10 September 2014 : 主体のくつがえし; Heidegger や Lacan を読むときは,引用ではなく,原文を読まねばならない; 無からの創造と死者のうちからの復活; 悦は,実在のものではなく,仮象のものである; 主体化と自有.
Zizek の著作 Less Than Nothing は,千ページを越える大著です.彼はしゃべるときは機関銃のような勢いでしゃべりますから,書くときも同じ調子で言葉を吐き出しまくるのでしょう.
わたしが1986-88年に Paris にいたとき,Zizek もそうでした.彼とは,Jacques-Alain Miller の講義や
séminaire でよく会いました.もっとも,直接会話したのはごく僅かでしたが.彼はとても sympathique です.直接会って彼を嫌いになる人はいないでしょう.
彼のあの強烈な顔立ちと猛烈な話し方は,彼に演技力と表現力を与えています.聞く者は,彼に魅せられてしまいます.それは,いってみれば,彼の武器です.それによって彼は,聞く者をゆさぶり,常識をくつがえしてしまいます.
Heidegger の講義は,ちょうど同じような効果を聴講者に与えました.Heidegger の外見は Zizek ほどの強烈さを持ってはいませんが,彼の話は聴衆をくつがえす効果を持っていたそうです.
精神分析家が精神分析において分析者に与えるくつがえしの効果を,哲人は彼の言説によって実現し得ます.おそらくそれは,Socrates 以来,真の哲人の特性でしょう.わたしにはとてもまねできないことです.
さて,昨日言及した Zizek の Lacan 引用は,Less
Than Nothing の最終章,結論:「倫理的なものの政治的宙吊り」で為されています.結論の章だけ London 大学の社会人向けの部門の site から
download できることを教えていただきました.Zizek はそこで教えています.
結論の章だけでも全部はとても読めないので,Lacan への言及のあるところだけつまみ読みしました.
或る箇所で
Zizek は Freud のふたつの症例,Hans 少年とネズミ男とを混同しています.それは大したことではありません.
より重大なのは,Zizek は Lacan のテクストをみづから読み込んでおらず,もっぱら Jacques-Alain Miller の解説に頼っている,ということです.しかも,Less
Than Nothing において Zizek は,lacanien でも何でもない或る大学人の著作 Le réel insensé :
Introduction à la pensée de Jacques-Alain Miller を引用してさえいます.直接 Lacan を読む手間を省くために二重の仲立ちに頼っているのです.
これはいただけません.Zizek に会うことがあれば,ひとこと文句を言いましょう.
いや,その必要もないかもしれません.先日 Zizek は剽窃の疑いをかけられ,弁明しなくてはなりませんでした.なぜそんなことが起きたのかというと,忙しい Zizek は自分で或る本を読む時間が無くて,友人にその本の要約を依頼しました.その友人は,或る雑誌に出ていたその本の書評をほとんどまるまる書き写しました.Zizek は,そのことを知らないまま,彼の文章を,彼の了解のもとに,自分の著作にそのまま書き写しました.その結果,雑誌書評を剽窃したと非難されることになりました.手間を惜しんだので,そんなはめに陥ったのです.
Less Than Nothing においても,Zizek
は自分で Lacan を読む手間を省いている.これでは本当の Lacan を読み取ることはできません.
ともあれ,しかし,Zizek の本に書かれてあることを読んで,わたしは,既にうすうす感づいていた Jacques-Alain Miller の Lacan
読解のひとつの問題点を,より明確に把握することができました.
それは,Jacques-Alain
Miller は Lacan が言及している「聖人」の意義を全く捉えていない,ということです.
Jacques-Alain Miller によれば,Joyce
に関する Séminaire の時期の Lacan が用いた「症状」 — それを Lacan は sinthome とも symptôme とも書きますが —,症状は,精神分析の過程において解釈不可能なものとして残った残渣である.
この説は,わたしも Jacques-Alain Miller の講義や講演で何度も聞いています.Lacan 自身,reste, 残りもの,残渣という表現を用いています.
しかし,では何故 Lacan はわざわざ Joyce を取り上げたのか?芸術作品を創造する者としての Joyce を?
Lacan は,芸術的創造を論ずるとき,「無からの創造」 creatio ex nihilo という神学的概念を持ち出します.強調されるべきは,この ex nihilo です.これは,復活に関する決まり文句:「死者のうちからの復活」 resurrectio ex mortuis を想起させます.創造は無から,復活は死から.
Joyce が作家であり,かつ,sinthome, つまり聖人である,ということは,無からの創造と死からの復活が同じ構造のものであることを踏まえて,初めて理解され得ます.
されば,sinthome
としての症状は,単なる残渣ではありません.
「分析は,終わりまで突き詰められる必要は無く,分析不可能なものをカスとして残しておいて良い.それが Lacan が sinthome と呼んだものだ」という理解は間違っています.
分析の終わりは,Lacan が séparation 分離と呼ぶ死の場処,無の場処に至るまで突き詰められねばなりません.そしてそのとき初めて,無からの創造,死からの復活としての sinthome が成起するのです.
晩年の
Lacan はそれ以前の Lacan の radicalité を失った,という Zizek の説 — その説は,Nicolas Fleury を介した Jacques-Alain Miller の説なわけですが —,その説は間違っています.
Lacan の思考は,1932年の超自我精神病から晩年のボロメオ結びまで一貫しています.Lacan が最後は日和ったという意味のことを Jacques-Alain Miller が言っているとすれば,もうろくしたのは Miller の方でしょう.
Zizek の文章をつまみ読みして改めて思いましたが,Jacques-Alain
Miller の jouissance の概念の理解も間違っています.彼は jouissance = réel と常々言っていますが,違います.
jouissance は,plus-de-jouir としての le petit a です.つまり,仮象のものです.
そう理解すれば,Lacan が Schreber について用いた jouissance imaginaire という表現も矛盾無く理解できます.
先日も言ったように,症状の構造は悦の構造です.つまり,a / φ です.
Zizek は Lacan が「真理をすべて知る必要はない」と言ったことを Lacan の日和見として引用していますが,これは,Télévision の「我れは真理を言う.ただし,すべてではない」の文脈において読むべきです・
Alenka Zupancic の言葉に関するわたしの批判について御質問をいただいています.彼女の思考は心理学的です.つまり,自我主体を中心にものごとを考えています.
精神分析においては,他 A を中心に考えねばなりません.より正確に言えば,Ⱥ を中心に考えねばなりません.言い換えれば,存在 φ の深淵を中心にします.
我々が死の本能をわがものとするのではありません.
確かに
Lacan は 1950年代に subjectivation de la mort 「死を主体化する」という表現を使っています.
しかし,それは Heidegger も同様でした.Heidegger は『存在と時間』における思考から Ereignis 「自有」の思考へと転回しました.
我々が死を主体化するのではなく,Ⱥ が我々を自有する (ereignen) するのです.それが決定的な違いです.
質問者の方がおっしゃっているように,存在 φ が我々に向けてくる請求に気づき,それに応じ,それに従順となること,それが自有です.
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