているのです.

そんな手本は無くても,律法だけで十分だ,とユダヤ教やイスラム教の人々は言うでしょう.勿論,悪い意味での légalisme に陥ること無く信仰を生きているユダヤ教やイスラム教の人々もいます.

しかし,悪しき légalisme に由来する原理主義の弊害が目立っているのもユダヤ教とイスラム教,そして,一部のプロテスタントにおいてです.

学素 mathèmes の解釈に関して御意見をいただきました.学素は形式的な記号ですから,それを如何に定義するかはシステム次第です.Lacan 自身,たとえば $ の定義については一貫していません.1962年の書 Kant avec Sade に出てくる図における $ と,1964年の書 Position de l'inconscient に述べられている命題において定義されている $ とは,同じものではありません.

Phallus の学素 φ Φ の解釈についても,我々は慎重でなければなりません.

わたしは,Lacan 1969-70年に提唱した四つの言説の構造に準拠して,学素も定義します.ほかの論者は,ほかのように定義するかもしれません.それは,各人の判断次第です.

therapy に関して.質問者のひとりの方の御指摘のとおり,昨日わたしが therapy と呼んだものは,もし効果的であっても,対処療法でしかありません.

しかし,或る種の状況においては,たとえば,切迫した自殺の危険性に緊急に対応せねばならないときには,それもやむをえません.そのような場合,対処療法的対応により一旦事態を落ち着けた後で,じっくり分析治療に導入することになります.Lacan Françoise Giroud に対してそのように介入したことが,Giroud 自身の証言によって知られています.

さて,或る者が精神分析家であるか否かを判断する基準は,ふたつあります.ひとつはパスです.パスは,存在論的な意味で精神分析家であることを証明する手続きです.

もっとも,パスは手続きとしては無用だ,という意見もあります.なぜなら,或る意味で,真理は証明される必要は無いからです.

Lacan Ecole freudienne de Paris を設立したとき,それ以前から Lacan と分析をしていた多くの分析者が EFP に加わりました.彼らにとって Ecole が精神分析家の資格認定を行うことは当然の前提でした.そのために EFP に加わったのです.ですから,Lacan も分析家の資格認定の要請に答えねばなりませんでした.

果たしてパスのような制度を作ることが Lacan の本心に適うことであったか否か?容易に答えられる問いではありません.

精神分析家のもうひとつの定義は,分析家の言説の構造において分析家として機能し得る,というものです.それを証明するものは,その者が新たに精神分析家を養成し得た,という事実です.新たに精神分析家が誕生すれば,確かに精神分析が行われていたと言えます.

ということは,新たな精神分析家を誕生させたことのない精神分析家は,本当に精神分析家として機能しているのか否か,わからないということです.そのような分析家は自称「分析家」です.そして,わたし自身,そのような自称「分析家」のひとりにすぎません.




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