男と女
今,人間の sexuality (sexualité, Sexualität) について考える者は,単純な男女性別二元論にとどまることはできません.SOGI (sexual orientation and gender
identity) の多様性を考慮しないわけには行きません.Lacan
が Séminaire XVIII (1971) において初めて提示した有名な公式 « La Femme n’existe pas »[女は現存しない]は,男女性別二元論の彼方において SOGI の多様性の問題を考えるための基礎を提供してくれます.
sexual
orientation の問題は,Freud の用語で言えば,Objektwahl[客体選択]の問題に帰せられます.つまり,Triebbefriedigung[本能満足]‒ すなわち,jouissance[悦]‒ と客体 a との連関の問題です.
gender identity と呼ばれているものは,実は,社会学的問題ではなく,存在論的問題です.なぜなら,そこにおいては「男である」ことや「女である」こと等々は本質的には如何に規定され得るのかが問われるからです.つまり,精神分析においてかかわる性別は,原則的に性染色体によって規定される biological sex[生物学的性別]でも,文化や伝統において規定される
sociological gender[社会学的性別]でもなく,而して,ontological sexuation[存在論的性別]です.
存在論的性別について論ずるために
Lacan が formules de sexuation[性別の公式]を以下のような形で提示するのは,1971-1972年の Séminaire XIX ...ou pire においてです.
ですから,1970年のテクスト Radiophonie においては,それらはまだできあがっていません.ただ,1960年に書かれた Remarque sur le rapport de
Daniel Lagache[ダニエル・ラガシュの発表に関する論評](Écrits, p.683) のなかで,男の欲望の学素と女の欲望の学素が次のような単純な形で提示されています:
M : Φ(a)
F : Ⱥ(φ)
つまり,男の側では,phallus Φ と客体 a との関繋が,女の側では,他のなかの欠如 Ⱥ と phallus φ との関繋が,問われています.
Radiophonie (Autres écrits, p.438) で Lacan が男女について述べていることは,1960年の学素をそのまま踏まえていると思われます:
其れによっていわゆる性関係が支えられるところの悦は,ほかのあらゆる悦と同じく,剰余悦によって構造化されており,それゆえ,その関係においては,パートナーとは次のようにしか関われない : 1) vir[男]にとっては,パートナーを客体 a へ同一化することによって ‒ そのことは,しかるに,アダムの肋骨の神話 ‒ それが女性の同性愛の最も有名な書簡作家をかくも笑わせたのは,当然のことだ ‒ において明らかに示唆されている ; 2) virgo[女]にとっては,パートナーを phallus ‒ すなわち,その実なる機能とは逆に,腫脹の器官と想像された pénis へ ‒ 還元することによって.
そこから,[Freud が精神分析の行き止まりを成すものとして提示した]ふたつの岩盤 : 1) 去勢という岩盤 ‒ そこにおいて徴示素「女」は privation[phallus を奪われていること]として記入される ; 2) Penisneid[ペニス妬み]という岩盤 ‒ そこにおいて徴示素「男」は frustration[phallus を与えないこと]と感ぜられる.
男にとってはパートナーは客体 a へ同一化され,女にとってはパートナーは phallus へ還元される ‒ そのことは,Séminaire XX Encore の1973年3月13日の講義において提示される図においても,同様に示されています:
存在論的性別についてより詳しく考えるために,性別の公式と否定存在論的トポロジーとを連関させてみましょう:
ただし,Lacan は,やや古い形式論理学の教科書における表記にしたがって,論理式の上に引かれる棒線を否定の記号としていますが,わたしは現在,形式論理学の教科書で標準的に用いられている否定の記号のひとつ Ø を使います.
図のように,大学の言説の構造のなかに男の性別の公式が配置され,hysterica の言説の構造のなかに女の性別の公式が配置されます.
Lacan
が「父の関数」と規定する ØΦ(x) は,単なる
Φ(x) の否定ではありません.論理式
ØΦ(x) を以て Lacan が思考しようとしているのは,不可能な性関係を実現するかもしれない不可能な phallus, 言い換えると phallus ex-sistent[解脱実存的なファロス],または,書かれないことをやめない phallus です.ØΦ(x) と書くことそのものが既に不可能であり,そう書くことは単なる反実仮定にすぎません.あるいは,reductio ad absurdum の過程の一部にすぎません.ØΦ(x) なる
x は,Freud
が『トーテムとタブー』のなかで提示する神話的な Urvater[源初の父]‒ 原始部族において,一族の女すべてを独占していたが,父の独裁に反抗した息子たちによって殺害された父 ‒ だけです.
また,普通の記号論理学においては « il existe »[...が存在事象として現存する]を表す記号 $ は,性別の公式においては « il ex-siste »[...が解脱実存的在処に解脱実存する]を表すものと解釈します.それは,性別の公式においては $x が付されるのは解脱実存的な phallus の式 ØΦ(x) にのみであることから,当然要請されることです.
既に指摘したように,ØΦ(x) なる x は神話的な Urvater だけです.そもそも,Urvater に関して ØΦ(x) と書くこと自体が不可能であり,そう書くことは反実仮定にすぎません.しかし,男たちにとっては,死せる Urvater は,抹消された存在 Sein の解脱実存的在処 [ la localité ex-sistente, die ek-sistente
Ortschaft ] に解脱実存し続けています ‒ そう仮定することが,「男である」ことの規定性に属しています.いうなれば,男たちは,自分たちが殺した Urvater の亡霊にいつまでもつきまとわれ続けます.そして,その去勢の脅しに怯え続けます.
不可能な性関係を実現し得ていたのかもしれない
Urvater の不可能な phallus ØΦ(x) に対して,その代理となるのが Φ(x) です.ØΦ が不可能な phallus [ le phallus impossible et ex-sistent ] であるのに対して,それを代理する Φ は仮象的な phallus [ le semblant
phallique ] である,と言えます.その仮象的な phallus は,父殺しの有罪感と去勢不安を覆い隠すのに役立ちます.それが,Freud
が Adler の表現を引用して männlicher
Protest と呼ぶものです.
Φ(x) は,「男である」ことを規定する賓辞です.自我理想への同一化という観点において言うなら,それは,自我理想としての父(ないし,その徴示素としての phallus Φ)との同一化です.Freud が1921年の著作 Massenpsychologie und
Ich-Analyse[大衆心理学と自我分析]の第 VII 章「同一化」のなかで論じている同一化の三類型のうちの第一のものです.
自我理想としての phallus Φ との同一化 ‒ 形式的に言うなら,式 Φ(x) を満たすこと
‒ が「男である」を規定する:すなわち,それが,存在論的な「男である」です.
それは,生物学的な性別には左右されず,社会学的 gender のように社会生活のなかで獲得されるものでもありません.生物学的には女であっても,自我理想 Φ と同一化している者は,存在論的には男です.特に,lesbian たちの一部は存在論的には男であり,そして勿論,transgender men は,生物学的には女として生まれてきても,社会学的な gender の獲得以前に既に,存在論的には男です.
では,如何にして自我理想 Φ との同一化は起こり得るのか?つまり,如何にしてひとりの言語存在は存在論的に「男である」ことになるのか?この問いに答えるためには女の性別の公式を見ておく必要があるので,後ほど戻ってくることにしましょう.
自我理想 Φ との同一化として規定される賓辞 Φ(x) により,式
("x) Φ(x) が措定され得ます.つまり,集合 M が定義され得ます :
M = { x | Φ(x) }
この M は,ひとつの集合として現存しています.存在論的な意味における「男」の集合です.
式 Φ(x) を満たすことが「男である」を規定する,ということを,我々は,集合 M の要素であることが「男である」を規定する,と言い換えることができます.
フランス語では,定冠詞を付された単数名詞は,特定の個体だけでなく,それと同種の諸個体すべてが成す集合をも表し得ます.ですから,「男の集合は現存する」を « l’homme existe » と言うことができます.「男」が集合的であることを強調するために,大文字で書いてもよいでしょう :
« l’Homme existe ». 男の言説としての大学の言説の右上の座に位置するのは,正確に言えば,そのようなものとしての「男」,つまり,男の集合 M です.
« l’Homme existe » に対して,Lacan は « La Femme n’existe
pas » と言います.そのことにも,後ほど立ち戻りましょう.
男の言説としての大学の言説において,右上の座には客体 a が位置づけられています.それは,性的な文脈で言えば,男にとっての性的パートナーである女性の身体,ないしその部分(例えば乳房)です.
客体 a は,反復強迫の症状の徴示素であり,同時に,「もっと悦せよ!」という超自我の命令の声でもあります.そのような plus-de-jouir[剰余悦]としての客体 a こそが,Freud が Sexualtrieb[性本能]と呼んだものの正体です.
« l’objet a
est la cause matérielle du désir »[客体 a は欲望の質料因である]と Lacan が言うとき,それは,大学の言説の式の右側の部分 a / $
に関する公式である,と見なすことができます.
大学の言説の構造において,客体 a は,否定存在論的構造の要である存在論的切れ目のエッジの定存を成す質料的なものです.$ が位置する解脱実存的在処は,存在論的切れ目の効果です.その限りで,欲望である主体 $ は客体 a の効果である,逆に言えば,客体 a は主体 $ の原因である,と言うことができます.
また,存在論的切れ目のエッジである客体 a は,主体 $ が位置する抹消された存在 Sein の在処の解脱実存の質料的な支えである,と言うこともできます.
さて,hysterica の言説と,そこに配置される女の側の性別の公式を見てみましょう.
女の側の性別の公式においては,Ø($x) ØΦ(x),
すなわち,Urvater の解脱実存的在処における解脱実存は否定されています.そもそも ØΦ(x) と書くことは不可能ですから,式 Ø($x) ØΦ(x) の措定はまったく正当です.
他方,Lacan は,「女である」ことを存在論的に論ずるために,apophatique[否定的]な命題 Ø("x) Φ(x) を持ち出します.「すべての者が Φ(x) であるわけではない」,つまり,「男の集合 M に属さない」こと.
なぜそのような否定命題を措定せざるを得ないのか?それは,「女である」ことを positif に規定し得る命題を書くことは不可能だからです.なぜそれは不可能か?なぜなら,「男である」が「自我理想 Φ との同一化」によって規定されるのに対して,女の側には男の側の Φ に対応する自我理想が無いからです.
「女である」を規定し得る命題を書くことは不可能ですから,女すべての集合も現存しません.その事態を Lacan は « La
Femme n’existe pas » と公式化します.この場合,La は,先ほども述べたように,同種のものの集合を表す定冠詞です.特に大文字の斜体で書かれるのは,否定されるのは femme[女]ではなく,その定冠詞であることを明示するためです.
初めて « La Femme n’existe
pas » と公式化した Séminaire XVIII の1971年2月17日の講義においては,Lacan は間接的なしかたでそれを導いています:
女すべてを悦する Urvater の神話が差し徴しているのは,「女すべて」は在らず,ということだ.女について「すべて」は無い.
もし仮に,女すべてを悦する Urvater の phallus が不可能ではないならば,すなわち,もし仮に「性関係は無い」が否定されるならば,「Urvater
は x を悦する」または「x は Urvater の全能なる phallus を悦する」ような x すべての集合を作ることができ,そして,その集合によって「女である」を規定することができます.しかし,実際には性関係は無いのであり,Urvater
の全能なる phallus は不可能なのですから,「女である」ことを positif に規定することはできません.
以上のように,存在論的には,「女である」は「男である」の否定でしかあり得ません.ということは,「女である」の側には,「男にあらず」のあらゆる存在様態 ‒ つまり,存在論的「男である」以外のあらゆる SOGI の多様性 ‒ が位置づけられることになります.そこには「すべて」を形成し得る統一的な規定性が無いのですから,多様になって当然です.
hysterica の言説において左上の座に位置する主体 $ は,Urvater の全能なる phallus が不可能であること ‒ すなわち「性関係は無い」こと ‒ による不満足な欲望です.« La
Femme n’existe pas » と Urvater の不可能性とは,上に見たように,相互に関連しています.そして,前者は,後者を介して,欲望不満足と関連づけられます.
では,hysterica の言説において右上の座に位置する S1 は,どのようなものか? « La
Femme n’existe pas » を初めて公式化した1971年2月17日の講義において,Lacan
は,Urvater を念頭に置きつつ,Don
Juan についてこう言っています:
La Femme は現存する ‒ それは,女の夢である.そして,その夢に Don Juan は由来している.もし仮に,其の者にとって La Femme が現存するところの男が存在するとすれば,すばらしいことだろう.その欲望は,確かなものだろう.[しかし]それは女性による作り事だ.
さかのぼって,Séminaire
X の1963年3月27日の講義でも,Lacan はこう言っています:
Don Juan 幻想は,女性の幻想だ.(...) それは,女性における次のような願望である ‒ phallus を常に持っており,それを失い得ない男がひとりいる,という願望.幻想における Don Juan の立場がまさに包含していることは,彼から phallus を奪い得る女は誰もいない,ということである.
女性の幻想(女性が有する幻想,女性において見出される幻想)において不可能な Urvater を代理する Don Juan ‒ それが,hysterica の言説における S1 です.言い換えると,hysterica の言説における S1 は,不可能な phallus φ の代理としての phallus Φ です.すなわち,$ → S1
の関繋は,Freud の言う Penisneid[ペニス妬み]の形式化である,と解釈することができます.
さて,先ほど答えを保留していた問い ‒ 如何にして自我理想 Φ との同一化は起こり得るのか?如何にしてひとりの言語存在は存在論的に「男である」ことになるのか? ‒ について考えてみましょう.
Lacan も,その問いをそれとしてはっきり措定したことはない,と思われます.ただ,1958年の書 La
signification du phallus の一節 (Écrits,
p.693) に,答えのかすかな手がかりを読み取ることができるかもしれません:
母の欲望は phallus で在る [ le désir de la mère est le phallus ] なら,子は,その満足のために,phallus であろうと欲する.かくして,主体が,「[母の欲望が其れであるところの]phallus に対応し,主体が有し得る [ il peut avoir ] 実在的なもの」を他へ提示することによって満足することに,[欲望に内在的な]裂け目が既に反対することにおいて,欲望に内在的な裂け目が,他の欲望において経験されることによって,既に感ぜられる.そも,愛の求め ‒ 其れは,主体が phallus であることを欲するだろう ‒ にとっては,主体が有するものは,主体が有さぬものよりも価値があるわけではない.
hysterica の言説の式において,左側に母親,右側に子どもを位置づけることができます.生まれてきた子を母親が phallus Φ としての S1 の座に置くとき,子はそれを自我理想とし,それに同一化します.それによって,男の言説としての大学の言説の式の左側に身を置くことになります.つまり,存在論的に男になります.
或る子に関して「男である」を決定するのは,その子の母の Penisneid である,と言うことができます.
当然ながら,母親が子を Penisneid
がかかわる客体の座に位置づけるか否かにとって,その子が生物学的に男であるか否かは,それなりに重要な因子です.しかし,絶対的に決定的であるわけではありません.生物学的には女の子であっても,その子が母親によって Penisneid の客体とされれば,存在論的には男の子になり得ます.
逆に,母親が子を Penisneid の客体にしなければ,その子は自我理想 Φ との同一化を免れることになります.つまり,存在論的に「男である」のではない者になります.その子が heterosexual cis-gender girl に成ることに影響し得るのは,その子にとって理想自我 [ das Ich-Ideal とは区別される das ideale Ich ] ‒ すなわち,Lacan
が学素 i(a)
で形式化するもの ‒ として機能するものですが,それは,男の子にとっての自我理想 Φ との同一化ほどには決定的ではないでしょう.
社会学的な gender の理論が基本的に妥当し得るのは,ですから,存在論的に「男である」のではない側に位置する者たちに対してです.存在論的な「男である」は,社会学的な gender よりもより根深い規定性であり,いくら gender studies によって「男である」を批判しても,それだけでは無効です.
男の自我理想 Φ との同一化に本当に揺さぶりをかけるためには,精神分析による必要があります.
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