主体の分裂
« Seul le discours qui se définit du tour que lui donne l’analyste, manifeste le sujet comme autre, soit lui remet la clef de sa division »[四つの言説のうちで,分析家が言説に与える回転によって規定される言説のみが,主体を他 a として明示する ‒ すなわち,主体にその分裂の鍵を手渡す](Autres écrits, p.411).
「分析家が言説に与える回転によって規定される言説」は,分析家の言説のことです:
分析家の言説において,主体は autre
として現れている ‒ つまり,左上の代理者の座に位置する a は,主体の否定存在論的構造を代表しています.そして,a は「主体の分裂の鍵」である.どういうことでしょうか?
「主体の分裂」は,Lacan の教えの最重要概念のひとつです.主体は,主体ならざる他と主体自身とへ分裂している.その事態は,aliénation[異状]と呼ばれます.Hegel においては,Entäußerung または Entfremdung. 伝統的には「疎外」と訳されてきました.
« L’aliénation
réside dans la division du sujet »[異状は,主体の分裂に存する](Écrits, p.841). そして,主体の分裂は « division entre le savoir et la vérité »[知と真理との間の分裂](ibid.,
p.856) である.
この「知と真理との間の分裂」という表現は,『精神の現象学』の Vorrede の一節から採られたものです.そこにおいて Hegel は,精神の現象学の過程の終結を「精神が自身の Dasein を自身の Wesen と等しくした」ことを以て規定し,そして,そのとき « die Trennnung des Wissens
und der Wahrheit ist überwunden »[知と真理との分離は克服されている]と述べています.
ただし,その場合の「真理」は,解脱実存的な主体の 存在 のことであって,四つの言説の構造における左下の座としての真理のことではありません.
かくして,異状の構造は,このように図示され得ます:
そして,異状の構造は大学の言説の構造であることが,わかります:
Galileo Galilei 以来,我々は「科学の時代」にいます.Lacan の表現で言うなら,我々は科学の言説 [ le discours de la science ] のなかに住んでいます.そして,その意味における科学の言説の構造を特徴づけるのが,「知と真理との間の分裂」ないし「知と真理との分離」です.そのような分裂が最終的に克服されることを神は欲している,という神学的な想定が,『精神の現象学』の dialektisch な動きを支えています.それに対して,Lacan は,知と真理との間の分裂としての主体の分裂が「克服」されることになる,とは想定しません.むしろ,主体の分裂がそのものとして S(Ⱥ) により支えられるようになることに,精神分析の終結は存します.
ともあれ,科学の言説の構造は,近現代の世界の存在論的構造を成しています.精神分析の外において,一般的に世界の存在論的構造が思念されるとき,それは,基本的に言って,科学の言説の構造であり,言い換えると,aliénation の構造としての大学の言説の構造です.
ただし,Foucault が l’âge classique と呼ぶ17-18世紀には,Newton
力学(いわゆる古典力学)の支配があまねく行きわたっていました.知 S2 が客体 a の裂け目を塞ぐことができないという事態は,原則的にはあり得ませんでした.それに対して,19-20世紀には,まずは電磁気の理論が Newton 力学の限界を顕わにします.つまり,電磁気が,客体 a の裂け目として立ち現れてきます.そして,それは量子力学と相対性理論の展開を促します.しかし,その裂け目の口は,いまだに開いたままです ‒ 量子力学と相対性理論との究極的な統一としての Theory of Everything の公式化の不能性という穴として.
ともあれ,大学の言説としての科学の言説においては,a は,主体の分裂を惹起する切れ目のエッジ S(Ⱥ) に相当しています.a が「主体の分裂の鍵」であるとすれば,それは,a が S(Ⱥ) に相当する限りにおいてです.
大学の言説において右上の座に位置する a は,反復強迫の症状の徴示素 ‒ 書かれることをやめないもの,すなわち,必然的 (nécessaire) なもの ‒ です.精神分析において症状と呼ばれるに値するのは,反復強迫的なもの ‒ 書かれることをやめないもの ‒ です.それは,S(Ⱥ) の座において固執的に反復されます.
Lacan が réel[実在]と言うとき,ふたつのものを区別する必要があります.ひとつは,impossible[不可能:書かれないことをやめないもの]としての実在,もうひとつは,nécessaire[必然:書かれることをやめないもの]としての実在です.
« le réel,
c’est l’impossible »[実在は,不可能在である]は,1968-69年の Séminaire XVI 以来,Lacan がしばしば我々に示す定義です.それに対して,必然在としての実在の定義は,やっと1977-78年の Séminaire XXV において明示されます : « le réel ne cesse pas de s’écrire »[実在は,書かれることをやめない].
それは,Lacan の教えにおける実在の定義の変更を示唆するものではありません.Lacan は,彼の教えの当初から,不可能在(ないし ex-sistence)としての実在と,必然在としての実在と,ふたつの実在の概念を常に用い続けてきました.
それらを区別しないままに Lacan のテクストを読むと,我々はしばしば混乱に陥ることになります.注意が必要です.
0 件のコメント:
コメントを投稿