2014年9月6日

「精神分析トゥィーティング・セミナー: フロイト・ハイデガー・ラカン」 9月4日,5日



04 September 2014 : 神の愛と死の本能; Eros Thanatos ; 性関係は無い; 非神秘主義者フロイト; 三島由紀夫と音楽; 『憂国』と Liebestod.

昨日,「なぜ存在の真理は己れを顕そうとするのか?」という問いに対して,「それは神の愛のゆえだ」と答えました.そのくだりを blog のためにコピーしながら,神の愛と死の本能との関連に気づきました.そこで,昨日の twitter の表題において「神の愛と死の本能」という表現を先取りしました.

Freud が死の本能と呼んだものは,我々の学素では φ です.Lacan の概念では,欲望です.

キリスト教においては,神は愛であり,神は人間を愛しています.そして,神を愛するよう人間に命じています.それは,人間を救済するためです.つまり,人間が死を通って永遠の命へと復活するためです.

Freud Eros (Libido) と死の本能(破壊本能)とを二元論的対立において捉えましたが,そのことは,Freud には本能の本質が見えていなかったことを証しています.

Eros () と死の本能とは,同じひとつのものです.Eros の満足も死の本能の満足も,φ における A と主体との communion の実現に存します.

こう述べることによって,学素 φ の本来の定義へ立ち戻ることになります.つまり,φ は「性関係は無い」の学素です.

A と主体との communion (交わり) は,不可能な性関係です.不可能とは「書かれぬことを止めぬ」ものです.φ抹消されたファロス は,書かれぬことを止めない性関係の signifiant です.

Freud は,死の本能に破壊的なものをしか見ることができませんでした.そのことと,Freud が去勢複合を克服不可能な行き詰まりと見なしたことと 両者は相関的であることが,今やわかります.いずれの場合も,Freud は不可能の手前にとどまったのです.不可能を実在として,ex-sistence として引き受けること,死を覚悟すること,死を通って永遠の命へと復活すること そこへ至る道は,Freud には閉ざされているようにしか見えなかったのです.

Freud Romain Rolland への書簡のなかで,宗教的な感覚の欠如を告白しています.この場合,宗教的な感覚とは,神秘体験の感覚と言い換えてもよいかもしれません.Freud はもうひとつ,音楽を楽しむ感覚の欠如をもどこかで告白しています.両者は関連していると思われます.

Romain Rolland は宗教的感覚を「水の中に浮遊している感覚」と呼んでいますが,目を閉じて音楽に本当に没入するときに味わう感覚は,まさに水中浮遊の感覚です.

音楽好きの者は,それを快と感じます.ところが,それを不安に感ずる人もいます.三島由紀夫がまさにそうでした.彼は随筆のどこかでそのことを告白しています.BGM のようなものは別にして,真剣に音楽を聴こうとすると,彼は何とも落ち着かない気分になってしまったそうです.

そのことを知っていると,三島の『憂国』の映画の切腹の場面で Tristan und Isolde Liebestod が延々と流れているのがいっそう有意義に聞こえてきます.

三島は切腹ごっこが好きだったそうです.彼の同性愛相手のひとりが証言しています.しかし,『憂国』においては,三島は「ごっこ」を通り越して,真剣に死を引き受け,死を覚悟するに至りました.そのとき,彼にとっては,最も強く不安を惹起する Wagner こそがふさわしかったのでしょう.


05 September 2014 : 『ラカンの暗黒伝説』; 精神分析抜きの「ラカン理論」,「ラカン思想」は無い; ハイデガーとナチズムとニヒリズム; 精神分析にとっての存在のトポロジーの根本的意義.

Lacan の詳しい伝記としては,今までは Roudinesco のものしかありませんでした.Roudinesco は精神分析の歴史を専門に研究していると自称し,今月11日には Freud の新たな伝記のようなものを出版します.

精神分析の歴史についての彼女の著作は,逸話の寄せ集めでしかありません.それはそれで興味深い場合もありますが,それによって精神分析の本質が捉えられるわけではありません.

Roudinesco Lacan に関する記述は,彼女の Lacan に対する陰性転移のせいで,歪んだものになっている,というのが,Ecole de la Cause freudienne, つまり,Jacques-Alain Miller に近い立場の者たちの間での評価です

ECF のメンバーのひとりによる Lacan の新たな伝記がもうすぐ出版されます.多分,来週中には入手できるでしょう.表題は『ラカンの暗黒伝説』ですが,要するに,Roudinesco による誹謗中傷に対する反論の書であるようです.

Lacan は精神分析について思考し,精神分析について教えました.それは,精神分析の本質を明らかにし,それにそって精神分析の実践が行われるようにするためでした.つまり,精神分析が単なる心理学や人間科学のひとつに堕したりすることのないようにするためでした.

Lacan の新しい伝記が出るので,日本語の Wikipedia で「ラカン」の項目がどう書かれているかを見てみました.Lacan の教えの諸項目について記述が不十分であることはいたしかたないでしょう.しかし,伝記について全く事実と異なることがいまだにまかり通っているのには驚きました.それは,Lacan Ecole normale supérieure で哲学を学んだ,という記述です.

わたしの記憶が正しければ,この誤った記述は『エクリ』の著者紹介欄に見出されます.誰がそれを書いたのかは不明です.

『エクリ』の第一分冊が弘文堂から出たのは1972年です.今から42年前です.どうしてそのような誤りが訂正されないままになっているのか理由は不明ですが,それは,日本における Lacan の理解の程度を示すひとつの指標にはなっているでしょう.

話がそれてしまいました.

Lacan 理論というようなものはありません.Lacan の思想というようなものもありません.Lacan が精神分析について思考し,我々に教えたことがあるだけです.精神分析抜きの Lacan 理論なり Lacan 思想というようなものは無いのです.Lacan の主体の概念,Lacan の言語理論というようなものを精神分析から切り離して論ずることは nonsense です.Lacan は精神分析の主体について問い,精神分析におけることばと言語の機能と場を論じたのです.

Lacan がさまざまな分野の概念を利用し,さまざまな文学作品や芸術作品に言及するのは,あくまで精神分析に関して問い,思考するためであって,自分の専門外の領域に外から口出しするためではありません.

それに対して,大学人がよくやるのは,自分の専門分野の概念なり理論なりを用いて,自分の専門外の対象や一般的社会現象などについてわかったようなことを言うこと,つまり,評論です.

Pierre Bourdieu L'ontologie politique de Martin Heidegger という著作があることを教えていただきました.Bourdieu はまったく読んだことがなかったので,安い中古本を手に入れました.まだ全体を通して読んではいませんが,最後から2ページめのこの文が目にとまりました :

la pensée de Heidegger est un équivalent structural dans l'ordre philosophique de la révolution conservatrice, dont le nazisme représente une autre manifestation. 「ハイデガーの思想は,保守革命〈ナチズムは,其のもうひとつほかの顕現を表している〉の哲学領域におけるひとつの構造論的等価物である.」

保守革命は,戦間期のドイツのひとつの思想潮流で,一部の歴史家に言わせると,ナチズムの思想的源だそうです.Heidegger の思想も,その保守革命の哲学における等価物だ,と Bourdieu は論じています.

Bourdieu は社会学者です.なぜ彼が Heidegger nazisme について論ずる気になったのかは不明です.

いったい彼は,Heidegger が何について問い,思考していたのか,本気になって考えてみたのでしょうか?そして,nazisme の本質については?

もし本当にそうしていたのなら,Bourdieu の主張,つまり,Heidegger の思想と nazisme とは共通の根を有している,という指摘は正しいと言っても良いかもしれません.その共通の根とは nihilisme です.

Nazisme nihilisme の産物です.そして,それは我々が今生きている社会にも当てはまります.Nazi はユダヤ人から人間的尊厳を奪い,虫けらのように抹殺しました.資本の言説と市場経済に支配された今の社会において,人間は「人材」つまり「人的資源」として同様に扱われ,使い捨てにされています.

先日,或るオーストラリア人夫婦がタイ人の代理母に子を産ませながら,先天障碍を理由にその子の引き取りを拒否した,というケースがマスコミで報道されていました.彼らは,子を,尊厳あるひとりの人間としてではなく,自分たちの幸福のための道具,材料としてしか見ていないのです.

Nazisme も今の社会も,nihilisme という観点からは同様です.

Heidegger は,nihilisme の本質に関して問い,思考しました.それは,nihilisme Nietzsche のように意志 力への意志 によって覆い隠してごまかすのではなく,nihilisme を根本的に超克するためです.

Nazisme は,意志によって nihilisme を克服したかのようにふるまうために Nietzsche を利用しました.Heidegger は,その欺瞞に気づいていました.だからこそ彼は,Nazi 体制下でNietzsche に取り組む一連の講義を続けたのです.

そして Heidegger は,nihilisme の本質は存在そのものに存することを見極めました.存在das Sein, φ こそが,nihilisme の本質にほかなりません.

Heidegger の思考は,存在に関して問うことに存します.

社会学者 Bourdieu にとって Heidegger nazisme とが同じ根を持っているように見えたとすれば,その理由は存在そのものにあると言えるでしょう.

Lacan は,Heidegger の存在のトポロジーが精神分析にとって決定的に重要な意義を有していることに気づきました.存在が,去勢不安と本質的な関連を有していることを察知しました.精神分析の終わりにおいて去勢複合が成す行き詰まりを突き抜けることと,nihilisme の超克とが本質的に同じことである,と Lacan は見抜いていました.

それは,Lacan が評論家ではなく,精神分析という実践にかかわっていたからです.

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