2014年9月26日

精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン, 17 September 2014



17 September 2014 : 総召集体制の二本の柱,科学の言説と資本の言説; 死からの復活の成起としての自有; 貧しさの分かち合いとしての communisme ; 美と不安; Antigone Hérodiade.

昨日 Gestell について説明しながら初めて気づきました.Heidegger Gestell 「総召集体制」を科学技術の本有として論じているのですが,しかるに,この Gestell は,Freud が死の本能,破壊本能と呼ぶものにほかなりません.

Gestell はあらゆる存在事象からその差異的徴示素を奪い取り,資本主義的生産のための材料という身分だけを残します.存在事象は,存在事象としての尊厳をないがしろにされてしまいます.

それは,現象としての nihilisme です.

Gestell によって最終的にすべてが破壊されたとき,nihilisme の本有としての存在 φ がそのものとしてあらわになります.

そこから復活が成起します.それは,Heidegger が「他なる源初」 der andere Anfang と呼ぶものです.

Heidegger Ereignis 「自有」と呼ぶのは,死からの復活の成起です.

科学の言説と資本の言説における死の本能の破壊的過程が極限に達し,あらゆる差異的徴示素が支配者の座から罷免されたとき,死からの復活としての自有が成起し,Marx communisme と名づけた新たな politeia が始まります.

その communisme は,歴史上「共産主義」と呼ばれたものではありません.真の communisme が具体的にどのようなものであり得るのか,今,わたしには確かなことは言えません.しかし,それは限りなく「神の御国」に近いものだと空想したくなります.

と同時に,新たな communisme は,真の貧しさの分かち合いであるはずです.

資本主義社会においては,人々は豊かさを追求してきました.存在論的穴の恐怖から目をそむけるために,穴塞ぎに役立つ物を強迫的に作り出してきました.資本の言説における超自我の定言命令:「増やせ!」に駆られて,人々は強迫的に生産してきました.その結果,地球環境は疲弊し,汚染されてしまいました.

新たな communisme においては,人々は「増やせ!」という超自我の命令から自由になっています.存在論的穴を塞ぐことはせず,その穴を目の当たりにする恐怖を辛抱することができています.真の貧しさを共に生きることができています.新たな communisme は,貧しさの不安の分かち合いから成るはずです.

わたしが「緑の党」のサポーターになっているのは,Greens の運動が民主主義を止揚し,新たな communisme の実現へ至ってほしいと願うからです.今のところ,そうなるかどうかわかりませんが.

Heidegger が科学技術の本有を Gestell と名づけて,現代社会の黙示録的な終末を預言したのに対して,精神分析は,我々ひとりひとりが死を先取り的に引き受け(死の主体化),そして,それによって死からの復活に与ることを目ざします.

Heidegger Zizek が相手にするのは,講義や講演の聴衆,ないし,いわゆるマスメディアを介してメッセージが伝達される大衆ですが,精神分析は,あくまで,我々ひとりひとりにかかわります.精神分析は,ひとりの人間に確実に主体のくつがえしが成起することを目ざします.

ひとりひとりに起こることが多数の者に起きて行くなら,究極的に,それは社会的,政治的効果を持つことになります.ですから,精神分析が政治的視点を持っていることは,個々の精神分析治療の指針にとって無関係なことではありません.

さて,話題を変えて,美と不安との関連について大変示唆に富む御指摘をいただきました.ひとことで言えば,「美女の不安」です.

美女という対象に対する不安ではなく,美女自身が感ずる実存的不安です.たとえば,舞台上で美しく化粧し,美しく着飾った女優が感ずるであろう不安.

その不安を覆い隠すのではなく,さりとて,不安に打ち負かされて panic に陥るのでもなく,不安を或る様式のなかに収め,保匿し,そのような形の不安を観衆にも共有させること.多分,感動的な演戯はそのようなものでしょう.

美と不安との関連について,Lacan は,Antigone を引き合いに出しつつ,こう言っています:美の機能,それは,根本的な恐怖への接近を禁止する窮極の障壁である.

これは,1959-60年の『精神分析の倫理』における Sophocles の戯曲 Antigone の分析にもとづいて1962年に書かれた Kant avec Sade のなかの一節の言葉です.

Antigone は美しい.それは,彼女が,支配者が押しつける決まりに違反して,神の律法に従順に,彼女の兄の亡骸を葬るからです.

「根本的な恐怖」は,存在論的穴が惹起するだろう恐怖,不安です.

存在論的,実存的不安を覆う「限りなく透明に近い」薄い薄いヴェール,それが美です.

Antigone とともに,Mallarmé Hérodiade を思い起こしてもよいかもしれません.Mallarmé が取り上げたのは,聖書でサロメと呼ばれている少女です.彼はどういうわけか,サロメという名よりエロディアドという名を好みました.Eros を喚起するからでしょうか?

ともあれ,Hérodiade において Mallarmé は,存在論的不安の結晶のような美少女を描いています.美少女といっても「萌え」系では全然ありません.彼女自身は明白に不安におののいてはいません.しかし,彼女のかもしだす緊張感は,結晶化した不安そのものです.

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