2017年9月4日

Radiophonie 読解 (11) 四つの言説

四つの言説





最後の問い VII において質問者は,Freud が『終わる分析と終わらない分析』のなかで「分析する」を「教育する」と「統治する」とともに不可能な仕事に数え入れていることに言及しつつ,言説における不可能の問題について問うています.

先に,Séminaire XVII 1970610日の講義の一節を,Jacques-Alain Miller によるテクストはかなり不正確ですので,Staferla 版から,引用します :

... c’est à se trouver défini comme l’impossible à démontrer le vrai dans le registre d’une articulation symbolique, que le réel se place. (...) si ce réel se définit comme l’impossible, c’est bien là ce qui est de nature à nous faire toucher du doigt quoi ? [ ceci que ] gouverner, éduquer, analyser et faire désirer pour compléter d’une définition ce qu’il en serait du discours de l’hystérique , ce sont en effet des opérations qui sont, à très proprement parler, impossibles, et c’est pour ça qu’elles sont là. 
実在が[トポロジックに解脱実存として]位置づけられるのは,徴在の構造の次元において真と証明することの不可能として定義されることによってである.それは,我々に以下のことを触知させる性質のことである:すなわち,統治する,教育する,分析する,そして hysterica の言説が如何なるものかをもうひとつの定義によって補完するなら 欲望させる,それらは,実際,非常に本来的に言って,不可能な営為である,ということ.そして,それがゆえに,それらの営為は存在するのである.

hysterica の言説においてかかわっているのが「欲望させる」(faire désirer) である,ということは,Radiophonie のなかではそのままの形で述べられてはいませんが,その代わりに,Lacan はこう言っています (Autres écrits, p.438) :

[性器段階の成熟という神話は]其れについて hysterica の言説が支配者を詰問するところのものである:「おまえが男かどうか,見せろ!」しかし,Freud が言うように,そこにおいて,事物表象 [ Φ ] はもはやその事物の欠如 [ φ の表象にほかならない.[Urvater のような]全能は存在しない.であるがゆえにこそ,全能は思考される.

ですから,「欲望させる」は,勃起を惹起するために支配者 S1 のなかに欲望を起こさせる,ということです.しかし,Urvater は解脱実存していないのですから,その全能の phallus を出現させることも不可能です.そもそも,それは不可能な phallus φ です.


ところで,Radiophonie のテクストの最後のページに掲げられている四つの言説の図には,左上の座から右上の座へ向かう直線矢印の上に impossibilité[不可能性]と書かれ,右下の座から左下の座へ向かう曲線矢印の下に impuissance[不能]と書かれています.

不能について,Lacan はこう言っています (Autres écrits, p.445) :

各言説の構造は,その生産[の座]と真理[の座]との常に同じ離接 [ disjonction ] として差異化されることによって,悦の障壁によって規定される不能を必要とする.


Séminaire XVII 1970311日の講義では,Lacan は,支配者の言説を例にとり,悦の障壁は $ a との間にある,と述べ,そして,「悦の障壁」と言う際の「悦」は「根本的に禁止された悦」のことである,と説明しています.

また,翌週,318日の講義では,分析家の言説を例にとり,こう言っています:


悦は,我々が父へ帰そうと欲するだろうものとしての支配者徴示素を,真理としての知から分離する.(...) 悦が為す[「性関係は無い」の]「無い」は,ここに存する すなわち,支配者徴示素 S1 として生産されるものと,真理として措定されるものとしての知 S2 が占有する場との間に.去勢が真言的に如何なるものかを述べることを可能にするもの,それは,このことである:すなわち,子どもにとってさえ,人々がそれについてどう思おうと,父は真理について何も知らない者である,ということ.


トポロジックに見ると,真理の座(穴:黄色)と生産の座(解脱実存:赤色)との間に位置するものは,実際には,四つの言説における右上の座に相当する切れ目のエッジ(悦:緑色)であることが,わかります.そのエッジは,解脱実存の在処(右下の座,赤色) つまり,天国だか来世だか異界だか,誰も知らないどこか に位置しているかもしれないと期待される何かが他の欲望 Ⱥ の穴(左下の座,黄色)を満たすという事態の実現を妨げ,Ⱥ 穴を口の開いたままに保ちます.つまり,解脱実存の在処に位置すると思念される何かが他の欲望 Ⱥ の座に位置するものを満足させることは,起こらない それが「不能」です.

Lacan (Autres écrits, pp.444-445) は,hysterica の言説について知 S2 の不能,支配者の言説については剰余悦 a の不能,大学の言説については主体 $ の不能を列挙しています.分析家の言説については,上に引用された1970318日の講義において,支配者 S1 の不能は「父は真理について何も知らない」と表現されています.

不能を条件づけているのは,先ほども見たように,切れ目のエッジの座(右上の座,緑色)に位置するものです.その意味において,それは不可能性の座です.

問い V に対する答えのなかで,Lacan はこう述べています:

影在的な不能を不可能へ転換すること その不可能は,ただ論理においてのみ基礎づけられることによって,実在であることがわかる (Autres écrits, p.439).

不能を不可能へ転換すること それは,精神分析の経過において為されるべきことです.欲望の穴を満たすことは可能であるはずだが,何らかの理由(例えば禁止,能力不足,不適格,等々)によりそうなるようにすることができない,と思い込む場合,我々は不能の状態に陥ります.不能には,何らかの行きづまり感や有罪感が伴います.それに対して,欲望の穴を満たすことは「性関係は無い」がゆえに不可能であり,phallus を代理する何らかの客体 a が欲望の穴を満たすことも不可能だ,と分析の経験において結論されるなら,我々は,不能に伴う行きづまり感や有罪感から解放され得ます.

支配者に言説における統治することの不可能性については,Lacan (Autres écrits, p.445) はこう言っています:

統治することの不可能性がその実在において把握されるのは,次のようにしてのみである:すなわち,悦欠如 [ manque à jouir : $ ] をその出発点[右上の座]に必要とする展開[hysterica の言説]の厳密さを退行的[支配者の言説から hysterica の言説への移行:四つの座に対する四つの項の時計方向 90° 回転]に作り上げることによって [ただし]それ[hysterica の言説]が悦欠如を終着点において[も]維持するならば.


実際,支配者の言説から hysterica の言説へ「退行的」に移行することによって,S1 は,左上の支配者の座から右上の不可能性の座へ移ります.そこにおいて,支配者徴示素 S1 は,支配者の言説において S2 が縁どっていた穴を塞ぎ得るものではない,ということが判明します.

続けて Lacan は,Radiophonie の最後の2ページ (Autres écrits, pp.445-446) でこう言っています:

逆に,分析家の言説は,大学の言説に対して進歩していることによって,実在を包囲することを大学の言説に可能にし得るだろう 分析家の言説における不可能性 [ $ ] が,実在の代理を果たしている ,すなわち,分析家の言説が,主体 [ $ ] が[解脱実存的在処に位置する]支配者 [ S1 ] の徴示素[の座]へ移行したこと[分析家の言説の式の右側を成す $ / S1 : 主体 $ が支配者 S1 を代理する徴示素となっている構造]を,剰余悦 [ a ] それは,既に,その真理を知 [ S2 ] において有している から発せられる問い[存在に関する問い]へ付そうとすることによって.
それは,構造の知を仮定することである ‒ 知は,分析家の言説においては,真理の座を有している. 
それは,如何なる疑いを以て,分析家の言説は,真理の座に提示されるものすべてを支えねばならないか,ということである. 
(...) 不可能をその塹壕において追い詰めることによってのみ,不能は,受動者[右上の座に位置するもの]を能動者[左上の座に位置するもの]へ移す力を得る. 
さように,不能は,[四つの言説の]転回おのおの ‒ 其の一歩を,構造は為さねばならない ‒ のたびに,現動的 [ en acte ] となる ‒ 勿論,不能が[不可能へ]様態を変えるように. 
さように,言語は,言語が悦について啓かすものを更新し,言語が束の間実現する幻想を出現させる.言語が実在に接近するのは,所言をして言説の思惑のなかに穴を穿つようにさせる言説に応じてでしかない. 
そのような言説は,現時点においては,そうたくさんは無い[つまり,事実上,分析の言説のみ].

四つの言説のうち,大学の言説に関しては,それが我々と我々の世界の基本的な存在論的構造であることを既に見てきました.大学の言説は,絶対知を装う知 S2 と存在の真理 $ との分裂に存する aliénation[異状]の構造をより精密に形式化しています.



それに対して,分析家の言説は,大学の言説において右上の座(緑色)に位置する症状の徴示素 a 書かれることをやめない反復強迫の症状の徴示素 a が,左上の座(水色)に位置する分析家へ転移されることによって,成立します.それによって,症状の徴示素 a は,仮象として,書かれることをやめることができるようになります.

そして,大学の言説において左下の座(赤色) 解脱実存的在処 に隠れていた存在の真理 $ は,右上の座(緑色) 存在論的切れ目ないし裂け目のエッジの座 へ成起 (Ereignis) します.それは,昇華された欲望としての分析家の欲望でもあります.分析者(精神分析の患者)は,分析の終結において,みづから分析家の欲望であることを引き受けることになります.


支配者の言説は,言うなれば Urvater の言説です.欲望 $ を完全に満足させることができ,性関係の悦を独占する者として,彼は,息子たち S2 を奴隷として支配します.そこにおいて,前性器的ないし非性器的な剰余悦 a は,秘匿性の座(赤色)へ ausstoßen[排し除ける] Lacan の用語では forclore[閉め出す] されます.


しかし,hysterica の言説において,欲望 $ は満足不能であり,それを満足させる Urvater S1 は不可能であることが,明らかになります.hysterica の精神分析は,万能なる Urvater への固着 Freud Penisneid[ペニス妬み]と呼んだもの から hysterica を解放することを目指します.

hysterica の言説において右下の座(赤色)に位置づけられた知 S2 は,排斥された記憶です.Freud hysterica において無意識として発見したものが,それです.

精神分析は,無意識的な知を「意識化」することに存するのではありません.Lacan も強調しているように,認識論は精神分析には無関係です.

精神分析の終結は,存在の真理 $ そのものの成起 (Ereignis) に存します.そして,それをみづから引き受けた者は,今度は,みづから分析家と成り,ほかの者たちが精神分析を経験するのに分析家の欲望として寄り添うことになります.


0 件のコメント:

コメントを投稿