2014年9月26日

精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン,18 September 2014



18 September 2014 : 精神分析における寝椅子の機能; 変動時間面接; 本当の自己; 二階堂奥歯氏のこと.

或る人が Facebook Freud の寝椅子の写真を投稿していました.

寝椅子は精神分析治療の象徴です.精神分析が戯画化されるとき,大抵,患者は寝椅子に横になり,分析家はその背後に座って,メモをとったりしています.

Freud は,無意識の想起のためにいわゆる自由連想法を始める前,催眠術を用いていました.その際,患者は寝椅子に横になります.Freud は催眠術をかけるのがあまり得意ではなく,また,催眠術がうまく行かない患者もいたので,Freud は催眠術をやめました.しかし,寝椅子は使い続けました.

Freud は,患者の視線にさらされ続けると疲れてしまうから,というような理由を挙げています.しかし,寝椅子を使う理由はそんなことではありません.

精神分析治療の開始時からいきなり寝椅子を使いはしません.とりわけ予備面接の間は,面接は face to face の対面で行われます.分析家は,姿形を持つ仮象 a として現在します.予備面接の間に,転移が形成されて行きます.予備面接の期間は,分析家の現在を徴示素 a とする症状の形成の期間でもあります.

症状が十分に形成されてからも,必ずしも寝椅子は使われません.そのまま対面の面接が続くことも少なくありません.

寝椅子が必ず用いられるのは,分離の phase においてです.分析者が寝椅子に横たわり,その背後に分析家は姿を隠します.面接中,分析者にとっては,分析家の現在は声とまなざしの現在となり,影象的な要素は限りなく zéro へ減ぜられます.それによって,存在論的穴が演出されます.それが,精神分析において寝椅子が使われる必然性です.

Facebook Freud の寝椅子が紹介されたので,ついでに Lacan の寝椅子の写真をわたしも投稿しました.

Paris 5, rue de Lille にある彼の appartement を,昔,Madame Judith Miller の案内で見学したことがあります.面接室は,一番奥まったところにあります.さして広い部屋ではありません.デスクと寝椅子と.寝椅子は,背もたれの無い普通の寝台です.それをまねて,わたしも普通の寝台を使っています.ただ,一応,クッションを背もたれ代わりにしていますが.

寝椅子に横たわっていると分析者は眠ってしまうのではないかと思われるかもしれません.40-50分間の一定時間面接の場合,確かにそれは起こります.非ラカン派の分析家たちは,その間,時間が過ぎるのを漫然と待つのでしょう.そして,時間がくれば,分析者を叩き起こすのでしょう.

Lacan の変動時間面接においては,そのような事態は起こり得ません.いつなんどき分析家が介入してくるかわかりませんから,分析者は緊張し,とても寝てはいられません.もし万一分析者が寝入ってしまえば,その時点で面接は区切られます.

分析治療において,時間にかかわる操作は本質的です.分析において,時間が時計に支配されていてはなりません.

この Tweeting Seminar を読んでいる人が,知り合いの psychologist に分離の概念を説明したところ,「自己愛の滅却は究極的な自己愛に転落する可能性がある」と言われたそうです.その言葉には,おそらく,否定的なニュアンスがこめられているのでしょう.

精神分析において,分析者は,自分が真理を言っているとは知らないままに真理を言います.その psychologist も,自分が何を言っているのか知らないままに,真理を言っています.

「自己愛の滅却は究極的な自己愛に転落する可能性がある」において,最初の「自己愛」は narcissisme です.ふたつめの「自己愛」については,「究極的な自己」で句切りを打ちましょう.

「究極的な自己」とは何か?それは,Heidiegger das Selbst と呼んだもの,つまり,存在 φ です.

「転落」も有意義な語です.分離において,仮象 a は,支配者の座から罷免され,転落,脱落します.

仮象としての a の脱落において,究極的な自己 φ は,純粋徴示素としての a による代理において,己れを示すことになります.

それは,ἀγάπη と呼ばれる実在的な愛の成起です.ただし,実在とは不可能在です.ἀγάπη において性関係が可能在として書かれるようになるわけではありません.

いただいたメッセージのなかで二階堂奥歯氏のことが言及されていました.暫く前,彼女の『八本脚の蝶』に触れようとして,中途半端なままになっていました.そもそも,八本脚の蝶とは何でしょうか?

皆さんよく御存じのように,昆虫は六本脚です.八本脚ということは,脚が一対余計なのです.

Un en plus. 余分な一.それを以て Lacan hysterica の存在様態を差し徴しました.

しかし,hysterica だから神経症レベルだと決めつけることはできません.転帰がそのような安易な診断を否定しています.

彼女の言葉が不安を惹起するほどに感動的であるのは,それが祈りだからです.彼女が神と名づけることを拒否した神,神の彼方の神へ向けられた祈り.

彼女は,自分の外面にこだわっているように見えます.とりわけ,化粧や肌の手入れについて.それは一見,若い女性においては当然のことに見えます.

しかし,彼女の自殺を予め知って読むとき,être mal dans sa peau というフランス語の表現が頭に浮かんできます.peau は「皮膚」です.直訳すれば,「自分の皮膚のなかで調子が悪い」.つまり,Freud の言う das Unbehagen 「いごこち悪さ」です.

二階堂奥歯氏の一見女性らしい肌へのこだわりは,自分の皮膚のなかでの存在論的不調和に動機づけられていたわけです.そのことは,grotesque な内蔵の images への言及においても確認されます.

わたしが最も胸を引き裂かれる思いを感じた言葉は,20021217日の記事のなかの彼女の祈りです:「私は愛しています... でも,あなたが誰なのか,私にはわからないのです...」.これは,神の彼方の神へ向けられた純粋な祈りです.「私のすべての存在を,あなたに捧げます」.

彼女は,un en plus 「余分な一」としての自分の存在を捨て去り,恐怖を克服して,神の愛に最も忠実な純粋存在へ己れを純化しました.

彼女は,時代が時代なら,みづから進んで殉教者となったでしょう.神の愛の悲劇的な証人であるために.

0 件のコメント:

コメントを投稿