2014年9月26日

精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン,22 September 2014



22 September 2014 : 仮象的徴示素の彼方の書物; 二階堂奥歯氏におけるぬいぐるみの意義; transitional object ; 死は無の匱である; 実在の概念の二重性.

二階堂奥歯氏は,不可能な書物との出会いを探し求めるだけでなく,旅行をしてもよかったのではないか,との感想をいただきました.

彼女は,20026月下旬から7月初めまでトルコを旅しています.十分に exotique なところです.

しかし,テレビなどを通じて世界中のあらゆる秘境が紹介された今,最も秘められた秘境はどこにあるでしょうか?地の果てか?いいえ,あなた自身の内奥にです.

時空内の物理学的移動によって訪れることのできる場所で見出され得るものは,仮象にすぎない.二階堂奥歯氏にはそのことは十分すぎるほどわかっていました.であればこそ彼女は,書物のなかに,書物を通じて,探し求めたのです,仮象ではないなにものかを.

「書物」という語は大変すばらしい語です.「書」と「物」と.書,つまり文字は,了解不可能な不透明性において,ひとつの物です.

その最も明白な例が,James Joyce Finnegans Wake という作品です.

二階堂奥歯氏におけるぬいぐるみの意義について御指摘をいただきました.200318日付けの記事において,彼女はぬいぐるみについて論じています.

彼女は,ぬいぐるみに,存在事象そのもの全体としての存在を支えるもの,守るものを,見ようとしました.

確かに,ぬいぐるみは,その物質性において,影象と徴象と実在の三つの輪をボロメオ的に結合する症状となり得るかもしれません.

特に,transitional object として機能するぬいぐるみは,症状そのものです.

Winnicott transitional object の概念に Lacan は注目しました.そしてそれを objet a の概念のなかに包摂しました.

transitional object の代表例は,Charlie Brown の登場人物 Linus の毛布です.彼は,毛布という客体を彼自身のように,否,彼自身として,愛しています.毛布という客体は,彼自身なのです.つまり,a / φ です.

もし仮に二階堂奥歯氏が男であったなら,もしかしたら,transitional object の延長線上に位置づけられる Fetischismus ないし蒐集癖を極端に症状化することによって,自殺に至らずに済んだかもしれません.

しかし,二階堂奥歯氏は女性でした.a / φ a を客体として欲望する男として $ の座に位置するのではなく,而して,彼女は実事的に性的欲望の客体 a / φ として実存していました.それが如何に苛酷なことであるかを,彼女は証言しています.

二階堂奥歯氏は,ぬいぐるみそのものは仮象にすぎないことを十分に承知していました.ですから,彼女が探し求めたのは,ぬいぐるみそのものではなく,ぬいぐるみが父の名として機能する物語と,そのような物語が書かれた書物とでした.

不透明な物質性における書ないし文字の具体例を挙げるなら,古代エジプトのヒエログリフや,アラブ語の右から左へ流れるような文字を見てください.あなたがそれらを研究・学習していない限りにおいて,それらは全く不透明なままです.

「死は無の匱である」と Heidegger は言いました.

死も無も,そのものとして思考するのは困難です.Lacan の「性関係は無い」も,死と無を思考しようとする試みのひとつです.四つの言説においては,それは φ の学素により形式化されました.

Lacan が四つの言説からボロメオ結びへ移ったとき,存在のトポロジーにひとつの変化がもたらされました.

四つの言説においては,存在の真理の ex-sistence はメビウスの帯として捉えられていました.ボロメオ結びにおいては,φ そのものは,R, S, I の三つの輪が相互に解離していること,として捉えられます.

つまり,le réel 「実在」の概念が二重化された,と言うことができます.即ち,三つの輪のひとつとしての実在と,φ という不可能としての実在と.

三つの輪のひとつとしての実在は,不透明な物質性としての実在です.Lacan Séminaire XII において「a は実在の位のものである」と言ったとき,その「実在」は R, S, I の三つの輪のひとつとしての実在の概念を先取りしている,と言えると思います.

それに対して,「実在とは不可能在である」と言うときの「実在」は,語の厳密な意味での ex-sistence であり,書かれぬことをやめないものとしての実在です.

実在の概念の二重化に応じて,sinthome の概念も二重になってきます.ひとつは,聖人としての sinthome. Lacan が精神分析家を聖人になぞらえるとき,その実存構造 a / φ における a S(Ⱥ) という穴へ還元されていなければなりません.聖人においては,a から影象的な要素は滅却され,a は純粋徴示素としての穴となっています.それによって,聖人は,神の欲望 φ を最も忠実に代表しています.

それに対して,Joyce le symptôme における症状は,不透明な物質性における実在的な何かです.imaginaire な意味の了解可能性を越えた signifiant としての症状.それは,無からの創造です.

0 件のコメント:

コメントを投稿