異状の構造における科学と資本主義
問い V に対する答えのなかで,Lacan は科学と資本主義について語っています.基本的に言って,両者は,Lacan が問い VI に対する答えのなかで論じている「知と真理との間の主体分裂」の構造,すなわち,主体の分裂としての
aliénation[異状,疎外]の構造のなかに ‒ 言い換えれば,Hegel の『精神の現象学』のなかに ‒ 位置づけられます.
既に指摘したように,異状の構造は,四つの言説において大学の言説と呼ばれることになる構造に相当します.
ただし,Lacan が問い VI への答えのなかで « la topologie qui met frontière
entre vérité et savoir »[真理と知との間に境界を置くトポロジー](Autres écrits, p.441) と言っているように,「主体の分裂は,知と真理との間の分裂である」という公式における「真理」は,四つの言説における「真理の座」(黄色の穴)のことではなく,而して,主体の
存在 の解脱実存的な在処(赤いメビウス曲面)のことを指します.大学の言説においては右下の座(生産の座)に位置する主体
$ が,それです.知は,大学の言説において左上の座(代理者の座)に位置する
S2 です.そして,「真理と知との間の境界」は,穴のエッジ(緑色の線;大学の言説では右上の座の客体
a)に相当します.それは « joint au réel »[実在へのジョイント,継ぎ目](ibid.,
p.443) とも呼ばれています.
ついでながら,Lacan が1971年の書 Lituraterre において用いる語 « littoral »[海と陸とが接する地帯,海岸地域,沿岸海域]は,この « frontière »[境界]の言い換えです.そして,« littoral » と一文字違いの « littéral » を介して,Lacan は, lettre[文字]は「知と真理との間」の境界を成すものであると言い,さらに言い換えて,「知と悦との境界」を成すものである,とも言っています.
大学の言説において右上の座に位置する客体 a は,反復強迫の症状の徴示素として「書かれることをやめない」文字です.その徴示素連鎖に対して,« la lettre en souffrance »[宛先が不明であったり,宛先に宛名人が居住していないなどの理由により配達することのできない手紙](Écrits, p.29) は,métonymie の効果において言い落とされている文字,すなわち,不可能な徴示素 phallus φ です.
また,Lacan が « joint au réel » と言うとき,この「ジョイント,継ぎ目」という語に,四つ輪のボロメオ結びにおいて実在と徴在と影在の輪三つをボロメオ的に結ぶ第四の輪 ‒「父の名」ないし「症状」の輪 ‒ へ至る Lacan の論理をうかがい見ることができます.
さて,近現代は,科学の時代であり,資本主義の時代です.科学と資本主義が極度に支配的である現代の危機的な存在論的状況を,Heidegger は Ge-Stell[総召集体制]と呼んでいます.それは,形而上学の歴史の終着点として,ニヒリズムの究極的な形態です.そこにおいては,科学によって現にないし潜在的に分析可能であり,かつ,資本の増殖のために現にないし潜在的に利用可能であるもののみが,存在事象である,と見なされています.人間も自然も,あらゆる存在事象は存在論的尊厳を完全に失っています.
Lacan は « la science est une idéologie de la
suppression du sujet »[科学は,主体の抑圧のイデオロギーである](Autres
écrits, p.437) と指摘しています.それは,大学の言説としての科学の言説において,主体が右下の解脱実存的在処へ「抑圧」されていることを指しています:
左上の支配者の座に位置する知
S2 は,Hegel が das absolute Wissen[絶対知]と呼ぶものです.それは,神学において神の
omniscientia[全知]と呼ばれてきたものに相当します.科学にとっては,ひとつの理想にすぎません.実際に科学と呼ばれているものは,経験的ないし理論的に集積されて,多かれ少なかれ体系化された知の総体にすぎません.
Lacan は « l’idéal d’univers »[宇宙の理想,ひとつのすべてとしての宇宙という理想](Autres
écrits, p.431) と言っていますが,それは,其こにおいて絶対知が存在事象そのもの全体を余すところ無く begreifen[把握する,概念化する]し得たところの宇宙です.同じページで Lacan は « l’impossible, c’est le
réel »[不可能在こそが実在である]と言っていますが,それは,そのような宇宙はあり得ない,不可能だ,という文脈において言われています.
しかし,諸科学の諸対象を総合して行けば,究極的には,絶対知が完全に概念化し得た宇宙を科学は手に入れ得るはずだ,という思念から,科学はいまだに自由ではないようです.
大学の言説における右上の座(緑色)の客体
a は,科学が扱う諸対象です.科学は,対象の存在そのものの存在論的「意味」について問うことは決してありません.つまり,主体
$ が位置する解脱実存的な 存在 の在処(赤色)そのものにはまったく気づきません.
ところで,近現代的な意味における科学の出発点を画したのは
Galilei であると見なされていますが,Lacan は,むしろ,科学の出発点を
Descartes の
cogito に見出します.ただし,認識論において超越論的自我の「我れは存在する」を基礎づけるものとしての
cogito ではなく,方法的懐疑 dubito としての cogito です.
方法的懐疑は,従来「真なり」と思い込まれていた知を臆見として拒否することに存します.その構造は,大学の言説の「裏」を成す
hysterica の言説の構造です:
そこにおいては,知
S2 は臆見として右下の解脱実存の座へ棄却され,飽くなき真理の欲望としての主体
$ が左上の支配者の座へ出てきます.
hysterica
の言説が科学の出発点としての方法的懐疑の言説である限りにおいて,「科学はその躍動を
hysterica の言説から得る」(Autres écrits, p.436) と Lacan は言っています.
それに対して,大学の言説は教条主義の言説 [ discours du dogmatisme ] である,と言うことができるでしょう.そこにおいては,言うなれば,あらゆる対象を既成の知の枠組みのなかにねじ伏せることだけが,かかわっています.さもなければ,知は,客体 a の裂け目を前にして,不安に襲われてしまうからです.
したがって,本当の意味で「科学的な」と呼べる精神や態度は,絶対知の仮象
S2 が支配する大学の言説にではなく,むしろ,その支配を拒む
hysterica の言説に宿ります.その限りで,Lacan も,「科学は,hysterica の言説の次元へ記入される」(Autres écrits, p.431) と言っています.
資本主義に関しては,Marx による資本の分析 ‒ 資本の本質を剰余価値に見出した彼の分析
‒ は,今もその的確さを失っていません.むしろ,其こに「経済成長」が存するところの資本の増殖を命じ続ける
der absolute Bereicherungstrieb[絶対的な富裕化本能](Marx が『資本論』第一巻第四章「貨幣の資本への変化」において用いている表現
‒ すなわち,超自我の「もっと悦せよ!」という命令)が惹起するもろもろの害がますます明白になってきた今こそ,資本という病理学的症状から自由になることが全人類の喫緊の課題です.
元来
Hegelianer である
Marx の思考は,『精神の現象学』の構造のなかで展開されます.そのことは,例えば彼の『資本論』第一巻第四章「貨幣の資本への変化」における議論において,示唆されています:
G-W-G[貨幣-商品-貨幣]循環[流通]においては,両者 ‒ 商品と貨幣 ‒ は,価値そのものの相異なる現存様態 ‒ 貨幣は価値の普遍的な現存様態,商品は価値の特殊な,いわば単に変装した現存様態 ‒ としてのみ機能する.価値は,一方の形態から他方の形態へ恒常的に移行する ‒ その運動において失われることなく.そのように,価値は,ひとつの自動的な主体 [ ein automatisches Subjekt ] へ変化する.もし我々が,有効利用される価値がその生の循環において交互に身にまとう特殊な現象形態を固定化するなら,我々は,「資本は貨幣である」,「資本は商品である」という説明を得る.しかし,実際には,価値は,そこにおいて,ひとつの過程の主体と成っている ‒ 其の過程においては,価値は,恒常的な形態交替 ‒ 貨幣から商品へ,商品から貨幣へ ‒ のもとで,自身の大きさをみづから変え,当初の価値としての自分自身から剰余価値として身を引き離し,自身をみづから有効利用する.そも,其こにおいて価値が剰余価値を付加する運動は,価値自身の運動であり,価値の有効活用であり,つまり,価値の自己有効活用である.価値は,価値であるがゆえに価値を措定するというオカルト的な質を得たのだ.価値は,生きているヒヨコを生み出す ‒ または,少なくとも,金のタマゴを生むのだ.(...) そこにおいて,価値は,ひとつの進行する,みづから動く実体 [ eine prozessierende, sich selbst bewegende Substanz ] ‒ 其れにとっては,商品と貨幣はふたつの単なる形態である ‒ として,突然,自身を現す.(...) かくして,価値は,進行する価値,進行する貨幣,資本そのものに成る.価値は,流通[循環]から来たり,再び流通[循環]のなかへ入り,そこにおいて自身を維持し,自身を複写し,大きくなってそこから戻って来て,そして,同じ循環を常に改めて再開する.G-G’, 貨幣を生む貨幣 ‒ money which begets money ‒, 資本は,その最初の通訳者である重商主義者たちの口において,そのように記述されている.(...) 実際,G-W-G’ は,資本の普遍的な公式である.
自己増殖する価値としての資本を,自動的な主体ないし実体として捉える
Marx の思考は,まさに,『精神の現象学』における
Hegel の主体 ‒ すなわち,自己意識 ‒ の思想と同じです.上に引用した一節ではまだ労働のことは論じられていませんが,剰余価値が措定される労働についての論考も,Hegel の「支配者と奴隷の Dialektik」に欠けてはいません.
資本は主体である,と言うと,あまりピンと来ないかもしれません.「主体」の代わりに「存在」と言いましょう
‒ ただし,抹消された存在 Sein としての存在ではなく,存在事象そのもの全体としての存在です.近現代の形而上学において,存在は価値として思考されます.
近現代の形而上学において存在事象そのもの全体としての存在は如何なるものとして思考されているかを,Nietzsche の『力への意志』を分析する
Heidegger のテクスト
Nietzsches Wort » Gott ist tot «[ニーチェの言葉「神は死んだ」]に準拠して,見てみましょう.
Heidegger によれば,Platon に始まる形而上学は,存在を
Sein として思考することはできず,而して,存在事象そのもの全体として思考します.形而上学の完了の時代の哲人である
Nietzsche は,存在を,生命,生成,意志,力,価値として思想します (cf. Heidegger, GA 5,
p.230). Nietzsche の言う Wille zur Macht[力への意志]は,より強くなろう,より成長しようとする意志です
(ibid., p.234). そして,意志とは自分自身への命令です (ibid.). すなわち,力への意志は der
Befehl zu Mehr-Macht[より大きな力への命令](ibid., p.236) です.
Mehr-Macht という表記は
Heidegger のものであると思われます.Nietzsche 自身は « mehr Macht » と書いています.« Nicht Zufriedenheit, sondern mehr Macht ; nicht Frieden überhaupt,
sondern Krieg ; nicht Tugend, sondern Tüchtigkeit »[満足ではなく,而してより大きな力;そもそも平和ではなく,而して戦争;有徳ではなく,而して有能]という断片のなかに見出されます.Marx の Mehrwert[剰余価値]との類似は,明白です.両者は,勿論,Lacan
の plus-de-jouir[剰余悦]と関連しています.
Mehwert と Mehr-Macht と plus-de-jouir とにおいてかかわっているのは,超自我の悦の命令です:満足にとどまっていてはならない.おまえは,得られた満足に甘んずるのか?見ろ,それはどんどん衰えて行く.なぜなら,それは究極的な本当の満足ではないからだ.だから,もっと悦せよ!Jouis encore plus !
超自我の悦の命令は,症状の反復強迫を動機づけるものにほかなりません.大学の言説において右上の座に位置する客体 a は,超自我の命令の声であると同時に,反復強迫の症状の徴示素でもあります.経済学においては,それは,際限無く自己増殖しようとする価値としての資本であり,Nietzsche の形而上学においては,自身を超えてさらにより大きな力へ成長しようとする力への意志です.
力への意志と存在との関連については:「力への意志は,『存在の最も内奥の本質』である」(Heidegger, GA 5, p.236). さらに (pp.237-238)
:
意志は,己れ自身に力において優らんと欲する限りにおいて,生の如何なる領域においても安心しない.意志が力強いのは,彼方の自分自身の意志へ到達することにおいてである.かくして,意志は,同じ意志として,同じものとしての己れ自身へ常に回帰する.存在事象全体 ‒ その essentia は力への意志である ‒ が現存する様態 ‒ すなわち,その existentia ‒ は,「同じものの永遠なる回帰」である.ニーチェの形而上学のふたつの根本用語 ‒「力への意志」と「同じものの永遠なる回帰」‒ は,古来形而上学にとって主導的であり続けている視点によって,存在事象をその存在において規定している : essentia と existentia という意味における ens qua ens[存在事象としての存在事象].
Nietzsche が「同じものの永遠なる回帰」と呼ぶものは,精神分析の観点から言えば,反復強迫の症状にほかなりません.それに対して,力への意志は,その反復強迫を動機づける「もっと悦せよ」の命令です.
つまり,aliénation の構造としての大学の言説において,客体 a(緑色の座に位置する)は,存在事象の場処(水色の座に位置する)を限定するエッジとして,存在事象そのもの全体をひとつの集合として規定します.
その意味において,客体 a は,存在事象そのもの全体としての存在です.そして,それは,その
essentia においては,力への意志として,超自我の悦の命令であり,その
existentia においては,同じものの永遠なる回帰として,反復強迫の症状である,と言うことができます.
さらに,Nietzsche が Übermensch[超人]と呼ぶものは,「其の本有が,力への意志から欲されたものであるところの人間」(Heidegger, GA 5,
p.251) です.つまり,超人は,従来の人間たち [ die bisherigen Menschen ] に対して,彼らの超自我を体現して,「もっと悦せよ」と命令する者です.
資本主義の文脈においては,客体
a は,essentia においては,無際限な自己増殖を命ずるものとしての資本ないし剰余価値であり,existentia においては,際限無く再生産され続け,永遠に回帰し続ける商品である,と言うことができます.
超人も永遠回帰も,資本も剰余価値も,右上の奴隷の座に位置する客体
a こそが,実は,左上の支配者の座に位置する S2 に対して命令します,「もっと悦せよ」と.精神分析においてかかわる症状は,そのような剰余悦としての客体
a です.
分析家の言説においては,客体
a は,右上の座から左上の座へ転移されます:
すなわち,「書かれることをやめない」ものとしての実在の座から,仮象の座へ,転移されます.それによって,症状の徴示素
a は,書かれることをやめることができます.
書かれることをやめないものとしての実在の座には,昇華された欲望としての分析家の欲望
$ が位置します.分析の終結は,分析者(精神分析の患者)自身が分析家の欲望を引き受け得ることに存します.
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