2017年9月4日

Radiophonie 読解 (2) 言語存在の否定存在論的構造

言語存在の否定存在論的構造


Freud Saussure 言語学を先取りしていた 例えば,1957年のテクスト『精神分析とその教え』のなかで,Lacan はこう言っています (Écrits, pp.446-447) :

無意識の諸法則をそれらの詳細において述べることによって,Freud は,Ferdinand de Saussure が現代言語学の道筋を切り開くべく数年後に明らかにすることになる諸法則を,先立って公式化したのにほかならない .

また,1958年のテクスト『ファロスの意義』においても (ibid., p.688) :

Freud は彼以後に誕生した現代言語学を参照し得なかったが,しかし,我々はこう主張する Freud の発見が鮮やかに浮かび上がってくるのは,まさに,それが,其こにおいて言語学の君臨が認められることになろうとは予期され得なかったところの領域から出発して言語学の諸公式を先取りしたとしか言いようのないものであるがゆえにである.

Lacan がそう主張するのは,単に,当時人文科学(あるいは,人間科学 : les sciences humaines)の最先端と見なされていた言語学の諸概念を精神分析理論へ導入すること,あるいは,言語学への準拠によって精神分析理論を構造主義的に洗練することを正当化するためでしょうか?そう考えるとすれば,それは的はずれです.

なぜ Lacan は,Freud が神経症治療のために創始した精神分析について論ずるために,脳科学や心理学や社会学ではなく,言語学に注目するのか?それだけではありません 曲面や結び目のトポロジー,形式論理学,神学,哲学,文学,そして,より根本的には Heidegger の思考.

それは,Lacan の教えの目的が,精神分析を純粋に すなわち,非経験論的に 基礎づけることに存するからです.

当然,経験科学の分野に属するものは,準拠としては除外されます.確かに言語学はひとつの経験科学ですが,しかし,Lacan が言語学から得たのは,言語学の個々の具体的な成果ではなく,Saussure S/s のように経験的なものを記号的に形式化 (formalisation symbolique) する可能性です.実際,Lacan は,精神分析の経験的な次元の形式化の端緒に,学素 S/s を措定します.

さらに,より本質的なことはこれです : Lacan にとって,signifiant / signifié を以て形式化される構造は,単純に言語学的なものではない なぜなら,その構造における signifié の座は「主体の座」(Écrits, p.516) であり,すなわち,S/s の構造は主体の存在にかかわる存在論的なものであるからです.

しかも,主体が位置づけられるべきその座は,la place excentrique[中心解脱的な座,中心に対して解脱的である座](Écrits, p.11) であり,Heidegger の用語で言うなら,ex-sistence[解脱実存]の座 (ibid.) です.何に対して解脱的であるか?存在事象そのもの全体 [ das Seiende als solches im Ganzen ] に対して.すなわち,主体の座は,Heidegger die ontologische Differenz[存在論的差異]と呼ぶ存在論的切れ目 [ la coupure ontologique ] によって存在事象から分離されていると同時に存在事象と結合されている存在の解脱実存的な在処 [ la localité ex-sistente de l’être ] です.


以上のように,ひとつの経験科学である言語学においては,当然ながら,S/s の構造における signifié の座に位置する référent は,ひとつの存在事象であるのに対して,Lacan の教えにおいては,まったくそうではありません.


1970年ころ,「構造主義」の流行の時代,Saussure Lévi-Strauss Lacan もそのレッテルでひとくくりにされていました.しかし,前二者は経験科学の領域の研究者でした.彼らが問うた構造は,あくまで,存在事象の次元のなかのものでした.それに対して,Lacan が問うた構造は,存在事象的ではなく,存在論的なものです.

そして,既に触れたように,Lacan が精神分析の純粋基礎として Heidegger から学び取った存在論は,哲学史上伝統的な実体論的存在論ではなく,我々が否定存在論と呼ぶところのものです.

否定存在論においては,存在は,実体的な ὑποκείμενον でも ὄντως ὄν でもなく,而して,存在事象そのもの全体の場処に対して ek-sistent[解脱実存的]である在処 [ localité, Ortschaft ] として topologique に思考されます.

その際,もっとも根源的であるのは,Heidegger が存在論的差異と呼んだ存在論的切れ目です.Lacan は,問い I に対する答えの最初の部分で,その切れ目のことを強調しています (Autres écrits, p.403) :

言語学は,Saussure および Cercle de Prague とともに,徴示素 [ signifiant ] と被徴示 [ signifié ] との間に措定された棒線である切れ目によって設立される.その切れ目によって,[徴示素と被徴示との間の]差異が生じ,それによって徴示素は絶対的に定立される.

次のページで Lacan は,その切れ目を「創立的な切れ目」(la coupure inaugurale) とも呼んでいます.

そこにおいて inaugural は,「言語学を創立した」切れ目ということですが,しかし,単にそれだけではありません.その切れ目は,単に言語学的切れ目としてでなく,而して,存在論的切れ目として,言語存在の否定存在論的構造そのものにとって創立的であり,創始的であり,最も本源的なものです.

Lacan は,その源初的な差異によって「徴示素は絶対的に定立される」と言っています.この「絶対的」は,強い表現です.それは,S(Ⱥ) の絶対性を示唆しています.

切れ目ないし差異が最も根源的であり,源初的である 言い換えれば,a priori である ことを示唆する表現が,Radiophonie のなかにも幾つか散見されます.例えば:

Que ce sujet soit d’origine marqué de division[主体は,源初的に,分裂のしるしを受けている](p.405) ; 

D’avant toute date, Moins-Un désigne le lieu de l’Autre[あらゆる時代に先立って,( 1 ) が他の場処を差し徴してしる](p.409) ; 

Il doit nous suffire de poser que l’inconscient est[我々としては,無意識は在ると措定すれば十分なはずである](p.432).

主体の分裂は,存在論的切れ目による他の場処と主体の存在の在処との分裂に存します.それが「源初的」(d’origine) であることを Lacan は強調しています.

Moins-Un, すなわち ( 1 ) は,先に引用した Écrits, p.819 の一節で用いられていた表現です.それは,S(Ⱥ) を差し徴しています.« d’avant toute date »[あらゆる時代に先立って]は,S(Ⱥ) の存在論的切れ目が構造論的に a priori なものであることを言っています.

「無意識」のラカン的な定義は,まさに「切れ目」です :

主体 デカルト的主体 は,無意識に先立つと仮定されたものである.他は,ことばが真理において肯われることにより要請される次元である.無意識は,両者の間の現勢的な切れ目である (Écrits, p.839).


Lacan « en acte »[現勢的]と言っています.つまり,« en puissance »[潜勢的]ではない.もう既に,切れ目はつけられており,その口は開いており,その効果はあからさまに発揮されています.そのことを認め,そのことを何よりも先に出発点に措定する それが必要なことであり,それで十分です.

問い II に対する答えの冒頭で,Lacan は構造の概念についてこう言っています (Autres écrits, p.408) :

La structure s’attrape du point où le symbolique prend corps[構造は,其こにおいて徴在が身体を得るところの地点から捉えられる].

le corps du symbolique[徴在の身体](p.409) とは,いったい何でしょうか?それは,徴在の支えとしての S(Ⱥ) のことです.

Lacan Séminaire XIV La logique du fantasme において,他の場処を身体と定義しています.身体は consistance[定存]であり,定存は l’imaginaire[影在]です.他の場処は,命題「ひとつの徴示素は,もうひとつのほかの徴示素に対して,主体を代表する」に言う「ひとつの徴示素」です.言い換えると,「ひとつの定存」です.「もうひとつのほかの徴示素」は,既に見たように,S(Ⱥ) です.それは,「ひとつの定存」に対して「もうひとつのほかの定存」です.それが,徴在の穴を支える定存的身体としての S(Ⱥ) です.それは,既に見たように,存在論的構造の要であり,まさに「そこから構造が捉えられるところの地点」です.


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