19 September
2014 : 聖人と症状; 殉教と創造; 存在の真理の現象学的構造の可能性の条件としての父の名; 仮象の彼方としての作品.
二階堂奥歯氏に関して手短に補足しましょう.
一方に,純粋な殉教者であることにおいて sainte 聖人,聖女と呼ばれてよい彼女と,他方に,Lacan
が sinthome (saint homme, 聖人) と呼ぶ
Joyce と.両者の違いを成すのは何か?
我々がすぐに気づけるのは,創造です.確かに,二階堂奥歯氏も幾つかの評論文を発表してはいました.しかし,Joyce のように創造することはなかった.彼女は人並みはずれた多読家でした.しかし,彼女が或る程度の規模の創造をみづから試みた形跡は『八本脚の蝶』からはうかがえません
Lacan が分離と呼ぶものは,構造 a / φ において仮象 a が捨て去られ,存在 φ の深淵の口がそのものとして開くこと,言い換えれば,a が他 A の場処の欠如の徴示素である純粋徴示素 S(Ⱥ) そのものに成ることです.
分離においては,仮象 a と実在 φ との分離が起こりますが,構造 a / φ はそのものとしては崩壊せず,それによって,死からの復活が可能になります.
復活においては,a はもはや
imaginaire な様相を失っており,純粋な穴としての徴象そのものです.
死からの復活は如何にして可能であるのか?この問いは,Lacan が「父の名」と呼ぶ問題にかかわっています.
父の名の問題は,構造 a / φ の可能性の条件の問題である,と考えることができます.
構造 a / φ における能動者の座と真理の座とのつながり,結合は如何にして可能であるのか?この問いを Lacan は,ボロメオ結びの問いとして展開して行きます.如何にして R, S, I の三つの輪が相互に解離せずに,ボロメオ的に結び合わされていることが可能であるのか?
ボロメオ結びのトポロジーにおいては,死は,R, S, I の三つの輪の解離として捉えられます.
それに対して,それら三つの輪をボロメオ的に結合する第四の輪を,Lacan は父の名とも呼び,症状とも呼びます.
その場合,果たして,症状は仮象のものであるのか?言い換えると,Joyce の作品は仮象のものであるのか?
二階堂奥歯氏は数多くの書物を読んでいましたが,もしかしたら,彼女にはそれらはすべて仮象のものと見えていたのかもしれません.
彼女の愛読書のなかには Joyce の作品は含まれていませんでした.もし彼女が Finnegans Wake と出会っていたなら,彼女は,仮象の彼方の何ものかを見出し得たかもしれないのではなかろうか?
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