26 September 2014 : 聖書を読解するときも症状を解読するときも,心理学的了解は退けられねばならない; imaginaire な意味の了解は,解釈の行き詰まりを成す; 幸福は,客体 a の分離と喪失に存する.
重要な著者の重要なテクストを読むときには,可能な限り原文を原語で読むべきだ,と強調してきました.
聖書も例外ではありません.昨日紹介した「八つの幸福」(Mt 5,3-10) の一節を見ても,そのことがわかります.
たとえば,既成の邦訳における「心の貧しい人々」という表現から出発したのでは,第一の幸福の規定においてイェスが何を言おうとしているのかを把握することは困難です.「心が貧しい」からは,荒涼とした,荒廃した心理学的状態を思い浮かべてしまうかもしれませんが,それは全然違います.
精神分析において心理学的了解が過誤であるのと同様,聖書を読む際にも心理学は misleading です.聖書の読解は,無意識の成形としての夢や症状を解釈するのと同様です.なぜなら,いずれも a / φ の構造がかかわっているからです.
「八つの幸福」のうちの第一の幸福にもどると,原文を参照して初めて,「心」ではなく,πνεῦμα がかかわっていることがわかります.通常「聖霊」 と訳されている ἅγιον πνεῦμα の πνεῦμα
です.
キリスト教の最も重要な key word のひとつである πνεῦμα という単語の翻訳が一貫しておらず,「心」と翻訳されてしまったりするのは何故か?それはまさに,翻訳者が聖書を心理学的に了解してしまうからです.
心理学的了解を徹底的に退けねばなりません.
1973-74年の Séminaire : Les non-dupes errent の冒頭において Lacan は,imaginaire な意味は解読を阻止してしまう,と言っています.
imaginaire な意味とは,了解され得る意味です.
もし仮に我々が,たとえば或る症状を,或る夢を,その imaginaire な意味の次元において了解してしまうなら,我々はそれで安心してしまいます.それで満足してしまいます.そして,実際には不透明な signifiant から成っている無意識の成形をそれ以上解読しようとはしません.
そのような事態に陥ることを Lacan は戒めているのです.
心理学,この場合,ネズミの実験心理学ではなく,人間の臨床心理学ですが,心理学的了解,imaginaire な意味を心理学的に了解することは,精神分析的な解釈を阻止し,さらには,全くの誤謬に陥らせます.
いわゆるカウンセリング,ならびに非ラカン派の精神分析においては,心理学的了解しか為されていない,ということも付言しておきましょう.非ラカン派の精神分析が衰退していったのは当然です.imaginaire な意味という袋小路にとらわれてしまうのですから.
「八つの幸福」をさらに読んでみましょう.ふたつめ(ないし,テクストによっては三つめ)の幸福の規定は,通常の翻訳では「悲しむ人々は幸いである」です.
「悲しい」という「感情」を心理学的に了解して何が悪い,と思われるかもしれません.
しかし,原文を見てみましょう.「悲しむ人々」は πενθοῦντες です.これは,πενθεῖν という動詞の分詞に由来する名詞です.そして,πενθεῖν
は単に「悲しむ」という心理を表現しているのではなく,「服喪する」です.愛する者を亡くしてしまい,喪に服することです.喪失がかかわっているのです.そのことを読み取らなければ,第二の幸福の規定:「悲しむ人々は幸いである」を解読することはできません.
πενθοῦντες は「喪失を被った者ら」です.つまり,πενθοῦντες
においては,a / φ の構造の仮象 a の分離と脱落が成起しています.それによって,S(Ⱥ) の穴がそのものとして顕わになります.言い換えると,仮象 a が純粋徴示素 S(Ⱥ) へ還元されています.
S(Ⱥ) は,定義からして,他 A のなかの欠如 Ⱥ の
signifiant です.そして,Ⱥ と φ とは等価ですから,S(Ⱥ) は φ を最も忠実に代表する徴示素です.
第二の幸福の「悲しむ人々」は,客体 a の喪失において,神の欲望 φ をそのものとして代表し,忠実に証言しています.であるからこそ,彼らは幸福であるのです.
「八つの幸福」の規定はいずれも,一見すると逆説的に見えます.しかし,それが逆説的であるのは心理学的観点からにすぎません.a / φ の構造に基づいて解読するなら,それらは逆説ではなく,ただひたすら,仮象 a の分離と脱落を表言しているにほかなりません.
つまり,幸福は,仮象 a の分離,脱落,喪失に存する,と言うことができるでしょう.
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