2017年9月4日

Radiophonie 読解 (8) 論理における「急くこと」の機能と精神分析的行為

論理における「急くこと」の機能と精神分析的行為


問い IV に対する答えと問い V に対する答えのなかで,Lacan は,終戦直後の1946年に書かれた Le temps logique et l’assertion de certitude anticipée[論理の時間と,先取りされた確実さの断定]に言及しています.その書を,彼は,晩年に至るまで,折に触れて取り上げ直します.

そこにおいて Lacan は,彼自身が sophisme と呼ぶひとつの問題とその解答について論じています.sophisme と言うのも,通常の論理学では扱い得ない議論だからです.なぜ通常の論理学では扱い得ないかというと,それは,精神分析の経験そのものにかかわっているからです.「論理の時間」というとき,その「論理」は,精神分析がその終結に至る過程のことです.

Lacan が取り上げている問題は,次のようなものです:

刑務所の所長が,囚人三人を選び出し,彼らに問題を言い渡す:「ここに,黒い円盤がふたつ,白い円盤が三つある.わたしは,君たち各々の背中にそのうちの一枚を貼り,君たち三人すべてを鏡の無い一部屋へ入れる.君たちは,自身の背中の円板を見ることはできないが,ほかのふたりのものは見ることができる.しかし,如何なる会話も交信もしてはならない.ただ論理的な推論のみによって,自身の背中の円板が何色かを結論したまえ.部屋の外で待つわたしに最初に正答を告げに来れた者ひとりだけを,わたしは釈放する」.そう言って,刑務所長は,彼ら三人の背中いづれにも白い円板を貼る.さて,如何に彼らは正しい結論に達し得るか,得ないか?

当然ながら,Lacan はこの問題を単なる「頭の体操」として提示しているのではありません.それは,主体自身には隠された自身の真理に関して問い,かつ,その真理へ到達すること 精神分析の経験は,まさにそのことに存します のひとつの allégorie です.

そこにおいては,自身の真理へ何としてでも到達したいという強い欲望がかかわっています.それが,「急くこと」を動機づけます.

この囚人たちの問題は,永遠の命への復活としての救済の allégorie と解釈することもできます.刑務所長は神であり,囚人たちは地上的な生を生きている我々自身です.白い円盤は「救済される」を表し,黒い円盤は「救済されない」を表します.ところで,三人の囚人のために白い円盤は三つ用意されています.つまり,神は始めから三人とも救済するつもりなのです(人間たちはそのことを知りませんが).しかし,神は,単純に救済するのではなく,人間たちに「救済されたい」という強い欲望を喚起したい,と思います.さらに,人間たちが「わたしは既に救済されている」という真理にみづから気づくことを,神は欲します.

さて,論理学的推論の過程は,Lacan の表現 (Écrits, p.202) で言えば「空間化」され得ます.例えば,三段論法:「人間は皆,いつかは死ぬものである.ところで,Socrates は人間である.ゆえに,Socrates はいつかは死ぬものである」は,「いつかは死ぬもの」の集合を M, 人間の集合を H とすれば,次のような Venn 図として空間化され得ます:


そこにおいては,推論の過程は不連続も飛躍も含んでいません.

それに対して,Lacan sophistique と形容するこの囚人の問題においては,そのような空間化は不可能であり,而して,推論の時間的経過のなかで生じてくる論理の切れ目(Lacan scansion と呼ぶもの)と,その不連続を飛び越える行為とが,結論し得るために決定的となります.

不連続を飛び越える際に,その結果がどうであるかに関しては絶対的な保証はありません.しかし,飛び越えることを躊躇しては,結論へ達することはでません.

そのような飛躍を含む推論にとっては,「釈放(救済)されるために,どうしても真理に到達したい」という強固な欲望と,遅れないように「急く(せく)こと」とが決定的です.

三人の囚人を A, B, C と呼びましょう.そして,わたし自身は C である,としましょう.

まず最初は「まなざす瞬間」[ l’instant du regard ] です.わたしは,他者ふたりはともに白であることを見ます.そして,誰も動きません.まなざす瞬間から直ちに結論へ達し得る者は誰もいないからです.

もし仮にそこで「以上の所与からは結論することはできない」とあきらめれば,釈放(救済)の可能性をみづから放棄することになります.しかし,わたしはどうしても解放(釈放,救済)されたい.

そこで,この第一の「動きの宙吊り」から成る論理の切れめにおいて,わたし C はこう推論します(その推論の時間を,Lacan は「了解するための時間」[ le temps pour comprendre ] と呼んでいます):

他者ふたりがともに白であるということは,黒がふたつ,白がひとつという状況を除外する.そもそも,その状況においては,他者ふたりがともに黒であることを見た者は,即座に自身が白であることを結論し,躊躇無く出口へ向かうことになる.
他者ふたりが白であるということは,三人は皆,白である(救済される)か,あるいは,わたし C だけが黒である(救済されない),ということである. 
神はわたしだけを救済しないという可能性!何という不安!しかし,「わたしは白である(救済される)」という信念に根拠無しに執着している限り,わたしは行き詰まってしまう. 
そこで,わたし C は黒である(救済されない)という状況を,神の愛への信頼において不安に耐えつつ,引き受けてみよう.そこにおいては,A B はそれぞれこう推論することになる(以下,B の推論を述べるが,そこにおいて B A とを入れ換えれば,それは A の推論でもある):「もし仮にわたし B は黒であるとすれば,B C がともに黒であることを見る A は,即座に自身の白であることを結論し,躊躇無く出口へ向かうことになる.しかし,彼は動かない.したがって,わたし B は白である」.そう結論し得る A B は,ともに,わたし C に先んじて出口へ向かうことになる.しかし,彼らは動かない.したがって,わたし C は,黒ではなく,白である.

A B も,それぞれ,C と同じ結論に達します.かくして,三人は,ともに,出口へ向かう一歩を同時に踏み出して,第一の「動きの宙吊り」の切れ目を飛び越えようとします.

しかし,そのとき,A B がともに出口へ向かおうとするのを見て,わたし C は,結論の確実さに動揺を感じます:「おや,彼らふたりはともに出口へ向かおうとしている.ということは,わたしは,やはり,白ではなく,黒なのか?」そして,歩みを踏み出すことを躊躇します.

しかし,その動揺と躊躇は,A においても B においても同じです.かくして,第二の「動きの宙吊り」の切れ目が生じます.

そのとき,わたし C はこう推論します:

再び,わたし C は黒である(救済されない)という状況を,神の愛への信頼において不安に耐えつつ,引き受けてみよう.そこにおいては,A B は,ともに,先ほどの推論にもとづいて,躊躇無く出口へ向かうことになる.しかし,彼らは動かない.したがって,わたし C は,やはり,黒ではなく,白である.

A B も,それぞれ,C と同じ結論を得ます.かくして,三人は皆,第二の「動きの宙吊り」の切れ目を踏み越え,結論する瞬間 [ le moment de conclure ] に到達し得る... でしょうか?

実は,形式的には,第二の切れ目は,際限無い躊躇のせいで踏み越え不能な深淵となり得ます.

各人は,他者ふたりが共に出口へ向かおうとするので,「わたしは白ではなく,黒なのか」と疑い,躊躇する.他者も同じく躊躇する.そのことによって,各人は再び「わたしは白である」と結論する.そして皆,出口へ向かおうとする.しかし,そのとき,各人は他者ふたりが共に出口へ向かおうとするのを見て...

以上の悪循環は,形式的には際限無く続き得ます.その悪循環から脱出するためには,神の愛への信頼において救済の確実さを先取りし,「わたしは白である:神はわたしを救済する」と結論する瞬間へ飛躍する必要があります.

Lacan 自身は「神の愛への信頼」という表現は用いていません.そうではなく,la fonction de la hâte en logique[論理における「急くこと」の機能]と言っています.

そのように急くことができるためには,解放されたいという強固な欲望が必要です.もし囚人が一般社会で生きて行くよりは刑務所暮らしの方が気楽だと思うなら,解放の欲望を支えることはできません.救済の譬えで言うなら,この世の生に執着する者は,永遠の命を欲することはできません.

急くことを動機づける解放の強固な欲望を,Lacan は「分析家の欲望」と名づけることになります.それは,何らかの存在事象による満足を一切退けた欲望です.そして,そのことにおいて,「昇華」と呼ばれる悦に達した欲望です.つまり,分析家の欲望は,昇華された欲望です.そして,欲望の昇華は愛です.ですから,分析家の欲望は,愛です.キリスト教は,それを「神の愛」と呼びます.

昇華された欲望としての分析家の欲望に支えられてこそ,主体は,分析の経験において,急くことができ,分析の終結において,みづから分析家の欲望を引き受ける「結論する瞬間」へ飛躍することができます.

その飛躍こそ,Lacan l’acte psychanalytique[精神分析的行為,精神分析の行為]と呼ぶところのものです.

0 件のコメント:

コメントを投稿