2014年9月4日

「精神分析トゥィーティング・セミナー: フロイト・ハイデガー・ラカン」 9月2日,3日.



02 September 2014 : 自罰パラノイアの構造; 律法と超自我; 律法と欲望は表裏一体である; 症状の構造は悦の構造である. 

Lacan 1932年の医学博士論文で論じた自罰パラノイアの症例 Aimée について,次のようなコメントをいただきました.「Aimée の妄想症状がなくなったのは,法で裁かれることによって,象徴的父の保護下に入れたからである」という説明を或る分析家がしていたが,それはまったく見当ちがいだ,という見解です.同感です.

Aimée の迫害妄想は,或る女優を殺害しようとした彼女の行為の結果,解消しました.その女優は,Aimée にとって自我理想を体現していました.

なぜ,殺害行為にともなって妄想は解消したのか?それは,自我理想と妄想症状とが同じ構造を有しているからです.

症状の構造 a / φ は,narcissique な成形としての自我の構造でもあります.その場合,a は,鏡像としては理想自我 das ideale Ich であり,同一化の signifiant としては自我理想 das Ichideal です.

Aimée の迫害妄想において,その女優は迫害者のひとりでもありました.その女優を殺害すること(未遂に終わりましたが)は,構造 a / φ において,自我理想 a を能動者・支配者の座から罷免 destitution することを意義していました.それにともなって,妄想症状の構造も解体され,症状は解消しました.

以上の事態は,分析の外で生じた分離にほかなりません.

そこにおいて,「父の名の閉出は精神病発症の必要条件である」と言う際の「父の名」は,なんら介入してきません.

昨日,二階堂奥歯氏の名に言及しました.『八本脚の蝶』はまだ半分くらいまでしか読んでいませんが,今までに気がついたことを述べるなら,彼女は顔の皮膚のことと衣類のこととにかなりの言葉を費やしています.若い女性としては当然のこととも言えますが...

二階堂奥歯氏について語る前に,Aimée について新たにコメントをいただきましたので,そちらを考えてみましょう.道徳と法(法律,律法)とを対比することに関してです.

法と訳せるフランス語,ドイツ語は幾つかありますが,まずは le droit, das Recht という語が挙げられます.droit recht も,根本的な意味は,「あることに違わない,そむいていない,あることに沿っている,適っている」です.何に対してか?存在の真理に対してです.つまり,φ に対してです.存在の真理を適切に代表するもの,それが正義であり,法です.形容詞 droit, recht は「正しい」という意味を持っていますし,名詞 le droit, das Recht は「正義」であり「法」です.勿論,これは原理的次元でのことであって,社会的・政治的現実において律法,法律と呼ばれているものが必ずしも正しいとは限りません.

道徳律 la loi morale も,法のひとつです.

Lacan は症例 Aimée を「超自我精神病」の一例として論じました.Freud が超自我と呼んだものは,伝統的には良心と呼ばれていたものであり,倫理学的にはそれは道徳律にほかなりません.

Freud は,超自我の概念のなかに自我理想の概念を包摂しています.

律法も道徳律も,超自我と等価です.

超自我とは,「悦せよ!」という定言命令 kategorischer Imperativ です.

Aimée は,その命令を忠実に実行しました.仮象 a を破壊することによって.

「悦せよ!」という命令は,分離において究極的に達成され得ます.

Lacan のテクストにおいて律法 loi という単語は確かに,大文字で Loi と書かれたり,小文字のまま loi と書かれたりしていますが,概念的な区別を伴ってはいません.

欲望と律法は表裏一体である,という意味のことを Lacan は言っています.欲望は φ であり,律法は a です.構造 a / φ において,律法と欲望は表裏一体です.

いずれにせよ,もっぱら法学部で扱われる社会秩序としての法体系の問題は,そのものとしては Lacan の律法の議論のなかで論ぜられてはいません.

悦は φ そのものではありません.そうではなく,a / φ の構造における a が悦です.より厳密には,剰余悦と呼ばれるべきです.

a が仮象である限りにおいて,悦は常に剰余悦でしかありませんが,a が純粋徴示素であるとき,つまり,穴そのものであるとき,a はもっとも忠実に φ を代表している,と言えます.

「分離」という表現においては,「仮象 a が存在の真理 φ から分離する」と言わざるをえませんが,言い換えれば,それは,徴示素 a が純粋徴示素である穴そのものに還元される,ということです.

症状の構造 a / φ は悦の構造である,と言ってもよいと思います.




03 September 2014 : 精神分析の本質は精神分析家の存在の本有である; 変動時間面接と時間論; 分析家がゴミとして捨てられることによって,分析者は死を引き受ける; 律法は欲望の métaphore である; 神の愛と死の本能.

精神分析に関して問うとき,英語圏では pragmatisme の伝統にもとづいて,「精神分析は如何に行われるか?」と問います.精神分析は,精神療法,心理療法のひとつとして,精神分析療法であり,「その方法は如何?」が問われます.

日本では,英語圏のまねをすることが大学人の務めだと思われていますから,精神分析に関しても,大学人たちの「精神分析学」は,英語圏の know-how を輸入することに存していましたし,多分,今もそうでしょう.

他方,Lacan は,英語圏とは異なるフランスの伝統において,「精神分析は如何に行われるか?」の問いの前に,「精神分析とは何か?」と問います.

精神分析は,自由連想法を用い,一回の面接は何十分間,週に何回,何年間続ける,云々は,悪い意味で形式的な問題にすぎません.それらは,「精神分析とは何か?」の本質の問いに対する答えを与えません.

「精神分析とは何か?」の問いに対して,Lacan は,こう答えました:精神分析とは,精神分析家が為すことである.では,精神分析家とは何か?精神分析されてある者である.

全然答えになっていない,とは思わないでください.これは,正しい答えを得るためには適切な問いを措定することが如何に重要であるかの一例です.

Lacan の問答によって,このことがわかります.すなわち,精神分析の本質に関する問いは,精神分析家の本質に関する問いへ還元される.そして,精神分析家の本質は,精神分析されて在ること être psychanalysé である.つまり,精神分析の本質に関する問いは,ひとつの存在論的問い,精神分析家の存在に関する問いへ還元されるのです.

それによって初めて,精神分析の本質に関する問いは正しい答えを見出します.あるいは,よく言われるように,適切に措定された問いは既に正しい答えを含んでいるのです.

精神分析の本質に関する問いは,精神分析の技法や形式性の pargmatique な規定ないし規制によっては,的確な答えを見出すことはできないのです.

他方,精神分析家の存在に関する本質的問いに答えることができれば,pragmatique な問いへの答えはおのづと見つかります.

以上を踏まえたうえで,いただいた幾つかの御質に答えてみましょう.

まず,いわゆる短時間面接について.Lacan が面接一回に当てる時間は,一定していません.ですから,「短時間面接」ではなく,「変動時間面接」と呼ばれるべきです.

変動時間面接は,Lacan の気まぐれの産物ではありません.それは,Lacan の本質的準拠である Heidegger の存在論の一部を成す時間論に基づいています.

時間とは,時計で計測される時間ではありません.物理学における必須の parameter のひとつ,通常 t で書記される変数,ひとつの直線の上に目盛りを刻まれるようなものとしての時間ではありません.そのような時間は,今という瞬間の無限の連なりとしての時間です.存在論的に本質的な時間は,そのようなものではありません.

ひとこと注をさしはさむなら,Lacan は彼自身は聖人 つまり,存在論的に規定される精神分析家 であるところまでは行かなかったと認めているとしても,そのような意味における精神分析家として存在することは,精神分析家の存在に関する問いを措定し,それについて思考することの必要条件ではありません.

本質的な時間は,Heidegger が『存在と時間』において ekstatisch な時間と呼ぶものです.それは,無限直線として表象される常識的時間ではなく,ひとつの限定された場処を成します.

『存在と時間』より後の Heidegger の展望においては,時間とは ex-sistence の場処そのもの,我々の学素における φ の深淵そのものです.

精神分析の面接においては,この φ を指し示さねばなりません.なぜなら,それが症状の意義であるからです.

ところが,φ の深淵の口がいつ姿を見せるかは,事前には全く予測がつきません.それゆえ,面接の時間は一定に固定され得ないのです.

ekstatisch な時間である φ の穴が分析者の言葉のなかにふと出現した瞬間に,言説に切れめを付ける.その切れめによって,φ の深淵の裂口を指し示す.それが,解釈の本質です.

そのような解釈は,固定時間面接では困難です.解釈の瞬間が面接の切れめとなるからです.

変動時間面接はそのような必然性に基づいており,Lacan の気まぐれでは全くありません.そのことをわきまえていない分析家は,lacanien とは言えません.

自殺の問題に関連して,精神分析という dialektisch な過程の終わりを成すのは Lacan が分離と呼ぶ事態であり,そこにおいて,精神分析家はゴミとして廃棄され,そして,それによって分析者の自殺は回避される,と言いました.

後から気がつきましたが,「分離において分析家 a が廃棄されるのは,分析者が自殺ないし他殺を実行することの身代わりである」ということは,イェスの十字架上の処刑と同じ意義を有しています.

イェスが十字架にかけられ,処刑されたのは,世の罪を背負ったからです.存在論的原罪をも,現に犯された罪をも含めて,イェスは,我々の身代わりとして,我々の罪を償い,我々を贖うために,処刑され,ゴミのように捨てられました.それは,我々を救済するためです.

それと同様に,分析家も,分析者の身代わりとして,分離という処刑において,ゴミとして廃棄されるのです.

分析者は,分析家の身代わり死によって,復活へ至ることができます.分離という死の引き受けは,分析の過程においては,分析家の身代わりを媒介にして為されます.それによって,分析者はみづから文字どおりに死を実行することを免れるのです.

律法と欲望についてですが,Lacan が律法 loi という用語で差し徴しているのは,道徳律 la loi morale のことです.道徳律は,一般的には「良心」と呼ばれています.良心の声は,しかし,あれやこれやと指図はしません.本当の良心の声は,無言です.

構造 a / φ において,声 a が無言の声であるとき,つまり,zéro である純粋徴示素,切れめ,穴そのものである純粋徴示素であるとき,a は欲望 φ そのものを最も忠実に表します.

そのように忠実に表してはいなくても,一般的に言って,律法 a は欲望 φ を代表しています.律法 a は欲望 φ métaphore である,と言えます.その意味において,律法 a 無しには欲望 φ を識ることはできません.

なぜ存在の真理は己れを顕そうとするのか?

この問いは,「なぜ神は神自身を啓示しようとするのか?」と等価です.答えは,「神の愛のゆえに」です.聖書において愛に関する最も本質的な命題は,新約聖書第一ヨハネ書簡の「神は愛である」です.神は愛であるがゆえに,神は人間を愛するがゆえに,人間に神自身を啓示する.

同様に,存在の真理 φ は,愛のゆえに,己れを人間に示そうとします.それに対して抵抗を成すのは,a です.

症状は妥協の産物です.己れを示そうとする φ に対する抵抗として,症状 a / φ は機能します.

多様な御質問をいただいたので,話にまとまりがなくなってしまいました.明日また続けましょう.




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