06 September 2014 : パスについて; 精神分析に「教育分析」と「個人分析」の区別は無い; 「精神分析家である」は,ひとつの存在論的規定であり,社会学的規定ではない.
幾つか御質問をいただいています.まず passe パスに関する御質問から取り組んでみましょう.
用語の翻訳としては,音読みで良いでしょう.「パス」という単語は,異なる意味においてですが,日本語のなかに定着してもいます.
パスは,精神分析家の資格認定のために Lacan が提唱した手続きです.
Lacan は1964年に Ecole freudienne de Paris を設立しました.東京ラカン塾 Ecole lacanienne de Tokyo の名称は EFP にならいました.ですから,今,EFP は「パリフロイト塾」と訳してもよいでしょう.
Ecole という名詞は,ひとつの組織体を成すものとしては,通常,「学校」です.目的意識を以て組織化されていない場合は「学派」と訳されたりもしますが,Lacan は明確な目的を持って EFP という組織を作りました.
その目的とは,精神分析家の養成です.そして,精神分析家を養成することは,とりもなおさず,精神分析を一般社会に広める効果を持ちます.
EFP は,精神分析家養成の学校なのです.幾人かのフロイト派「精神分析学者」の学術的な仲良しグループのようなものを思わせる「パリフロイト学派」ではありません.
ただ,école
を「学校」と訳しても何となくサマにならないので,ひと工夫必要でした.「塾」は,子供の通う学習塾ではなく,政治家養成の勉強会を「... 塾」と呼ぶのにならいました.
Ecole 「塾」とはいっても,始めから精神分析家になろうと明確に意図している人々だけを受け入れるわけではありません.なぜなら,Lacan の観点においては,あらゆる精神分析治療は,開始時の目的意識にかかわらず,本質的に言って,精神分析家の養成をめざすからです.
精神分析の患者を Lacan は analysant と呼びます.直訳すれば,「分析する者」です.能動形です.
通常の医療においては,患者は受動的立場にあります.patient という語は「被る」という意味の動詞 pâtir に由来します.
しかし,精神分析においてかかわっているのは,精神分析の主体です.
主体だから能動的というわけではないのですが,ともあれ,精神分析治療においては「患者」はみづから語りますし,自由連想においてみづから解釈もしますから,単純に受動的では全くありません.
というわけで,英語圏では analysand (分析されるべき者)という受動的意味の表現が用いられているのとは異なり,Lacan は analysant (分析する者)という能動的意味の語を「患者」を指すのに用います.「分析者」と訳しましょう.
分析者が始めから分析家に成ることを目ざす場合もありますし,そうではなく,とりあえず症状の苦痛が緩和されればよいと思って分析を始める場合もあります.
英語圏では,前者を「教育分析」とか training analysis と呼び,後者を personal analysis と呼んで,峻別しています.
training analysis の条件は,一般の personal analysis の場合よりも段違いに厳しいのです.
たとえば日本人が London に留学して教育分析を受けることを考えてみましょう.trainee として受け入れられるためには,まずは,英語が
native と同様にできなければなりません.しゃべることも聞くこともです.それから,几帳面であり,知的にも道徳的にも優れていなくてはなりません.また,指導に対して従順でなければなりません.勝手に Lacan に興味を持ったりしてはなりません.
要するに,かなりのカタブツ,保守的なエリートでなければならないわけです.そのような trainee が同様の性格の training analyst から長年にわたり分析をうければ,できあがるのは,強迫性格の凝固のようなものです.これでは,精神分析が衰退していくのも無理はありません.
Lacan は,そのような形式的な区別,差別を一切とりはらいました.あらゆる精神分析は教育分析です.なぜなら,精神分析の最終目標は,分析者が分析家に成ることだからです.結果的に分析者がさまざまな事情で分析家に成らない場合でも,その分析過程を導く分析家は,分析者が分析家に成ることを目標として見定めています.
この「成る」を,Lacan は,分析者の立場から分析家の立場への
passage 「移行」と呼んでいます.そして,この
passage を事後的に証明し,確認するための手続きを,Lacan
は passe と名づけました.
この
passage は,存在論的なものです.分析家の言説の構造で言えば,$ の立場から a / φ の立場への移行です.分析家の言説において右上の他者の座に位置する $ は,「無意識において何かが語る」言葉を聞く者です.それに対して,a / φ は,主体自身の存在の真理を守護することにおいて本自的に実存する者です.
この存在論的移行を証明し,確認することは如何にして可能か?と Lacan は問いました.その答えを見つけるために EFP において彼が実験的に始めたのがパスの手続きです.
実際に行われることはどういうことかというと,分析経験を終えたとみづから思う者が,パスに立候補します.候補者は passant と呼ばれます.「パスをする者」です.passant は,passeur
と呼ばれる者に,自分が分析のなかで経験したこと,成果として得たこと,等々を語ります.passeur という単語の意味は,通常のフランス語のなかでは,河を小舟などで渡る渡し場で通行人 passant を小舟で運ぶ「渡し守」です.passeur は,分析経験の終わりまぢかである analysants のなかからクジで選ばれます.passant の話を聞いた passeur は,その話を,パス審査員たちへ伝達します.それにもとづいて,審査員たちは,passant において passage が実際に起きていたか否かを判定します.確かに analysant から
analyste への移行が成起していたと判断されたなら,その者は
Analyste de l'Ecole (AE) と認定されます.存在論的な意味で分析家である,と Ecole により認定されたわけです.
EFP においては,パスにおいて passant は何を語るべきか,passeur は何を聴き取るべきか,パス審査員たちはどのような基準で判断すればよいか,あらゆることが手探りでした.皆,混乱し,困惑していました.Lacan としても,分析者から分析家への移行に関して,期待していたような証言がなかなか得られませんでした.
しかし,Ecole
de la Cause freudienne (ECF) と Association mondiale de la psychanalyse (AMP : 世界精神分析協会) においては,Jacques-Alain
Miller の理論的な指導のおかげで,パスの手続きは機能しています.幾人もの人が Analyste de l'Ecole の認定を受けています.
ともあれ,パスは,精神分析家養成機関による分析家の認定にかかわるものです.そのような認定は不必要だと考える人々もいます.
また,上の説明から察せられるように,ひとつの Ecole のなかでパスの手続きを実施するには,それなりの人数の分析家とそれなりの人数の分析者とがその Ecole のなかに既に存在していなければなりません.もし仮に東京ラカン塾でパスを施行しようとするなら,事前に幾人かの分析家が塾メンバーとなっていなければなりません.彼らは,存在論的意味において分析家であると認定されたわけではありませんが,分析家の言説の構造において分析家として機能し得る限りにおいて分析家であると見なされます.それは,Freud が,存在論的に分析家であったわけではないが,分析家として機能し得ていたことと同様です.ECF では,ひとりの passant の証言をふたつのパス審査カルテルで検討します.カルテル cartel と Lacan が名づけた勉強会のようなグループは,四人のメンバーと plus un と呼ばれる別格メンバーと,計5人で構成されます.ふたつのカルテルのメンバーは計10人です.したがって,パスを実施しようとするなら,事前に最低10人の分析家が必要になる,と思ってよいでしょう.
精神分析家であるということは,存在論的な規定です.社会学的な規定ではありません.つまり,精神分析をなりわいとしている者,精神分析で生計を立てている者が精神分析家である,というわけではないのです.
精神分析家とは,分離において死に至り,そこから復活した者です.そのような経験をした者が,その後,実際に職業的な精神分析家となるかどうかは,どうでもよいことです.
実際,フランスにおいても,精神分析家は精神分析専業であるとは限りません.精神分析家であること以外の「本業」を持っている場合の方がはるかに多いと思います.彼らの「本業」は,精神科医や臨床心理士に限りません.わたしの友人のひとりは建築士でした.そのような本業で生計を立てつつ,自宅などで精神分析の臨床を行っている分析家が,フランスではたくさんいます.そのような事態は,日本でも十分実現可能だろうと思います.
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