無意識と認識論と存在論
問い IV において,質問者は「何において無意識はあらゆる認識論をくつがえす鍵概念なのでしょうか?」と問うています.それに対して
Lacan は,問い V への答えのなかで明瞭に断言しています:「無意識は認識論とは何のかかわりもないだけに,なおさら,無意識が認識論をくつがえすこともない」(p.432).
認識論 [ théorie de la connaissance ] は,認識する意識主体を前提します.同様に,今の脳科学においても,認知 [ cognition ] 機能の備わった大脳が前提されています.そのような前提は,科学においても哲学においても,大概,暗黙のうちに共有されています.そのような前提に立つ者は,無意識を,認識主体の主権をおびやかすものと見なしたり,あるいは,認知機能のなかに解消しようとしたりします.しかし,精神分析においてかかわる無意識は,そのようなものでは全然ありません.では?
Séminaire XI の1964年1月22日の講義の最後に Jacques-Alain Miller が発した問い:「あなたの存在論は如何なるものか?」に対して,Lacan は,翌週の講義において,敢えて「存在論」という語を真正面から取り上げることを避けつつ,無意識は存在事象的 [ ontique, ontisch ] なものではなく,倫理的なものだ,と答えています.
そのときのことに言及しつつ,Radiophonie (p.426) では,「わたしは,[精神分析を基礎づける]わたしの狙いを何らかの存在論を以て支えねばならないということを否んだ」とすら言っています.
しかし,だから Lacan の教えに存在論は無関係だ,と結論づけることはできません.Lacan は,Heidegger にならって存在について問い続け,思考し続けた哲人のひとりです.おそらく,存在について最も根本的に思考した哲人のひとりだ,と言っても過言ではないでしょう.しかも,単なる思弁のためではなく,精神分析というひとつの実践を基礎づけるためにそうしたのは,Lacan ひとりだけです.
Lacan が「存在論」という語の使用を避けたのは,Heidegger の存在論以外の形而上学的な存在論においては存在は実体化されるからです.ですから我々も,単純に「存在論」とは言わずに,「否定存在論」と言います.
トポロジーとして展開される否定存在論の要は,切れ目 [ coupure ] と,それによって開けられる穴 [ trou ] です.
特に Radiophonie の pp.426-428 では,coupure や trou とともに,faille[断層,裂け目,割れ目]と
défaut[欠陥,欠如]という語も用いられています.同じ箇所で
Lacan は,faille と défaut の両語の語源である動詞 faillir, ならびに,それと同じくラテン語の動詞
fallere に由来する
falloir に,注目しています.
fallere は「...を欺く」,「...の目を逃れる,...に気がつかれない,...の記憶から逃れる」(この意味はギリシャ語動詞 λανθάνειν と共通 ; λανθάνειν
は,Heidegger が Verborgenheit[秘匿性]と翻訳する λήθη[忘却]と語源的に関連).faillir は「怠る,もとる」,「欠ける」,不定詞とともに用いられて「もう少しで...するところである」.falloir は,il faut ... の形で用いられて,「...が必要である」「...せねばならない」.
さらに Lacan は,動詞 fallere に由来するラテン語形容詞 falsus[偽である]にも注目しています.後者は,フランス語形容詞
faux の語源です.
Lacan にとって,Radiophonie の pp.426-428 で展開されている fallere に関連する議論の暗黙の前提は,Heidegger の言う Not[欠乏,必要]であろうと思われます.
Heidegger が
Not と言うとき,それは Sein のことです.それは,存在事象の側から見れば欠如です.しかし,単なる欠如ではありません.その欠如の穴は,構造の可能性の条件である源初的な存在論的切れ目によって開かれた穴です.
源初的な存在論的切れ目の作用を,Lacan は,Radiophonie の p.428 で示唆しているように,Freud の1925年の小論文 Verneinung[否定]のなかに読み取ります.そこにおいて Freud は,源初的な Entscheiden[決定]ないし Urteilen[判断]を論じています.動詞
scheiden も
teilen も「分ける」であり,つまり,源初的な差異がかかわっています.その差異によって,Einbeziehung ins Ich[自我の中への取り込み]と
Ausstoßung aus dem Ich[自我の外への排出]が分けられます.
源初的な存在論的切れ目によって,自我の中への取り込みは存在事象の場処(水色)として,自我の外への排出は解脱実存的在処(赤)として,構造化されます.
Lacan は,「自我の外への排出」を,しばしば「落ちる,脱落する」(tomber, choir) という動詞を用いて表現してもいます.
もし ἀλήθεια(Unverborgenheit,
非秘匿性)としての Lichtung[朗場]の側の存在事象を「真」と言うなら,解脱実存の側へ落ちたものは「偽」(falsus) です.しかし,Verborgenheit[秘匿性]としての 存在 の真理は,解脱実存的在処そのものです.
さらに,Not は,単純に欠如ではなく,必要でもあります.存在
は,解脱実存的在処から我々に何かを強制してきます.強いてきます.その強制は,我々にとって,「...が必要だ,...せねばならない,...せざるを得ない」という必然の形のもとに作用してきます.
超自我は,大学の言説における客体
a に相当します.反復強迫的に止むことのない「悦せよ!」の命令の声が,超自我の正体です.
四つの言説においては,右上の座は奴隷の座であり,左上の座こそ命令する支配者の座ではないのか?確かにそうです.しかし,左上の座に君臨する支配者は仮象にすぎません.実際には,右上の
S(Ⱥ) の座において強迫的に反復される症状
a にこそ,我々は支配されています.
0 件のコメント:
コメントを投稿