2017年9月4日

Radiophonie 読解 (6) : métaphore et métonymie

Métaphore et métonymie


問い III の主題を成す métaphore[隠喩] métonymie[換喩]は,周知のように,伝統的には修辞学に属する概念ですが,それらに Lacan が注目したのは,言語学者 Roman Jakobson の著作 Fundamentals of Language (1956) の第二部 Two Aspects of Language and Two Types of Aphasic Disturbances[言語のふたつの側面と失語障害のふたつの型]を読んだことによってです.

そこにおいて Jakobson は,失語症の基本的な二類型 Wernicke 失語(典型的には左側頭葉の損傷と関連しており,患者の語りは,流暢だが,了解可能な意味に乏しい)と Broca 失語(典型的には左前頭葉の損傷と関連しており,患者の語りは,流暢ではないが,了解可能な意味を有し得る)と における語りの障害を言語学的観点から分析し,次のように論じています : Wernicke 失語の患者の語りにおいては métonymie が優位(つまり,語りはひとつの単語からほかの単語へ流暢に横滑りして行くかもしれないが,主題的に重要な語は欠けている)であり,Broca 失語の患者の語りにおいては métaphore が優位(つまり,発せられる単語の数は少ないかもしれないが,主題的に重要な語,ないしそれを代理する語は出現し得る)である.それは,前者においては単語の selection[選択]ないし substitution[代理]を可能にする機能が障害されており,後者においては単語の combination[結合]ないし contexture[文脈づけ]を可能にする機能が障害されている,ということである.

かくして,Jakobson は,語の選択ないし代理に存する métaphore と,語の結合ないし文脈づけに存する métonymie とを,言説の構造の両極を成すものとして一般化し,それらを言語芸術や表象芸術の作品分析のために応用し得ることを示唆しています.Jakobson 自身が,一例として Freud の『夢解釈』に言及し,夢の顕在的なテクストにおける Verschiebung[ずらし]を métonymie, Verdichtung[縮合]を synecdoque[提喩:部分で全体を または,逆に,全体で部分を 表す換喩の一種],identification symbolisation métaphore として分析しています(Verdichtung に関しては,Lacan はそれをむしろ métaphore として捉えています).また,文学作品に関しては,詩や romantisme および symbolisme の作品においては métaphore が優位であり,réalisme[写実主義]の作品においては métonymie synecdoque が優位である,と指摘しています.

以上のような Jakobson の議論にもとづいて,Lacan は,1957年の書 L’instance de la lettre dans l’inconscient ou la raison depuis Freud において,症状を métaphore, 欲望を métonymie と規定しています:

métaphore のメカニズムは,其こにおいて分析的意味における症状が規定されるところのメカニズムである.性的外傷の謎めいた徴示素と,それが現事的な徴示素連鎖において代理する項[すなわち,性関係は無い : φ]との間に,火花が通る.そして,それは,症状のなかに,意識主体には接近不可能な意義を固定する.また,欲望があらゆる「自然哲学」に対して提起する謎は,ほかのものの欲望 [ le désir d’autre chose ] へと無限に伸びる métonymie のレール[軌条,線路]に欲望が捕えられていることに由来する (Écrits, p.518).

さらに,その書の最後 (Écrits, p.528) Lacan は問うています : métaphore を存在の問いへ結びつけ,métonymie を存在欠如へ結びつけるものは,何か?その答えは「父の名」ですが,それはひとまず置いておきます.

ともあれ,métaphore métonymie の問題を否定存在論のトポロジーのなかに位置づけてみましょう.


科学と資本主義の時代としての近現代における基本的な否定存在論的構造は,Lacan が大学の言説として形式化する構造です.Saussure の学素は,大学の言説へと展開されことになる元基と見なすことができます.1964年に aliénation[異状]と名づけられた構造も,大学の言説の構造へ還元されます.

異状の構造を,Lacan は「知と真理との間の分裂」の構造と規定します.

知は,大学の言説において左上の座に位置する S2 です.それは,図では水色に色づけられた「徴示素の宝庫」としての「他の場処」に位置しています.

他方,真理は,この場合,四つの言説における左下の「真理の座」のことではなく,而して,抹消された存在 Sein の解脱実存的な在処(赤)としての主体 $ のことです.

Lacan が「真理」と言うとき,それが四つの言説の左下の「真理の座」のことなのか,あるいは,抹消された存在 Sein としての主体 $ のことなのか,識別しながら読む必要があります.

また,Lacan が欲望と呼ぶものは,抹消された存在 Sein の解脱実存的な在処に位置する主体 $ のことです.Lacan が「人間の欲望は,他の欲望である」と言うとき,それは,大学の言説の構造において,主体 $ である欲望が,自である S2 の側にではなく,他である a の側に位置していることを指しています.

しかし,当然ながら,Sein の在処こそが本自的なものです.にもかかわらず左上の座が自の座と見なされるのは,その構造がまさに aliénation[異状]の構造であるからであり,それを形成するのは他者 autre との同一化であるからです.

大学の言説においては,「父の名」である S1 は,単なる穴へ還元されてしまっています.それは,言うなれば,父殺しの神話において息子たち S2 によって殺された Urvater の不在の穴です.

さて,否定存在論的構造の要を成すものは,切れ目の縁(ふち,エッジ:緑色)です.その切れ目こそ,構造の可能性の条件であるからです.

Lacan が学素 S(Ⱥ) を以て形式化するこのエッジの座に,大学の言説においては,客体 a が位置づけられます.

ところで,Radiophonie (Autres écrits, p.416) において Lacan はこう言っています:

métaphore métonymie は,其れによってわたしが無意識の力動を生み出したところの原理をもたらしていた.その条件は,Saussure の[学素の]棒線についてわたしが言ったことである.(...) それは,浮かぶ徴示素から流れる被徴示へと跳び越されるべき実在的なエッジの役を果たしている.

それに続いて Lacan はこう言っています:

[被徴示に対する徴示素の実在的なエッジの役を果たすことは],métaphore が為すことである.それは,被徴示の池のなかで[その上を歩くための]敷石の役を果たす徴示素の意味効果を得る.(...) [詩において]作り出された意味効果は,意味のなかで無意味から作られていたことに,我々は気づく:「彼の麦穂は,惜しみもせず,憎みもせず」.

「浮かぶ」,「流れる」,「池」などと Lacan が言っているのは,Saussure が『一般言語学講義』のなかで提示したこの図が念頭にあるからです:


signifiant / signifié として構造化されることになるそれらふたつの「無定型な塊」と Saussure が呼ぶもののうち,下のもの(signifié となるもの)を Lacan は水の流れに見立て,上のもの(signifiant となるもの)をそれに浮かんで,流されて行くものに見立てます.両者を相互に繋ぎ合わせる何かが無ければ,言語の構造 signifiant / signifié は成り立ちません.それが,Lacan が「敷石」と呼んでいるものです.この敷石は,流水のなかの固定点となり,それによって,さもなくば流れ去ってしまうだろうものを繋ぎとめる機能を果たします.問い III に対する答えの冒頭で言及されている point de capiton[留め縫いの目]も,同じ機能を考えるために Lacan がかつて考案した用語です.

この「敷石」ないし「留め縫いの目」の機能を果たすのが,大学の言説の構造において他 A の場処と主体 $ の在処との間の「実在的なエッジ」を成す客体 a です.


「実在的」は,この場合,必然在としての実在のことです.意味に関しては,不可能在としての実在と同様,「意味外」です.


緑に色づけられている切れ目のエッジの座における客体 a は,他の場処(水色)と主体の在処(赤)との繋ぎ目でもあります.

「繋ぐ」という機能に関しては,ボロメオ結びで見ると,より明白です:


大学の言説において右上の座に位置する客体 a ,緑色の輪として,imaginaire(影在,青)と réel(実在,赤)とをボロメオ的に(分離しつつ結合する)繋ぎ合わせる symbolique(徴在,黄)の機能を支える第四の輪の機能を果たしています.


症状は métaphore であると言うとき,その症状とは,右上の autre の座 ‒ S(Ⱥ) の座 ‒ に位置する客体 a のことです.それは,存在欠如 Sein としての主体 $ を直接に代補(代理)する文字 (lettre) すなわち存在 (l’être) です ‒ この場合の「存在」(Sein) は,存在欠如としての存在 (Sein, Seyn) とは区別されます.

それに対して,「欲望は,存在欠如の métonymie である」(Écrits, p.623) と言うとき,その欲望は存在欠如としての主体 $ のことです.それは,何らかの存在事象としての客体によって満足することは決してありません.常に「ほかのものの欲望」‒ Radiophonie では « le désir d’Autre-chose » (Autres écrits, p.414) と表記されています ‒ です.欲望 $ の客体としての客体 a は,それ自体が常に「ほかのもの」であることにおいて,« objet métonymique » (Autres écrits, p.171) と呼ばれます.逆に言えば,何かひとつの特定された客体を以てして主体 $ を「しかじかの客体の欲望」と規定することもできません.それは,métonymique な徴示素 a の連鎖のなかにそのようなものとしては決して出現してくることなく,その下を絶えず横滑りして行きます ‒ Lacan が « un glissement incessant du signifié sous le signifiant » (Écrits, p.502) と言っているように.

以上の構造について,Lacan は,1961年の書 La métaphore du sujet において,こう言っています (Écrits, p.892) :

最も重大な実在性 欲望の métonymie を支えるべき人間の役割を考慮するなら,人間にとって唯一の重大な実在性 は,métaphore においてしか保持され得ない.

この「人間にとって最も重大な 唯一の重大な 実在性」とは,存在欠如としての主体 $ の存在 Sein のことにほかなりません.

そして,それは,不可能な性関係の不可能な phallus φ と等価です:


ですから,Radiophonie において,Lacan Sein のことを jouissance de l’Autre[他の悦]と言い換えています.それは,不可能な phallus φ によって媒介される不可能な性関係の不可能な悦です.

問い III に対する答えのなかで,Lacan は経済論的な表現を先取りしていますが,そのことに関しては,後ほど立ち返ります.

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